「佐祐理さん、今日は何月何日ですか?」

 祐一が憔悴しきった顔を目の前の佐祐理に向ける。ほんの数センチの距離から見る真剣な彼女の表情は、自分に恋人がいることを忘れてしまいくらい魅力的であったが、そのことに気を回せるだけの余裕は残されていなかった。

「12月31日ですよ」

「そうですよね」

 それでも佐祐理の返事に深く頷き、意味ありげに壁にかかったカレンダーに視線を向けたあと、祐一は授業参観で答えが分かった小学生のように勢いよく右手を上げる。

「1年の終わりくらい休ま……」

「だ〜め」

 佐祐理は、笑顔で祐一のお願いを却下した。

 

 

年越し

 

 

「え〜っ?」

 祐一は受験の強化合宿ということで、数日前から佐祐理たちのアパートに泊まりこんでいた。当初はそれを名目として、恋人とさらにいい関係を作ろうとしていたようだが、その考えはどうやら甘かったらしく、臨時の家庭教師はなかなかのスパルタ教師。

「え〜ってなんですか?」

「いえ、なんでもないです……」

 いちゃいちゃするどころか、朝から寝るまで勉強付けの毎日に、こんなはずではなかったと思いながらも、テーブルの上に広げた問題集にひたすら頭を悩ませ続ける。もちろんそれは純粋な好意によるものだから、感謝こそすれ不満を述べる立場にはない。

「はいはい、とりあえずここまで終わらせたら、年越し蕎麦を茹でであげますから……舞も待ちかねているようですしね」

 くすくすと笑いながら、佐祐理が舞に視線を向ける。その舞はテレビを見ながらも、台所のほうが気になるらしく、先ほどからちらちらと祐一の様子を覗っていた。その視線がまた祐一のプレッシャーになっている。

「お蕎麦を食べたら、続きを行いましょうね」

「うそっ?」

 明らかにげんなりとした表情で、せっかく向けた問題集から目を離してしまう。が、咎めるような視線を向けられて、すぐに目を落とすことになった。

「受験生にはお正月はないんですよ。舞と約束したんでしょう?」

 こう言われては祐一に返す言葉はない。

「は〜い……」

 力なく返事をすると、再び英語の文法問題に頭を悩ませる。過去の問題をひたすら解いていき、徹底的にパターンを覚える、この時期新たに覚えられることは少ない。したがって、今まで学んできたことの確認に費やされる。

「文系にしろ理系にしろ、センターでは英語は必須科目です、数学や物理は公式を覚えておけばある程度は対応できますし、余り差がつくとは思えません。勝利の鍵は英語でどれだけ点数を稼ぐことができるかにかかってくるわけです」

 とは、佐祐理の持論らしい、だからここに来てからの学習はかなり英語に重点を置いていた。舞も恋人のために協力を惜むつもりはないが、英語が不得意な彼女はどうしてもこの場合佐祐理に頼ることになってしまう。自分で思うほど成績は悪くないのだが、教えるという行動そのものに苦手意識を持っていた。

「う〜む」

 問題文を何度も読み返しながら頭をかいている祐一の姿を眺めて、舞はそっと息を吐いた。蕎麦が食べられるのはまだまだ先のことらしい。

 

 

「ふう、ここらで休憩にしましょうね」

 教える方も教えられる方と同じように疲労する。佐祐理は目許を押さえると、息を吐いて立ちあがった。一度、どっこいしょと言っている彼女を見てみたいと祐一は思っているが、実際にそれをしたとしても、佐祐理が佐祐理らしさを損なうことはないだろう。

 一方、佐祐理のお許しがでた祐一も勢いよく後ろに倒れこんだ。そして長々と息を吐きながら思いっきり両手を伸ばした。

「くあ〜、肩こったあ」

 そんな祐一の頬にひんやりとしたものが触れる。

「ん?」

 なにごとかと祐一が顔をあげようとした瞬間、そのまますっと頭を持ち上げられ、温かいものの上に下ろされた。俗に言う、膝枕の体勢になったことに気づき、祐一は目をぱちくりとさせた。

「お疲れ様」

 自分を見下ろしている恋人の表情はどこまでも優しい。出会ったころの他人を拒否するような冷たい雰囲気はもうない。こんな風に微笑むようになってくれたことに強い感動を覚えた。

「祐一には頑張って欲しいから」 

 そう言うと舞は顔を真っ赤にしてそっと視線をはずす。その仕草の何もかもがいとおしくてたまらない。

「ああ、頑張るよ」

 祐一は素直に頷くと、自分の頬を撫でる手のひらのひんやりとした感触を味わうかのように目を閉じた。

 

 

「はあ、佐祐理がいくら言っても結局は舞の一言には敵わないんだから」

 向こうの空気がこちらにも伝わってきて、思わずぼやく佐祐理。なんだか自分の居場所を失っていく気がする。

「まるで佐祐理がふたりの小姑みたいじゃないですか」

 それを気にしない振りで、佐祐理は菜箸でたっぷりのお湯にくぐらせた蕎麦をかき混ぜながら、隣の鍋の火を止めてだし汁の味見をする。作業の手は止まらないが、独り言も途切れない。

「小姑と言うよりも家政婦さんですね、今度友人からメイド服でも借りて祐一さんを誘惑してみようかしら」

 冷蔵庫からかまぼこと茹でたほうれん草を取り出して流し台の上に置くと、蕎麦が茹であがったか、摘み上げて確認した。

「こすぷれというのがどういうものかよく分からないけど、あまりに気にしなくてもいいんですよね」

 ひとつ頷いて、蕎麦をザルにあけてさっとお湯を切る。そして並べた丼に蕎麦を盛りつけると、さっきの具材を上に乗せてつゆを注ぎこむ。

「似合っているよって言われるのはうれしいんですけどね」

 その時ふと、佐祐理の目に七味の入った瓶がはっきりと映った。そこからなぜか目が離せずにいるうちに、佐祐理の心にもやもやとしたものが湧いてくる。

「佐祐理だって舞と同じくらい祐一さんのことを考えているのに……」

 ふらふらとそれを手に取ると、ひとつの丼に目を向けた。

「悔しいから祐一さんのお蕎麦には七味を多くいれてしまいましょう……これくらいはしてもばちは……」

 言葉が途切れる。強く振ったせいか、蓋が外れて蕎麦の上に小さな赤い山ができあがっていた。

「あ、あははーっ、大丈夫ですよね。そうですよ、祐一さんが悪いんですからっ」

 小瓶を手にしたまま固まっていた佐祐理は、慌ててかき混ぜると何事もなかったかのように、他の丼につゆを流しこむ。その頬には熱さのせいではない汗がつたっていた。

 

 

 妙に不自然な笑顔を浮かべた佐祐理がお盆に乗せた蕎麦を運んでくる。しかし、ふたりはさっきから漂っている蕎麦の匂いにすっかり気を取られていて、佐祐理の表情は目に入らない。

 これ幸いと佐祐理はこたつの上に盆を置くと、七味たっぷりの蕎麦を祐一に差し出した。

「はい、祐一さん」

「ありがとうございます、ほらよ」

「……はえ?」

 予想に反して、受け取った丼をそのまま隣の舞に回してしまう祐一の行動に、別の丼を舞に手渡そうとした佐祐理の顔がすっと青ざめた。

「ん? どうかしたの? ……いやあ、うまそうだな」

 その丼を祐一が取り上げて自分の前に置く。そして湯気の立ち昇る丼を覗きこんで、醤油の香りに鼻を鳴らした。

「じゃあ、いただきます」

「おいしそう」

 呆然としたままの佐祐理を置いて、祐一が箸を取る。それを見た舞もテレビを気にしつつ丼を傾けて顔を近づけた。

「ま」

 そういえば麺類を食べる時には必ずおつゆから飲むんだった、佐祐理がそれに気づいた時には既に、舞の喉が小さく動いていた。

 次の瞬間、どんと大きな音をたてて丼を置くと、舞が口元を押さえる。

「……っ?! ……!! ……!!」

 声にならない叫びをあげてのたうちまわる舞を祐一がきょとんと見ていた。

「なんだよ、舌を火傷したのか?」

 そして、のんきに声をかけると勢いよく蕎麦をすすった。

 見当違いなことを言う祐一に、びしびしっとつっこむ舞の手に勢いがない。

「どどど、どうしましょう……」

 そんな舞を見て佐祐理がおろおろと手のひらを振り回す。

 ごーーーーん。

 部屋に、除夜の鐘が鳴り響いた。

「お、いよいよ年が明けるな」

 這いながら台所へ消える舞を見送りながら祐一が感慨深げに呟く。自分なりに色々と思うところがあるのだろう。耳をすませるように目を窓の外に向ける。

 絶妙な余韻を残して鳴らされる鐘の音、それぞれに去来するものを噛み締めるしんみりとした時間。

「そうですね」

 煩悩を追い払うという除夜の鐘を聴きながら、佐祐理はちらっと祐一に目を向けた。

 そして大きく機嫌を損ねるであろう舞を、初詣に連れて行くことでなんとかごまかそうかと、思案しながら佐祐理も手のつけられていない丼を手に、立ち上がって台所へ向かう。 

 新たな年を迎え、いったい自分たちはどう変わっていくのか、七味の入れすぎてしまった蕎麦は自分のことなのか、佐祐理はそれを少し口に含んだ。

「あはは、辛いなあ」

 佐祐理はそっと目尻を押さえた。

 

 

 

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