真夜中のお話

 

 

 

 その日は珍しく彼女から求めてきた。

「……こんなことしていて大丈夫なのか?」

 行為の後、心地よい疲労感の中にどっぷりとひたっていた祐一はふと我に返る。そういえば、目の前の少女にとって大事な最後の大会がもうすぐ行われることをすっかり忘れていた。思い返せば朝に弱いはずの彼女がしっかりと朝練に参加するくらいだから、そのいれこみようは分かるというものなのに。

「……したあとに言うセリフじゃないよ」

 不意に声をかけられて祐一の思考が途切れる。暗闇の中で名雪が眉をひそめているのが背中越しに感じられる。

「だけどなあ」

 てっきり名雪が寝ているとばかり思っていた祐一は、なんとかいいわけの言葉を探そうと目をさ迷わせた。困ったような祐一の様子を柔らかな瞳で見ていた名雪は、そっと背中辺りに、ひんやりとした手のひらを当てる。

「意味はちゃんとあるんだよ」

「そうなのか?」

 聞き返した次の瞬間、祐一は言葉を失った。

「あ〜、やっぱりわたしは祐一のことが好きなんだなあって」

「…………」

「わ、もしかして照れてる?」

 名雪の強烈な不意打ちに、心構えのなかった祐一はかなりのダメージを受けた。ぼすっと軽い音を立てて枕に祐一の頭が沈む。それを見て名雪がくすくすと笑った。

 そして部屋は目覚ましかちこちという音だけかすかに響く。その目覚ましはもちろん、あの冬に名雪が貸したもの。自分で使っていたものが、祐一にもちゃんと大事に使われていることを知って、ささやかな喜びが沸き起こってくる。

「…………?」

 けれど、それからなぜか黙りこんだ名雪に、祐一はしばらく経ったのち、仰向けになって怪訝な顔をおそるおそる横に向けた。

「わたしね、時々もの凄く不安になる時があるんだ」

 名雪は先ほどとは一転して表情を曇らせていた。

「何をだよ……」

 思わず言葉を呑んだ祐一はなんとか返事をすると、奪われた毛布を自分に引き寄せる。名雪は小さく抗議の声をあげるとより一層身を寄せていった。

「こうすれば寒くないかな」

「もう寒くないだろ」

 気がつけば5月も終わろうとしている現在、うるさいほど起動させていたエアコンは今はもう静かだ。

「人の心遣いをなんだと思ってるんだよ」 

「いてっ」

 わき腹をつねられて祐一が悲鳴をあげる。名雪は愉しげに笑うと、つねったばかりのそこを優しく撫でた。

「や、やめろって」

 微妙な感覚に祐一が身をよじらせる。

「わたしの話をちゃんと聞いてくれないからだよ」

「悪かったよ」

 祐一はやや乱暴に寝返りをうった。自分を見つめている名雪と至近距離で向かい合う。乱れて顔にかかった髪の毛が妙になまめかしくて、先ほどの行為を思い出し、思わず祐一が視線をそらそうとした時、それよりも早く名雪のほうから微妙に視線をそらして、ぽつんと口を開いた。

「わたしって祐一の7年間をまったく知らないでしょ。だから祐一がその間どうやって過ごしてきたのかとても気になるの。特に前の学校で、祐一に好意を持っていた女の子がいたのかなあってことがね。一度その光景が浮かんでくるともうだめ。その子が祐一のことを忘れられずに会いに来て、祐一がわたしを捨ててその子を選ぶの」

「ずいぶんと想像力豊かなんだな」

 思わず苦笑いを浮かべる。真剣な表情の名雪には悪いと思いながらも、にやけてしまう。

「祐一はそういうふうに考えたことはないの?」

 名雪に問われて考え込む。10センチと離れていないところから窺うような名雪の視線に祐一はしきりなしにまばたきを繰り返した。

「そうだなあ、7年間といえば、あれだけどんくさかった名雪が陸上部の部長になっているとは思わなかった。俺の知らない間に何が起こったのか、気になったことはあったな」

「どんくさいはひどいよー……それは祐一のせいなんだよ」

「どうしてだよ?」

「子供の頃はいつもわたしを置いていっちゃうんだもん。だからね、追いつけるように、せめて遅れないようにって走っていたら、いつのまにか走ることが好きになってた」

「へえ……」

 名雪の言葉にあいまいにうなずきながら祐一の心の隅がかすかにうずく。

「ああ、グラウンドを走っている時のお前はかっこよかったぞ、思わず惚れそうになった」

「わっ、見てたの?」

「帰宅部だからな、暇なんだ」

「だったら声くらいかけてくれていいのに〜」

「恥ずかしいからいやだ」

 祐一が即答する。

「意外と臆病なんだね。わたしだったら大声で応援するよ、ふれーふれー祐一って」

「俺は恥を知る男なんだ」

「ひどいよ……うん、ともかくわたしは走ることが好きなんだよ」

「その点に関しては俺はお前を尊敬するぞ」

「それでね……祐一が来るまで走っていたわたしが走るのをやめた時、わたしはどうなるのかあって」

「どう……かな」

 なんとも言えずにあいまいに言葉を濁す。自分がどうなるかさえ分からないのに、無責任に言っていい雰囲気には思えなかった。

「今の走り続けているわたしじゃないと祐一に嫌われちゃうのかなって」

「そんなことはないと思うぞ、名雪はどこまでいっても名雪だ」

「ふふっ、きっと祐一は誉めてくれているんだね」

 そこで名雪がふっと息を吐いた。

「実はね、顧問の先生から話があってね、次の大会でいい成績が取れたら、ここから遠い大学に通わないかって」

 間髪入れずに言葉を伝える。もう自分のなかで結論付けていることは口調からもあきらかだった。

「……急な話だな」

 しかし、その結論を出すためにずいぶんと悩んでいたことも理解できる。さっきよりも長い沈黙の後で、祐一の口から返事とも知れない言葉が漏れた。

「本当はね、凄く不安なんだよ。でも大丈夫だと思う。祐一が来てくれなかったらこんなこと考えなかったと思う、お母さんと離れようだなんて思わなかっただろうし、いい意味でお母さん離れできたのかな」

 名雪の顔がほころんだ。

「このことを秋子さんには言ったのか?」

「はっきりとじゃないけど、それとなくはね」

「そうかあ……」

 うーん、と唸るとまたごろんと寝返りを打つ。

「……だめかな?」

「おいおい、俺にお前の将来を束縛する権利なんてないだろ。名雪がそうしたいって言うなら俺は喜んでお前を送り出してやるよ。秋子さんだってそう思ってるんだろう」

「うん……」

「もう寝ようぜ、明日も練習あるんだろ?」

「そうだね」

「まあ、そうだな、どうせ暇だし、お前が練習しているところでも見てることにするよ」

「ほんと?」

 名雪はぴったりと目を閉じた。愛しき人の温もりに包まれて、いつもよりも安らかに眠れそうだった。

 

 

 

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