『わたし、おこさまランチがいい』
『栞は、本当にお子様ランチが好きだな』
『ふふ、そうねえ』
『だってえ、アイスクリームがついてくるんだもん』
『分かった、分かった。じゃあ栞はお子様ランチで決まりだな』
『それで香里は何が食べたいの?』
『あたしもおこさまランチが』
『おいおい、別に栞に合わせなくてもいいんだぞ』
『そうよ、好きなものを食べてちょうだい』
『え……』
お子様ランチ
触れたグラスの中の氷がカランと音を奏でる。あたしはそのたいしておいしくもない水を、まるでワインの産地当てをするかのようにゆっくりと口に含んだ。暖房の効いたレストランは乾燥しきっていて、すぐに喉が渇いてきた。
暇を持て余して町並みをぼんやりと眺めていたら、近所に新しくファミレスが開店していたのに気づいたあたしは、誘われるようにドアを開けて中に入っていた、そんな何気ない土曜の昼。
たまたま案内された席の隣に家族連れが座っていただけのこと。若い両親とようやく小学生になったばかりと思われる女の子。
それだけのことなのに、あたしは妙に気になっていた。
変に思われないように横目で覗くと、小さな女の子にテーブルは高いのか、浅く腰をかけてテーブルの下で足をぶらぶらとさせている。
「わたしはねー、おこさまランチー」
メニューを見るなり、そう言う女の子。
どきっとする。
そう、きっとあの時の栞もそれくらいだった。何もかもが幸せでいられたあのころ。
あたしも食べたかったのだ。
別に栞が食べているからじゃなくて、ただ純粋にお子様ランチを。
だけどあたしは……。
「待たせたな」
思考が途切れる。
「遅いわよ」
とりあえずそう言っておく、メールで無理に呼び出したのはあたしの方なのに、相沢君は何も言わずにそっと肩をすくめただけだった。
「お昼はもう済ませたかしら」
「そんな時間があるわけないだろ。で、なんだよ、いきなり俺を呼び出したりして」
「ひとりでファミレスに行くのも味気ないと思って相沢君を誘っただけよ」
「なんだよ、だったら別に名雪でもいいじゃないか……で、香里はもう注文したのか?」
「まだよ」
あたしの言葉に相沢君が脇に立てかけていたメニューを取り上げる。と、そこで自分も決めていなかったことに気がついた。
「……俺はカレーでいいか」
「やあねえ、こんなところに来てまでカレー?」
「取り立てて食いたいもんもないしな。学食なら他のメニューを頼むところなんだが」
「悪かったわね、こんなとこまで付きあわせたりして。それで学食だったら何を頼むつもりなの?」
「カツカレー」
「どっちにしろカレーじゃないの!」
からかわれているのかと思った。だけどそれ自体はたいして不快にならない。
「何を言うんだ、カツがつくかつかないかで大いに差ができるんだぞ」
「はいはい」
熱弁を聞き流してあたしはくすりと微笑んだ。悪くない、本当に悪くない。だけどこのままでいいのかという気持ちが湧き起こるのも事実。
正直、あたしは相沢君に寄りかかりすぎている。寄りかかって目を閉じて、気がついたら、この町は冬を迎えていた。
吐き出される白い息が後悔の塊となって地面に散らばっていく。それをあたしは拾い集めることもできずにただ立ち止まっていただけだった。
『退院できたら、レストランに行こうな』
『うん』
『栞が食べたいのを頼んでいいのよ?』
『おこさまランチがいいなー』
「注文は何になさいますか?」
「お子様ランチ……」
「はい?」
我に返ると相沢君と注文をとりに来たウェイトレスが揃ってぽかんとした顔をあたしに向けている。そこでようやく自分がおかしなことを口にしていたことに気づいた。
「あ、いえ……あたしはこれを」
赤くなった頬を隠すように顔を伏せると、ぱっと目に入ったメニューを指差す。別に目的があったわけではないから、正直何でもよかった。
「かしこまりました」
「俺は和食御膳」
「あ、あとコーヒーを」
メニューを繰り返すとすっと下がっていくウェイトレス。あたしは目の端でその後ろ姿を見送ると、頬杖をついて窓の外を眺めた。
「カレーじゃないのね」
時折過ぎていく車と向かい側の雑貨屋が目に入る。ちっともお客の入っている気配がしないその店は、やっていけるのだろうかと心配になってくるほど。
「なんだか不評みたいだったからな」
「別に気にしなくてもいいのに」
「俺は流行に敏感な男だからな」
「あ、そ」
「冷たいなー」
「そうよ、あたしは雪女のように冷血だから。あたしの吐く息は魂さえも凍りつかせてしまうわ。あの子のよう」
「よせよ」
厳しい視線に言葉が遮られる。
「そんな風に自分を追い込もうとするな」
迂闊なことを言いかけた自分に舌打ちをしつつも、あたしは表情を相沢君から隠した。
「ただの冗談じゃない、相沢君こそむきになるなんておかしいんじゃない?」
「それならいいんだけどな」
明らかに納得が言ってないという顔で、相沢君は後ろの背もたれに体重を預けた。あたしはまた窓の外に視線を向ける。
ゆっくりと時間が過ぎていく。相沢君も口を開かずに携帯で何かをチェックしているようだった。
やがて先に注文を済ませた隣に料理が運ばれてきた。
お子様ランチ。
「おいしい〜」
まだ箸がうまく使えないのか、スプーンを握り締めて朗らかに笑っている。その口元はケチャップで赤く汚れていた。
微笑ましい光景。
微笑ましくて、
「っ?!」
さっとよぎる。
どくんどくんどくんどくん!
早まっていく鼓動。
胸が痛い。
痛い。
どうすればいい。
そうだ、深呼吸。
切れ切れの思考で動悸を抑えると、あたしはひったくるようにグラスを手に取った。今度はためらうことなく水を一気に飲み干す。ふうっと息を吐いた時には嘘のように動悸が収まっていた。
「……気になるのか?」
「そうね」
あっさり返すと、相沢君は意外そうに目を細める。
「もう少し強がるのかと思っていたんだけどな」
「なによ」
「いや別に」
「ふん」
何もかもが見透かされている気がしてなんとなく面白くなかった。
「香里に幼女趣味があったとは知らなかったな」
愛する異性ができても、口づけをすることすら許されずにそっと氷の粒の涙を流すという雪女。
「違うわよ」
あたしはもうお子様ランチを食べられることはできなくなっていた。
固められたチキンライスの上に旗を立てることも叶わなくなっていた。
スパゲティーで顔をべたべたに汚すこともできない。
誰だってそうなる。
隣の女の子だって、いつかそうなっていく。
それは誰にも抗えない、時間という流れに乗せられる。
あたしは流されてどこへ向かっているのだろう?
道の端に寄せられた雪のかたまりのようにはかなく消えていくのだろうか。
「お待たせしました」
そして、テーブルに並べられる料理。
今口に入れるべきなのはそれじゃない。
「あれ、そんなに砂糖を入れて大丈夫なのかよ?」
「いいの、今すごく甘いコーヒーを飲みたい気分だったから」
だけど、たっぷりと砂糖を入れたはずのコーヒーはなぜかいつもよりも苦い味がした。