台風の過ごし方

 

 

「……くそ〜、こんな日にまで授業やらなくてもいいのによ、あの教授、性格が悪いぞ……」

 外は風と雨が唸りをあげて縦横無尽に街中を暴れ回っている。俺はなんとかその中を突っ切り、ようやくの思いでこの下宿するアパートに帰って来たところだ。

 ポケットから鍵を取り出し扉を開けると玄関の脇にあるスイッチを手探りで探し、明るくなったところで結局役に立たなかった傘を傘入れに放りこむ。水を大量に含んでぐちゃぐちゃになった靴を脱いだ俺はここで初めておかしなことに気づいた。

「……誰もいないのか?」

 いつもなら佐祐理さんや舞が玄関の開く音に気づいて顔を出してくれるはずなのだが、なんの反応もないまま向こうの部屋はしんと静まり返っている。

「まあ、出かけたままなら帰ってこれないよなあ……って佐祐理さんは外出する予定はないって言ってたよな?」

 朝食時の佐祐理さんとの会話を思い出しながら呟くと、哀しいことに狭い玄関によく響く。いつまでここでぼーっとしてても風邪を引くだけなので玄関の側にある流しに靴下を引っ掛けると、脱いだ靴を絞って新聞紙を詰めた。

「これでよし……と」

「祐一さん……」

 立ち上がる寸前に急に声をかけられ、驚いたところにゆらりと現れた人影が俺の視界を塞ぐ。

「うわっ、佐祐理さんかっ?! 驚かさないでくださいよっ」

 引きつった顔を見せてしまいかっこ悪いなと思いつつ振り返ると、珍しく佐祐理さんが顔色を青くしているのに気づいた。

「怖いんです」

「は?」

 こんな表情を見るのは舞がピンチに陥った時以来かな。いつもの天真爛漫な笑顔もいいけど、こういう佐祐理さんもいいかもしれない。なんというか自分の方が年上になった気分だ。

「怖いんです」

 二度同じ言葉を繰り返す佐祐理さんを改めて見下ろすと、胸の前で合わせた手が小刻みに揺れている。

「……震えているんですか?」

 見たまんまな状況を伝えると、佐祐理さんはこくんとうなづいていきなり抱きついてきた。冷えきった体に佐祐理さんの温もりは凄くうれしいけど。

「濡れちゃいますから抱きつかないでください」

 着替えていない俺の服は下着まで水が染みとおっている。

「ごっ、ごめんなさい」

 謝りながらも佐祐理さんは離れようとしない、こんなところを見られたら舞に殺されるなと思いながらも、佐祐理さんが離すまでこうしていようと思った。

 そう、こんな時しか俺は頼りにならないし、純粋に佐祐理さんの力になれるのならば……決して邪な思いがあるわけではない。

「謝らなくてもいいですって」

「さっき舞から今日は帰れないって電話があったもので……これで祐一さんも帰らなかったらどうしようかと……」

 潤んだ瞳が近距離で迫ってきてどきどきする……いや、邪じゃないんだってば。

「連絡くらいすればよかったですね、心配かけたみたいで悪かったです」

 後ろめたい気持ちをおし隠して……う〜む、それにしても俺の手はどこへ向かえばいいんだろう、このまま抱き締めるわけにもいかないしな……。 

「そんな、悪いのは祐一さんじゃなくて、わがままな佐祐理が」

 じゃんけんでもしてみるか……じゃんけんぽん……右手がグーで左手がパー、よって左手の勝ち、めでたしめでたし。

 ……何をやってるんだ、俺は。

「いや、やはり心細い思いをしている佐祐理さんに気づかなかった俺が」

「佐祐理です」

「俺です」

「佐祐理です」

「俺です」

「佐祐理です」

「おれぇっくしょんっ!!! ……あ」

 時間が止まる。

「……ふえ〜っ」

「ご、ごめんっ!」

 よりによって佐祐理さんの顔にまともに……ええと拭く物拭く物……。

「あのう、それは……」

 ってなに靴下で佐祐理さんの顔を拭いているんだっ、俺はあっ?!!

「いや、そんなつもりはっ!」

 靴下の馬鹿っ、靴下の馬鹿っ。

「あはははははっ」 

 パニックに陥った俺を見ておかしくなったのか佐祐理さんは笑い出すと俺から体を離した。どうやら怒ってはいないようでほっとする。ほっとすると今更ながらにもったいない気持ちを覚えた。

「あ」

 佐祐理さんの胸の辺り、つまり俺に触れていた部分が変色……いや、半ば透けてしまっている。そしてその下にかすかに覗いているのはやはり……。

「佐祐理さんまで濡れてしまいましたね」

「あ、あはは〜っ……あんまり見ないでください」

「う、うわっ、しまった」

 余計なことを言ってしまった。顔をそらしながらこっそり横目で見ると佐祐理さんは困ったようにそれでも柔らかく微笑んでいた。

「風邪引くといけないからさっさとお風呂を沸かしてしまいますか」

 照れくさいような気まずいような、そんな気持ちを誤魔化すように佐祐理さんから背を向ける。

「あ、お風呂なら佐祐理が既に沸かしておきましたよ」

「え、ほんとですか? そりゃ助かります」

 本来なら沸かす時間ではないが佐祐理さんの心配りというものだろう、ここはありがたく好意を受け取っておくに限る。俺は取りあえず着替えを用意することにした。

 

 

「あ〜、温まるな」

 やや熱めに沸かされたお湯は、俺の疲れやらなんやらを湯気と一緒に蒸発させてくれていた。入浴剤の効果もあいまってこのまま寝てしまいそうだ。

 初めのころは佐祐理さんが一時間も風呂に入ることを知らなくて、何かあったのかと思い風呂場のドアを開けてしまったことがあったんだよなあ。

 あんときは佐祐理さんより舞が怒って大変だったなぁ……。

「ぶくぶく……」

 ……あう、本格的に眠気が……。

「あの、佐祐理もご一緒してよろしいですか?」

 爆弾発言と共にすりガラスの向こうに佐祐理さんの肢体が見えた。そして俺の眠気はどこかへ去っていった。

「佐祐理さんっ?! げほげほっ!!」

 思わずお湯を飲んでしまいむせ返る。そんな俺の様子も知らず、佐祐理さんのお願いは続いていた。

「祐一さんが帰ってきたので安心したんですけど……ひとりになったらまた怖くなってしまいましたので」

「いや、でも」

「……だめですか?」

 ガラス越しの心細い声なんかを聞かされたらだめなんて言えるはずないじゃないか。

「じゃあ、あっち向いてますから……」

「はい、失礼しちゃいますね」

 背を向けるとすぐに弾んだ声を被せてからからとドアの開かれる音がした。シャワーの音がして、ちゃぽんと佐祐理さんが足をお湯につける音がして……うう、思いっきり意識してしまう……。

「いいお湯ですね〜」

「そうですね」

 俺は今佐祐理さんと一緒にお風呂に入っている、俺は今佐祐理さんと一緒にお風呂に入っている、俺は今佐祐理さんと一緒にお風呂に入っている。

「……どうかしましたか?」

「ひゃ? ひゃんでもないですっ」

「おかしな祐一さん」

 普通おかしくなると思いますが……舞とだってこうして入ったことはないのに。というのも舞が恥ずかしがってしまうからなんだが……。

「祐一さんの前住んでいたところは台風がよく来てたんですか?」

 ……ああ、そうか。

「こっちで台風なんて珍しいでしょう?」

「そうですね」

 台風から温帯低気圧ってのに変わってしまうんだよな、薄い記憶からむりやり引っ張り出して答える。

「昔同じように大きな台風が来たんですけど……その時たまたまひとりぼっちだったんですよね、怖くなった佐祐理はお布団を被って耐えていたんですけどいきなり明かりが消えてしまって……それ以来台風は嫌いです」

「あ〜、なるほど、そりゃ怖いかも」

 といいつつ俺は幼いとき喜びのあまりパンツいっちょで外に飛び出したことがあったような……佐祐理さんはやっぱり女の子だってことなんだろうな。ま、俺と比べる方が間違ってるか。

「じゃ、俺はそろそろこれで……」

「え〜、もう上がっちゃうんですか?」

 そう、上がらないとですね、いろいろとね……。

「佐祐理が背中をお流ししますよ〜」

 あ……俺、本格的にやばいかも。

 

 

「のぼせてしまった……」

 いまだに風呂につかっているような奇妙な浮遊感。あの後何が起こったのかよく覚えてない、佐祐理さんに言われるまま背中を向けて……。

 ええと、なんだったけ?

 向こうを見るといつのまにかパジャマにエプロン着用の佐祐理さんが料理を作っていた。

「もうすぐできますよ〜」

 いや、既に盛りつけていた。たちまちのうちにテーブルに並べられる温かな料理。決して豪華ではないけど心温まる、人柄がよく表れている佐祐理さんの手料理。

「どうですか? 買い物に行けなかったのでありあわせのものになってしまいましたけど」

「いやあ、佐祐理さんが作ってくれるものなら」

 う〜ん、ふたりっきりなんだな……先ほどまでのことがあったせいか余計に佐祐理さんを意識してしまう。

 いや、これでもう、

「あなた、あ〜ん」

 なんて言われた日に……。

「え?」

「あ〜ん」

「……あ〜ん、ですか?」

「はい〜っ」

 突き出された箸の向こうで佐祐理さんがにっこりと笑っていた。

 

 

「……あれ?」

 気がつけばもう日付の変わる時間になっている。テレビからなるべく目を離さないように俺はこの時間まで過ごしていたせいだろうか。

「もう寝るか……」

 そのほうがよさそうだ。早く寝て今日のことはすっきりと忘れるに限る。佐祐理さんには悪いけど俺はやっぱり舞の恋人なわけで。

「あの……」

「今度はなんですか?」

 ああ、だからそんな目で見ないでください。

「あのぅ、一緒に寝てください」

「ええええええっ?!!!」 

 神はどこまで俺に試練を与えるのかっ?! 

 

 

 次の日、激しい痛みによって目を覚ました俺は厳しい目つきの舞に見下ろされていた。

「……どういうこと?」

 指差した先には佐祐理さんが安らかな寝息をたてて眠っている。そのうえ佐祐理さんの右手は俺のシャツの端をしっかりと握っていた。

「……どういうことと申されましても」

「ても?」

 さらに舞の目が細められる。その迫力に思わず捨てたはずの剣が舞の右手に握られているのを見たような気がした。

「ううん……あれ? おはよう、帰ってきてたんだぁ」

 さらに布団がなくなったことで寒さを感じた佐祐理さんが目を覚ます。必然的に佐祐理さんを見ている俺と目があった。

「あ、祐一さん……昨日は佐祐理の力になっていただいてありがとうございました。佐祐理にとっていい思い出ができました……では、さっそく朝ご飯作っちゃいますね」

 いやあのそんな頬を染めて言われると当方といたしましては非常にまずい状況に陥るわけでして。

「さらにその言い方もかなり誤解をまね」

 俺の頭から大変いい音がした……かぼちゃかよ。

「浮気は許さないからっ」

 せっかく台風一過のいい天気なんだから舞ももう少し穏やかに……。

「……無理?」

「何を言ってるの、祐一、きちんと説明して」

「いや、だからそれは舞の勘違……さ、佐祐理さん! ちょっと! なんとか、いたいっ、いたいっ!」

「許さないからっ!」

 救いを求めて伸ばした俺の手はすぐにだらんと垂れ下がることとなった。

 

 

「ごめんなさいね、でもたまには……ね」

「……佐祐理?」

「あはは〜っ」

 

 

 

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