誕生日の風景

 

 

「……なあ、茜。今何月だっけ?」

 まだ肌寒い風を受けて、耐えかねたように浩平が振り返る。その先にはシートをひいて風に飛ばされないよう肩に提げていたかばんを隅に置く茜の姿があった。

「3月です、付け加えて言うと24日です。お忘れかも知れませんが、今日はあなたの誕生日です」

 寄せては返す波の音に紛れる茜の声をなんとか拾い出して浩平がうなずく、いささか納得いかない様子であったが。

「そうか誕生日か……じゃあ俺が見ている目の前の風景はいったい何なんだ?」

 そしてややオーバーアクション気味に遥か水平線を指差した。

「別に海は夏に来なければならないなんていう法律はないはずです」

 茜はベレー帽にしか見えないそれのずれを直してちょこんとシートに腰を下ろす。その薄い反応に浩平ががっかりしたようにぶつぶつ言いはじめた。

「確かにそうなんだが……いきなり付き合ってくれだなんて言われてわけも分からないまま連れてこられたのが海とはなあ。海パンなんて持ってこなかったぞ」

「泳ぎたかったんですか?」

 訝しげに言葉を返す茜。あきらかに泳げる水温ではないが目の前にいる少年は通常の神経を持ち合わせてはいない。

「茜も水着に着替えるだろうからおあいこだろ、あ、どうせすぐにぬ」

 その言葉の続きは冷たい視線に遮られて言うことができなかった。

「……そんなにマグロ漁船に乗ってみたいんですか?」

「なぜ、海に来てまでマグロ漁船に乗せられなくてはならんのだ」

「でも、海に行かないとマグロ漁船には乗れませんよ」

「まあ、その通りなんだが……ってそういう問題じゃないだろう」

「冗談です」

 すまし顔で答える茜になんとも言えない表情で頭をかく浩平。

「冗談、か……柚木も困るなあ。茜に変な影響を与えてしまっている」

「詩子だけですか?」

「その通りだろ?」

「まあ、いいです」

 少し前に詩子と同じような会話をしたことを思い出して茜はくすりと笑った。

「なんだよ、くすくす笑いやがって……しっかし誰もいないなあ」

 見渡す限りなにもない砂浜、誰かの残した花火の残骸が片隅にうち捨てられているだけの寂しい光景に浩平が退屈そうに足元の砂を蹴る。

「さすがの詩子もいないようですね」

 茜が目を細めた。

「……もしかしてそれが目的だったのか?」

「さあ、どうでしょう? それよりお弁当にしませんか、私が作ってきたもので恐縮ですけど」

「そんなことないぞ、サンキューな。こんな売店もないようなところでどうしようかと思ってたところだ」

 浩平は初めて満面の笑みを浮かべた。

 

 

「あれえ、てっきり折原くんの誕生日だからパーティでもやってるのかと思ったのに」

『誰もいないの』

「ちえっ、つまんないの〜、しょうがないからふたりでどこかに遊びに行っちゃおうか」

『それよりもどうして柚木さんが鍵を持ってるのか知りたいの』

「ふふん、ひっみっつ〜」

『もしかして、澪の家』

「さあ、そうと決まったられっつごお〜!」

『まだ話は終わってないのっ』

 

 

「急に立ち止まってどうかしましたか?」

 シートのすぐ手前で足を止めた浩平に紙皿と割り箸を取り出しながら茜は首を傾げる。

「いや、なんか急にものすごくいやな予感が」

 すると仏頂面で頭の後ろをかきながら浩平が答えた。

「当たらないといいですね」

「まったくだ」

 茜がランチボックスと水筒を用意して準備を終えると、その時を見計らったように浩平が腰を下ろす。

「……なにをしているんですか」

 茜はあからさまに眉をひそめて非難の眼差しを向けた。

「え? 茜の膝の上に頭を乗っけただけだぞ」

 スカートの裾を気にかける茜に浩平が悪びれることもなくにかっと笑う。

「それでどうやってお弁当を食べる気ですか」

「もちろん茜が食べさせてくれるんだろ?」

「家にはそんな手のかかる子供はいないはずですが」

「お母さん、ご飯〜」

「悪い子は反省するまでご飯抜きです」

 そう言って蓋を閉めると、冗談ではすまないと見て取った浩平が慌てて起き上がるとびしっと正座をする。

「反省しましたっ」

 茜は思わず吹き出しそうになるのをこらえてうなずいた。

「よろしい」

「いただきますっ」

「……いただきます」

 潮風を少々浴びたサンドイッチは少し塩辛かったように思えたが、みるみるうちにランチボックスの中身は消えていった。

 

 

「たまには回転寿司もいいよね……澪ちゃん、あたしの話も聞いてよ……」

『おいしいの』

「うん、そうだね……お、玉子も〜らい」

『それは澪が予約してたのっ、とっちゃだめなのっ』

「そんなこと言われてももう食べちゃったも〜ん。う〜ん、ふんわり玉子おいしいよ」

『えぐえぐ……』

 

 

「腹一杯になったら眠くなってきたな」

 単調なバックグラウンドミュージックは浩平の眠気を誘うには十分過ぎるくらいだった。もとより学校においてもこの時間は昼寝タイムであることを茜は知っている。

「その前になにか感想はありませんか?」

 とかすかに笑みを浮かべさっさと横になろうとする浩平を呼び止めた。

「ん、いつも通り、凄くうまかった」

「そうですか……それにしてもいい陽気ですね」

「ちょっと肌寒いけどな」

 ゴミを残さないように元の通りに片付ける、その様子を横目で眺めながら浩平は返事をするとごろんと横になった。

「波も穏やかですし、来てよかったでしょう」

 さすがに今度は茜も止めるようなことはなかった。

「そうだな、こういう昼食もたまには悪くない」

 あくび混じりに同意すると目の前で揺れるものが気になったのか遠慮なしに手を伸ばす。茜はその様子をしばらく黙って眺めていたが、いい加減やめようとしない浩平にため息混じりに注意した。

「……お下げを弄くらないでください」

「ん〜、たまたま近くあったからな、それになんだかお下げが俺に遊んでくれって頼んでいたように見えたし」

「そんなわけありません」

「いいの、今日は俺の誕生日なんだから俺が正しいのだ」

「もう」

 それ以上は何も言わず黙って浩平に身を任せる。そのうち浩平も飽きてきたのか一度大きく伸びをすると目を閉じた。

「おやす」

「……私も眠くなってきてしまいました」

 言葉を遮って茜が浩平に寄り添うように身を横たえる。

「み」

 そのふるまいはさすがに予想出来なかったのか浩平の言葉には軽い驚きと少しの照れが混じっていた。

「おやすみなさい」 

 うららかな太陽の光と波の音に包まれて幸せに浸る。頬を撫でる潮風もけっして眠りを妨げることはない。

「なんか俺たち心中してるみたいだな」

 一瞬で幸福感が打ち砕かれた。

「縁起でもないこと言わないでください」

「悪かった」

 閉じていた目を開けてきつく抗議すると浩平は参ったというふうに両手を上げる。お互いの吐息を感じられるくらいの距離でじっと見つめていた茜は何も言わずに再び目を閉じた。

「浩平ですから……」

 あいまいな表情を浮かべた浩平もまた目を閉じる。

 やがてふたりは穏やかな寝息をたて始めた。

 

 

 

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