お誕生会
私服姿の女性ふたりが在校生の不思議そうな視線を受けて廊下を通りすぎていく。
「えへへ、私学食のカレーが大好きなんだよ」
「だからって、卒業したあとまでわざわざ食べに来なくてもいいのに……」
そう言って、みさきに付き合わされる格好となった雪見がとなりでため息をついた。スリッパを引きずるようにして向かった先には、喧騒と食欲を誘う匂いの入り混じったあの学食がある。
「どうせならもっと空いている時間にしない?」
「この時間じゃないと意味がないんだよ」
「ふーん」
とりあえず食堂に足を踏み入れた。雪見の想像した通り、辛い勉強からの解放感を味わうべく生徒達がわいわいがやがやと騒いでいる。
ほんの少し前までいたのに懐かしいと感じてしまうのはどうしてなのかしらねと、私服姿で少々肩身を狭そうにしている雪見と違って、みさきはにこにことした顔をあちらこちらに向けていた。
「ん〜、いないかなあ」
てっきり食堂のおばさんに特攻していくのばかり思っていた雪見は、意に反してみさきが辺りを見回していることに不思議な顔をした。
「みさき、何を探しているの? 悪いけれど食べ物は落ちていないわよ」
「うー、ひどいよ雪ちゃん。そんなに意地汚くないよ」
「ふふ、どうかしらね」
「ぶー」
不満げに頬を膨らませるみさきを見て雪見がくすくす笑う。そんなふたりを見てぽふっとぶつかってくる大きなリボンをつけたかたまりがあった。
「あ、澪ちゃんだね」
自分よりも20センチ近く小さい少女を軽く受けとめながらみさきがにっこりと笑う。
そうだと言うように澪はみさきの腕を掴むとぶんぶんと振り回した。
「上月さん、久しぶりね。どう? 部活の方は」
部長であった立場を思い出したのか急に雪見の表情がそれらしいものに変わる。さすがは元演劇部部長と言ったところか。
『頑張っているの』
いささかしゃちほこばった返事に雪見は満足げにうなずいた。
「今日はね、澪ちゃんにお話があるんだよ」
「お話?」
澪のスケッチブックを見て雪見が通訳する。
「その前にまずはご飯を食べなくっちゃね、おなかぺこぺこだよ」
「あらら」
タイミングを狂わされてがくっとなった澪に、雪見が苦笑いを浮かべていた。
「みさきとこうして食事をするのも久しぶりだけど……相変わらずね」
ようやく雪見が声をかけられたのはみさきがカレーをとりあえず5杯平らげたあとだった。以前なら3杯目くらいには声をかけられたのに、切れがなくなったかなと雪見は首を傾げる。
『川名先輩はたまに来ているの』
代わりに慣れたのだろう、澪がにこにことその様子を眺めている。
「へえ、そうなの……で、そろそろ話してくれるかしら?」
いつまでも食べてばかりのみさきに、雪見は割り箸の反対側を向けてみさきの腕をつついた。
「じゃあ、次はカツカレーがいいな」
「……みさき?」
ジト目を向けられてようやく本来の目的を思い出したのか、ようやく口からスプーンを離した。
「あ、カレーに夢中ですっかり忘れていたよ〜。あのね、この間知ったばかりなんだけど私の誕生日と澪ちゃんの誕生日が1日違いなんだよ」
『そうだったの』
リアクション豊かに澪が驚きを表現する。
「だからね、みんなを誘って一緒にお誕生会でも開かないかなあって思っているんだけど、どうかな?」
「あら、みさきにしてはいい考えね、私には異存はないわよ」
「みさきにしてはってどういうこと?」
「深い意味はないのよ、別に」
「う〜、雪ちゃん意地悪だよ、女王様だよ、きっと鞭を持って高笑いあげてるんだよ〜」
「まったく、どこからそんなことを覚えてくるんだか……」
とりあえず拳を振り下ろしてみさきを沈黙させると、その手を顎の下に当ててふっと息を吐く。
『里村先輩も呼ぶの』
どうしたらいいか分からないと言った表情を浮かべた澪は、それでもスケッチブックに書きこんだ言葉を雪見に向かって見せた。きごちない動きなのはしかたのないことだろう。
「里村さんって……確かおさげの子よね」
確認するように澪を見る。雪見の記憶ではその少女はうすぼんやりとしていた。
『そうなの、料理がものすごい得意なの。この前もムース作ってもらったの、おいしかったの』
そのときのことを思い出したのかうっとりとした表情を浮かべる。
「へえ、そうなんだ……私も教えてもらおうかしら」
「……なんの話?」
「ああ、里村さんが料理上手な話……みさきはその子のことを知っているかしら?」
ようやく復活したみさきの恨めしげな視線に気づかないふりをして雪見は和やかに話しかけた。
「お喋りしたことくらいはあるよ……あんまり学食に来ないけど」
『自分でお弁当を用意してくるの、それも里村先輩自身が料理した物なの』
「へえ、感心ね」
「雪ちゃん、なんだかおばさん臭いよ」
「……みさきの誕生日プレゼントはらっきょうの詰め合わせがいいかしら」
「冗談だよね?」
みさきの顔がひきつる。どうしてかは知らないがみさきはこれだけは苦手にしていた。
「それはこれからのみさきの心がけしだいよ」
「ううっ、雪ちゃんが脅迫する……澪ちゃん助けて〜」
『え、えっとね』
「ほらほら、上月さんが困っているじゃない。だめよ、安易に人に助けを求めるようじゃ」
「雪ちゃんが生き生きしてるよ〜、嫁をいびる姑ってこういうことを言うんだよね……はあ、雪ちゃんの将来が思いやられるよ」
「へえ? 心配してくれて……ありがとっ!」
「……じょ、冗談だよ、ひょっ? ひっはるのははへてえ?!」
ついに実力行使に出た怖い元部長の姿に澪はそろそろと撤収する準備を始める。
『そろそろ授業が始まるの』
「そう、がんばってね」
「うえ〜ん、澪ちゃん助けてよ〜」
微笑ましいじゃれあいを続けるふたりに、澪はわたわたとスケッチブックを小脇に抱えてトレイを持ち上げた。
「じゃあ、その里村さんって娘への連絡お願いするわね」
振りかえった澪の目には、容赦なくみさきの鼻をつまみながら微笑む雪見と、顔を赤くしてうーうー唸っているみさきの姿が見えた。
「これで、できあがりですね」
ケーキのデコレーションを完成させた茜が手についた生クリームをぺろりとなめる。雪見達は茜の華麗な手さばきを感心した様子で眺めていた。雪見、澪、茜、川名家のキッチンは近年にない賑わいを見せている。
「プロ顔負けね」
『すごいの』
素直な賞賛に茜がかすかに頬を赤らめる。和やかな空気が流れるなか、ひとりだけリビングに取り残されたみさきが不満気な声を上げた。
「ねえ、雪ちゃん、どうしてわたしだけのけものにするの? さみしいよ〜」
「あんたがつまみ食いするのが悪いんでしょうがっ!」
間髪いれずに言い返すと、雪見はシンクに置いた調理器具に目を向ける。
「とりあえず私は洗い物を片付けちゃおうか。えっと、上月さんはケーキを向こうに持っていってちょうだい、落とさないでね……あ、あとみさきに食べられないように」
「後でもよろしいのでは?」
茜の言葉に雪見は作業を止めて顔を上げると考えこんだ。確かに今やらなくてもみさきの両親は外出してしばらく帰ってこない。従ってここを使う人間もいない。
「あなたがそういうなら先に楽しんじゃおうかな」
結論付けると雪見はエプロンを脱いで椅子にかけた。それを見て茜もエプロンを外して同じように置く。
「わーい。ケーキ♪ ケーキ♪」
リビングではみさきがはしゃいでいた。
「あんたは子供か」
言いつけ通り澪がケーキの上にかぶさっている。そこまでしなくてもいいのにと思いながら雪見は澪の肩をぽんと叩いた。
「雪ちゃんが若さがないだけだと思うよ」
「うるさいっ、誰のせいだと思ってるのっ」
ふたりのやりとりに思わず茜の顔に笑みが浮かぶ。
「ふふっ」
「ほら、笑われたじゃない」
注意を受けると自分だけ乃せいではないと言いたげにみさきがぺろっと舌を出す。
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ、みさきが情けないだけなんだから」
なぜか恐縮する茜にやれやれといった様子で雪見が肩をすくめて見せた。
「私としては雪ちゃんの見事な鬼姑っぷりに怖れをなしただけだろうと思うよ」
反射的に雪見が立ちあがる。
「みさきっ、そこ動くなっ!」
「わ〜、雪ちゃんが怒った〜」
『危ないからやめてなの』
雪見がみさきを追いまわし始めるなか、青い顔で澪が必死にケーキをかばっていた。