閉ざされた瞳が閉ざされた世界を解放する
その日、みさき先輩が死んだ。
朝一番に学校に登校してひとりで屋上のフェンスをよじ登り……そして飛んだ。
発見された状況からそういうことになったらしい。しかし不思議なことにその身体には傷一つついていなかったそうだ。
ただ、唇、から、一筋の、赤い……。
確かにここ最近の先輩はなんだかおかしかった。屋上でどことなくもの思いにふけっていたりして、それを指摘しても、『なんでもないよ』とにっこり笑っていた。
卒業を控えていた先輩はどこか暗い影を引きずっていたのだ。それに少しでも気づいていたのに、俺は何もしてあげられなかった。
先輩は強い、勝手にそう思いこんでいた自分がいて、いまさらながらやり場のない怒りが込み上げてきた。
それでも日は過ぎていく。
しまわれた黒いスーツに袖を通しながら、思わずそんな自分の姿に自嘲的な笑みを浮かべてしまう。
今日はみさき先輩の葬式の日。いつもなら目覚ましをかけても長森が起こしに来るまで起きたことのない自分が、不思議と目覚ましがなくても起きることができていた。
革靴を履いて外に出ると無意識に通い慣れた道を歩く。葬式が行われるみさき先輩の家は学校のすぐそばにあるからだ。しかしその道の景色が今日はどこか違っていた。
「折原君……」
みさき先輩の家の前では深山先輩がひとりきりで立っていた。痛々しい笑みを浮かべながらも俺に向かって頭を少し下げる。
今回のことで誰よりも堪えたのは彼女に違いない。普段から白い肌がますます白くなり、対照的なほど赤い色をした唇が目に焼きついた。
そのときの俺は……みさき先輩の葬式だというのにただ見とれていた。
……綺麗だ。
喪服の黒と、肌の白と、唇の赤がとても印象的で、俺はただ言葉もなく彼女を見つめているほかなかった。
悲嘆に暮れるみさき先輩の両親に挨拶を済ませ、空いているスペースに腰をおろす。慣れない正座はすぐに足を痺れさせたが、あまり気にならなかった。
読経に混じってときおり誰かの鼻をすする音が響く。
まるでなにかに押しつぶされるようだった。しばらくの間、石のようにしてそこに留まっていたが、焼香をすませると耐えきれず俺は逃げるように外へ出た。喘ぐように新鮮な空気を肺に取り込もうとする。
『えいえんはあるよ』とは誰の言った言葉なんだろう、締めすぎたネクタイが無性に気になった俺は苛立たしげに喉元に手をやった。
「ねえ、折原君」
気がつくと深山先輩がなにか言いたげな顔をして俺を見ていた。
「なんだよ」
先輩に対する言葉遣いじゃないな、そう自覚しながらも訂正する気力も無い。
「見えるって言っていたの」
「は?」
唐突な言葉は俺を戸惑わせるには十分だった。話を促すことも止めることもなく深山先輩の顔を眺めるだけ。
「折原君の背中に女の子が見えたって言ってたのよ、みさきは」
「女の子?」
不意に頭がずきっと痛んだ。なんだかしまわれた引出しを勝手にかきまわされる、そんな感じがする。
「そしてその女の子が折原君を連れていく、それを止められるのは私しかいないって……どういうこと!? みさきはそれで死んだって言うの!!?」
掴まれた肩が痛い、でもそれ以上に頭の奥が痛い。
「ねえ、答えてよ!! お願いだから!」
「わ、悪いけど、俺にも……」
はっとしたように目を見開く深山先輩から嗅いだこともない何かの香りがする。
「そ、そうね、ごめんなさい。取り乱しちゃったりして」
慌てて俺から離れると、深山先輩は気まずそうな顔をして疲れきったように力なくだらんと手を下ろした。
それを少し残念に思っている自分がいる。
「でも、どういうことなの……」
そんな深山先輩に何も言えないのが無性に悔しかった。
その2日後、郵便受けに封筒が入っていた。気づいたのがその日で、いつ放りこまれたのか気がつかなかっただけだが。
差出し人の名は川名みさき、名前も住所も書かれていなかったが、俺はなぜか確信を抱いていた。
自分の部屋に戻るとカセットレコーダーの中にセットする。そして再生ボタンを押そうとして、俺は息を吐いて立ちあがった。
「はい、深山ですけど」
「もしもし」
「……折原君?」
俺が事情を説明すると深山先輩はすぐにでも行くと言ってくれた。簡単に家までの道を説明するとそっと受話器を下ろす。
これでよかったのだろうかとも思う、もしかすると俺にだけ聞いてもらいたかったのかもしれない。
けれど、俺は深山先輩にも聞いて欲しかった。
「こんにちは」
形式的に頭を下げ、俺の後をついて階段を登る。長森のものとは少し違う足音に妙な感慨を覚えている自分がそこにいる。
考えてみれば、俺の部屋に上がりこんでくるのは長森くらいなものだ。
意識しそうになる自分を押さえドアを開けると、邪魔なものをどかして開いたスペースを作る。深山先輩にはベッドを勧め、俺はそこにクッションを置いて腰を下ろした。
「飲み物なんかは?」
自分から言っておいてどうやら気が回ってなかったようだ。というよりすべてを長森に依存してきたことを思い知らされる。あいつは今ごろ何をしてるんだろう。
「ん……結構よ」
あっさり断った深山先輩が目を向けたものに気づき軽くうなずく。
「ああ、これだ」
再び立ち上がるとテープが入れられたままのレコーダーに近づく。俺は勇気を振り絞って再生ボタンを押した。
……穏やかな声だった。
『えーとね、普通なら手紙を書くところなんだろうけど、テープに送らせてもらうよ、ちゃんと見つけてくれるといいな』
『ある日ね、夢をみたんだ。広い草原にひとり、女の子が泣いているんだよ』
『不思議だよね、私の目はもう見えないのに。でもねその女の子は見えたんだよ。うそじゃないよ、ふんわりとした栗色の髪に水色のワンピースがよく似合っていたかなあ』
『うん、泣いているんだよ』
『そして、その子は独りぼっちなんだよ』
『女の子がかわいそうでね、ほっとけなかったんだよね』
『私が近づくと、女の子は泣くのをやめて私を見た』
『私はその子を驚かさないように笑いかけて、遊んであげるって話しかけたの』
『するとね、こうへいがいるからいいって言ったんだよ、その女の子は』
『どうしてって聞いたら、めいやくをむすんだからって答えたんだ』
『そうなったら、どうなるの? と聞き返したとき始めてその子が笑ったんだ』
『わたしのところにきてくれるんだよって、すごくうれしそうに』
『そこで夢から覚めたんだけど……私見ちゃったんだ、あの子が浩平君の後ろにいるのを。まるで抱きしめるように腕を回していたんだ。おかしいよね、私は目が見えないはずなのに』
『しかもね、初めは薄く見えていたものが次第にはっきりとしていくんだよ』
『浩平君が連れていかれちゃうのが分かった』
『悩んだんだよ、私馬鹿だけど一生懸命考えたんだよ』
『そして出した結論が、代わりに私が女の子と同じ世界にいくことだったんだ』
『ごめんね、私は馬鹿だからこれだけしか思いつかなかったんだ。浩平君に幸せになってもらいたかったんだよ』
『だって……私は浩平君のこ』
ガチャ。
「聞かないの?」
どことなく呆けた笑みを浮かべて深山先輩が俺に尋ねる。
「なんでだよ……」
こんな結末なんか欲しくなかったのに。
『盟約』。
俺はあんな大事なことをどうして忘れていたんだろう?
どうしてなんだ?
でも、それよりもやはり俺が……。
「……悪いけど、帰ってくれないか」
少しでも抑揚のない声で。
「そうね、帰るわ……」
「送って……やれそうも、なくて、ごめんな」
感情を露にできない。
「またね」
だってかっこ悪すぎる。
「ああ……」
人前でなんか泣くものか。
「折原君……だめよ」
「えっ?」
顔を上げたときには深山先輩の姿はドアに阻まれていた。
外観はいつもどおりの学食、しかしどこかぽっかりと穴が空いているような虚脱感に包まれている。食欲はなかったが、なんとなくここに来なければならないような気がしていた。
並んでみると食堂のおばさんたちもどことなく元気がないように見える。さすがにみさき先輩はここでは有名人だったようだ。
受け取ったうどんを乗せたトレイを持ち上げ首をめぐらせて空いている席を物色する。そのなかに見知った顔があることに気づいた。
「深山先輩?」
間違いない、それよりも気になるのは。
テーブルの前には深山先輩が持ってきたのだろう、手のつけられていないカレーがテーブルを占拠していた。
それなのに気がつかなかったってことは。
「ああ、折原君。よかった……食べきれなくて困っていたの」
すとんを腰を下ろしてみるとかつての光景が目の前に広がっている。
「『食べきれなくて』って、そりゃあみさき先輩でも……」
「…………」
「あ、その……」
「どうしてかしらね……こうすればみさきが帰ってくるような気がしてたの……あの子意地汚いから。ふふ、困ったものよね……いつまで借金を返さないつもりなのかしら」
「先輩……」
「ね、手伝ってよね」
「ああ……」
自分で用意してきたうどんをそっと端に置くと、俺は目の前にあるカレーのトレイを引き寄せて座った。
ますます強くなるスパイスの香りが胃ではなく肺を刺激する。思わず咳込みそうになるのをなんとかこらえ、意を決して目をつぶると俺はスプーンにすくったそれを飲みこんだ。
「……え?」
気がつくと、頬を撫でる風。視界の端から端まで草の原。
俺はぽつんと立ち尽くしている。
「な、なんだよ?」
戸惑った声が雲ひとつない空に吸いこまれていく。
「ここは?」
見覚えがあるようで、実感のない空間。
「こうへい?」
ふいに後ろから声がかけられた。
確かに誰もいなかったはずなのに。
でも、この声には確かに聞き覚えがある。
かつて俺が盟約を交わした、
「お前は……え?」
予想する人物はいた。
そう、いつもこの姿だった。水色のワンピースをはためかせている。あの時は違ってすっかり見下ろしてしまっているが。
でも、後ろの人物は……。
「浩平君って、こういう顔をしていたんだね……」
泣きたいのか、笑いたいのか、それとも困っているのか、そんな色がないまぜになった表情。
いつもと違っているのはその瞳に光が宿っていること。それだけの違いなのにすごく魅力的で。
ああ、こんなにも暖かいんだ。
「みさき先輩なのか……」
俺は震える声でそう言うのがやっとだった。
「わたしもいるんだけど」
と、抗議をするかのように背伸びをする少女には悪いが、目に入るのはどうしても……。
だが、
「やっときてくれたんだね。ちょっと、よていとはちがったけど」
感慨深げな言葉に引っ掛かりを覚えた俺は目線を落としていた。
「みずか、お前まさかそうなるようにしむけた……?」
両手が震えるのが押さえられない、不穏な俺の気配に気がついたのか、みさき先輩がみずかかばうように前に出た。
「ち、違うよ。あれは私が勝手にやったことだもの、この子を責めちゃだめ」
「し、しかし……」
「私も弱かったんだよ……私、昔ね、自殺しようって思ったことがあったんだ」
「……みさき先輩が?」
意外、いや、そうでもないかもしれない。克服したからこそああやって笑っていられたのだろう。
「うん、あのときは馬鹿馬鹿しくなってやめちゃったんだけどね。浩平君と別れてからすごく寂しくなっちゃったんだよ。もう少しで私は卒業式を迎える……でも、その後はって」
「そんな」
「私のなかで浩平君が大きくなっていって、そして押さえようもない不安も膨らんでいく……苦しくなっちゃったんだ」
そしてみさき先輩は見たわけだ……。
「ひどいよね、私は逃げちゃったん……」
「帰ろうぜ」
もうなにも言わせたくなかった。それに言わなくても痛いほど伝わってくる。だって今の先輩には光があるから。『目は口ほどにものを言う』とはよく言ったもんだ。
「どうやって?」
「どうやってもくそもあるかよ。帰るんだ」
「私は死んじゃったんだよ」
「関係ねえよ」
「……乱暴だね」
ようやく、くすりと微笑んでくれた。
ここは人ひとり消すくらいの力を持っている、ならば逆に人を作り出すくらいの力はあってもいいと思う。我ながら無茶苦茶な考えだと思うが、所詮常識では説明できない世界なのだ、これくらいの無茶を聞いてくれてもいいはずだろう。
とはいえ、俺にそれが分かるはずもない。いくら作り出したのが自分だとはいえ、普通の人間にすぎない俺が……。
もし、できるとするならば……。
「……わたしにまかせておいてよ」
今まで黙っていたみずかがなにかを吹っ切ったような笑顔を浮かべていた。
「みずか」
そう、頼れるのはこの少女だけ。その瞳の奥に見えるものがあっても、俺は決してそこから目を逸らしてはならない。
「……すまないな」
「いいんだよ」
見下ろしている俺からは髪に隠されて表情が見えなくなった。
「うん、こうへいたちはなんにもしんぱいしなくていいんだからね。ただちょっとめをとじていてくれないかな?」
「……あ、ああ」
素直に従い目を閉じる俺。すぐにひんやりと柔らかな感触。みさき先輩の手がそっと俺の手を握ってくれていた。ほんとうなら俺の方からそうしなければならないのに。
情けないな。
「ごめんね……でも」
目を閉じていても寂しそうに笑ったのが分かった。
「わたしはなんのためにここにいたんだろうね」
もはや俺に言葉を発する権利などないのだ。
「こうへいのためにいたのに、こうへいからきょぜつされるなんて……」
最後にみずかが俺の体に触れた。
視界が二転三転する。何かが入りこんで、何かが抜けていく。ひどい耳鳴りと頭痛。それを何度も繰り返して、ようやく辿りつき戻ってきた。
目を覚ました俺の耳に喧騒が入ってくる。
「……学食?」
慣れ親しんだ冷たく硬い椅子の感触は、俺の考えが正しいことを証明してくれている。
「でね、聞いてるの? 折原君?」
「……ん、ああ、深山先輩?」
斜め前から日替わりランチのコロッケをつまんでいる深山先輩が眉を潜めていた。
「どうしたのよ、いきなりぼうっとしちゃって、みさきからもなんか言ってあげなさいよ……って、みさき?」
みさき?
「見えるよ……」
……見える?
「はあ? 見えるって何が? あんたまさかボケた振りをして借りたお金を返さないつもりじゃないでしょうね。今日だってみさきがどうしてもって頼むから仕方なくね……」
「雪ちゃんなのっ?」
「……はい?」
狐につままれたような深山先輩の顔。
「お、折原君……」
「閉ざされた世界が閉ざされた瞳を開いた……?」
俺は呆然と呟いた。