仕舞われていた想い

 

 

 早朝のアパートの一室から言い争う声が響いてくる。

「おい! 俺のコートはどうしたんだっ!!?」

「知らないわよ! あんたが着るんだから、あんたが探すのが常識ってもんでしょ!」

 その部屋にはスーツに着替えた青年と、エプロン姿の女性のふたり。

「ちくしょー、まさか急に冷えるなんて聞いてねえぞ、ああもう!!」

「あ〜っ!? そんなに散らかして!! ちゃんと元に戻しておいてね!!」

 ふたりの間に横たわる洋服の山。その山が大きくなっていくたび、険悪な雰囲気がさらに悪くなっていく。

「俺は急いでいるんだ、それくらいやっといてくれよ!」

「そ、それが人に頼む態度なのっ!? 信じらんない!」

「妻ならそれくらいやって当然だろ!! もういい、仕事にいってくる!!」

 そして、叫んだ男はこれで終わりとばかりに、手にしていたセーターを女に投げつけた。

「きゃっ?!」

 男はいらだった表情のまま鞄を引っつかんで部屋を出ていってしまう。すぐに乱暴な玄関のドアの音が響き、部屋にはうつむいた女と散乱した服だけが残された。

「どうしてなんだろう……」

 このところささいなことで喧嘩をしてしまう。それでも以前ならすぐに仲直りできたはずなのに、なにか細い刺が引っかかったようにお互いその言葉が出て来ない。

 愛がなくなったわけではない、わけではないのに。

 彼女は悲しくなった。普通の人間ならありえない結ばれ方をして、長い時をふたりで過ごして、結ばれる時を迎え、あれだけの祝福を周囲の人間から貰ったのに現実は思い通りになってくれない。

 結婚する前に、あれこれと話し合ったことがまるで遠い過去のようだった。

『幸せになってね』

 そう言った時の彼の幼なじみの表情が枷のように彼女の心を縛り付ける。

 暖房をつけているのに冷え切った部屋の温度がさらに下がったような心地がして、彼女は自分の体を両腕で抱えこんだ。

 

 

 やがて時計の針に追われるように彼女はのろのろと体を動かし始めた。少し前にきちんと整理をした押し入れのひどいありさまを見てまた悲しみが募っていく。

「この前整理したばかりなのに……」

 あのときは結婚して初めての衣替えということで、ふたりして意味もなく張りきっていたものだ。ふたりを新しく迎える季節のために、あちこち店を回って少しでも似合うものをと。そして過ごしてきた想い出を惜しむかのように、すぐに取り戻せるようにきちんと畳んでしまったはずなのに。

 しっちゃかめっちゃかになった自分の心とシンクロする。

 ガタッ!

「あ……やっちゃった……」

 気が回らなかったのが悪かったのか、はみ出した箱を引きぬこうとしたとき、余計なものまで押し入れから落としてしまう。

「はあ……」

 どうしようもない重い空気が包みこみ、それでも手を伸ばそうとした時、

「……あれ?」

 その中に覚えのない古びた箱が彼女の目に止まった。

「まさか……」

 まるで触れると災いが起こるかのように、しかしそれでも彼女はおっかなびっくり指を伸ばしていく。そしてしっかりとその手で掴み、目の前に引っ張り出した。

 中にきちんと納められていたそれは、あのときの光沢を失わず、人の手の加えられてない森の奥の湖の色を思い起こさせてくれる。

「あいつからの……初めてのプレゼント」

 碧色の生地は優しく彼女の目からこぼれる涙を受けとめてくれた。

 

 

「……ただいま」

 その声は日も暮れてようやく聞こえてきた。

 男は出て行ったときとは反対にためらいがちに玄関のドアを開け、そしてしばらくして、あの部屋のドアに手をかける。

「……いないのか?」

 一歩足を踏み入れた男はわだかまる影を目にし、ほっと安堵の息を漏らし蛍光灯のスイッチを探ろうとした。

「なあ、悪かったよ、お願いだから機嫌を直して……えっ?」

 男は目を疑った。

 カーテンから漏れる光のなかで、最愛の妻があのときの姿で微笑んでいた。昔の記憶が脳裏に鮮やかにフィードバックされる。

「ねえ、踊らない?」

 白いリボンで束ねられた髪を揺らし小首を傾げた妻に、男はおそるおそる近づいていった。すぐに求めていたかのようにお互いの腕が背中に回される。

「ここで、か?」

 相手の吐息を感じる距離まで顔を近づけると男はそっとささやいた。

「うん、お似合いじゃない。ダンスホールじゃない6畳のスペースであってもいいのよ。だってここが今のあたしたちの世界なんだから」

 うなずいた女はにっこりと微笑む。まぶしいものを見るように視線を逸らした男は、むきだしの肩を通って視線を下におろしていく。

「……ちゃんと入ったんだな」

「余計なことは言わない……どうしてあんたは台無しに……」

 その言葉は男がステップを踏み出したことで途切れた。女はやがて苦笑すると男に合わせて足を動かし始める。

 ふたりだけに流れてくる音楽はいつまでも途切れずにリフレインされていた。

 

 

 翌日、大家から苦情がくることなんてふたりにはどうでもいいことだった。

 

 

 

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