欲張りな人
ミーンミーンミーン。
「……うるせぇ」
ミーンミーンミーンミーンミーンミーン。
「だからうるさいんだっての」
ミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーン。
……セミに馬鹿にされるなんて思わなかったぞ、くそ。
「どうしたの?」
「いや……」
ああ、やかましいくらい夏だ。
俺たちはあの公園に向かっている。といっても別に深い意味があるわけではない、芝生の上に横になると気持ちいいんじゃないかなあってみさき先輩が提案したからだ。
説得されるまま外に出てはみたものの、じりじりと焼けつくような日差しに俺もかぶっておけばよかったかなと、先輩の頭にちょこんと乗った麦藁帽子を見下ろす。
……奪ってやろうか、そんな物騒な考えが頭をもたげるほどに暑い。
「暑いね」
俺の気も知らずみさき先輩はそう言って汗を拭った。白いタンクトップから覗く二の腕が妙になまめかしくて不覚にもどきっとしてしまう。
「そうだな……」
少し赤くなっているかも知れない、見られなくてよかったと思いながら俺はうなずいた。
まあ、暑い原因が他にあることはお互い承知の上。こんな日にべったりくっつかれて暑くならないわけがない。しかしそれを指摘するのは野暮ってものだ。
俺と付き合うようになってから外の世界へ足を踏み出した先輩が一番最初に覚えたのは俺の家への道順だった。
みさき先輩の母親といきなり現れた時の俺の驚きは、今先輩が密着していることによる心臓の鼓動の比ではない。
今ではひとりで俺の家へ来れるようにまでになった。その助けになっている銀色の杖はなく、先輩が手にしているのは俺の腕。しっかりと代わりを果たせってことらしい。
置いてけぼりにされた杖に恨まれるわけにはいかないが、少しの役得は大目に見てくれよな、と心地よい感触に目尻を下げてみたり。
「浩平くん、妙なことを考えてない?」
「いいや」
相変わらず鋭い人だ。
「浩平くんアイス食べたいな〜」
公園に着くなり甘えたような声を出す先輩。先輩のおねだりはここに来た時の恒例の儀式のようなものだ。
「分かったよ、ただしふたつまでだからな、それ以上はおごらないぞ」
「わ〜い、いつもありがとうね」
ふたり手をつないだまま、いつものアイス売りの親父が居る場所に向かう。視線の先に見える大きめのパラソルは遠くにあってもよく目立った。
もっと売れそうな場所がありそうなものだが、なんでも趣味でこんなところに店を出しているらしい。
俺たちの姿に気づいたアイス売りが顔をあげた。
「あんたたちかい、いつもありがとう」
向こうから声をかけられるほど親父にすっかり顔を覚えられてしまったようだ。ここに来るたびに寄っていればしかたないかな。
それとも隣にいる先輩のおかげか? 見た目はお嬢様な先輩に視線を向けると真剣な目でアイスを選んでいる。
「なににするんだ?」
「ええとね、チョコミントとバニラ……う〜ん、目先を変えてオレンジ……」
それでいて満面の笑みで鼻をひくつかせている。ガラスに阻まれて匂いが分かるはずはないと思うがこの人はいろいろと特別製だからな。
……俺も早いうちに決めておかないと、遅くなると機嫌が悪くなるしな。
色々悩んだ末に先輩が選んだのはチョコミントとストロベリーだった。言う必要もないが俺は抹茶を選んでいる。
注文を受けると親父はコーンを手にしてアイスを盛り付け始めた。
「はい、お嬢さんにはサービスだ」
親父がコーンからはみ出したバランスが悪そうな塊を先輩にふたつ差し出した。手に感じる確かな重みに先輩の顔が弾ける。
「わ〜い、ありがとう」
まあ、誰だってこの人の笑顔を見ていたくなるってものだろう。
「……ところで俺には?」
「けっ」
「……おい、俺も客だぞ」
あきらかな差別に日本の将来を憂える俺。
「男子たるものもっと大らかにならんといかんな」
偉そうなことを言われたうえ、普通サイズのを渡された、あんたは髭か。
まあ減らされるよりはましか……ましなのか?
さて……。
「……なあ」
「なにかな?」
「手を放してくれないと財布を取り出せないんだが」
俺の片手はアイスが握られていて、先輩の片手にもアイス、さらに俺たちは手をつないでいる。
ようするに手が塞がっているわけで。
「いやだよ」
しかし先輩は笑顔で拒否してくれた。すっごくわがままで、でも許してしまいたくなるようなそんな笑顔だ。
「冗談だよ」
困っている俺を察してくすくす笑いながら手を放す。そしてそれを見て親父が苦笑する。俺だけが笑えない……なんだか悔しいぞ。
「あいかわらず仲がいいねえ」
自覚しているとはいえ、他人に指摘されると余計に恥ずかしい。俺は金を払うとそそくさとその場から離れようとする。
「浩平くん」
「……そうだった」
財布をしまうとしっかりと先輩の手を掴んだ。握られる力がいつもより強く感じたのは気のせいだったのか。
俺たちは何度も通っているうちに見つけた風通しのいい木陰を選んで腰を下ろした。それだけでかなり涼しくなったような気がする、手にしたアイスによる効果も無視できないだろう。
そう、空気もなんだか緑を通したおかげでおいしく感じられるし、日差しさえ熱を取り除いたすがすがしさだけ俺たちの回りを取り囲んでいるじゃないか。
……って。
「おいしいね」
余韻だの雰囲気だのすべてをぶっちぎって、既に先輩はアイスを食しておられた。
まあ、どうせ近所の公園だしな、俺もそんな柄じゃないし……ちょっぴりセンチな気分に浸ってみる。
「だって、溶けちゃったらもったいないもん」
「うんうん、それはよく分かるぞ〜。で、チョコミントはどこへ?」
「えへへ、おいしかったよ」
しかもふたつめに取りかかっていた。
「いつのまに……」
呆れている場合ではない、俺も食べないと。溶けたアイスがぽたりぽたりと地面に落ちているのを見て慌ててかぶりつく。すぐに口の中に甘味を押さえた抹茶の香りが広がった。
「うん、うまいな」
さすがに先輩がここに来るたび注文するだけのことはある。まあ、俺も気に入っているから問題はないな。
「おいしかったね」
三口目に取りかかろうとした時には既に先輩は完食しておられた。
「早すぎ……」
早くもすることがなくなった先輩は俺に寄りかかってくる。そんな風に見つめられると食べにくいんだけど……。
「浩平くん、つまらない?」
「ん?」
いつのまにか先輩の笑顔が蔭っていた。
「私でなければもっと楽しいところにいけるのにね……」
「ちょ、みさき先輩」
いきなりな展開に強く否定するべく言葉をかけようとするが、先輩の瞳はそれを許さなかった。
「私はね、目が見えないんだね」
その意味を少しでも理解できるようになりたいと思っているのにな。
「だからね、もっと近くで浩平君を感じていたいんだ……そして浩平君の近くにいるとね、きりがなくなっちゃうんだよ、こんなふうにね」
掴んだ手をぶんぶんと振る。それに合わせて俺の手も揺れる。
「そしてね、ちょっとでも浩平くんと離れてしまうと凄く不安になるんだ……だって私から浩平くんに近づくことは出来ないんだよ、こうやって浩平くんのお家に行けるようにはなったけど、浩平くんに近づけるってことじゃない……浩平くんが示してくれないと辿りつけない」
「もうそれ以上は」
先輩が止まらない、だから手にこぼれる雫の冷たさなんかに構っていられない。
「例えばね、浩平くんの部屋にいるとして、浩平くんがドアから出ていったらどうなると思う? 私は待つことしかできないんだよ」
「待ってくれるんじゃないか」
「え?」
そう返されるとは思わなかったのか、俺の言葉に先輩が不思議そうな顔をする。
「先輩は待ってくれるんだろ? それで十分だよ。俺にはそれ以上はいらないさ」
「うん、それは分かるけど……私の方が年上なのにね、一方的に頼っているみたいでちょっと寂しくなっちゃったんだ」
「いいんだよ、頼って欲しい時は好きなだけ頼ってくれよ、俺だって頼りたい時はみさき先輩に頼るからさ、なんかそんな弱気になっている先輩なんて見たくないよ」
「う〜、私だって女の子なんだよ」
「それは十分に分かっている」
「うわ、えっち」
「違うわっ」
先輩が両手で胸を抱きかかえるようにして睨んだ、凄く不本意だ。でもその表情も可愛いな。
「でも……浩平くんが見たいって言うならわたし……」
うん、先輩はすっごく可愛い、そう言うとなぜか怒られるけど。
「こらこら、そんな切なそうな表情をされても困るぞ、せめて家に帰ってからにしなさい」
「は〜い」
そこでまた長い沈黙、でもそこに不安はない。
だから俺はただ先輩の言葉を待つ、と、そこでようやくべとついた手のひらの惨状に気づき慌ててアイスを片付ける。
その時、俺が食べ終わるのを待っていたかのように先輩が声を発した。
「目が見えなくても幸せって掴めるんだね……」
真っ直ぐに伸ばされた手がなにかを確かに掴んだ、そんな気がした。
「当たり前だろ」
そう、当たり前。
「もう離さないよ?」
「望むところだ」
ふたり顔を見合わせて笑う。そのうち笑いが抑えられなくなって俺は体をくの字に曲げた。他人に見られなくてよかったと思うくらい笑った、先輩も笑っていた。
ひとしきり笑うと先輩が大きく伸びをした。
「……笑いすぎちゃって疲れたよ」
「俺も、一年分くらいは笑ったかな」
「ねえ、少し眠っててもいいかな?」
「どうぞ」
俺が抱き寄せると安心したように体を預けてくる。
先輩の重みが心地よかった。