占い師の言葉で会社を辞め、坊主頭にして、自炊すらほとんどやったことがないのに、二年後の弟子入りを土下座して頼んだ。そして、東京に帰り、パン調理の専門学校に入ろうとしている。 誰がこんな話を信じるだろう。 五年間、ほとんど形の変えることのなかった生活が、たった二日で原形を失ってしまった。 この二日間が夢のようなことなのか、会社で過ごした五年間が夢のようなことなのか、うまく判断できなかった。 しかし、明日しなくてはならないことはわかっている。そして、それは、彼にとって、とても胸躍ることのように感じた 来客受付で、専門学校を探していることを伝えると、あっさりと進路資料室に通してくれた。不審者と勘違いされるのではないかという危惧があったので安心した。 目当ての専門学校のパンフレットを探そうとすると、部屋にスーツ姿の男性が入ってきた。四十歳を少し出たくらいだろうか。 彼の想像したとおり(だいたい昼間の学校にいる教師以外の大人はあまりいないのだが)、その男性は教師だった。 整った髪型といい、神経質そうな眼鏡がいかにも教師らしかった。自分が高校二年生のときにも同じような雰囲気を持った教師が担任となったことがあった。生徒に人気があるとも、ないとも言えない教師だった。 教師に平均というものがあるとしたら、高校二年生のときの担任も、今部屋に入ってきた男も、平均的な教師になるのだろう。 「…そうですか。多くの学校では、来年の四月からの入学という形になりますが、専門学校なら中途入学ということができるかもしれません。今はまだ五月ですしね。ちょっと待っていてください」 パンの調理専門学校を探しているという彼の話を聞いた後、今井という教師は恐縮してしまうほど丁寧な言葉使いで彼に話をした。高校内の資料を見せてもらえるかどうかさえ心配していた彼には、この今井教諭の親切さは驚きだった。 ひょっとして、この高校の卒業生と勘違いされているのかもしれないと思ったが、すぐにそのようなことを考えるのはやめた。 専門学校の資料を見て待っていると、十分ほどして今井教諭が戻ってきた。 「ここの専門学校なら中途入学ができるそうです。今からすぐに試験の申し込み手続きをして合格すれば、六月の中旬には入学ができます。二ヶ月の遅れになりますが、やる気があれば、どうということのない差です」 学校の所在地を見ると、今住んでいるアパートから多少遠かったが、通えない距離ではない。 彼は今井教諭に深く頭を下げて、お礼を言った。今井がぽんと彼の肩をたたいて応えた。 高校を出ると、その足で教えてもらった専門学校へ向かった。地下鉄を乗り継いで五十分ほどの所に専門学校はあった。アパートからなら、もう少し短い時間で来られるだろう。 学校はオフィス街にあり、一階がガラス張りになっている大きな建物だった。道からは、ガラスを通して中の様子をうかがうことができる。 建物の中に入り、受付の女性に願書を提出した。 「できるだけ早く入学したいんです。お願いします」 彼がそう言うと、女性はにこっと笑い、「わかりました」と答えた。 学校を出て、ガラス越しに中を見てみた。 いくつもの調理台が並び、二十人ほどの生徒が実習をしている。水道の蛇口をひねったり、ボールに手を入れたり、話をしたり…。どの顔も、彼より五歳は若いようだった。 彼はしばらく、道から中を眺めていた。彼には、専門学校の中の世界が水族館の水槽を泳ぐ遠い南国に住む魚たちの世界のようじ現実感のないものに見えた。その反面、その知らない世界に飛び込むことに対して、気持ちが高揚していることも自覚していた。 時計を見ると、午後四時を回ったところだった。地下鉄の駅に向かいながら、背負っていたバックから携帯電話を取り出し、恋人へ電話をした。 二・三度、コールした後で、彼女は電話に出た。 そして、今バイト先から帰ってきたのだと、彼女は少し大きな声で言った。電波の加減でこちらの声が聞き取りにくいのかもしれない。 「学生になることにしたよ」 「またまた突然だねー」 彼女は笑った。笑ってばかりだ。 「どんな勉強をするの? 缶ジュースの歴史と成立とか…」 「パンの勉強をさ、しようと思って」 彼女の言葉を遮って、彼は言った。二人の間ではよくあることで、彼女も全然気にしない。 「えっ? パン?」 やはり電波の調子があまり良くないようだ。 「そうだよ。食べる、あの、パンだよ」 「ふぅーん。パンか」 ほんの少し、間が空く。二秒、三秒、そのくらいだ。 「わたし、パンは好きよ。一番ではないけれど、たぶんベスト十二には入ると思う。あなたがパンを食べるのが好きだとはしっていたけれど、作れるとは知らなかった」 ふいに彼女は年上のような話し方になる。 「僕も知らないよ。パンを作ったことなんてないしね。これから作るんだよ。日本中がパンで埋まってしまうくらいに」 彼女はまた笑って、「それじゃ、頑張ってわたしも食べなきゃいけないね」と言った。 歩きながら話しているうちに、地下鉄の降りる階段の前まで来ていた。 「それじゃ、今から地下鉄に乗るから」 「ここ数日のあなた、すごく素敵だと思うよ。話す声も話し方も少し変わったみたい。仕事を突然辞めたりして、本当はいろいろ心配しなきゃいけないんだろうけど、今のあなたなら大丈夫だと思う。ただのわたしの勘だけどね」 彼女の言葉をゆっくり噛みしめてから、「ありがとう」、そう言って電話を切った。 そして、電話をバックにしまおうと、階段の前で立ち止まった。すると、彼の後ろから走ってきたスーツ姿の男性が彼の背中にぶつかった。 思いがけず強い力だった。 彼の身体が空に踊る。 どすっ、と鈍い音とともに、頭からコンクリートの階段の下に落ちる。そのまま何度かの低い音とともに、階段の一番下まで転がっていく。 階段の下で彼は仰向けに寝ていた。頭の周囲を放射線状に血が広がっていく。 彼の背中にぶつかったサラリーマンの中年男性が呆然とした顔で階段の上に立ちつくす。 とても遠い階段の上で。約束の時間をすでに三十分遅れていて、急いでいた。それだけだ。 静かな死だった。叫び声も、泣き声もなかった。 ただ、間違いなく、そこには死があった。 四日後に殺されるという占いを聞いてから、まだ三日だった。占い師の言葉に従い、生き方を変えたのだ。いや、変えようとしたのだ。目的地が決まり、辿り着くための準備を始めたばかりだった。 今の彼には、深い深い眠りの中で、夢を見ることしかできないのだ。 小さなパン屋には、何人もの客が入っている。レジでは、笑ったときの口の形が美しいという評判の女性が立っている。店の奥に調理場があり、彼がパンをこねている。調理場から店内を見渡すことができるようになっているのは、店の設計をするときに彼が設計士との話し合いで、絶対条件としてあげたことの一つだった。店内を眺めると、どの客の顔も知っていて、そのことに満足する。そんな時間の積み重ねの毎日。 …彼だけの、彼にしか見ることのできない、夢。 誰かの叫び声が地下鉄に響く。そして、足音がけたたましく鳴る。だが、どんな雑音も、もう彼の見る夢を邪魔することはできないのだ。 テーブル席が三つにカウンターだけの小さな喫茶店。どのテーブルにも客の姿はない。 一つのテーブルに一枚の紙切れが残されている。 『生き方を変えましょう。大切な忘れ物を取り戻すことができます。さもなければ四日後にあなたには不本意な死が訪れるでしょう』 口髭をたくわえた無口なマスターが舌打ちして、その紙切れを屑箱に放り投げた。 了 |