ゴッホと私
太陽の画家 フィンセント・ファン・ゴッホ
 早いもので、風は秋の気配ですが、太陽が顔を出すと暑さにまいってしまいそうです。

 私は若かった二十代、ゴッホの生き方とゴッホの絵に心酔していました。燃えるような厚塗りのタッチ
と鮮やかな色彩に、生きることの生命力を感じました。
 でも、耳に包帯した自画像などがあるように、激しいゴッホの生き方に驚きもしました。
 私は1888年の、アルルのはね橋、星の夜のカフェ、ひまわりなどの絵が好きです。
 37歳の若さで、風のように、この世を去ったことも驚きでした。

私が青春時代に書いたひとつの詩の紹介です・・・。


   「ゴッホ巡礼」

空虚なおもいと呼んでもいい
空虚を
つかまえることなく
離してしまえば
金縛りにあった時 必死で
意識を肉体のすみずみまで戻したのと違い
もう だした手紙の返事がかえってこなくとも
気にすることのない
三月三十一日
明日が四月馬鹿なんていはない

ぼくは
セザンヌは好きだが
ゴッホのほうが もっと好きだ
色が色であることの喜びをあらゆるものに反映させて
もの自身がものであることに
我がものがおだから

そう 玉葱ひとつにしても パイプにしても
ものそれ自身になってしまって
空虚なおもいが
離れているということ 

しかし ゴッホの自画像の眼差しが
虚空を見つめているのは
まれなる 悲劇の証しだろうか

でも
なんといっても
刈入れの絵が一番いい

(・・・このぼんやり見える人物は 仕事を終わりにしようと
炎暑のなかを鬼みたいになって働いているのだが ぼくはそのとき
この人物のなかに死の影像を見た つまり 人間が刈り取られる麦のように
思えたのだ しかし この死には悲しみというものがなく すべてを
美しい黄金色の光でひたす 太陽のあかるい輝きのなかの出来事なのだ )

そう そこでは 空虚と呼ばれるものは 完全に消失し 虚空は光で
再び 満たされているのだ

創世記のはじめのように

 * * * * * * * * * *

 行く先を見失ったかに思える21世紀、ふと、19世紀の太陽の画家・ゴッホとその絵を思いました・・・。

2009/08/18 15:49

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