完全予告
written by ジン
・・・そう。
あの元凶はあそこにあった。
思ったとおりだった。
しかし、もう遅い。
事態は急激に悪化しているのだから・・・。
いつもの会社帰りの電車の中だった。
車窓の景色はもうとっくに日が暮れ、濃い闇に変わっている。
その日の電車は満員だった。
むせ返るような人の波。におい。
そうだ。今日は成人式なんだっけ。
どうりで若者が多いはずだ。
「菊田さん。今日は早く帰ったほうがいいと思いますよ。いつもの電車、満員ですからね。」
部下に先程言われていたことを、今になって思い出したりしていた。
我ながら情けない頭である。
車内には、席に座って着物の汚れを気にしている若い女や、
携帯電話の画面に見入っている背広姿の男がごった返していた。
どこにでもある風景。
そんな人の塊を見ていると、少し気分が悪くなった。
見ると隣の2号車の方が人が少ないような気がして、移動することにした。
人の波をかきわけ、ドアを通り抜けて新しい世界へと入る。
実際はそんなに人口密度が変化するわけでもなかったのだろうが、景色が変わり、やすらぐような気分にはなった。
車内を見渡してみる。
すると、1号車と2号車とを隔てるドアの傍、空いたスペースに異形の者を見つけた。
黒く光沢のあるコートで身体全体を覆った、世間一般に「怪しい」と言われるような格好をした者が一人。
隣の3号車にある車内の窓を通して見えたその者は、他の人とは明らかに違うエネルギーを発していた。
顔はコートで隠れて見えない。背格好は小さく、老人のような印象を受けた。
あぁ・・・嫌な感じだな・・・。話し掛けられたりすると困るな・・・。
直感でそう思った。
なおも惹きつけられるものを感じて、そいつを見つめていた。
しかし、直感は現実になった。そいつは私の方向へと近づいてきた。
・・・・・。
まわりの若者もその者に気付き、話を止めている。あの怪しいエネルギーを感じ取っているのだろう。
珍しそうな顔で私と近づいてくるそいつを交互に見ていた。
私は素早く思考をめぐらせていた。
・・・・・?よく考えてみろよ。こんなに人はたくさんいるじゃないか。
目的が私だとは限らないだろう。
自分に言い聞かせた。
そして、その場を離れるために、床に置いてある自分のアタッシュケースを手にとった。
・・・・・。でもそれならあいつは今、行動する必要はなかったんじゃないか?
この中にいた人間ならいつでも話し掛けることができたんじゃないか?
目的の人間が入ってきたから歩き出したんじゃないのか?
最近この号車に入ってきた人間・・・。
俺しかいない。
嫌な思考をめぐらせている間にも、「そいつ」は私に近づいてきた。
アタッシュケースをわきに抱え、逃げる素振りを見せたその時。
「ちょいと・・・。」
しわがれた声が聞こえた。
身体が急に固まり、呼吸が苦しくなった。
腕に目をやると、腕時計が目に入った。
11時56分。時計の文字盤は、そう指していた。
秒針の針が、時を刻む音が聞こえる。
カチ・・・カチ・・・
私はそいつに背を向けているので、視線が見えない。
誰に話し掛けたのだ?
そう思った。
そして、その「誰か」が呼びかけに応じるのを待った。
若者たちは完全に話を止めている。沈黙だった。
緊張の面持ちでこちらのやり取りを見ているようだった。
10秒・・・20秒・・・。
流れていくと時が永遠に感じ、額に脂汗が流れた。背筋に寒いものが走る。
情けない。
そんな考えが頭を過ぎり、また思考をめぐらせた。
何故こんなに怯えなければならないのだ?
相手は見知らぬ一人の人間だぞ。怪しいとはいえ、何も危害を与える素振りなどしていないじゃないか。
私が一応応えればいい。
目的の人間が違ったならそれはそれでいいのだ。
大丈夫、大丈夫だ。
何も根拠のないことを考えた。
そして、私は気づかぬ間に「なんでしょうか」と、自分でも驚くような、震えた声を出していた。
そいつはそれには応えずに、私にさらに接近してきた。
「あの」エネルギーをむき出しにしながら。
そいつは私のすぐ横まで寄ると、そっと耳に顔を近づけた。
身体が動かない。金縛りにでも会っているように。
「あんたのね・・・一番身近な人が・・・死ぬよ。あぁ。そう近くない。」
しわがれた聞き取りにくい声で、あいつはそう言った。一言、そう言ったのだった。
私の手からアタッシュケースが滑り落ち、床にドスンという音を立てて落ちた。
膝に力が入らなくなり、私はその場に膝を立て、崩れた。
頭の中がまっしろになった。
視界の隅に、そいつが人ごみに紛れていくのが映った。
あれからちょうど1ヶ月が過ぎた。
何も起こっていない。
妻も子供も今まで通り生活を送っている。
不吉なことは何一つなかった。事故・災害なども全てだ。
やはりイタズラだったのだろうか?
あいつはただの狂人だったのか・・・?
妻にはまだこのことを話していない。
激情家の妻は、そういうことに敏感である。
だから敢えて報告していなかった。
あの日、放心状態で家に帰った私は、何も答えられなかった。
妻がしきりに話し掛けてきたのを覚えている。
いつもは会社から帰ると詭弁に話す私が、その日は何も話さず、すぐに寝床に入ってしまったのに
疑問を持ったのだろう。
今は会社帰りの電車の中にいる。
あの時と違い、人は少なく、席も空いている。
人の匂いでなく、車内の匂いがする。
いつもの時間のいつもの風景だった。
・・・・・あいつを見つけるまでは。
そいつは前と同じ、号車を隔てる壁に、下を向いて寄りかかっていた。
そしてあの黒いコートを着、私を待ち構えていたのだった。
今日は何か文句を言ってやる。
私は決心していた。
案の定、そいつは私の目の前まで歩いて来た。
前回のようなあのエネルギーはあまり感じられなかった。
しかし威圧感だけは変わっていなかった。
何も話し出せない。相手が話し掛けてくるのを待つしかない。
そんな威圧感が体中から滲み出ていた。
金縛りが身体を襲う。
動けない。
「誰か死んだかえ?」
しわがれた声が鼓膜を叩く。
しかし、何という不吉な事を聞くのだろう。
そうは思っていても何も行動できない。
恐怖心が心の底からわき上がってきた。
「いえ・・・。」
またも震えた声がかすれながら出た。
俺が言いたいのはこんなことじゃない!!
怒りが込み上げる。動けない身体を震わせ、怒りを露にした。
その感情を胸に秘めながらも行動に移せない。
怒りが目の前にいる「そいつ」によって押さえつけられているようだった。
「ふぉふぉ。そうだろうなぁ・・・。」
そいつは肩を揺らせ、笑った。
笑い声が心底に染み渡っていった。
しかし、それで少々は良い方向の考えも浮かべる事ができた。
『そうだろうなぁ』?
・・・やはりあれは虚言であったのか。
信じて気にする自分が馬鹿だった。
さぁ、早く言ってくれ。「嘘だった」と。
さぁ!早く。
こっちの期待をよそに、そいつは床をじっと見ているようだった。
目をつぶっているのかもしれなかったが、コートのフードで顔が隠されて表情が見えない。
その時、電車が減速し、アナウンスが聞こえた。
「越谷〜 越谷〜 お降りの方はお忘れ物に、ご注意ください」
機械的な声を合図にしたように電車が止まり、ドアが開いた。
プラットホームが見える。人は誰もいなかった。
いつの間にか乗客はみんな降りており、車内に残っているのは黒コートの男と、
私だけのようだった。
それからあいつがくるりと向きを反転し、歩き出した。
明らかにホームに出るつもりだった。
待てよ。待てよ。待てよ!
まだ俺は何も聞かされちゃいない。
嘘だと聞いていないんだ!
待・・・・・て・・・!
かろうじて声が出たが、もうドアをくぐりかけているあいつに聞こえるはずもなかった。
あいつは私に不安を抱かせ、外の世界へと消えたのである。
私はまたも膝がはずれたように脱力し、座り込んだ。
そして、あの日と同じように、放心状態で家路についた。
その日から私は外に出なくなった。
毎日自室に閉じこもり、本を読んでいた。
人の死について書かれた本ばかりである。
精神が不安定な日々。
子供は父の明らかな変貌振りに身を固くして怯えていた。
妻は食事を運んできてくれる時にだけ、少し話し掛けてくれた。
あの黒いコートの男のことばかりが頭に浮かんだ。
「身近な人が死ぬ・・・身近な人が・・・」
そんな生活を続けて、はや3日。
会社からは有給休暇を使う、ということで一応は成り立っている。
心が黒ずみ、思考が全て負の方向へと変わっていった。
「機は熟した」
どこかでそう聞こえたような気がした。
夜、何時もの通り自室の床で本を読んでいる自分がいた。
うつむきで寝ころびながらページをめくるのに疲れ、仰向きになった。
明るい蛍光灯を本で隠し、字を読んでいく。
突然地面が揺れた。
ぐごごごという重い音がして、天井が揺すぶられていた。
驚いて持っていた本を床におき、身長に立ち上がった瞬間、揺れはおさまっていた。
これか!?これのことなのか!?
居間では誰かが棚の下敷きになっているのかもしれない。
暗縁な事態の空想が浮かんでは消えた。
様子を見に行こうと歩き出したその時だった。
「あいつ」の声が聞こえたのは。
「お前に・・・一番身近な人間は・・・誰だ?」
妻子に決まっている。
そう思うともう一度頭の中に声が響いた。
「お前に・・・お前に・・・一番身近な人間は・・・誰だ?」
何が言いたいのだろう。
俺に一番身近な人間・・・俺に一番・・・。
・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
俺だ。
俺に一番身近な人間は俺しかいないだろう。
そう気付いた瞬間、頭の上の蛍光灯がガラスの塊と化して落ちてくるのが見えた。
闇の中の最後の瞬間、瞼の裏に、あの男が映った。
声が聞こえた。
「死ぬのは・・・お前だ。」
そう、聞こえた。