パリ便り(1)
H.M
親愛なるT.Y
君は覚えているだろうか。留学中の僕をはるばる訪ねて君がパリにやって来た日のことを。もう十年ほどにもなる、遠く過ぎ去った日のことを。三月下旬といっても、まだパリは冬だった。君はお気に入りのベージュのダウンジャケットを着ていた。僕は何を着ていたろう。たぶん、横浜中華街の古着屋で買った黒の皮ジャンだったように思う。
もう日が暮れかかっていた。どんよりと曇った日で、今にも泣き出しそうな空だった。そんな中、君のために予約しておいたソルボンヌ広場のホテルへ向かった。ところが、ここでとんだトラブルが僕等を待ち受けていた。案内された部屋は、前の宿泊人が使ったままの状態だったのだ。寝乱れたままのシーツや毛布を目の当たりにして、さすがの僕も怒り心頭に発した。長旅で疲れている君に対しても面目丸潰れだ。他者に対して怒りを表現することに慣れていない僕だったが、このときばかりはフロントの男に激しく抗議した。といっても、たとえ日本語であっても小気味よい啖呵など切れるはずもない僕が、ましてやフランス語で言えることなど高が知れている。何を言ったか、もうまったく覚えていないが、とにかく僕等は、すぐに別の部屋を用意するという男の申し出を断って、その胸くそ悪いホテルを飛び出してしまったのだったね。
外はもう完全に夜だった。靄のような、噴霧器で吹いたような細かい雨が降り出していたように思う。ソルボンヌ界隈には、宿は他にいくらもあったけれども、最初のホテルでケチをつけられた僕は、もうその辺りで探す気がしなかった。といって荷物を抱えた君を連れ回すのも気が引ける。思案の末に、結局、僕の下宿に同道願ったというわけだった。後で考えれば、最初からそうすればよかったのだけれど、君も知ってのとおり、僕自身がフランス人宅に間借りしている身分で、勝手なことができなかったのだ。
フランソワーズを君は覚えているだろう。僕の下宿先の家主だ。気取ったところの微塵もない、ほんとうに親切で優しい女性だった。君が突然泊まることになっても、少しも嫌がらず、いや、むしろ喜んでいろいろ世話を焼いてくれたね。あの夜、夕食はどうしたのだろう。君は覚えているか。僕はまったく記憶がない。僕が覚えているのは、二十畳ほどもあろうかという広いセジュール(居間)のソファが君の即席のベッドになったことだけだ。ともかくも、こうして君のパリ滞在の第一日がどうにか無事に終わったのだった。
フォーブール・サン=ドニ街七九番地。それが僕の下宿(すなわちフランソワーズ宅)だった。パリ十区。最寄のメトロの駅はシャトー・ドー。東駅も程近い。パリの下町。アフリカ系、アラブ系、東欧系の人々、さらにはインド人や韓国人、中国人が多く暮らす街。勿論、日本人の僕も。街はレストラン、カフェ、八百屋、肉屋、雑貨屋、床屋などが軒を連ね、いつも人で溢れていた。今でも耳を澄ますと、時空の彼方から、八百屋の薄汚れた上っ張りを着た男たちの鋭く響く売り声が聞こえて来る。――
「トロワ・ベル・ザルティショ、ディ・フラン!」(上物アーティチョーク三個十フラン!)
「トマートゥ、アンキロ、ヴァン・フラン!」(トマト一キロ二十フラン!)
「エー、デペシェ・ヴ、メ・ザンファン!」(さあ、みんな、急いだ、急いだ!)
僕の住んでいたアパルトマンは十九世紀末に建てられたもので、大人の背丈の倍以上ある巨大な木の門が入口を塞いでいた。普段は、その門全体が開けられわけではなく、僕等は、その門に穿たれた人の背丈ほどのくぐり戸を開けて出入りする。中に入ると、そこはかなり広いホールで右側に管理人の住居があり、左手に各階の住人の集合郵便受けがある。ホールのさらに奥は中庭になっていて、その奥に既製服の卸をしている「ベルヴィ」という商店があった。管理人の住居の奥に階段がありそこから上階にゆく。無論、エレベーターはない。この階段に君は感動していたね。
「プルーストの小説のなかにいるようだ!」と君は言った。
それはぶ厚い木製の螺旋階段で、鉄の手摺が付いている。下から眺めても、上から見下ろしても、あの螺旋は実に芸術的な美しい曲線を作り出していた。
フランソワーズ宅はその五階(日本式に数えると六階)にあったので、重い荷物を持って上がるのはほんとうに一仕事だった。僕が初めてパリに着いた日、三十キロ近いスーツケースを持って上がったのだけれど、それだけで汗みずくになってしまったし、腕も腰も数日間痛み続けたほどだ。実際、六階(最上階)に住んでいる老人などは、階段の途中でいつも小休止をしていたものだ。
苦労もあったけれど、上層階であるだけに日当たりはよかったし、バルコニーに出ると、通りがずっと先まで見渡せた。フォーブール・サン=ドニ通りは、僕の住んでいたあたりから、緩やかに上り坂になっていて、三百メートルほど行くとマジェンタ大通りにぶつかり、それを突っ切ってさらに北上し、北駅が尽きるところまで続いていた。南はというと、七、八百メートル先まで真っ直ぐに延びて、サン=ドニ大通りに突き当たる。その交差地点にサン=ドニ門が聳えていた。シャンゼリゼの凱旋門よりずっと古く、十七世紀後半にルイ十四世のライン戦勝を記念して建てられた由緒あるこの門は、しかしながら、僕のいたころは車の排気ガスと鳩のフンで汚れ放題に汚れ、その足元では、怪しげな露天商が屋台を出していたり、明らかに麻薬の売人と判る男たちが昼間からうろうろしていた。
そして、この門から、「フォーブール」(町外れ、場末の意)という呼称のとれた、れっきとしたサン=ドニ通りがセーヌ河畔まで延びているのだ。とはいうものの、サン=ドニ通りと言えば、知る人ぞ知る娼婦街なのだが・・・。僕は娼婦を眺めるのが好きで、よくこの通りをブラブラしたものだ。狭い通りは既制服の問屋街でもあり、そうした繁華な商店が続く中に、頻繁に洞穴のような闇がぽっかり口を開けている。奥に何が隠されているのか分からない暗い通路の入り口に女たちが、多くは毛皮を羽織ってタバコをふかしながら、肩を石の壁にもたせかけるようにして立っている。そのたった独りで立っている姿が僕は好きだった。毅然とした孤独とでも言おうか。まさに「身体を張って」生きているという、ある種の気迫が女たちの姿から立ち昇っているように僕には思えた。・・・・・・
話がちょっと逸れてしまったが、君は、バルコニーからの通りの眺めがいたく気に入ったようで、盛んにカメラのシャッターを切っていたね。今思うと、ソルボンヌ界隈のいかにも観光スポットという場所のホテルに泊まるより、めったに旅行者の来ない、あの場末の雰囲気を味わえたのは却ってよかったのではなかったろうか。
僕の下宿に一泊した君は、翌日からは、セーヌ左岸、イタリア広場に程近い、ゴブラン大通りの、確か、「アカシアゴブラン」というホテルに泊まったのだったね。ソルボンヌのあの最悪の印象の後で、今度は正反対にアットホームな雰囲気で、君はとても喜んでいた。
僕は、君がはるばる日本から来るのを文字通り首を長くして待っていたのだったが、そのくせ、パリの中で君とどこを歩いたのだろう、と思い返してみても、記憶は茫漠としていてなかなか明確な像を結んでくれない。パリ第三大学の階段教室でオーソン・ウェルズがカフカの『審判』を映画化したものを一緒に観たことと、たまたまパリにいらしていた僕等の大学の恩師と十五区のレストランで食事をしたことくらいが、今、はっきり思い出せることだ。そうそう、君はロダン美術館に行き、作品群にとても感銘を受けたようだったね。ロダンや、カミーユ・クローデルの作品に対する感動を熱っぽく君は語っていたっけ。
モンマルトルには行っただろうか? 僕が、そもそもパリの街に強烈に惹かれたのは、東京の大学に入って君と知り合ったばかりのころ、君が、早稲田のミニシアターでやっていたトリュフォーの『大人は判ってくれない』に僕を誘ってくれたのが始まりだった。あの小屋はもうないのだろうね。二十人も入ればいっぱいになってしまうような小屋で、しかも、僕の記憶が間違っていなければ、座蒲団に座って座椅子に背中をもたせながら観たように覚えている。あのモノクロの映像に僕は完全に“マイッテ”しまった。50年代の終わりごろのパリは今よりずっと暗く、それでいて詩情に満ちていた。僕は作中のアントワーヌ・ドワネル少年に完全に一体化していた。家出をして、冬の夜中のパリの街を独りさまようドワネル少年の姿には全身に悲しみが溢れていた。父親の会社からタイプライターを盗んだものの、金に換えられず、わざわざ戻しに行ったところを守衛に捕まり、結局、彼は感化院に送られてしまう。そして、ある日、脱走する。ひた走りに走るドワネルはやがて浜辺に辿り着く。初めて見る海。しかし、その海は、同時に少年の行く手を阻む広大な壁となる。打ち寄せる波に足を浸したものの、途方に暮れて少年は振り返る。その瞬間カメラはストップし、その不安と怯えが貼り付いた表情がスクリーンいっぱいに広がって映画は終わる。――
ほんとに深い衝撃だった。ドワネル少年がさまよったパリの街を、いつか自分もさまよってみたい、と痛烈に思った。ついでに言えば、君の愛する森田童子の歌にある「行き止まりの海で、僕は振り返る・・・」という一節はこの映画のラストから来ているのだと君は教えてくれたね。
あっ、もう一つ、ある場面が、今、鮮明に脳裏に甦ってきた。
パリ滞在を終え、夜行寝台でローマ(いやフィレンツェ?)に旅立つという君を、僕はオーステルリッツ駅まで送っていった。その送っていく直前だったと思うけれど、僕等はイタリア広場近くのカフェで夕食を取ったね。ステーキか何かを食べ、赤ワインも飲んだと思う。そのときのカフェから眺めた夜のパリの街を、僕はほんとうに美しいと思った。ロータリーになっている広場には、引っ切り無しにバスや車が通る。そして人々が行過ぎてゆく。カフェの灯かり、街路樹の並木。そんななかで顔を薄赤くした君はイタリアへと旅立とうとしている。旅立つ君とパリに残る僕。地上の旅人という気がした、君も僕も。
そして、ローマで君は、僕等の共通の友人のK君に会うことになっていた。果してうまく会えるだろうかと心配したけれど、のちに君は手紙をくれて、K君と落ち合うことができ、テルミニ駅近くのレストランで食事をしたと知らせてくれた。そのレストランが家族経営のほんとに和やかな雰囲気の店で、そこの娘さんがとびきり可愛かったと、君は書いていた。その手紙の文面は、毎日どんよりとした灰色の空に閉ざされた冬のパリにいた僕に、ローマへの憧れをたまらなく掻き立てたのだった。
ずっと後になって、ローマを訪れたとき、ずいぶん探したのだが、その店を発見することはついにできなかった。今でもあれは、君の夢のなかの店だったのではないかと、僕は密かに疑っている・・・・・・。(続く)