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外から戻って来るなり、泰継は居間のソファに座って新聞を読んでいる泰明に声をかけた。 「泰明、聞きたいことがある。」 「何だ?」 広げた新聞に目をやったまま泰明が聞き返した。 「最近、街に出歩いている女人の数が今までにも増して多いような気がするのだが、なぜなのだろうか?」 泰明はやはり新聞から目を離さずに簡潔に答えた。 「ああ、それはバレンタイン・デーが近いからであろう。」 「“ばれんたいん・でー”?」 「おまえは知らぬのだったな。女人が男にチョコレートというものを渡す日なのだ。 如月の十日あまり四日がその日にあたる。」 「“ちょこれーと”? あの甘くて茶色いやつか?」 「そうだ。」 そう答えてから ――そう言えば… 泰明はあることを思い出した。そして… 「だが…」 泰明は続けた。 「決して女人からそのチョコを受け取ってはならぬ。」 「なぜだ?」 「受け取ると神子に嫌われるぞ。」 その言葉を聞いて、泰継はすさまじい衝撃を受けた。 ――神子に嫌われるーーーっ!? そのキーワードだけで、泰継には十分だった。 「わかった…」 泰継は神妙な面持ちでそう答えると、頭の中に“神子に嫌われる”というフレーズを響かせたまま、そそくさと何やら考えながら自分の部屋へと引き揚げて行った… 泰継が部屋から出て行ってしまったとは露知らず、泰明は言葉を続けた。 「だがな、神子からのものだけは受け取るのだ。」 そう言って、泰明はやっと新聞から目を離し、泰継のいるはずの方を見た。しかし… 「んっ? いない… まあ、問題なかろう。」 泰明は再び新聞に目を戻した… * * * そして、バレンタイン・デー当日… 当然のことながら、花梨は一生懸命作った手作りチョコを持って、うきうきしながら、泰継を呼び出した。 ――ふふっ、泰継さん、気に入ってくれるかなぁ? 花梨は、綺麗にラッピングしたそれを見ては、泰継の喜ぶ顔を想像して、自然に笑みを浮かべていた… やがて… 「すまぬ。遅くなった。」 泰継は花梨を見つけて、急いで駆け寄って来ると、そう言った。 「ううん。私が時間よりも30分も早く来ちゃっただけですから。」 花梨はエヘッと舌を出しながらかわいくそれに答えた。 そう。今は午後の3時40分。約束の4時までにはまだ20分もある。 だが、泰継は 「いや、おまえを待たせてしまったことには変わりはない。本当にすまない…」 とっても苦しげな表情でそう言った。 花梨はそれを見て、あわてた。 「わっ、わっ、そんなことでそんな顔しないでください〜 あっ、そうだ。今日は泰継さんにとびきり素敵なプレゼントがあるんです!」 泰継は顔を上げて、花梨の方を見た。 「“ぷれぜんと”…確か贈り物のことだったな? 花梨が私に?」 途端に泰継の表情がパッと明るくなった。 「はい! あっ、そうだ。あっちのベンチに行きましょうか?」 花梨は泰継の手を引っ張って、近くのベンチに連れて行った。そして、二人で並んでそのベンチに腰を下ろした。 「はい、泰継さん♪」 花梨は花のような笑顔を浮かべながら、先ほどの包みを泰継に手渡した。 それを受け取った泰継もやはり満面の笑顔で応えた。 「とっても嬉しい! ありがとう、花梨。」 「ねっ、ねっ、開けてみてください。」 「ああ。」 泰継は丁寧にリボンと包み紙を解いた。中には何やら見慣れぬ異国の文字が書かれた白い箱が入っていた。その箱の蓋を開けると、中に入っていたのは… それを見て、泰継は当惑した。 ――こ…これは、“ちょこれいと”ではないか!? そうか…今日が確か泰明の言っていた“ばれんたいん・でー”とか言う日だったな… 「私の手作りなんですよv」 嬉しそうに花梨が言った。 泰継の頭の中にまたあの時の泰明の言葉が甦って来た。 ――泰明は“ちょこ”を受け取ると神子に嫌われると言った。 花梨は私を試そうとしているのだろうか? ならば… そして… 蓋をしめると泰継は花梨にその箱をスッと返した。 「これは受け取れぬ。」 そのあまりにも意外な言葉に、花梨は今自分が耳にしたことが信じられなかった。 そして、一拍おいてから、やっと言葉を発した。 「今、なんて…」 「受け取れぬと言ったのだ。」 泰継は平然とした顔でそう言った。 ――そうだ。これは花梨が私を試そうとしているに違いない。 ならば、どんなことを言われても受け取ってはならぬ。 「どうして?」 花梨は微かに震えるような声で泰継に聞いた。 「わけなどない。受け取れぬものは受け取れぬ。」 泰継がきっぱりそう言うと、花梨の大きな瞳がみるみる潤んで来た。 「だ…だって、泰継さんのために心を込めて作ったんだよ。ひどいよ、泰継さん…」 そんな花梨を見て、泰継は大いにうろたえた。 「か…花梨?」 「泰継さんの…」 「ん?」 「泰継さんのバカ〜ッ!!!」 花梨はそう叫ぶと、先ほどの箱を抱えたまま大声で泣きながら、走り去ってしまった… 泰継はあまりにも突然のことに頭が混乱して、花梨を追うことも出来ず、呆然とその場に立ち尽くした… * * * 「ただいま戻った…」 どよーんと落ち込み切った泰継が自宅に戻って来たのは夜もとっぷりと更けたころであった。 そのまま自分の部屋へ行こうとした泰継だったが、ふと居間の方を見ると、泰明が何やら食している。ちょっと気になって、その居間へと向かった泰継の目に飛び込んで来たものは… 泰継は血相を変えて、泰明の前に回り込むと荒々しく言葉を発した。 「何を食している!?」 「チョコだが?」 平然とした顔で泰明は答えた。 泰明が両手に持っているのは、超巨大サイズのハート型チョコ。ごていねいに「泰明さんへv」と文字まで書かれている。 「それは何だ!?」 「だから、チョコだと言ったではないか? 聞こえなかったのか? あかねからもらったのだ。あかねが私のために作ってくれたのだぞ! 今日はバレンタイン・デーだからな♪」 そう言うとまたとっても嬉しそうな顔ではぐはぐとそれを頬張り始めた… 泰継の中に超特大級の怒りが一気にこみあげて来た。 「おまえというやつはーーーっ!!」 「何だ?」 泰明はちょっと不機嫌そうな表情を浮かべ、チョコから口を離した。 「おまえが女人から“ちょこ”を受け取ったら“神子に嫌われる”と言ったから、花梨からの“ちょこ”を受け取らなかったのだ。花梨は泣いていたのだぞ…それを…おまえは!! “おまえの神子からもらった”だと!? 私をだましたのだなーっ!!」 泰継はカンカンになって泰明に詰め寄った。 泰明はキョトンとしてそれに答えた。 「いや、だましてなどいない。私は“神子からのものだけは受け取れ”と言ったはずだが?」 「そんなことは、聞いてなどおらぬ!」 「私はあの時、確かに言ったぞ。ちゃんと聞いておらぬおまえが悪い。」 「いいや、おまえのせいだ!!」 泰継は思わず懐に入れてある呪符に手をかけた。 だが、泰明は冷静にひと言言った。 「いいのか、ここでこんなことをしていて? おまえの神子は誤解したままなのだろう?」 泰明の“おまえの神子”という言葉に泰継はハッと我に返った。 「そうだ…こんな場合ではない! 花梨―――っ!!!」 泰継はコートも羽織らずに玄関の扉を物凄い勢いで開けると、外へと飛び出して行った… 泰継の出て行った扉の方をチラッと見た泰明であったが、すぐに何事もなかったかのようにまたあかねが作ってくれたチョコに視線を戻すと再び満面の笑顔ではぐはぐとそれを食べ始めた… そして… 花梨のところにすぐに駆けつけた泰継ではあったが、すっかり機嫌を損ねてしまった花梨が会ってくれるはずもなく… とっても可哀そうな泰継がやっと花梨の許しをもらえたのはそれから一週間も後のことでありましたとさ。 *おしまい*
Rui Kannagi『銀の月』
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