祈 求

 

月の雫が地上に降り注ぐ。
音はなく、姿さえ持たない光りの雫は、何物も害することなく地上を月色に染めていた。
「…」
師の邸、その縁側で夜空を仰いだ泰明は長い息を吐く。
溜息、嘆息、それらに類するものでは決してなく、静かに深い呼吸を繰り返すだけ。
傍らに人は無い。
ただ独り、闇の空に浮かぶ月の光に目を眇めて。
「……神子、おまえは……」
ただ一人きりの少女を想う。
今日が最後。
今宵が、最後。
「神子。…よく頑張ったな…」


「…」
ふと彼の囁きが聞こえた気がして、あかねは寝所から外へ出た。
空に浮かぶのは、まだ満ちてはいない、いびつな月。
それでも、その光りは眩しいほど強く、そして優しく、果てない地上を照らしていた。
「…泰明さん……?」
彼がここにいるはずのないことは、あかねだって承知している。
けれど彼ならばもしかすると…、そんな風に、思いたかった。
この世界で過ごす最後の夜。
明日が過ぎれば、再び共に過ごす日々は、きっとない。
そう考えると、どうしたって眠れない。
落ち着かない。
だから逢いたいと願った。
「泰明さん…」
祈りにも似た、強い想いを込めた呼びかけは、ともすれば震えて消えてしまいかねない。
まだやらなければならないことがある。
この世界で、自分がすべきことは、まだ終わっていない。
なのに胸を締めるのは、この地で出逢った仲間との別れの切なさ。
「泰明さん…っ……」
彼と二度と会えなくなる、その恐怖。
「――――…っ…」
大きな瞳から零れ落ちた涙が足元に散る。
震える吐息、抜ける力。
…彼がいない、もう一緒にはいられない…、そう考えただけで立っていられなくなった。
自分がこれほどに弱くて、女々しかったなんて。
こんなに。
想像するだけでもこんなに彼との別れが苦しいだなんて、思いもしなかった。
"別れ"なんて、最初から解っているはずのことだったのに。
元の世界に帰るために今までやってきたのだから、今更気付くことではない。…そのはずだったのに。
「…すき、です…」
立っていられず、簀子に座り込んでしまいながら、あかねは泣いた。
「泰明さんが好き…」
夜風が掻き消す言の葉。
「好きなの……っ…」
決して言葉にしなかった想い。
"別れ"が揺らぐことの無い未来なら、伝えられるはずがなかったから。
弱くて、脆くて、臆病で。
告げて傷つくことを恐れて、神子である自分で、自分を騙してきた。
それを、今になって限界だと思い知る――――。
「泰明さんっ……!!」
『……神子』
不意の応え。
涙に濡れた視界に揺れる若草色の長い髪。
「――…っ!」
泰明本人でないことは一瞬で判断できた。
判ったけれど、それは泰明の想いの形。
『神子。私を呼んだか』
いつもと変わらない単調な物言いに、あかねは泣き笑いの表情を見せようとして、…失敗して。
伸ばした手で泰明の袖を掴む。
『…神子』
どちらともなく引き合って触れる身体。
抱き留める彼の姿からは鼓動も体温も感じられない。
唯一つ、深い想いだけがあかねを包み込んだ。


「…神子」
閉ざされた瞼に映る少女の姿。
頬を伝い、己の姿を写した式神に落ちる彼女の涙の温もりさえ得られないが、それでよかった。
微かでも温もりを得てしまえば、どうなってしまうか解らない。
自分の役目は、彼女の楯となり、剣となって最後まで彼女を守ることの他にはないのに。
「……」
縁側の支柱に背中を預けて、泰明は深い息を吐く。
閉ざされたままの瞼に、腕の中、泣き続ける少女を見守りながら。


近いようで――今にでも手が届きそうで、彼女を抱き留める腕は確かに自分のものなのに、決して触れることは叶わない。
「…」
それでも、今だけ。
仮りの姿でも、偽りの人形でも構わない。
「神子。私は……」
この一瞬におまえの傍らにあるのは自分だけだという、その真実だけでいい。

……だから、今だけでいいのだ。
私以外のすべてを忘れてほしい。
私のことだけを想って、…私の名だけ呼んでほしい。
そうすれば、今このときの記憶だけで、おまえを失った後も生きていける。
たとえこの身が塵となり消えてしまっても、その瞬間すら優しいものに変わるから。
だから、神子。
今だけ。

「今だけ…抱き締めてください…」

あかねの言葉に、偽りの姿が応える。
鼓動も体温も持たない人形の腕は、けれど泰明の深い想いだけは伝えられる。


別れの刻が近づく最後の時間。
たとえどんな明日が彼らを迎えようとも、この夜、二人の想いは確かに一つだった――――。


月原みなみ様『不協和音の楽園』
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/8120/index.html

[涙のひと言]

当サイトの10000HITのお祝いとして、月原みなみ様

が贈ってくださった作品です。

二人の別れの時が刻一刻と近づく中、泰明さんの思い、そし

て、あかねちゃんの思い、それぞれがそれぞれのことを思い

合う二人の強い想いが痛いほど伝わって来ます。

特にあかねちゃんの心の叫びがとても心に染み渡って、とっ

ても切ない気分になります。そして、式神に姿を映してあか

ねちゃんのもとへ訪れる泰明さん…

混じり合う二人の想い… くぅ〜、素敵なお話ですね。

みなみ様、切なくて、でも温かくて、こんな素敵なお話をど

うもありがとうございました!

 

 

月原みなみ様のサイトへは『リンクのお部屋』からどうぞ

 

 

戻る