目覚め

 

 

床屋の親方夫婦は長い間、子宝に恵まれなかった。だが、どうしても子どもが欲しいと願っ

ていた夫妻は毎月の一日に必ず梅宮神社へと参拝していた。この神社には“またげ石”とい

う霊験新たかな石があり、子授けの神として厚く信仰されていたから。

今日も夫妻はいつものように梅宮神社へと出掛けた。

その夜、妻が眠りにつくと親方はひとりつぶやいた。

「何年通っても一向に子が出来る気配はない。もう子どもは…あきらめるしかないかもしれ

 ない。」

毎月神社へ通いながらも、親方は参拝をしても無駄かもしれないと思い始めていた。

だが、一心に子を望んでいる妻にそれを言い出せないでいたのだ。

 

親方は翌朝、いつもより早く目が覚めた。そして、隣で寝ている妻を起こさないようそっと

褥を抜け出すと、店の外へと出た。辺りはまだ薄暗く、軽く靄がかかっていた。

親方は伸びをして、朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。そして、また店へ入ろうとした時、

何処からかグウグウと寝息が聞こえて来た。

「誰かいるのか?」

親方は寝息のする方へと近づいた。するとひとつの大きな籠が置いてあるのを見つけた。

その中を見て親方は驚いた。その籠の中にはひとりの大きな赤子がこれまた大きな寝息を

立てて寝ているではないか。

親方は急いでその赤子を抱き上げた。赤子はその腕の中でも気持ちよさそうに眠ったままで

ある。 親方は赤子を抱いたまま家の中へ飛び込んだ。

「おまえ、おまえ、起きてくれ!」

妻は眠そうな目をこすりこすり目を覚ました。

「あなた、どうしたんです? まだ早いじゃないですか…」

「こ…これを見ておくれ!」

親方はそう言うと、腕の中の赤子を妻に見せた。

妻は驚きの声で夫に聞いた。

「赤子じゃないですか? い…いったいこれは?」

「外に出たら家の前に大きな籠が置いてあって、その中でこの赤子が寝ていたのだ。」

妻は親方のその言葉を聞くと、さらに驚き、夫の腕の中の赤子を覗き込んだ。

親方の腕の中で大きな寝息を立てている赤子は少し身体が大きいものの、その寝顔は

とても愛らしく、妻はたちまちその赤子が気に入ってしまった。

「私に抱かせて。」

妻は夫の手からひったくるように赤子を取り上げると、思いっきり抱きしめた。

そうされてもなお、赤子は眠り続けていた。

「あなた、この子は子がない私たち夫婦に神様が授けてくれたものに違いありません。

 私たちで育てましょう。」

と妻は夫に懇願した。もちろん、親方に異存があるはずはない。

「ああ、私たちの子どもとして大切に育てよう。」

そう親方が答えると、妻は嬉しそうに微笑んだ。

「名はなんとつけましょうか?」

妻が夫に聞いた。

「そうだな…おまえは何がいい?」

夫が聞き返した。

「いいえ、あなたが名づけてくださいませ。」

夫はしばし考え、そして口を開いた。

「この子は九頭神の森の神が私たちに与えてくれた子だから“九太”と名づけよう。」

「ええ、ええ。いい名前ですね。それがよろしゅうございます。ね、九太。」

妻は赤子に語りかけるようにそう言った。

 

九太は親方夫妻の愛情を一身に受け、すくすくと育っていった。もともと大きな赤子では

あったけれど、五、六歳ともなれば、すでに大人をもしのぐ立派な体格に成長した。

普通なら怪しく思うところだが、親方夫妻は神様が授けてくれたものだからきっと不思議

なこともあるのだろうと納得して、別に気にすることはなかった。

九太はケンカも強く、そして面倒見がよく、誰にでも明るく元気に接するものだから、

すぐに近所の子どもたちの人気者になった。そしてたちまちのうちにその村のがき大将と

なった。

だが、元気なのはよいけれど、九太は子どもとはいえ、身体がとても大きく、がっしり

している上に腕っ節がいささか強すぎたので、あっちのものを壊しただの、こっちのもの

を壊しただの、床屋夫妻のところにはひっきりなしに山のような苦情が寄せられていた。

ただ、九太は村のみんなに好かれていたので、苦情を言いながらも誰もが心のどこかで

九太を許してしまっていて、本気で怒るものがいないのが、唯一の救いであったが…。

しかし、いくら本気で怒ってないとは言ってもこう苦情が度重なると床屋夫妻はさすがに

ほとほともてあますようになってきた。そして、ある日、親方は妻に言った。

「あの子の暴れん坊ぶりには困ったものだ。これ以上村中のものを壊されてはたまらぬ。」

「でも、子どもが元気なのはいいことではないですか。」

妻は夫が九太を手放すと言い出すのではないかと思い、必死の形相でそう言った。

親方は妻の気持ちを察し、やさしく言った。

「いやいや、いくら暴れん坊でも私もあの子がかわいい。だが、このまま村のもんに

 迷惑をかけるわかにもいかぬ。そこで、私は考えた。」

妻はじっと夫の目をみつめ、次の言葉を待った。

「あの子はまだ六つだが、すでに身体は大人並みだ。そこで、私はあの子に床屋の仕事を

 覚えさそうと思うのだが…おまえは、どう思う?」

妻の目が輝いた。

「それがよろしゅうございます! 仕事を与えたらきっと九太も真面目に働くことで

 しょう。」  

 

夕方、九太が帰って来るとすぐに“親方が呼んでいる”と告げられた。

――うわーっ、どうしよう!!

親方の部屋に向かいながら、九太はドキドキと胸が大きく波打っているのを感じた。

――思い当たることなら…ありすぎる…

そこで、親方の部屋へ入るなり、

「ごめんなさい!!」

と大声で謝った。

「何を謝っているのだ?」

親方は笑いながら言った。

「だって、お叱りになるために呼んだんじゃないですか?」

九太はこわごわ聞いた。

「いいや。」

親方は九太の様子を見て、微笑んだまま言った。

「おまえを呼び出したのは、そろそろおまえに床屋の仕事を覚えてもらおうかと

 思ってな。おまえはまだ幼いが、身体はもう一人前だ。床屋で働いてみるのも

 いいと思うのだが…」

それを聞いて、九太は

「えっ、いいんですか!? 床屋を手伝っても?」

と嬉しそうに聞いてきた。この反応には親方の方がいささか驚いた。

「僕、ずっと親方と一緒に働いてみたかったんだ。頑張ります!

 よろしくお願いします!」

と九太は大きな声で言った。

親方はその九太の言葉を聞くと、満足そうに頷いた。

「では、明日から頼むぞ」

「はい!!」

九太は元気な声で返事をした。

 

九太は床屋の仕事にとても興味を持ち、親方に教わったことをどんどん吸収して行った。

そして、もともとその才能があったのか、二、三ヶ月のちには、親方の代理で髭剃りや

髪結いができるほどになってしまった。親方夫妻は九太の意外な才能に、いい跡取りが

できたと大いに喜び、それまで以上に九太を慈しんだ。

九太は毎日せっせせっせと床屋の仕事に精を出し、親方夫妻に応えるように真面目に

働いた。

そして、それから三年ばかりはこともなく過ぎて行った…

 

床屋の仕事を始めてまもなく三年となるある日のこと、九太がいつものように剃刀で

お客の顔を剃っていたところ、その日に限ってつい誤って手をすべらせてしまった。

そして、お客の顔に小さな傷をつけてしまった。九太は初めての失敗にあわててお客の

顔の傷の血を自分の指でぬぐうと

「ごめんなさい!」

と頭を下げて謝った。お客と言っても常連の客だったので、その九太の様子を見て、

「いいって、いいって。たいした傷じゃないから。傷のひとつやふたつあった方が

 男っぷりが上がるってもんよ。」

と笑いながら豪快に答えた。

そのお客の言葉に少しホッとして、九太は頭を上げた。

そして、何気なく、本当に何気なく指についたお客の血をペロリと舐めた。

 

その瞬間、九太の身体に衝撃が走った。

その血のなんて美味なこと。今まで味わったことのない不思議なその味。

まるで舌がとろけてしまいそうである。その甘さは口の中いっぱいに広がり、

そしてやがて身体のすみずみへと広がっていった。

九太は何とも言えない甘美な恍惚感に包まれた。

「ああ、なんて、甘くて美味しいんだろう。」

九太は思わずそうつぶやいた。

 

「九太?」

客がどうしたのかと九太に声をかけた。

その声でやっと九太は我に返り、もう一度客に深く頭を下げると、布で客の血を拭き

取った。 そして、

「本当にごめんなさい。」

そうひとこと言うと、親方にその後のことを頼んで、布を持ったまま自分の部屋へと

駆け込んだ。

 

部屋に戻ってもまだ胸がドクンドクンと大きな音を立てている。

「いったい私はどうしたんだろう…」

そしてふと手に持っていた布に目をやった。そこには、まだ乾ききっていない濡れた

ままの客の血がこびりついていた。それを見た九太は自分の衝動を抑えることができ

なかった。自分の全身がその血を欲している。九太はその布に口を近づけると、舌で

ベロベロと布についた血を舐め始めた。舐めれば舐めるほど先ほどの何とも言えない

甘美な感覚がまた九太の全身を支配して行った…

 

一度、血の味をおぼえてしまった九太は、またそれを舐めたくて舐めたくて仕方がな

かった。何をしててもあの味ばかりが頭に浮かぶ。

そして、その渇きに耐えられなくなったある日、九太は今度はわざとお客の顔を傷つ

けて、その血を舐めてしまった。理性ではそんなことをしてはいけないとわかってい

たのだが、もうどうにもその自分の欲望を抑えることができなかったから。

だが、わざとだとは夢にも思っていない客はこの前の客と同様、簡単に九太のことを

許してくれた。

あまりにあっけなく自分の欲望を満たすことができた九太は、それからというものは、

わざと客に傷をつけてはその血を舐めるようになった。

最初は働きすぎで疲れて手が滑ったのだろうとそれほど気にしてなかった客たちも、

あまりにそれが度重なったので、さすがに不信に思い始めた。それにその血を舐めた

時の九太の表情。それは、子どものそれではなく、どこか薄笑いを浮かべた怪かしの

よう…。

その噂は少しずつ密かに村中に広がって行き、客たちはうす気味悪がって、徐々に足

が遠のいて行った。親方が何度か注意をしたが、九太は客を傷つけることを止めるこ

とはなかった。あの肌の下にあの真っ赤な血が流れているかと思うと、九太の背中は

ぞくぞくした。そして、それが欲しいという激しい衝動はもう自分では止められなく

なっていたから。

 

それまで大繁盛だった髪結床屋はやがてひとりのお客も来なくなり、店はすっかり

寂れてしまった。さすがの親方も今度ばかりはさすがに耐え切れず、毎日お酒に溺れ

るようになって行った。

 

ある夜、親方はとうとう九太を自分の部屋に呼びつけた。そして、

「店が寂れたのは、すべておまえのせいだ! おまえが客を傷つけてばかりいるので、

 客が誰も来なくなってしまったではないか!」

と激しい声で怒鳴ると、

「どうしておまえは…おまえは…」

と言いながら、とめどなく涙を流し始めた。

そんな親方の様子を見た九太は心がひどく痛んだ。そして

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

と何度も何度も泣きながら謝るしかなかった…

 

翌朝早く、九太は顔を洗おうと、床屋の近くに流れている小川に行った。

そして、ひとりつぶやいた。

「ゆうべは親方をひどく悲しませてしまった。私のせいだ。親方は私を拾い、育てて

 くれた大切な人なのに。その親方を苦しめてしまうことしかできないなんて…」

そうして、両手に水を取ると、その冷たい水で顔を洗った。そして、手を下ろす瞬間、

土橋の上からなにげなく川面に目をやった。すると、水鏡に映ったその顔は見慣れた

自分の顔ではなかった。何と鬼の相を呈しているではないか。髪はそれまでの黒色で

はなく、銀色に長くたなびき、口は耳まで裂け、耳はとがり、そしてその目は闇の獣

のように金色の光を放っていた。

 

九太は一粒涙を流すと、

「そうか。私は人間(ひと)ではなかったのか。」

と小さくつぶやいた。

自分が捨てられたのも、そして血を欲したのもきっと自分が人間ではなかったからで

あろう。 九太は自分の運命を呪った。しかし、いくら嘆いてみたところで一度本性を

現した九太の姿は二度ともとの姿に戻ることはなかった。

「親方のところに戻るわけにはいかない。」

そう思った九太はそのまま店には戻らず、ひとり、丹波の山奥へと入ってしまった。

 

そのただの土橋は以来、“茨木童子貌見橋”と名づけられ、後の世まで語りつがれる

こととなった。

そして、その橋は今でも茨木地方に残っている…

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

 

 

[あとがき]

やっとUPできました。茨木童子創作の第二弾であります。もとの話は

至って淡々と簡潔に書いてありますので、かなり脚色いたしました。童

子の真名も伝説の中では特別出てきません。私が勝手に名づけてしまい

ました。実は有名な大江山の話や戻り橋の話よりもこの辺の話や出生の

話が私は好きでありまして、“茨木童子”にはまるきっかけになったの

もこの部分です。手についた血を無意識に舐める…こんな何気ない誰も

がついついやりがちな行動があんな有名な鬼になるきっかけとなるなん

てすごく面白いではないですか! 和製吸血鬼の茨木童子、その誕生の

様子が皆さま方に上手く伝わってくれるといいのですが…。

 

[ちょっと豆知識]

床屋の前に捨てられたというのにも実はわけがあるみたいです。

平安時代ではなくもっと新しい時代の資料で見たのですが、京都の床屋

と言うのは昔、四辻に置かれ、町の役員的役割を果たしていたとのこと

で、捨て子やどろぼうなどについても番人の管理など関わりを持ってい

たそうです。

ですので、もっと昔にもそういう事実があったのかもしれない。それが

伝説の中に組み込まれたということもあるのでは?

いや〜、調べていくと実に奥が深いですね。

 

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