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桜の花が散っていた。
雨の様に散っていた。
風のない春の午後だった。
青い空を塞いで、桜の花弁が天に張りつく。
幾重にも空を覆う薄紅の霞み。
大気に張りついた花弁は剥がれ落ちることなく、
静かに僕の視界を窒息させていく。
僕は酸欠の金魚のように口を開閉させた。
僅かばかりの酸素と桜の花弁が口に飛びこむ。
甘くて苦い味が口腔を満たした。
「桜の木の下には死体が埋まっている」
そう聞いたのは誰からだったろうか。
随分と以前に聞いた気がする。
言ったのは、祖母だったか、母だったか。
僕は、僕をここに残したまま帰らない母を思った。
「お水をさがしてくるわ」
そう言って、母が消えてから数日が過ぎていた。
 
母に会ったのはおよそ10年ぶりだった。
僕は親戚の葬儀に来ていた。
誰の葬式だったか覚えていない。
さほど近くもない親戚だったのだろう。
記憶に残るほどのインパクトがなかったのだ。
見知らぬ山村の大きな木造りの家に、人が溢れていた。
初めて訪れた場所で、僕は用もなくぼんやりしとしていた。
人々は忙しなく動き回っていたが、僕にはすることがなかった。
誰も僕に声をかけなかった。
僕はただぼんやりと山を見ていた。
家のすぐ裏手が山だった。
樹木が鬱蒼と茂る合間に、僅かに薄紅がさした一角があった。
「桜だわね」
突然、見知らぬ女が話しかけてきた。
黒い着物を纏った中年の女だった。
喪服ということは親類のはずだ。
しかし、顔に覚えがなかった。
「大きくなったのね。見違えたわ」
女はツツと僕に近づいた。
僕は落ち着かない気持ちになって女から離れようとした。
そんな僕の腕を女が引き止めた。
ものすごい力だった。
「久しぶりすぎてわからない?」
女は袂から煙草を取り出すと火をつけた。
細い紫の煙が空に向ってのぼっていった。
 
たなびく煙は空へ昇る道のようだった。
紫に霞む標。
その向こうにかかる薄紅。
桜の園。
「あの桜はね、誰かが死んだ時にだけ咲くの。
 死人の魂が残してきた生者を呼んでいるのよ」
女は僕の視線を追って言った。
風が吹き出してきて、辺りの梢を揺らした。
獣の鳴き声のような音が響いた。
女は軽く髪を押さえた。
黒い着物に照り返る肌が白かった。
薄い唇が僅かに動く。
「お父様が亡くなった時もあれが咲いていたわ」
独り言めいた言葉が僕の耳に届いた。
父、桜。
満開の桜の…。
「母さん?」
僕は無意識に呼んでいた。
煙草が地面に落ちた。
細い煙が地表から螺旋を描く。
どちらも何も言わなかった。
女が動かないので、僕は足で煙草を踏みつけた。
煙の道が途切れた。
 
地面に落ちた煙草に気をとられた間に、女は消えていた。
現れた時と同じく突然のことだった。
表へ戻ったのかもしれない。
静かな喧騒がBGMのように小さく耳に届いた。
まだ葬儀は終っていないらしかった。
僕は再び1人になった。
桜は変わらず視界にあった。
風に煽られ手招きするように揺れていた。
先ほどの女の言葉が頭を過る。
「死者の魂が残してきた生者を呼んでいるのよ」
昔、同じ言葉を聞いたことがあった。
父が死んだ時だ。
やはり春だった。
今でも降るような桜を覚えている。
僕は4才の子どもだった。
泣きながら母と供に満開の桜の根元へ花を手向けた。
あの時は死の意味などわからなかった。
ただ、もう父に会えないというのが悲しかった。
その時に母が言ったのだ。
満開の桜の花を指して。
先刻の喪服の女の顔が記憶の中の母に重なる。
間違いないと思った。
彼女は僕の母だ。
【メルマガに続く】 

 

 

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