History of Greensleeves

Profile of GS  

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DATE

EVENTS

NOTES

1982.6.10

男声合唱団『グリーンスリーヴス』結成。

合唱軍団『地下評議会』という候補もあったというから、誕生からとんがってました。結成団員12人。合唱界に旋風を起こそうという崇高な?理念と情熱のほとばしりが高校の合唱部OB会から最高の形で昇華されました。

1982.10.10

関東合唱コンクール・神奈川県大会に初出場

課題曲は「鴎どり」自由曲に「月光」「Nightingale Sang In Berkeley Square」という斬新?なもの。結果は選外。審査員が軒並み13位をつける中、磯辺先生(「はるかな友に」の作曲家として有名)だけが、4位をつけてくれました。(今から思えば付け間違いだったかも…)コレに気を良くして、というか、このままでは終われないと継続する事になりました。

1983.4.15

第1回サロン・コンサート開催(大佛次郎記念館にて)観客は20人くらい?

直前に行った合宿が単なるお泊まり宴会ではなかった事がその後のGSに大きな力になりました、よね?

誰かパンフレット持ってない?

1983.6.19

神奈川県合唱祭(神奈川県合唱連盟主催)出演

黒人霊歌から「John saw the numbuh」「Deep River」を演奏。誰か講評カード持ってない?

1983.8.17

第2回サロン・コンサート開催(イギリス館)観客60人位。

上陸した台風の直撃を受け、交通機関も混乱する中会場は満員でした。会場にはエアコンなどあるはずも無く、換気の為に開けていた窓が強風でバタンと大きな音を立てて閉まり、ただならぬ緊張感でした。

1983.9.25

関東合唱コンクール神奈川県大会に出場

課題曲は「アヴェマリア」(パレストリーナ)、自由曲は「雪と花火」から(多田武彦)。コンサートの曲目を歌いました。歌い終わった時の充実感と審査結果(前回と変わらず…)とのギャップで打ち上げは大荒れに!テリヤキさんがイセザキ町の道路を転がりました。

1984.3.29

第3回コンサート開催。(西区公会堂)観客は100人くらい?

公会堂という大きな小屋に進出を果たしました。顰蹙ステージに動きが取り入れられますますパワーアップした感じです。

1984.6.17

神奈川県合唱祭に出演。

3rdコンサートから「CMソングメドレー」と「女女女のマーチ」を振りつきで熱唱!会場から盛んな拍手を受けたこの時が、メジャーへの階段に足が掛かった瞬間だったのかも・・・。

1984.8.16.17

ミュージカル『星の王子様』(劇団「あさがお」)に出演。

あとから俯瞰してみると、この頃は心も体も良く動いていました。地方の高校で再演されたらしいこのミュージカルは面白かったけどなぁ・・・。

1984.9.23

合唱コンクールに出場。3度目の正直は見事な金賞受賞!

課題曲は「天のベンチ」(廣瀬量平)。自由曲には第1回コンサート以来のライフワーク「コンポジション第6番」(間宮芳生)。これぞコーラス!!会場の空気をも支配した冒頭の音柱。奇跡とは何かを考えさせてくれる。「YAMAHA賞」のトロフィーで祝杯をあげたのは痛快でした。

1984.10.21

関東合唱コンクール出場

コレが実力か?全然の選外!よみがえるテリヤキさんの悲劇・・・。

1984.12.2

神奈川芸術祭合唱フェスティバルに出演。

当時は合唱曲作曲コンクール入選作品の発表会と合唱コンクール入賞団体の演奏をタダで音楽堂で聞かせてくれる、或いは歌わせてもらえる演奏会。G・Sもその趣旨を理解して?スペシャルメニューで望んだ。コンポを最後に(予定外で)演奏したので会場に来ていた作曲者にも喜んでもらった、と思います。出演料(足代?)がうれしかった。

1985.1.15

横浜市主催「成人の日」祝賀会に出演。

例年は市体育館に午前午後2回公演で1万2千人もの新成人を集めてタレントのステージを行っていたが、この年はなぜか「市民による手作りのお祝い」をと130名の市民合唱団が臨時に組織されステージに立った。横浜市歌をはじめとして10曲程度を歌った。二十歳になった団員がインタビューを受けたり、歌唱指導したりとG・Sは大活躍。これも出演料がうれしかった。

1985.2.10

コーラルフェスト‘85に出演。

会場が音楽堂であり、なおかつくじ引きに勝つ、という難条件下で初出場を果たした。(以後出場機会に恵まれてはいない?)コレも何かの奇跡を感じてしまう。(このあとフェストは会場をジプシーし西公会堂から市民ホールなどを経て、現在は「みなとみらいホール」で盛大に行われている。)「一分時間を下さい」と制限時間内にプログラム外の「KOHMONII」を歌う。

1985.5.12

第4回コンサート(県立音楽堂)観客は500人以上という説もあるが300人台だった言う声も・・・。お客様も10倍以上に増えたが、会場費も十倍以上!

その昔、演歌歌手の憧れがNHKホールでのリサイタルであったように、ニューミュージック界の殿堂が千鳥が淵の武道館であったように、神奈川合唱界の聖地、それが神奈川県立音楽堂であった。その舞台でビール缶や一升瓶を転がしたのは、後にも先にも我々だけであろう・・・。

1985.7.28

宝塚国際室内合唱コンクール出場(兵庫県宝塚市/宝塚ベガ・ホール)

男声合唱部門・銀賞=金賞なし

G・Sインターナショナル・デビューはいきなり銀賞受賞というセンセーショナルなものであった。NHK・FMで全国放送されたときは「神奈川の男声合唱団、ぐりーすりーぶ」と紹介されました。このときのプラカード嬢は今どうしているでしょうか?阪神大震災のとき真に心配したのは彼女の事。と、宝塚ベガホールの事でした。

1985.9.22

神奈川合唱コンクール出場

一般の部・A=金賞、全日本合唱連盟理事長賞,県知事賞

懲りもせず「コンポ」で参加。正に真価を問う、雪辱を誓っての再演ですが、全日本合唱連盟理事長賞(全参加団体を通じての最高賞)を頂くほど会心の成績でした。

1985.10.20

関東合唱コンクール出場(青山学院講堂)銅賞

なぜなんだ!となぜなんだ・・・。この結果が後のG・Sに与えた影響は、計り知れないものとなった。僚友(と勝手に思い込んだ)コール・マルベリーは見事金賞を獲得し、全国大会でも銀賞に輝き今に至る“世界の”マルベリーへ第1歩を踏み出したのでした。

1985.12.8

神奈川芸術祭合唱フェスティバルに出演。

いろいろごちゃ混ぜにやりましたが、「六甲おろし」は最高でした。ライブテープに残る観客の反応がうれしい。この年、阪神タイガースが球団創設50年目にして初めて日本チャンピオンになりました。バース・掛布・岡田の甲子園バックスクリーン3連発はもはや伝説となりました。まさか翌年のコンサートで「よしだおろし」を歌う事になろうとは・・・。

1985.12.10

フェリス女学院短期大学音楽科演奏会

第6回クリスマスコンサートに出演。

桑原先生に見込まれて?初共演。大バッハの「マニフィカト」に初挑戦しました。ある意味ここで憂さ晴らししていた人もいたかも・・・?プログラムに「トマソン」のミドルネームが印刷しているのを見て何故か小躍りして喜ぶ人が・・・。それはともかくこの過密スケジュールは、もはやアマではない?ギャラには勝てませんでした。

1986.6.22

神奈川県合唱祭に出演

おなじみ「CMメドレー」と「うそつききつつき」(新井浩)を演奏。「うそつき・・」では、用意した小道具の目覚し時計がならないという「落ち着かない」終わり方になったが、それなりに盛り上がった。この「それなり」の感じ方が、実はそれなりではなくなってきていたのだが・・・。

1986.8.24

コール・マルベリーとジョイントコンサート開催。

茅ヶ崎市民ホール)観客は600人から700人?

遠距離恋愛ならぬ遠距離練習も何のその。今から思えば(当時も)怖いもの知らずというか世間知らずというか・・・。ある意味うぶだったかも。淡い恋心に似た期待感を持って「報徳綿」に通いましたねぇ。あそこのお店まだあるんでしょうか?(最近小田原少年少女合唱隊の子に聴いたら「報徳綿」の食堂などが文化財指定を受けてしまい練習が出来なくなったそうです)

1987.2.12

東京ボーカル・アンサンブル・コンテスト(バリオホール)初出場!

後楽園球場のすぐそばで、東京で・・・、空き時間に東京タワーに遊びに行ったような記憶が・・・。結果?ですか・・・。よかったですよねぇ・・・

1987.11.15

県立横浜緑ヶ丘高校合唱部とのジョイントコンサート(磯子公会堂)

団員の中にたくさんのOBを抱えて、その練習にも多大な影響を(公私共々)与えていた高校合唱団との合同ステージは、GS本体の単独でのステージが弱体化していた裏返しにも見えます。混声への回帰を皆が意識していたのか・・・

1988.2.14

東京ボーカル・アンサンブル・コンテスト=敢闘賞

「いのちふたつのなかに生きたる桜かな」。日本の心を求めていたのでしょうか?しばらくこういう曲が続きました。「敢闘賞」って、どんな感じなんですかねぇ?でも、G・Sらしいかなって思います。

1988.9.11

関東合唱コンクール神奈川県大会=銀賞

課題曲「薔薇よ」(三善晃)自由曲「コンポ・II」(間宮芳生)入賞は久しぶりですが、「万歳なしよ!」ってやりましたよね。

1989.10.22

第5回コンサート開催。吉野プラザホール。

多田武彦の組曲「雨」をめぐり話し合いの場を持ったり、長くやっても音楽に対して真摯な姿勢がGSの大きな美点です。「顰蹙ステージ」もはじめて台本が登場しました。

1990.9.9

関東合唱コンクール神奈川県大会

「風の馬」の第2ヴォカリーズで挑戦しました。確かこの曲だからコンクールに出よう!ってことになったと覚えていますが・・・。いい曲ですよね。また歌いたいと思います。

1991.3.3

第6回コンサート=戸塚女性フォーラム

個人的には充実感を味わえた、久しぶりに色々な事も重なる中で全力を傾注できた演奏会でした。ワラケル氏の入魂の「月ピ」もメンデルスゾーンとの出会いも多いに今生きています。

1991.9.8

関東合唱コンクール神奈川県大会

サンサーンスの「サルタレロ」はかっこいい曲ですよねぇ。もっと流行るかと思ってました。

1992.9.20

第7回演奏会=市民ホール(現・関内ホール)小ホール。

10周年を期して歌いましたよね。集まりましたよね。コンポを集大成したのは本当に良かった。でも、ニグロスピリチュアルは難しいもんですねぇ。また10年経ったんでそろそろやりませんか?

1993

2001

休眠中・・・

連盟会費も払っていません。‘93名簿から抹消されていましたす。

2001.7

神奈川県合唱連盟に再加入。

と言っても、新加入扱いです。なのにもう理事が・・・はい。HP作者が別団体から理事になっていました。よろしくね!

2001.9.2

神奈川県合唱コンクールに出場!!

加盟・即・出場と結成時と同じ道を歩み始めました。結果まで同じ?いえいえ。ワンランクアップ?のブービーです。お一人だけ3位を付けて下さった審査員がいらしたのも同じ?とにかく再開です。21世紀対応型GSに乞うご期待!!

2001.12

神奈川21世紀音楽祭

県民の合唱曲「ふるさとの風になりたい」初演参加

すごいことになってしまいましたが、CDに声が残りました(^^; そうTVで放映されたのをVTRに撮って時々見かえしています?

2002.6.23

第45回神奈川県合唱祭まじ出演

今やマイ・ブーム?のR.V.ウィリアムスの編曲集から「ロッホ・ローモンド」「ハイ・ジャーマニー」を歌う。ユニフォームとして「ファーストリテアリング」社?(要するに「ユニクロ」)製の半そでシャツを点でバラバラに着る。バックステージでも係りの方に「・・・下は・・・揃ってるのよネェ?え、上がおそろいなの??」と複雑な反応をいただきました。出来れば、講評の先生にもこの辺をくすぐって欲しかったが・・・。

2002.9.1

第45回神奈川県合唱コンクール

出場!!

やりました!!積年の願望・入賞を果たしました。「銅賞」をいただきました。大昔に「ヤマハ賞」を貰った時に匹敵する感慨です。が、まだまだ下から数えたほうが早い席次でした。もう一がんばりですかね?

2003.4.11

VictoriaFamilyConcert出演

2002年からVTをお願いしている川上先生の還暦お祝いコンサートに急遽出演!先生の指導する合唱団、声楽科学生などなどが大集合!GSとしては若い女声合唱団とのジョイントが魅力でした。

2003.6.8

第46回神奈川県合唱祭出演

なんと曲の出だしをミス!(痛恨!)でも、演奏は素晴らしい!!(自画自賛・・・)二日間を通じて第二位です。ちなみに1位は「trinity」。まあ、小田原少年少女とか他にも2位はたくさんいますがね。。。

2003.9.7

第46回神奈川県合唱コンクール出場

今年こそは銀賞以上を取れるはずと意気込んで歌ったあと、散々自棄酒をあおってしまいました。でも、演奏は確実に良くなってきていると思うんですが。。。

2003.11.6

みすず会演奏会に賛助出演

コンクールの後遺症に苦しみつつ、結果的にはこのスケジュールが立ち直りを早くしたと思います。直前まで「何でこんな団体が賛助出演なの?」と主催者をはじめ競演の方々にご心配をお掛けしましたが、本番終了後は、まぁワリと好評でした。

2004.3.21

第6回かながわヴォーカルアンサンブルコンテスト出場

男声部門銅賞の末席に入りました。4団体中の4位でしたが。。。英語の曲(RVW)から日本語の曲に路線変更して、楽に?なったのが良かったのかどうか?

2004.6.27

第47回神奈川県合唱祭出演

時間との勝負になってしまい、少々余裕のない音楽に。それでも事前のお願いが功を奏したのかカードは免れました。またまた新機軸でピアノ伴奏曲に挑戦。なんとピアニストはこのHPでもお馴染みの。。。ちょっと声が硬くなってるかなぁ。。。

それにしてもいい曲だ。

2004.9

第47回神奈川県合唱コンクール出場

ピアノつきの日本語の曲に拘った選曲は、元々コンクール向きではないかもしれないが、そんなに悪い出来ではなかったはず。ただ、コンクールってのは細かいところの差が大きいものですね。基本的な力がないのがばれてしまうときつい。

2005.2.13

神奈川県合唱フェスティバルに出演

何年ぶりかでこのコンサートに呼ばれていきました。ユースクワイアフェスティバルということで、団の内外から???の声も聞こえていましたが、呼ばれちゃったんだからしょうがないでしょう。再開GS史上に残る良いステージが出来ました。

2011.10.2 吉田聡音楽仲間の集い  久しぶりに集まって往年のステージを再現。集まった人たちと楽しい時間を過ごせました。