阿蘇の神話

 

@ 阿蘇大明神健磐龍命
 神武天皇が九州の平定のために使わした健磐龍命は天皇の孫で阿蘇開発の神として阿蘇神社の主神でもある。そのため阿蘇大明神ともいわれている。健磐龍命は九州を治めるために草部吉見神の娘、阿蘇都媛と結婚し阿蘇に来られた。そのころ阿蘇は水を湛えた巨大な湖で、命は外輪山を一角を蹴破って水を流そうとした。足で力一杯蹴ったが全く破れない。よく見ると山が二重になっていたので、今度は少し南の立野の所を蹴ると崩れ水が流れ出した。力が余って尻餅をつかれた命は「たてぬ」と言われたそうである。「たてぬ」がなまって「立野」になったということである。水が引いた阿蘇は作物が豊かに実る豊かな土地になりその時、土が飛んでいった場所が熊本市の小山戸島と、菊陽町の津久礼だと言われている。


A 鬼八
 阿蘇大明神「健磐龍命」はどんべん岳(往生岳)の頂上から弓を引き、10キロほども離れた尾ヶ石の的石をめがけて弓を射ていた。その矢を拾い集めるのが暴れん坊ではあるが足の速い疲れを知らない鬼八という若者です。さすがの健脚の鬼八も往生岳から的石までの道程を、往復するうち最後は疲れ果ててしまいました。そこで鬼八は矢を足の指に挟み投げ返しました。命は腹を立て鬼八を捕まえようとしたので、足の速い鬼八は岩を蹴破って逃げました。
追いつ追われつしている間に矢部まで来た。そして遂に捕えられ懲らしめられた鬼八法師は、苦しさに耐えかねて八つの屁を漏らした。このことから「矢部」というようになったという。高千穂で捕まった鬼八は何度も首を切られついには「霜を降らせ、作物に害をあたえる」と恨みながら天に昇ったと伝えられている。役大原(阿蘇町役犬原)の霜宮では火焚き神事が今も行われている。霜宮神社は鬼八法師の霊を祀った社である。


B 霜宮と火焚き祭り
 火焚き祭りは霜害神社(阿蘇町役大原)で、8月19日から10月18日まで59日の間火焚乙女がご神体の下で火を焚き暖め続けるものです。霜害神社のご神体は隕石、北斗七星と言う説がある。
7個あるはずの石が足りなかったので、踊山神社(阿蘇町坊中)から神石を3個受けて7個にしたといわれている。祭りに使われるご神体は「ぬくめ綿入れ」と言う新しい真綿で包まれている。命の怒りにふれ首を切られた鬼八の恨みをしずめ、寒さで傷が疼かないように祈る祭りであるといわれている。


C 米塚の話
 杵島岳の西にかわいらしい小さな丸い山がある。米塚と呼ばれているが健磐龍命が収穫された米を積み上げたと言われ、この山の頂上を、行き倒れの一人の乞食にすくって与えたと言われている。
 ある時大明神が阿蘇谷から南郷谷へ急いでいると、腹をすかせた村人たちが、私どもにもおめぐみをと懇願した。大明神は「ここは途中であり餅は作れないので米をやろう」といって米塚の頂上の米を手ですくわれた。いまの米塚の頂上のくぼみはその時の形がのこったものだという。この他にも大明神(健磐龍命)にまつわるものに、「こしき岩」や「せいろ岩」がある。命がこしき岩でもち米を蒸して三段重ねのせいろを蹴飛ばされたところ三つの小さな丘になり、そこが三久保と言われるようになった。干町無田の近くに「こしき岩」や米を洗われたこしきの水も残っている。


D 根子岳のぎざぎざな姿
 根子岳は生まれたときからチビでした。祖母山の麓の鬼を集め土を運ばせ、急に背が高くなり始めた。他の山を追い越して見る見るうちに一番高くなった根子岳は、得意になり自慢しおごり高ぶるようになった。大明神は大変怒り、大きな竹ぼうきで根子岳の頂上をしこたま叩きました。根子岳の頂上が現在のようにな形になっているのはそのためだと言われている。また阿蘇の五岳は長男が高岳、二男が中岳、三男が烏帽子岳、四男が杵島岳、そして根子岳が五男だったそうだ。末っ子の根子岳はわがままで、自分勝手に振舞った。最初は一番低かった身長も段々と頭をもたげ、ついに杵島岳や烏帽子岳、中岳を抜き、長男の高岳をも追いこしてしまった。さかんに威張るので、それがもとで兄弟喧嘩もしばしば起きた。大明神はこれを見かねて根子岳のわがままを直すため、大きな竹で強くお殴りになった。そのため根子岳の頭はでこぼこになり、それっきりすっかりおとなしくなったという話も残っている。


E 乙姫さんは疱瘡の神
 乙姫神社の祭神は新彦命の未娘とも阿蘇都媛とも惟人命の娘とも
言われています。
赤松の大木に金の御幣が張り付ききらきら光るそうです。不思議でならない村人は阿蘇神社に使いを出したところ、疱瘡にかかって狩尾(阿蘇町狩尾)に行かれていた妃が良くなって帰ってこられたことがわかり祭った神社であると言われている。
ご神体は後ろ向きに祭られ、お顔を正面からは見ることはできないと言われる。疱瘡に霊験があると信じられている。


F 仙 女 橋
 昔、湯浦の外輪山の中ほどに母と娘の仙人が住んでいた。娘はたいへんな美人で、琴や琵琶、歌もじょうずで、夜になるとその美しい歌声が流れていた。そこで村人はこのあたりを琴川と呼んだ。また仙人の家には高い竿の先に扇が掲げてあったので、扇山とも言った。
 月のきれいな夜などは、娘は一人で道を歩きながら琴を弾き歌をうたい花原川の近くまで出かけることがよくあった。この川には橋がなかったので、娘はここから引き返して家へ帰るのが通例だった。村人たちはその歌をほめ、いたずらする者もなく平和な毎日を送っていたそうである。ところが、一人の若者がその娘に恋をし思いあまってその娘を襲ってしまった。突然の出来事に娘は鷺き、息も絶えだえに逃げ帰った。この時を境に仙女の家から聞こえていた琵琶や琴の音も歌声もやみ、道を歩く姿も見られぬようになった。不思議に思った村人たちが仙女の家をたずねてみると、庭草は生い茂り家は傾き、屋根の瓦も大半が落ちて人の住める状態ではなかった。それ以来二度とこの二人をみかけた者はいなかった。
 歳月が流れ、この川に橋がかけられるようになった時、村人たちは仙女の思い出としてこの橋に仙女橋と名づけたそうである。後日大きな戦いがあり、若者たちの血で染まったことから戦場橋とも呼ばれるようになった。


G 二重ノ峠と数鹿流が滝
阿蘇大明神は高森の草部・野尻の方からこられた。外輪山の上からごらんになると阿蘇は一大湖水であった。「この水を干せば良い田になり米もとれる。」といって尾根づたいに西にまわり、力まかせに二度三度蹴られた。しかし全くくずれなかった。そこは岩が二重になっていたそうである。そこが今の二重ノ峠である。大明神は少し南の立野の上を蹴られた。するとそこは簡単に穴があいて湖水が流れ落ちた。