【Christmas days in Manila】
2002年のクリスマス休暇、オレはひとりマニラにいた。アンヘレスのロエナとはもう1ヶ月近く音信不通だった。何度電話しても、TEXを送っても、彼女からはいっこうに返事がなかった。
マニラをオレがひとりでうろついていると知って、「クリスマスなのに寂しい思いをしているだろうからよかったら家にこないか」と偶然にも声をかけてくれるフィリピーナがふたり現れた。ふたりはお互い顔見知りではなかったが、それぞれ別な日本のPバブで、オレが指名した経験があるババエたちだった。
もともと、フィリピンの庶民の普通の暮らしにはことのほか興味をもっていた。それが、クリスマスとなればなおさらのことだった。カトリックの国フィリピン。ふつうの市民がいったいどのようにして、この一年で最大の祝祭であるクリスマスを過ごすのか、ぜひ垣間見てみたいという好奇心が先にたった。だから誘いを受けたときにはすぐさまOKをしたのだった。
しかし、結果的にはその予期せぬ訪問で、オレはフィリピン人に対する認識を変えることになった。フィリピン人の複雑な家庭事情と深刻な家計問題。それらをいやがうえにも覗き見ることになったのだった。
誘ってくれたふたりは、東京のフィリピンパブに勤めていた元タレント。どちらも大変な頑張りやで、NO.1級の働きをしていた。当時、頻繁に客と同伴などをし、傍目には派手な振る舞いをしているように見えた。しかし、実際にフィリピンの家を訪問してみると、マニラでの暮らしぶりは思いのほか質素で、それぞれわずか数時間の滞在だったが、客人のオレにさえフィリピン人の家計の苦しさが垣間見えるほどだった。
ふたりのうちのひとりジョイは、ニノイ・アキノ空港の近くに住んでいた。
「小さな家だから恥ずかしいよ」
オレが失望することを恐れ、ジョイは家に向かう途中のタクシーの中で何度も言った。
ジョイは渋滞の激しい表通りに面した長屋のアパートに住んでいた。夜何度か彼女に電話したことがあった。そのたびに、マカティのショッピングモールにでもいるような大きな雑音が電話口から聞こえた。
「こんな夜遅くに出歩いているの?」
ある日失礼も省みずに聞いたことがある。ジョイは笑っていた。実際には家にいたのだ。しかし、壁ひとつ隔てた表通りのクルマの往来の騒音が、家中に響きわたっていたのだった。
その古びた長屋のアパートに、離婚した母親を筆頭にジョイと妹ふたり、弟ひとりの五人で暮らしていた。家賃は月5000ペソだといった。アパートにはそまつな部屋が二つあった。そしてキッチン。そのキッチンの一角には、間に合わせに板で囲いをしたトイレがあった。トイレの床には水を張った手桶とバケツがあるだけで、見回してもシャワーらしきものはどこにも見あたらなかった。
もうひとつの部屋は四畳半ほどの広さの寝室で、そこには小さなエアコンが据えてあった。オレが見た限り贅沢な耐久消費財というのはただそれだけで、今振り返ると家に冷蔵庫があったかどうか記憶にはない。
寝室にはドアがなく、入り口の開口部にはカーテンが垂れ下がり、間に合わせに仕切られているだけだった。その部屋で、家族5人全員がカラダを寄せ合って寝ているのだという。
家財道具と呼べるものも特に見当たらなかった。居間には簡単な椅子とテーブルがすえてあり、オレはその椅子のひとつに遠慮がちに腰を沈めた。ジョイは、部屋いっぱいに厚手の布団が敷いてある寝室に行き、たんすの上にちょこんと載せてあった小さなラジカセのスイッチを押した。それからボリュームいっぱいに調整して流行の音楽をかけ、隣室の訪問者のオレをもてなそうとした。
居間の椅子に、ジョイが日本から持ち帰ったと思われる大きなミッキーマウスのぬいぐるみが置いてあった。それはまだビニールに包まれたままで、いまも大切にされているようすだった。長い月日が経っているので、ビニールは手垢で薄汚れ、すっかりくすみきっていた。
ジョイの家は、文字通り古びた何もない家に見えた。
やがて、聖歌隊のように家族全員がぞろぞろと奥から食事を運んできた。まるで宇宙人でも見るように、ジョイ以外の家族は、不安と好奇心を織り交ぜたようなこわばった表情をしてオレを遠慮がちに見ていた。クリスマスの食事は、簡単な手作りの肉料理。鳥、牛、豚と三種類のあぶった肉がひと皿に盛られ、そして白米を盛った皿がオレの目の前に差し出された。
いい歳のオヤジになってしまい、食事といえば日本でいつも麺類をすすっているオレだった。目の前の分厚い肉片を見て怖気づいたのだが、ここでは肉料理といえば「ごちそう」を意味するのかもしれなかった。夕方の四時というのもオレにとって中途半端な食事時刻だった。オレは、ジョイの家族に失礼にならぬ程度に数切れそれを口に運んで、あとは「ビールをいただきます」といってごまかした。
何ひとつない閑散とした部屋の中で、隣の部屋から流れてくるラジカセの音と、壁を突き抜けて飛び込んでくる往来の騒音の混声合唱を聞きながら、尻をもぞもぞさせただ時間の過ぎるのを待っていた。
食事のあいだ家族は、オレとジョイを居間にふたりきりにして、自分たちはキッチンに引っ込み出てこようとはしなかった。オレはなんだか家族に無理をかけているような気になってきた。わざわざ気まぐれで訪問してしまったがために、何か余計な負担をかけているようなすまない感情に襲われた。
率直に言って、オレはずいぶん貧しい家庭に足を踏み入れてしまった印象にとらわていた。スラムとまではいわないが、それは底辺に生きるフィリピンの家庭の典型的なありようなのだろうが、それはまたもっとどん底に落ちていく危うさをはらんでいるようにも見えた。誰がこの家族を経済的に支えているのかも不明だった。タレントをしていたジョイは、帰国後なかなかビザが下りず、再来日を諦め「いまは学校に戻っている」と近況を説明した。
「何を考えているかわからないのよ」、ジョイがいなくなったわずかな間合いに偶然言葉を交わしたとき、母親はオレにジョイのことを奇妙な言い方で語った。来日経験のあるジョイと、ほかの家族との間にはなぜか断絶した空気が感じられた。すっかり女王様になってしまったのだろうか?母はなぜか娘にさじを投げたような無力な言い方をした。
ジョイが来日をあきらめて学校に通いだしたというのは、本当なのだろうか。そのような余裕がどこにあるのだろう。すくなくともオレが直感した家族の環境の中からは想像がつかない。そしてまた、何かといえば鏡に向かって化粧を整えるジョイの姿も、なぜか目の前の現実とつじつまの合わぬ行動に思えた。
数時間が過ぎて、退散しようというときオレは少し迷いながらも、食事を振舞ってもらったお礼にと彼女に1000ペソ、母親に500ペソ、そして兄弟たちに100ペソづつ置いてきた。カトリックの国フィリピンからオレが想像していたものとはまるで違って、なんだかわびしいそして息苦しいクリスマスに思えた。タクシーを拾ってホテルに帰ろうとしたら、いとこがクルマで送ってくれるという段取りになっていた。
いとこが運転し、助手席にその奥さん。オレとジョイは後部座席に座った。クルマはエアコンが壊れていて、窓を開け放して風を取り込む以外にしかたがなかった。そして帰り道オレはジョイから、彼女がもっているケータイ電話を買わないかと持ちかけられた。日本円にして約2万円ばかりの値段だった。オレは愛用のNOKIA3310に満足していて、当面買い換える必要を感じていなかったのでやんわりとジョイの商談を断った。
いよいよホテルに到着というとき、オレはまたジョイに耳打ちされた。前のふたりにチップを上げて欲しいというのだ。相場がわからないので200ペソを出そうとしたら、300ペソにするように言われた。オレは彼女の指示に従った。後味の悪さが残ったジョイの家族の訪問だった。
イブの夜になって、オレは次にケイの家に招かれた。ケイは妹の夫と一緒にクルマでエドサ・シャングリラホテルまで迎えにきてくれた。
成田空港で出国審査を終えたあと、オレはいつも早々と誰に上げるという目的もなく、5000円前後の免税品を数点買っておくのが常だった。東京のPPで指名しているタレントの誕生パーティなどあると、買い置きしていたその免税品をプレゼントしたりした。このときもオレはブルガリとシャネルの香水の安いやつを成田で買って日本を離れた。
以前会ったことのあるケイの母親とケイに、それぞれクリスマスプレゼントのつもりでそれを上げることにして持って行った。しかし、突然の誘いで、ほかの家族への手土産は準備していなかった。
家に向かう車の中でオレは手土産を用意していないことをケイに率直に話すと、彼女はそれじゃみんなで食べるケンタッキーフライドチキンを買って欲しいと提案した。オレたちは途中KFの店に立ち寄って、バスケット二つ分のフライドチキンを買った。そんなに大量のフライドチキンを買ったのも初めてだったし、見るのも初めてだった。
ケイは、マニラの新興住宅地でカーポートつきの二階家にメイドを抱えて暮らしていた。この街区に入る場所に小さなゲートがあり、ごていねいにセキュリティのガードマンが立っていた。走るクルマの窓から、まだ更地の分譲地や建築中の家などがまばらに見えた。その街区の奥まった場所にケイの家はあった。
離婚経験のある母と祖母と数え切れない子供たちが、オレを待っていてくれた。日本に住む二組の姉夫婦がたまたま帰国していた。無職だが若くして結婚し子供をなしている弟夫婦も集まっていた。それは家族を大切にするフィリピン人の、ごく当たり前のにぎやかなクリスマスの集まりに思えた。オレは用意していたお土産を、クリスマスプレゼントとしてケイとケイの母親に手渡した。その不意の免税品にケイも驚いたようすだった。
ジョイの家とは格段の違いがあった。
小さな家だからと道すがらケイはジョイと同じように謙遜していた。日本の住宅事情からみると、ケイの家はずいぶん大きな造りだった。日本円にして1,000万円以上はするとケイは言った。フィリピン人の平均的な家庭の所得水準をはるかに越えた大きな買い物に違いなかった。
しかし、強気のローンを組んで購入した持ち家なのだろうが、それがどうやらこの家族に重くのしかかっているように思えた。大勢集まった家族と挨拶を交わしながら、きょろきょろと家じゅうを見回しているうちに、いつしかオレはあることに気づいたのだった。この家は信じられないほど大人の男の数が少なかった。いわば圧倒的な「女系家族」だった。そしてまた、出稼ぎに出ている娘を除けば、フィリピン側にはこの家に収入をもたらす家族はひとりもいなかったのである。
祖母と母が家を預かってここに住んでいる。タレントとしてひとりで日本に出稼ぎに出て働く長女がいた。そのフィリピン人の夫と幼い子供は、この同じ家に住んでいる。夫は無職で、毎日この家の中でゴロゴロしている。そしてケイのすぐ上の次女がいる。元はタレントで、いまは日本人と結婚して専業主婦として日本で暮らしている。子供はフィリピンの祖母や母に預けこの家で暮らしている。そして、私の知り合いの三女ケイがいる。彼女も再来日のために4回目のビザを待ってはいるが、なぜか今回ばかりはビザの発給が極端に遅れている。いわば、フィリピンで予期せぬ失業状態におかれているのだ。そして無職の弟が、結婚して乳飲み子とともに若いフィリピン妻の家にいる.....。以上の人々が、まさに一堂に会して、やがてクリスマスの祝いが始まろうとしていたのだった。
この家の家族構成をつらつら考えると、唯一安定した収入があるのは、次女の夫の日本人男性だけであることがわかる。出稼ぎに出ている長女には、収入があるとはいえ、養わなければならない自分の夫と子供がいた。
フィリピン社会の常識から言えば、未婚で自分自身の家庭を持たずに出稼ぎに出ている三女のケイが、母親名義にしている家のローンの支払いの責任を負うのがふつうだろう。
そのケイが再来日の目途も立たず、フィリピンで足止めを食っている。
傍から見れば人もうらやむ白亜の二階家だった。しかしその屋根の下には、収入がなく他者に依存するしかない頼りない人々が大勢暮らしていた。そのしわ寄せが、次女の夫の日本人男性の肩に重くのしかかっていたのだった。
日本に3人ものタレントを送り込んだ家族の自信。それが強気のローンを組ませ、白亜の殿堂を購入することを決断させたのに違いなかった。しかし、日本での出稼ぎは景気の状況に左右されるもろさがあった。三人が打ちそろって日本で働き出した頃には、きっと月々誰も想像しなかった目をみはるほどの現金が、日本から送られたのに違いない。
強気で楽観的すぎるマイホーム投資。しかし、その後日本は未曾有の不況にあえぎ、入管事務所は外国人を締め出す方向に大きく舵をきった。邪推かも知れぬが、おそらくこの家族への日本からの送金は、いま坂を転がり落ちるように先細ってきたのではあるまいか。
ローンの支払いの重荷が、どうやらこの家族のクリスマスに濃い悲痛な影を落としているように思えた。そして、この人々こそバブル崩壊の矛盾に苦しむ、まさに典型的なフィリピン家族に見えた。家計が火の車のようすは、客人のオレにも隠せないようすだった。
それからオレたちは、祖母を残して家族全員とメイドとで近くの教会に歩いて行き、イブの最後のミサに参加した。日本でいえばそれは深夜に出かける「初詣」のようなものだろう、教会は建物の外まで人であふれ返っていて、ついに最後まで牧師の姿を見ることができなかった。
ミサから帰り、しばらくするとカウントダウンが始まり、家族のみんながいっせいに軽い食事を始めた。手土産にオレが持ち込んだケンタッキーフライドチキンが、大皿に盛られたライスとともに食卓に並べられた。クリスマスの祝いの食事とはいっても、日本のおせち料理のような華やいだバラエティに富んだものではなく、ただ外から買ってきたチキンとライスを囲む質素なメニューだった。それを、家族はテーブルを囲んでにぎやかに食べた。
食べ終えた大家族は、やがて妙な空気につつまれたのをオレは見逃さなかった。客人のオレには確かにそう感じられた。すると、そのぎこちない空気を察知したかのように、次女が居間の真ん中に座って何かし始めた。見ていると大仰に財布からお札を取り出して、子供たちを中心に、ふだんフィリピンに居残っている家族たちすべてに、おどろおどろしく小遣いを配り始めたのだ。いわば「お年玉」ということなのだろう。
奇妙なことに、お金を配ったのは仕事をしていないはずの次女だけだった。予想通り、この家計を経済的に支えているのが、何を隠そう次女の背後にいる日本人男性であることを如実に証明しているかのような光景だった。
その行動は、なぜか客人のオレにもプレッシャーをかけるものだった。なぜだかわからない。しかしその場の空気がそうさせたとしか言いようがない。次女の夫と同じように、ただ「日本人である」というだけの理由で、オレはその場で何かをしなければならないような強迫観念に縛られていた。目に見えない引力に引かれて、オレは金縛りに遭っているのに気づいた。
オレはとっさに、ジーンズのポケットに深く手を突っ込み、中から折りたたんだペソの紙幣を取り出した。そしてまるで催眠術にでもかかったような自由意志を奪われた手で、おばあちゃんと無職の弟に500ペソ、そして子供たちに100ペソづつ配っていた。
おばあちゃんも息子も、子供たちも、誰も彼もうれしそうに顔をほころばせながらオレに向かってお礼を言った。誰ひとり恐縮して辞退する者などいなかった。あらかじめプレゼントを持ってきていた母親とケイのふたり、そして働きのある長女と次女夫婦には当然あげなかった。
(いったいここで、いま何をしてるんだろう.....)
オレはただ思考停止の状態になって、どれが誰の子かわからない状態のまま、周囲の人々にお金を配り続けていたのだった。見えない手に操られて.....。
「ブロークン・ファミリー」。
フィリピン人から教えてもらったその言葉は、両親のうちのどちらか一方が離婚または死別で不在の家族をいうのだという。父親がいない「ブロークンファミリー」が、今日「招かれて」訪問したふたつの家族の共通点だった。その不幸が、家族の自立の基盤を損ない、過度の出稼ぎ依存を生み出し、その結果また複雑な家族問題を抱えていく。
どうやらオレは、ここでもまた妙な場所に足を踏み入れてしまった気がして、白々しい思いに駆られた。
次女の夫は、無口でおとなしい日本人だった。里帰りの次女のあとをついて、ひさしぶりに子供の顔を見に来ていたのだった。しかし彼は、大家族に紛れていつも部屋の片隅にいてタバコを吸っていた。かれは英語を話せなかった。
彼とオレはお互い初対面の日本人どおしだった。彼もオレがケイとどんな関係か内心あれこれ勘ぐっているのに違いなかった。しかし、行きずりとはいえ同じ日本人どおしの妙な連帯の空気もあった。そして、たまたま居間で言葉を交わす機会があった。
彼はなぜか唐突にいった。
「いま(あんたが)座ってるそのソファね、昨日買わされちゃってさあ...」
「そうですか、いろいろ大変ですねえ」
不意にずいぶん具体的なことを言われ、オレは場違いなねぎらいの言葉を返すしかなかった。彼は自虐的な笑いをこぼした。
しかしあとで振り返ってみれば、彼のその言葉の奥には、ひょっとしたら同じ日本人のオレに、何か救いを求めるメッセージが込められていたのではなかったかと、いま改めて思い始めている......。
このままでいけば、目の前の日本人男性は妻の家族、すなわち白亜の二階家に住むいわば「寄生家族」に押しつぶされてしまうのは目に見えていた。彼の崩壊は、同時に妻子をも路頭に迷わすことになるはずだった。しかし、妻である次女は、当然予想できるその未来の自分たちにふりかかる危機を承知しているのだろうか。
(もしかしたら......)
オレはそのとき悪魔の声が耳元でささやくのを振り払うことができなかった。
何度も目にしてきた不幸.....。
フィリピンパブで働くベテランのババエのなかには、甘い言葉を巧みにあやつり、計算づくで客を誘惑し、貢がせるだけ貢がせて絞り上げる連中がいる。客は知らぬ間にたくわえを使い果たし、やがて借金までしてその女のいる店に通い続け、ついには息絶えて消えてしまう。そうした干上がったカモの客を、連中は「パタイ(死んだ)になった」とあざけるようにいい、今度は次のターゲットに向かうのがパターンだ....。この悪質な手口は、拡大すれば結婚という関係にも運用できる。
悪魔の声はオレの耳元でさらにささやいた。次女も、もしかして家族とグルになって、この日本人を「パタイ」になるまで吸い上げようとしているのではないか...。オレの心臓は高鳴った。日本人の男と結婚して、すでに日本人妻の権利と子供を所有している。子供を手にしたフィリピーナは怖いものなし、夫がいなくてもひとりで育てる芯の強さがある。欲しいものはすでに手にしているはずではないか....。
不思議なことがある。子供はなぜか、フィリピンの祖母と母親にあずけている....。そして、専業主婦として日本で暮らしている。最悪の事態をすでに想定して、何かを担保しているのではないのか?何かが起こって、食いっぱぐれれば、PPに再び戻りいつでもアルバイトで働く場所はある....。しかも、フィリピーナたちのあこがれの結婚ビザを保有している。
サンミゲルをオレはもう何本空けただろうか。すっかり酔いが回ったオレは、どんどん膨らむ妄想にとりつかれていた。ひょっとしてこのオレも、家族に暖かく招かれたとはいえ、初めから罠にかかった「サンタクロース」だったのではないだろうか...。いや、よそう、もうやめよう。せっかくのクリスマスなのだ、聖なる夜に、邪推するのは神への冒涜だし、だいいちこの家族に失礼だ。
ケイはひっきりなしにかかってくる電話の祝辞に応対していた。日本語での受け答えもしていたから、きっと日本から国際電話が入っているのだろう。オレは妙な居心地の悪さを感じ始めた。別にケイの恋人でも何でもなかった。気まぐれのただの覗き見根性で、ヒトの家のクリスマス風景を観察しにきただけのことだったが、ひょっとしたらオレは招かれざる客だったのではないかと思った。
時刻はもう深夜の二時を少し回っていた。オレはタクシーの拾える場所まで送ってくれればいいと固辞したが、この時間帯は危険だからというので、次女の夫の日本人がクルマでホテルまで送り届けてくれることになった。オレはその言葉に甘え、ケイと後部座席に乗り込んだ。前の席には、次女夫婦。その間には、興奮して眠られないでいる幼い息子も乗っていた。
いざ出発しようというとき、突然ケイの母親も行くと言い出し、オレの席と反対側のドアから乗り込んできた。母親もずいぶん呑んだようすだった。オレはいたく恐縮した。夜もだいぶ更けているので、もうお休みください結構ですからと、何度も家の中に引き返すよう促したのだが、母親は大丈夫だといってドアを閉めた。クルマはすぐに発進した。
EDSA大通りは、さすがにこの時刻渋滞もなく、30分ほどしてパサイの常宿であるオレのホテルの近くにさしかかろうとしていた。そのときケイは、オレの耳元で驚くようなことをいった。
「ママにもガソリン代あげてちょうだい」
「えっ!?」
オレは脳天を打ちのめされたような思いに駆られた。
ここまで送ってくれと頼んだのはオレじゃない。運転は義理の息子がしているじゃないか....。そうか、初めから何か客人に期待していたというのか...。そのときオレはようやく、母親がなぜ強引にクルマに乗り込んできたのか、その理由を知らされた気がした。オレはてっきり母親にブランド物のプレゼントを上げたので、それで十分だろうと思っていた。だから、確かに母親には「お年玉」の現金を上げなかった。手土産にバケツ二杯分のケンタッキーフライドチキンも買っていったのだから、心遣いとしては十分だと思い込んでいた。しかし、それはまだ不十分で、オレにはまだまだ気づかないことがあったのだ....。
これがフィリピンの常識なのだろうか。それともケイの家族特有の事情なのだろうか。いずれにしても、別れの間際に、客人のオレは「心づけ」を強要されたのだった。あいにくさっき小額紙幣をばらまいたばかりで、500ペソ紙幣も持ち合わせていなかった。オレは、財布から1000ペソを取り出してケイに渡し、複雑な気持ちを引きずりながらクルマを降りた。ホテルの前でオレはクルマを見送りながら頭を下げ手を振ったが、しかしクルマの中の誰一人こちらを振り向いた気配もなく、ただ猛然と走り去っていっただけだった。
クリスマス。オレを招いてくれたふたつのフィリピン人家族。今日一日の出来事にオレは思いを巡らした。フィリピンへの淡い幻想が、このとき無残にも砕け散った....。
オレはその夜遅くホテルに帰ってからも、神経が張り詰めて寝つかれなかった。
オレはベッドの上でいつしかロエナのことを思いめぐらせていた。子供の誕生日を祝うといって、セブのプロビンスに帰ってから、もう長いこと音信が途絶えていた。オレがマニラに来ていることを、彼女は知らなかった。ロエナが、どこにいて、誰とどんなクリスマスを迎えているのだろうか....朦朧とした意識の中でそのことを考えながら、ついにオレはいつしか眠りの淵に落ちていった。
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