アンへレス陽炎日記6

                        寄稿:ブルゴス伊藤
◆マニラ〜アンヘレス◆

[このページの画像は、ストーリーとはまったく関係ありません]

クリスマスが明けた日の朝、オレは悄然とした気持から立ち直れず、しばらくベッドから起きあがることもできなかった。イブの日にフィリピーナの家を訪れた際の後味の悪さは、翌日も尾を引いた。いつもなら雨が降ろうと槍が降ろうと屋外を飛びまわっているオレだったが、珍しいことに気分は病的にブルーで、クリスマス当日も手負いの狼のように、ホテルの部屋でただ眠ってばかりいた。

こんなときにロエナがそばにいてくれれば、あのまぶしい笑顔を見ているだけで傷ついた心は癒されたに違いない。貧しい境遇に生まれ暮しながら、なぜか明るくたくましく生き抜いている彼女の傍にいると、不思議にその生命力の磁場にひたることができて、オレはどんなことにも耐えられそうな気がしてくるのだ。だが、いまはそのオレにしか効かぬ「魔法の薬草」が手の届かないところにいる......。

もうかれこれ1ヶ月以上音信が途絶えたままだ。ごまかしや嘘をつくようなオンナではなかった。オレを裏切るようなヤツでもない。そう信じている....。彼女の身の上にきっとなにかが起こったに違いない。

(しかし......)
オレの胃袋から咽元にかけて、苦い酸のような重苦しさが逆流してきた。二日前に経験したばかりのフィリピン人家庭のいやな記憶だ。心の傷はまだ生々しく、カサブタとなって乾くまでにはいたっていなかった。そこからまた不快な連想が湧き起こった。

(相手はしょせんプロだってこと、オマエ忘れてんじゃないのかい)
もうひとりのオレが不意に脳裏に現れ、侮蔑するような口調で警告した。
(何年こんなことやってんだよ。まだこれ以上痛い目に遭いたいっていうのかい。修行が足りないってこった!)
こいつは辛辣だった。しかし、彼の言葉は実に冷静で正しかった。

これまで何度か、知合ったばかりのフィリピーナの意表を突き、驚かせようと茶目っ気を起こし、何の前触れもなくその女のもとを訪れたことがあった。しかしいつもそのたびにオレは想像もしなかった現実の逆襲を受け、立ち直れぬほど傷ついた。肩透かしを食うか、見たくない場面を見せつけられるのが常だった。思春期の恋愛気分で、浮いたことをしてみたって意味がない。相手はしょせん時間を切り売りするプロに違いなかった。それは、じゅうじゅうわかっていた。

しかし、そうであっても、情というものがあるだろう。身をやつしても、ヒトの母親だ。いくら金のために生きているとはいえ、他人を思いやるやさしさっていうものはあるはずだ。少なくともオレはこれまで、何度もあのオンナに計算づくではない誠意を感じる瞬間があったのだ。

(ばかだよオマエは。ロエナがとびっきりいいオンナかどうか知らんが、2,000人ものダンサーがひしめき合って一夜の出会いと金を求めているアンへレスだ!日本からわざわざ海を渡ってきて、なにもよりによって子持ちオンナのくずれたカラダを追いまわすことはないだろう!)
................)
(笑顔がまぶしいだと!?何をぬかしてやがる。あばたもエクボとはよくいったもんだ。きゅきゅっと締まった尻のふくらみのてっぺんに、ほんもののエクボがあるチェリーが、あの町にゃ掃いて捨てるほどいるってのを知らんわけじゃあるまい、そうだろ....)

オレの中のもうひとりのオレは、情け容赦のないヤツだった。オレは自問自答すればするほど気分が滅入った。

やがてオレの内側に、しだいしだいに自暴自棄な気持ちが沸騰しだした。そして、ロエナのことなどもうどうでもいいという投げやりな気持になっていった。気にかける価値など初めからなかったのだと思い始めたのである。

この「無関心」、ほんとうは無関心ではなかった。どうにも耐えられなくなった現在(いま)を乗り越えるために、緊急時に出動する知恵としての「自堕落」なのである。いったんこれがオレの意識の表座敷にしゃしゃり出てくると、もう後戻りができない性格だった。これがあるからこそ、オレは「遊び人」生命をいつまでも維持できているのかもしれない。いずれにせよ、過去のオンナどもを、オレはこうして意図的な自堕落の力をかりてことごとく意識の中から葬り去ってきた。そして、いったん意識から排除したオンナどもを、オレは二度と振りかえることはなかった。

オレはふたたび睡魔に引きずられ、小一時間ほど眠った。
そして突然枕もとのTEXのコールに起こされたのだ。
驚いたことに、それはロエナからの音信だった。オレはすぐさま電話でおり返した。

「どこに行ってたんだよ、ずいぶん心配してたんだぞ」
「ごめんなさいね、ずっとプロビンス(郷里)に行ってたの。いろんなことがあってねあとで話すわ。ところでイカウいつ来たの?いまどこ?」
「いまマニラ。昨日の夜遅く着いた....」
彼女の立て続けの質問に、オレはなぜかとっさに嘘をついていた。すでに三日前にはフィリピンに来ていたというのに。クリスマスに何をしていたかと訊かれるのを怖れたためだった。しかし、もし彼女の携帯電話にオレが数日前からコールやTEXを繰り返していた記録が残っていたら、この嘘はすぐにばれたはずだった。

「いまセブの港にいるの、これからアンへレスに戻るところ」
「へ〜えそうだったの、知らなかった。アンヘレスには何時に着く?」
「40時間くらいかかると思う」
「えっ40時間!?たいへんじゃん。じゃあ着くのは明日の夜ってこと?スゴイ時間かかるんだね……
オレは本当に驚いていた。40時間の旅というのが想像もつかなかった。それを苦にもかけないようすで淡々と話すフィリピンのオンナに感心した。

「私に会いたい?(ユー・ミス・ミー)」
なつかしい彼女の口癖。その言葉の裏側には(私を忘れていない?)という意味も込められている。
「いつアンヘレスに行くの?」
ロエナは言った。
「まだ決めていない....けど」
オレはあいまいな返事で場を取り繕った。またしても、とっさに嘘をついてしまった。すでにアンへレスにいる友人のタクシードライバー「B」に、マニラのピックアップを手配してあったのだ。あと3時間もすれば、オレはパサイのホテルをチェックアウトし、アンへに向かう手はずになっていた。悪意はなかったが、嘘をついてしまったのにはワケがあった。オレはまだ、ロエナがセブの港にいるという説明を、にわかには信じていなかったのだ。そしてなぜか予防線を張っていた。

電話を切るとき、彼女は何があっても必ずアンヘレスで自分を待っていて欲しいと何度も念を押した。彼女のほうから、長いあいだ音信不通だったワケの説明はなかった。こちらからも、説明を求める勇気がなかった。だからだろう。「待っていて欲しい」と言われ、うれしさが込み上げてくるはずが、正直いえば何が何でも自分の都合を優先するロエナに、そのときオレはプロの身勝手さを嗅ぎ取り、いやな思いがした。いままで感じたこともない不安と疑念の影が、ロエナとの会話に紛れ込むようになっていた。

それからしばらくして、オレはアンへレスに向かう車の中にいた。途中のハイウェイで何度もTEXのやりとりをした。すでにアンヘレスに向かってマニラを離れたにもかかわらず、オレはTEXの相手にどこに向かっているかは打ち明けなかった。あくまでもオレは、ぎりぎりのところで自分が傷つかぬように身構えていた。

昼ごろのTEXで、彼女は「いまレイテにいる」と報せてきた。レイテ。フィリピンの複雑な地図を、オレは頭の中にぼんやりと思い浮かべた。やがてロエナは、陸路でなにやら交通手段のトラブルに遭ったようだった。メッセージが長目になるにつれ、判読できないTEX特有の略語が混在し、何が起きているのか状況がつかみにくくなっていた。船かバスかわからぬが、何かの故障でオーブンの上にいるような熱さにさらされている....こんな最悪の旅は生まれて初めてだ。そのようなことが書かれていたと思う。

メッセージの最後には、「お店に行ったら、必ず自分のルームメートを指名して欲しい」ということも書いてある。オレがどこにいるとも知らないはずなのに、彼女はオレがすぐにでも店に行くものと決めてかかっているように思えた。

オンナ特有の勘!なのか。オレの行動の先をすでに見抜いていたのかもしれない。確かに賢い、そして勘の鋭いオンナだった。今朝の突然のTEXにしても、ただの偶然では片付けられない不思議な力の存在を感じた。オレのロエナに対する気持が急速にかすれていき、枯れ果てようとしたまさにその直前に、そうはさせじと業の糸をたぐりよせるかのようにTEXを送りつけてきたのだった。もし、彼女からの今朝のTEXがなければ、オレたちはもう終わりだったと思う。

ノースのハイウェイを北上し、サンフェルナンド近郊まできた。ロードサイド型の新しいショッピングモール「SM」と「ロビンソン」の前をオレたちは通過した。ここまで来れば、もうじきアンへレスだ。なつかしでホッとすると同時に、気になることもあった。ロエナからのTEXメッセージが、再び途絶えたのだ。心配性のオレは、またしてもあれこれあらぬことを考え始め、疑心暗鬼の病魔がふたたび頭をもたげてきた。、

いまはもうすっかり常宿になったパーク・シカゴホテル。チェックインしたオレは、いつものようにすぐさま両替のためにフィールズに繰り出した。前回急に思い立ってここを訪れた時、ロエナがいない反動で、ついつい大はしゃぎして回ったいくつかの店を思い出した。勢いで指名したダンサーたちの顔がぼんやりと浮かぶ……

前回、オレはロエナが待ち焦がれていたはずの写真をたくさんかかえていた。柄にもなく、不意打ちを食らわして彼女を喜ばそうと画策していた。そして勇んで踏みこんだバー「L」……しかし、ロエナはそこにいなかった。まさかの肩透かしだった。

オレの顔を忘れるはずがないだろう店のダンサーやマネージャー。そしてママまでもが、かかわりを避けているのか、狭い店なのに知らんそぶりでオレに近づいてこようとはしなかった。目当てのオンナがいないことも知らずに海を越えて来た惨めで気の毒な客。そのオレを、店の連中はただ遠巻きにしているばかりだった。気遣いが煩わしいのか、それとも知らぬフリで迎えるのがせめてものやさしさだとでもいうのだろうか。とにかく目線を合わすことを避けている。しかし、オレはそうしたみじめったらしい空気を、長いあいだ数え切れない場所で身に沁みるほど体感してきた。この世界の非情な論理だ。

しかし、このまちにロエナがいないおかげで、そのときオレは随分羽目をはずすことができた。あたりかまわずパルパロしまくり、チップもばらまいた。バーファインを本気で求められた。しかし、その夜遅くオレは酩酊した足で息を切らしながら、ホテルに帰ってひとりで寝た。それからこの町に居るあいだじゅう、毎晩新しい出会いに緊張しながら、若いダンサーの我侭にくたくたとなって、どちらかといえば満たされぬ思いを引きずりながら帰国した。

そしていま、オレはまたしてもロエナがいないこの町にやってきていた。バー「L」の空々しい連中の視線が脳裏をかすめた。同じ思いはもう二度とするまい。オレは日が落ちてバリバゴのフィールズが賑わいだした頃にも、「L」にまだ足を踏み入れる気がしなかった。通りをうろついているとき、なじみの日本人の顔と何度かすれ違った。いつのまにかこの町にも、大挙して日本人が押し寄せるようになっていた。

「店に行って必ずルームメートを指名してちょうだいね」
ロエナの言葉が何度も浮かんできた。
9時を少し回った頃、オレは意を決してバー「L」のドアを開け、中に足を踏み入れた。老舗の店は客で込み合っていて、熱気で充満していた。席に座ってすぐ、ウェイトレスに耳打ちをした。

「ロエナのルームメートって知ってるかい。いるなら呼んでくれ」
彼女はすぐに承知した顔で去っていった。そして、ステージで踊っていたひとりの面長なダンサーを連れてきた。オレの知っている以前のルームメイトとは違っていた。見なれないオンナだった。オレの傍らに腰かけたそのダンサーは「カティ」と名乗り、右手を差し出して握手を求めてきた。それに応えると、早速彼女の方から切り出してきた。

「イカウ(あなた)が来るはずだからよろしく頼むって、お昼ごろロエナから二度電話があったわ」
「へえ。手回しがいいんだな。で、どこからの電話だった」
オレはそれとなく探りを入れた。
「レイテだって。いまプロビンスから戻る途中だっていってたわ」
アリバイは一致する。だが、口裏を合わせているということも考えられた。

「あれからもう何時間もずっと連絡が取れないんだ」
目の前のオンナが何か事情を知ってるのではないかと、オレは勘ぐっていた。フィリピーナの親友どもは、客をあしらうために何かにつけ共謀していることがあるものだ。オレはまだ、ロエナがセブから戻る途中だという話を信じてはいなかった。

「おんなじね。私にも連絡がこなくなったの。何かあったんでしょうね。アコ、早番の仕事で1時にはもう店に入ってたからその後どうなったのかはしらないけど。電話はドレッシングルームに置きっぱなにしてるからね。でも、彼女はしっかりものだからだいじょうぶよ。」

オレがよほど心配そうな顔をしていたのだろう。彼女はこちらを慰めるようにいった。オレはカティにLDを二杯ご馳走し、これでロエナへの義理は果たしたものと判断して早々に店を出た。

年末を目前に控えたバリバゴの賑わいが表通りにあふれていた。ここで最後の仕事に精を出して、ダンサーたちは大晦日、両手に抱えきれないほどのみやげ物を持ってプロビンスに帰るのだ。この地に残るダンサーたちは、よほどの事情、その多くは金がないという理由に尽きるのだが、そんなわけて帰省できないオンナたちだった。

店を出たオレの足は、しらずしらずホテルのほうに向かっていた。顔なじみのガードマンも、フロントの女性も、ひとりで戻ったオレの姿を一瞥すると、みな怪訝そうな顔をした。TVをつけっぱなしの部屋に入るなり、オレはベッドに体を投げ出し、そして泥のように眠った。

その夜はもちろん、次の日の夜になっても、ついにロエナからは何の音信もなかった。この町に来て二日間、オレは中途半端な気持ちを引きずりながら、ひとり膝を抱えながら夜を過ごした。そしてもう、オレたちにも潮時がきたことを感じた。「Game is over」だ。明日の朝目が覚めたら、きっぱりと心を入れ替えてこの町を去り、スービックか思い切ってハンドレッドアイランドの方面に旅立とうと心に決めた。