東南アジア各国史デジタル年表
作成:ハリマオ(遊佐たいら) 2000年5月6日更新・2003年10月再掲載
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
BC3世紀末 | ●台東県長浜郷で発見された旧石器時代人「長浜文化人」の存在が確認されている(約5万年前から5千年前) ●約1万8千年前頃海水の上昇によって台湾が中国大陸から分離、約1万年前に現在の形に似た台湾が形成される |
16世紀前半にヨーロッパ人がこの諸島を訪れる以前の歴史について、住民が文字をもたなかったせいで明らかでない。統一国家形成の痕跡はなく、バランガイ(もとの意味は小舟)と呼ばれる集落を生活単位に暮らしていた。14世紀後半からはイスラム文化が浸透し、スルー諸島ではスルタンを頂点とした部族国家が誕生していたものとみられる。文化の基層はマレー・ポリネシア民族によって構成されているものとみられ、言語ではインドネシア語、マレー語ときわめて似通った単語が多く、台湾の少数民族「高山族」の儀礼用語にも語源を同じくすると思われる言葉が見られる。 | 南越建国、中国南部とインドシナ東北部を支配 | BC3世紀末 | ||||
BC111 | 前漢武帝南越攻撃、現ベトナム北部を占領、交趾など3郡を置く | BC111 | ||||||
AD40 | ベトナムで微側・微弐姉妹(ハイバーチュン)の反乱、一時漢より独立(〜42) | AD40 | ||||||
2C初 | ●約7千年前ごろから大フン坑文化、円山文化、卑南文化などの新石器時代文化が確認されている | メコン下流域に扶南建国 | 2C初 | |||||
2C末 | 中部にチャム人のチャンパー建国(〜1697) | 2C末 | ||||||
550 | クメール族の真臘が独立 | 550 | ||||||
589 | ●およそ2千年前北部「十三行文化」南部「蔦松文化」東部「静浦文化」の3つの金属器時代文化があった | 隋の中国統一 | 589 | |||||
6C後 | シュリーヴィジャヤ王国興る | 6C後 | ||||||
610 | イスラム教成立 | 610 | ||||||
640 | このころ真臘、扶南を併合 | 640 | ||||||
645 | 大化改新 | 645 | ||||||
672 | 中国層義浄、インド求法の途中シュリーヴィジャヤに滞在 | 672 | ||||||
7C | 上ビルマにピュー族の王国、下ビルマにモン族の王国成立 | 7C | ||||||
710 | 真臘が水真臘と陸真臘とに分裂 | 平城京遷都 | 710 | |||||
794 | 平安京遷都 | 794 | ||||||
7〜8C | チャオプラヤー河流域にモン族のドヴァーラヴァティー王国繁栄 | 7〜8C | ||||||
8C中 | ジャワにシャイレーンドラ王国興る | 8C中 | ||||||
8C | 中部ジャワに(ヒンドゥー)マタラム王国興る | 8C | ||||||
8C後 | ジャワのボロブドゥール造営開始(〜850) | 8C後 | ||||||
802 | 真臘統一、アンコール時代の開始(〜1431) | 802 | ||||||
850頃 | シャイレーンドラ朝、シュリーヴィジャヤと連合し繁栄 | 850頃 | ||||||
9C | ビルマ族南下、イラワディ中流域に定着 | 9C | ||||||
929 | マタラム王国の中心、東部ジャワに移る(クディリ王国) | 929 | ||||||
938 | 呉権、白藤江で南漢軍を破る。翌年王位につく(呉朝〜965) | 938 | ||||||
966 | 丁朝成立(〜980)完全独立 | 966 | ||||||
980 | 前黎朝成立(〜1010) | 980 | ||||||
1006 | シュリーヴィジャヤ、クディリを攻撃、首都破壊 | 1006 | ||||||
1010 | 李朝成立(〜1225) | 1010 | ||||||
1025 | シュリーヴィジャヤ、南インドのチョーラ朝の遠征軍に敗れる | 1025 | ||||||
1030 | このころクディリ再興 | 1030 | ||||||
1044 | ビルマ族のアノーヤター、パガン王となる(パガン朝〜1287) | 1044 | ||||||
1054 | 李朝、大越国と称する | 1054 | ||||||
1057 | アノーヤター、タトンを占領。モン文化・上座部仏教導入 | 1057 | ||||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1075 | 李朝、宋軍の侵入を撃退 | 1075 | ||||||
12C初 | クメール王国、スールヤヴァルマンU世(1113〜50)治下で繁栄 | 12C初 | ||||||
12C前 | アンコールワット造営 | 12C前 | ||||||
1145 | カンボジア、チャンパーを併合支配(〜1149) | 1145 | ||||||
1177 | チャンパー軍、アンコールを攻撃・占領 | 1177 | ||||||
1190 | カンボジア、チャンパーを攻略 | 1190 | ||||||
1192 | 源頼朝、征夷大将軍となり鎌倉幕府開く | 1192 | ||||||
12〜13C | アンコールトム造営 | 12〜13C | ||||||
1203 | カンボジア、チャンパーを支配(〜1220) | 1203 | ||||||
1222 | ジャワにシンガサリ王国成立(〜1292)、クディリ王国滅亡 | 1222 | ||||||
1225 | 陳朝成立(〜1400) | 1225 | ||||||
1238 | タイ、スコータイ王国、クメールから独立 | 1238 | ||||||
1258 | 元軍のベトナム侵攻始まる | 1258 | ||||||
1260 | フビライ即位 | 1260 | ||||||
1274 | 文永の役 | 1274 | ||||||
1275 | スコータイ朝、ラーマカムヘン王(1275〜99頃)上座部仏教導入 | 1275 | ||||||
1277 | 元軍ビルマを攻撃 | 1277 | ||||||
13C | 元の圧迫でタイ族、大量に南下 | 13C | ||||||
1281 | 弘安の役 | 1281 | ||||||
1287 | パガン朝、元軍侵入により滅亡。下ビルマにペグー朝成立(〜1539) | 1287 | ||||||
1288 | ベトナム水軍軍元軍を白藤江に破る | 1288 | ||||||
1292 | シンガサリ王国滅亡。元軍ジャワに至る | 1292 | ||||||
1293 | ヴィジャヤ、ジャワの元軍を撃退しマジャパイト王国創建(〜1520頃) | 1293 | ||||||
1296 | 『真臘風土記』の著者周達観、元朝の使節団に随行し、温州を出帆(97帰国) | 1296 | ||||||
1350 | アユタヤ朝成立(〜1767) | 1350 | ||||||
1353 | ラオスにランサン朝成立 | 1353 | ||||||
1364 | シャン族、アヴァ朝を興し、上ビルマを支配(〜1555) | 1364 | ||||||
1368 | 明興る | 1368 | ||||||
1378 | アユタヤ朝、スコータイを属領とする | 1378 | ||||||
1393 | アンコール王都、シャムの手に落ちる | 1393 | ||||||
14C後 | マジャパイト王国、スマトラを攻略(シュリーヴィジャヤ滅亡)、マライ半島に進出 | 14C後 | ||||||
1402頃 | マラッカ王国興る(〜1511) | 1402頃 | ||||||
1405 | 明の鄭和の南海遠征(1443まで7回) | 1405 | ||||||
1406 | 明軍ベトナム侵攻(翌年全土占領) | 1406 | ||||||
1428 | 黎利(レロイ)、明の侵略軍を破り全土統一、黎朝を開く(〜1527)ベトナム律令体制完成 | 1428 | ||||||
1429 | 琉球地方豪族尚思紹と子巴志、琉球王国(中山王国)を統一し首里を都とする(第一尚氏王朝) | 1429 | ||||||
1431 | ポニャーヤート王、アンコールの王都を放棄メコン川沿岸パサンに遷都 | アユタヤ朝、アンコールを占拠クメールの首都東遷 | 1431 | |||||
1445頃 | マラッカ、イスラム国家となる | 1445頃 | ||||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
15C中 | ジャワ、スマトラにイスラム教広まる | 15C中 | ||||||
1467 | 応仁・文明の乱 (〜77) |
1467 | ||||||
1469 | 琉球尚円第二尚氏王朝) | 1469 | ||||||
1486 | 中部ビルマにトゥングー朝興る(〜1752) | 1486 | ||||||
1492 | コロンブス第1回航海 | 1492 | ||||||
1494 | スペイン(西回航路)、ポルトガル(東回航路)、トルデシーリャス条約締結 | 1494 | ||||||
1498 | ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達 | 1498 | ||||||
1509 | 最初のポルトガル船、マラッカに到着 | 1509 | ||||||
1511 | ポルトガル人、マラッカを征服(〜1641) | 1511 | ||||||
1515 | (〜30)このころアチェー王国独立 | 1515 | ||||||
1519 | マジェラン、スペインの大西洋岸を出航(9月20日) | 1521 | ||||||
1521 | マジェラン、セブに到着(4月7日)。ジュアナ王妃に「幼きイエス像」を授ける(紛失)。4月21日ラプラプとの戦いで死亡(マクタン島) | 1521 | ||||||
1525 | フィリピン植民地化の遠征失敗(復航路発見できず) | 1525 | ||||||
1527 | フィリピン遠征隊再び失敗 | 莫登庸、黎朝を簒奪、内乱時代開始 | 1527 | |||||
1529 | ロンヴァエク遷都 | 1527 | ||||||
1531 | トゥングー朝のタビンシュウェティ王(〜1550)、ビルマ統一開始 | 1531 | ||||||
1533 | 黎朝復興、莫氏と対立 | 1533 | ||||||
1539 | ペグー朝、トゥングー朝により滅亡 | 1539 | ||||||
1542 | フィリピン遠征隊三度目の失敗 | 1542 | ||||||
1543 | ポルトガル人種子島に漂着 | 1543 | ||||||
1546 | トゥングー朝、上ビルマを併合、ペグーを首都にする | 1546 | ||||||
1556 | ビルマ、チェンマイを陥れランターナイを併合(〜1727) | 1556 | ||||||
1558 | ベトナム、フエに阮氏自立、タインホアの鄭氏、ハノイの莫氏に三分裂 | 1558 | ||||||
1564 | レガスピとウエルダネタ、フィリピン遠征のため11月21日メキシコ出発 | 1564 | ||||||
1565 | レガスピ、4月27日セブ上陸、初代総督となりスペインの植民地化始まる(〜1898)。「幼きイエス像」発見さる。ウエルダネタは6月セブ出帆、帰路開拓後10月無事ヌエバ・エスパーニャに帰還/このときセブから随行したガレオン船(シナモン積載)をもってガレオン貿易の始まりとする説がある | 1565 | ||||||
1566 | ガレオン船、ヌエバ・エスパーニャからフィリピンに向け出航(ガレオン貿易始まる〜1825) | 1566 | ||||||
1569 | レガスピ、拠点をセブからパナイに移動、第二の軍事基地を構築 | イスラム軍、アンボンのポルトガル人を攻撃、ビルマ、アユタヤを攻略、支配(〜1587) | 1569 | |||||
1570 | ルソン遠征隊パナイ島を出発、砦に守られたマニラを発見、戦闘/大砲を鋳造するバンダイ・ビラ(鍛冶屋のビラ)の存在を知る | 1570 | ||||||
1571 | レガスピ自らモスリムの王、ラジャー・スライマンを攻略し植民地の首都マニラ市建設 | 1571 | ||||||
1577 | フランシスコ派宣教師マ到着、布教活動開始 | 1577 | ||||||
1578 | フィリピン初の病院(のちの Hospital of SanJuan de Diosと San Lazaro Hospital<アジア最古>建設される | 1578 | ||||||
1581 | イエズス派宣教師到着、布教活動開始/そのひとりアントニオ・セデーニョ最初の建築家として石造りのイントラムロスの設計に乗り出す | 1581 | ||||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1582 | このころジャワにマタラム王国成立(〜1755) | 1582 | ||||||
1584 | マニラに司法行政院(アウディエンシア)開設 |
1584 | ||||||
1587 | ドミニコ派宣教師到着、布教活動開始 | 1587 | ||||||
1589 | 奴隷制廃止 | 1589 | ||||||
1590 | 豊臣秀吉の統一 | 1590 | ||||||
1591 |
群島の首都としてマニラの基礎が固まったことを祝う祝祭がひらかれる | 豊臣秀吉、マニラのスペイン総督に朝貢と服従を迫る | 1591 | |||||
1593 | 豊臣秀吉高山国(台湾)に進貢を求める国書を出す | 初の活版印刷始まる | 1593 | |||||
1596 | 8月サン・フェリペ号事件 | オランダ艦隊、ジャワに到着 | 1596 | |||||
1597 | 2月長崎26聖人磔刑事件 | 1597 | ||||||
16C | 北ボルネオにブルネイ王国繁栄 | 16C | ||||||
1600 | 12月スペイン船とオランダ船、マニラ湾沖で交戦 | イギリス、東インド会社設立 | 1600 | |||||
1602 | オランダ、東インド会社設立 | 1602 | ||||||
1603 | マニラに初めて中国人の騒乱起こる | 江戸開幕 | 1603 | |||||
1609 | 長崎藩主有馬晴信台湾攻撃原住民を連れ帰る | 薩摩藩島津島津家久琉球征服 | オランダ、ジャワに総督府をおく | 1609 | ||||
1610 | カヴィテ沖で、スペイン、オランダ艦隊交戦、オランダが大敗 | 1610 |
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1611 | サント・トーマス大学創設(現存) | 1611 |
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1613 | 10月仙台藩主伊達正宗、支倉常長をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)使節に送る | 1613 | ||||||
1615 | マラッカ海峡でポルトガル艦隊、オランダ艦隊に敗れる | 1615 | ||||||
1616 | 徳川幕府兵船13隻兵員3千人で台湾遠征を命じたが台風で失敗 | 1616 | ||||||
1619 | オランダ、ジャワにバタヴィアを建設 | 1619 | ||||||
1621 | オランダ艦隊、イギリスの協力でマニラ湾を封鎖するも失敗(〜22) | シャムに仕える山田長政、幕府にシャムとの通商朱印を請願 | 1621 |
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1623 | オランダ人、アンボン島でイギリス人を虐殺(アンボン事件) | 1623 | ||||||
1624 | 鄭成功(幼名福松)、平戸島川内の浦に生まれる<母:田川七左衛門の娘、父:鄭芝龍>/プロピデンシャ城(紅毛城)オランダ人により建立 | スペイン船の来航禁止(鎖国開始) | 1624 | |||||
1626 | スペイン人台湾北部の占領開始 | 1626 | ||||||
1628 | 浜田弥兵衛台南海岸のゼーランジャ城でオランダ人(ヌイツ)と関税10%をめぐる通商交渉/鄭芝龍福建省民数万人を台湾に招き開拓に従事させる | マタラム王国軍のバタヴィア攻撃失敗(1629も同様) | 1628 | |||||
1630 | 鄭成功(6歳)、平戸の母の元を離れ福建省安平鎮の鄭氏の居城に移り住む | 1630 | ||||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1635 | オランダ、モルッカにおける香料生産の統制はじまる | 1635 | ||||||
1639 | マニラに中国人の騒乱起こる(〜40) | 鎖国令 | 1639 |
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1641 | オランダ、マラッカを攻撃 | 1641 | ||||||
1642 | スペイン人、オランダ人によって北部台湾から駆逐される | 1642 | ||||||
1644 | 鄭成功(20歳)南京の大学に入る | 明滅亡/清の中国支配はじまる | 1644 | |||||
1646 | 清、鄭芝龍を北京に人質軟禁 | 1646 | ||||||
1661 | 鄭成功、2万5千の水軍を率いてオランダ占領下の台湾を攻撃 | イギリス商館復活する | 1661 | |||||
1662 | オランダ人ゼーランジャ城を開城/鄭成功政権樹立/鄭成功死去 | マニラに中国人の騒乱起こる鎮圧したパンパンガーニョ軍指揮官フランシスコ・ラクサマナ、サンチャゴ要塞の一日司令官に任命される | 1662 | |||||
1664 | アユタヤ朝、オランダと通商協定結ぶ | 1664 | ||||||
1667 | マニラに中国人の騒乱起こる | 1667 |
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1673 | 高雄港南岸旗後街に漢民族(福建省の漁民徐)漂着 | 1673 | ||||||
1674 | マタラム王国でトゥルーノジョヨの反乱起こり、王制弱体化 | 1674 | ||||||
1680 |
フランス商館開設/最初の遣欧使節アユタヤを出発、マダガスカル沖で難破し失敗 | 1680 | ||||||
1683 | 清朝施琅を派遣して台湾攻撃、鄭氏投降(清領時代突入) | 1683 | ||||||
1684 |
第二回遣欧使節団イギリスとフランスを訪問/その後フランス答礼使タイ来訪(ナライ王のキリスト教改宗が目的) | 1684 | ||||||
1685 | アユタヤ朝、フランスと通商協定結ぶ | 1685 | ||||||
1686 | マニラに中国人の騒乱起こる | ナライ王イギリス東インド会社に宣戦布告/フランスから第二回タイ使節団到着 | 1686 |
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1687 | バンコクにフランス軍駐留(〜88) | 1687 | ||||||
1700 | このころラオス、3王国に分裂し、アユタヤ朝の侵略招く | 1700 | ||||||
1704 | 第一次ジャワ継承戦争(〜08) | 1704 | ||||||
1717 | 第二次ジャワ継承戦争(〜23) | 1717 | ||||||
1720 | クメールがアユタヤ、ベトナム両国に服属 | 1720 | ||||||
1721 | 朱一貴の乱 | 1928 | ||||||
1749 | 第三次ジャワ継承戦争(〜55)。その結果、マタラムはスラカルタとジョクジャカルタとに分裂 | 1749 | ||||||
1752 | ビルマにコンパウン朝(アラウンバヤー朝)成立(〜1885) | 1752 | ||||||
1762 | イギリス(東インド会社の侵略軍)マニラ占領(〜64)/マニラに中国人の騒乱起こる | 1762 | ||||||
1767 | アユタヤ市陥落 | ビルマ軍アユタヤ朝を滅ぼす。タークシン、ビルマ軍を撃退し、トンブリ朝を起こす。 | 1767 | |||||
1768 | ホセ・デ・バスコ総督就任 | 1768 | ||||||
1769 | メキシコからの経済的独立をめざす「総合経済計画」を発表 | 1769 | ||||||
1771 | 西山党の乱はじまる | 1771 | ||||||
1776 | アメリカ独立宣言 | 1776 | ||||||
1782 | タバコの強制栽培・専売制度の導入 | タイにバンコク朝(チャクリ朝)成立 | 1782 | |||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1785 | オランダやイギリスの東インド会社にならって「王立フィリピン会社」設立される | 1785 | ||||||
1786 | 林爽文の乱 | 西山党ベトナム全土を再統一 | イギリス人、ペナンをケダー王から買収 | 1786 | ||||
1789 | 外国船がアジア産物を持ってマニラ入港することを許可 | 1789 | ||||||
1799 | オランダ東インド会社解散 | 1799 | ||||||
1802 | 阮福映、西山朝を破り、阮朝を開く(〜1945) | 1802 | ||||||
1804 | メキシコ政庁からフィリピン政庁への補助金(シトウアド)制度廃止令 | 1804 | ||||||
1809 | マニラに初めてイギリス系商会が設立 | 1809 | ||||||
1810 | マニラに最初の孤児院(Real Hospicio de San Jose::現存)創設される | 1810 | ||||||
1815 | アカプルコからマニラへの帰還船を最後にガレオン貿易廃止される | 1815 | ||||||
1834 | マニラ開港(自由港)、王立フィリピン会社使命を終える | 1834 | ||||||
1844 | 1844年12月31日(火)を、1845年1月1日(水)とする総督命令が下る(8月16日) | 1844 | ||||||
1846 | シャムとベトナムの合意により、アンドゥオン亡命先の シャムから帰国しカンボジアの王位につく |
1846 | ||||||
1851 | モンクット王(ラーマ4世)即位 | 1851 | ||||||
1853 | アンドゥオン王シンガポールのフランス領事を通じフランスのナポレオンV世に保護を要請(のち取りやめ) | 1853 | ||||||
1855 | イロイロ、サンボアンガ、スアル(パンガシアン州)開港 | モンクット王イギリスと友好通商条約(ボーリング条約)締結 | 1855 | |||||
1856 | バンコク朝アメリカ・フランスと友好通商条約締結 | 1856 | ||||||
1859 | フランス軍サイゴン占領 | アンドゥオン王逝去、長男の副王ノロドム王子が王位継承(のち王位を弟のシヴォダに簒奪さる) | 1859 | |||||
1860 | セブ開港 | フランス人博物学者アンリ・ムーオ、シエムリアップの密林にアンコールワットの大遺跡を再発見 | 1860 | |||||
1861 | ホセ・リサール生まれる(6.19) | 1861 | ||||||
1862 | ベトナム南部3省、フランス領となる(第一次サイゴン条約) | ベトナムのカンボジア宗主権フランスに譲渡 | 1862 | |||||
1863 | マニラ大地震/アンドレオ・ボニファシオ生まれる | ノロドム王の王位回復を取引条件に、フランス・カンボジア間保護条約締結 | カンボジアに対する宗主権を主張/フランスの権利を制限するカンボジア・シャム間条約を秘密裡に締結/モンクット王イギリス女性を家庭教師に迎え子女の教育を任せる(教師の手記はのちにミュージカル「王様と私」になった) | 1863 | ||||
1866 | ウドンからプノンペンに遷都 | 1866 | ||||||
1867 | シャム、フランスのカンボジアに対する 保護権を認め、宗主権を放棄 |
1867 |
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1868 | スペインで革命女王イザベラU世フランスに亡命/スペイン共和国樹立(〜70)/自由主義的総督カルロス・マリア・デ・ラ・トーレ、マニラ赴任(〜70) | 仏調査団と皆既日食を見学に行きマラリアにかかり1ヵ月後急逝(8.18)/チュラロンコーン王が即位しラーマ5世を称する | 明治維新 | 1868 |
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1869 | スエズ運河開通、マニラ〜スペイン蒸気船定期航路開設 | 1869 | ||||||
1871 | 琉球宮古島の官民69名那覇への朝貢の帰途台風に遭い台湾南部に漂着(3人溺死)、54人が牡丹社の原住民に殺害さる(牡丹社事件) | 廃藩置県/日清修好条規(日本全権伊達宗城、清国全権李鴻章) | 1871 |
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1872 | 上記残り12人、清国福建省福州の琉球館に引き渡される | カビテ暴動ゴンブルサ事件(ゴメス、グルゴス、サモラ3神父の処刑) | 1872 | |||||
1874 | 西郷従道陸軍中将兵士3千600人を率いて牡丹社征伐(台湾出兵)/清国50万両の賠償金を日本に支払う。琉球が日本に帰属 | ベトナム南部6省、フランス植民地となる(第二次サイゴン条約) | チュラロンコーン王、奴隷廃止令を発布 | 1874 | ||||
1877 | インド帝国成立 | 1877 |
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1882 | ホセ・リサール、スペイン留学/「プロパガンダ運動」をスペインとフィリピンで開始 | 清軍、ベトナムに入りフランス軍と戦う | 1882 | |||||
1883 | フエ条約調印、ベトナム、フランスの保護国となる | 1883 | ||||||
1884 | コーチシナ知事トムソン、ノロドム王にフランス・カンボジア条約強要 | 1884 | ||||||
1885 | 第二次フエ条約調印、ベトナム、清への服従関係を断つ | 第三次イギリス・ビルマ戦争勃発 | 1885 | |||||
1886 | フィリピン大地震 | ビルマ、英領インドに併合される。ビルマ全土に反英暴動(〜90) | 1886 | |||||
1887 | ホセ・リサールの政治小説『ノリ・メ・タンヘレ』ベルリンで出版/マニラに一時帰国 | 仏領インドシナ連邦成立 | 1887 | |||||
1888 | ホセ・リサール再び欧州に出発/香港・日本に立ち寄る/マニラ日本領事館開設/イルストラドス(目覚めた人々)の一人ヘルメネヒルド・フロレス、66連の詩「母なるスペインに対するフィリピンの嘆き」を著す | 1888 | ||||||
1889 | 民族主義運動家たち、マドリードで『ラ・ソリダリダード(団結)』創刊(〜95)/イルストラドス、マルセロ・デル・ピラール詩「フィリピンの嘆きに対するスペインの返答」を発表 | 大日本帝国憲法発布 | 1889 | |||||
1891 | ホセ・リサールの政治小説『エル・フェリプステリスモ』ベルギーで出版 | 1891 | ||||||
1892 | リサール、マニラに帰国、穏健派団体「フィリピン同盟」結成。4日後に逮捕さる。ミンダナオ島ダピタンに流刑。その夜、ボニファシオ、武力革命をめざす秘密結社「カティプナン」結成。 | 1892 | ||||||
1894 | 日清戦争 | 1894 | ||||||
1896 | カティプナン機関紙『カラヤアン』創刊/フィリピン革命勃発(8月30日)/スペイン本国から3万人の軍隊が到着(10月)/リサール処刑(12月30日) | 1896 | ||||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1897 | 革命指導者アギナルド、ボニファシオを処刑(5月)、その後香港に逃亡(12月)カティプナン解体、 | 1897 | ||||||
1898 | 米西戦争勃発(4月)/アギナルド帰国、フィリピン革命政権樹立(6月) /パリ条約によりフィリピン、アメリカ領となる | 米西戦争 | 1898 | |||||
1899 | フィリピン革命軍、マロロス憲法公布、フィリピン共和国成立宣言。アメリカと全面戦争開始 | ラオス仏領インドシナ連邦に編入される | 1899 | |||||
1901 | 公立小学校制度(無料の公共初等教育)設置 | 1901 | ||||||
1902 | アメリカ、フィリピン革命軍を鎮圧(7月)/高等学校制度設置 | 1902 | ||||||
1904 | カンボジア、ノロドム王死去弟シソワット王位継承 シャム、フランスの圧力に屈しストゥントレン、ムループレイ、トンレロパウ各州をカンボジアに変換 |
日露戦争(〜05) | 1904 | |||||
1907 | フィリピン議会開設のための総選挙(7月)フィリピン議会発足(10月) | シャム、バッタンバン、シアムリアップ両州をカンボジアに変換 | 3国協商 | 1907 | ||||
1908 | フィリピン大学設立 | 中部ベトナム各地で農民の抗税運動勃発 | 1908 | |||||
1909 | ケダーなどマライ半島4国の宗主権、タイよりイギリスに移籍 | 1909 | ||||||
1910 | チュラロンコーン大帝死去 | 日韓併合 | 1910 | |||||
1911 | 辛亥革命 | 1911 | ||||||
1914 | 第一次世界大戦始まる | 1914 | ||||||
1915 | 日本、中国に二十一か条要求 | 1915 | ||||||
1917 | 、7月タイ、ドイツとオーストリアに宣戦布告 | ロシア革命 | 1917 | |||||
1918 | フィリピン立法府、独立委員会設置(11月) | 1918 | ||||||
1919 | 上院議長ケソンを団長とする第一次独立使節団アメリカに向かう(アメリカの反応冷ややか) | 1919 | ||||||
1921 | タイ、アメリカとの新友好条約批准、続く諸条約により西側諸国との関係是正 | 1921 | ||||||
1927 | ベトナム国民党結成 | シソワット王死去、第一王子シソワット・モニヴォン王即位 | インドネシア国民同盟結成 | 1927 | ||||
1928 | 台北帝国大学(後の国立台湾大学)発足 | インドネシア青年会議で「青年の誓い」採択 | 1928 | |||||
1929 | アメリカ、フィリピン独立のプランを練り始める) | 金融恐慌に端を発した大恐慌 | 1929 | |||||
1930 | 霧社事件(10.27) | ベトナム共産党創設。ベトナム国民党勢力、反仏武力蜂起(イェン・バイ蜂起) | 1930 | |||||
1931 | 第二次霧社事件(4.25) | 1931 | ||||||
1932 | 人民党による立憲クーデター起こる | 中国東北地方に「満州帝国」建国(一部参謀将校の謀略) | 1932 | |||||
1933 | アメリカ議会、10年間の独立準備期間を設けフィリピンに独立を与えるヘア=ホーズ=カッティング法案可決(1月)/フィリピン立法府同法案を否決(10月) | 初の民選議員選挙 | 1933 | |||||
1934 | 修正案タイディングス=マクダフィ法案をフィリピン立法府可決(5月) | 中国共産党大西遷 | 1934 | |||||
西 暦 | 台湾の事項 | フィリピンの事項 | ベトナムの事項 | カンボジアの事項 | タイの事項 | 日本の事項 | その他の地域 | 西 暦 |
1935 | アメリカ高等弁務官の監督下にフィリピン連邦政府(コモンウェルズ)成立/英語とスペイン語が公用語とされる/サクダル党の蜂起(5月) | 1935 | ||||||
1936 | 初のカンボジア語新聞「ナガラ・ヴァッタ(アンコール・ワット)」発刊民族主義運動や社会主義運動が高まる | 日独防共協定 | 1936 | |||||
1937 | タガログ語を国語の基礎とする決定が下る | 日中戦争始る | 盧溝橋事件 | 1937 | ||||
1939 | 第二次世界大戦始まる | 1939 | ||||||
1940 | バクソンで反仏・反日闘争。南部各地で蜂起 | 日本軍北部仏印進駐 | 1940 | |||||
1941 | フィリピン軍、ダグラス・マッカサー率いるアメリカ極東軍に統合(7月)/マッカーサー、マニラを無防備都市と宣言、コレヒドール島に後退(12.26) | ベトナム独立同盟(ベトミン)結成(5月) | モニヴォン王死去、ノロドム・シハヌーク王即位 | 日本軍タイ国進駐開始(12)/日本=タイ攻守同盟調印 | 日本軍南部仏印進駐 | 日本軍真珠湾攻撃、日米開戦、太平洋戦争始る(12.8) | 1941 | |
1942 | 日本軍マニラ入城(1.2)、軍政を布告(1.3)バタアン半島激戦/マッカーサー、オーストラリアに脱出(3)/バタアン半島陥落(4.9)、投降兵士8万人の「死の行進」/コレヒドール島陥落(5.6)アメリカ極東軍降伏宣言/ワシントンに亡命政府樹立/抗日農民組織「フク団」中部ケソンの山中で発足 | 1942 | ||||||
1943 | 東条首相帝国議会で年内にフィリピンに独立を与えると演説/憲法起草後国会議員選挙(9月)/ラウレル大統領率いる第二次フィリピン共和国が「独立」 | 1943 | ||||||
1944 | コモンウェルズ政府ケソン大統領亡命先のニューヨークで肺結核で死去(4月)/副大統領オスメーニャ、大統領となる/「アイ・シャル・リターン」の言葉どおりマッカーサーのアメリカ軍、レイテ島に上陸、日本軍敗退を続ける(10月) | 北部で200万人の餓死者発生(〜45) | 1944 | |||||
1945 | 日本降伏。台湾島中華民国(陳儀)に軍事占領される | マッカーサー、亡命政権のオスメーニャ大統領を伴いマニラ入城(2月)コモンウェルズ政府復活/大14方面軍司令官山下奉文大将アメリカ軍に降伏(9.3) | ベトナム民主共和国独立宣言(9.2) | 日本軍カンボジア侵攻、フランスの施政権接収とフランス軍の武装解除(3.9)/シハヌーク、カンボジアの独立を宣言、しかし、日本敗戦により独立不承認 | 敗戦(8.15) | 1945 | ||
1946 | コモンウェルズ最後の総選挙、リベラル党のマヌエル・A・ロハス、ナショナリスタ党のオスメーニャを破り初代フィリピン共和国大統領に就任/二大政党政治が開幕 | 第一次インドシナ戦争(対仏)勃発(〜54)(12月) | フランス、カンボジアの内政上の自治を一部承認 | 1946 | ||||
1947 | ニ・ニ八事件 | 米比軍事基地協定(23基地の使用権を99年間、賃借料なし)/米比軍事援助協定 | フランス連合内での独立を前提に立憲君主制のカンボジア王国憲法を制定 | 1947 | ||||
1949 | バオ・ダイ元首南部にベトナム国樹立(7月) | 1949 | ||||||
1950 | エルピディオ・キリノ政権下でラモン・マグサイサイ国防長官となり、フク団鎮圧開始 | 米軍軍事援助顧問団サイゴンに設置(10月) | 司法権、警察権、軍事権、為替管理権をフランスに抑えられた不完全独立承認(完全独立を求める国内ゲリラ活動活発化) | 1950 | ||||
1951 | 米比相互防衛条約締結 | 共産党第二回党大会、ベトナム労働党と改名(2月) | 1951 | |||||
1952 | 日本、中華民国(蒋介石政権)と日華平和条約締結) | シハヌーク国会解散し全権掌握、3年以内の完全独立を公約 | 1952 | |||||
1953 | ラモン・マグサイサイ大統領 | シハヌーク王、渡仏し独立交渉に入る | 1953 | |||||
1954 | フク団軍司令官ルイス・タルク投降 | ディエンビエンフー陥落(5月) | 完全独立を達成、シハヌーク、独立国の立場でジュネーブ協定に参加/ベトミン軍カンボジアから撤退 | ジュネーブ協定(7月) | 1954 | |||
1955 | 農地改革法制定/ラウレル=ラングレー協定(ベル通商法の改正) | 南部にベトナム共和国成立(ゴー・ディン・ジエム大統領) | シハヌーク、国政を指揮するため王位を父ノロドム・スラマリット殿下に譲り退位/国連加盟承認/中立表明 | 1955 | ||||
1956 | 日比賠償協定調印 | シハヌーク殿下、北京に招待される(2月)/周恩来首相を招待(11月) | 1956 | |||||
1959 | 「第15号決議」南ベトナム武力解放決定(1月) | シェムリアップ州知事ダップ・チュオンの陰謀失敗(3月) | 1959 | |||||
1960 | 労働党第3回党大会、レー・ズアン第一書記(9月)/南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)設立(12.20) | スラマリット国王死去 | 1960 | |||||
1961 | タイと国交断絶(12月) | 1961 | ||||||
1963 | 新農地改革法 | ゴー・ディン・ジエム暗殺(11月) | 南ベトナムとの関係断絶、北ベトナムの代表部プノンペンに設置/金融と貿易が国有化される | ケネディ暗殺 | 1963 | |||
1964 | ホセ・マリア・シソン「民族主義青年同盟(KM)」結成、反米デモ、大衆運動盛んになる | トンキン湾事件(8月)、米軍北爆開始、本格的な参戦介入 | 1964 | |||||
1965 | マルコス大統領になる | 米国、地上軍をベトナムに派兵 | アメリカ合衆国との外交関係断絶(5.3) | 1965 | ||||
1966 | 軍事基地貸与期間短縮協定(ラモス=ラスク協定)、25年間(〜1991年) | 南ベトナム民族解放戦線の聖域がコンポン・チャム州に作られる | 1966 | |||||
1967 | 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成(8月) | 1967 | ||||||
1968 | アマド・ゲレロ(=ホセ・マリア・シソン)フィリピン共産党(CPP)再建/ミンダナオ島コタバトでイスラム教徒による分離独立運動起る | テト攻勢、戦闘激化(1月)、米国、北ベトナム第1回パリ会談(5月) | 1968 | |||||
1969 | フク団残党ダンテ司令官を中核に新人民軍(NPA)創設/マニラの主要大学で「スチューデント・パワー」の嵐が吹き荒れる/マルコス大統領再選 | ホーチミン大統領死去(9.2)/米軍のソンミ村虐殺事件発覚(11月) | シハヌーク「南ベトナム臨時革命政府(GRP)」を承認、秘密協約締結/ロン・ノル、シソワット・シリク・マタク殿下を戴き「救国政府」を結成 | 1969 | ||||
1970 | 国家非常事態宣言(3.18)、議会満場一致でシハヌーク国家元首を解任、国民議会議長チェン・ヘン国家元首に就任 | 1970 | ||||||
1972 | 日本「日中共同声明」で大平正芳外相「日華平和条約は終了したと発表。日本と台湾との国交断絶 | マルコス大統領戒厳令布告(9月)議会を解散/ヌル・ミスワリ率いるモロ民族解放戦線(MNLF)イスラム地域の分離独立を求め政府軍と交戦状態に入る | ニクソン訪中、北ベトナム激しく中国を非難(2月) | プノンペンにロケット弾が打ち込まれる、爆弾を仕掛けたトラックが「日本橋」を爆破 | 1972 | |||
1973 | 民族民主戦線(NDF)結成/日比友好通商航海条約批准 | パリ協定調印(1月)、米軍撤退 | パリ協定(1.27)によりすべての外国軍兵力の撤退合意/中産階級の都市生活者退去してフランスに移住 | 1973 | ||||
1975 | 4月蒋介石死去(88歳) | サイゴン陥落(4.30)、ベトナム戦争終了 | プノンペン陥落(4月)ポル・ポト政権誕生/ポル・ポト軍ベトナム領フーコク島、トーチュー島上陸、住民を連行(5月)その後もベトナム領への軍事侵犯続く | 1975 | ||||
1976 | MNLFとマルコス政権トリポリ協定(12月)、ミンダナオ島とスルー諸島の13州に自治権を与えることで合意、即時停戦 | 国境紛争の解決の予備会談(5月)本会談カンボジア側拒否/統一国会、「ベトナム社会主義共和国」として南北統一(6月)/第4回党大会、レー・ズアン総書記(急速な社会主義改造路線)(12月) | 1976 | |||||
1977 | 自治移行の問題をめぐり政府とMNLF対立、、ふたたび戦闘状態に入る | ベトナム国境紛争の解決のための首脳会談提案、カンボジア側が拒否/ポル・ポト軍のベトナム侵犯行為激化/大量のボートピープル国外脱出 | ポル・ポト政権一方的にベトナムと国交断絶/ベトナムのカンボジア侵攻(〜79.1)(12月) | 1977 | ||||
1978 | 蒋経国総統を相続 | 戒厳令布告後初の選挙実施/暫定国民議会(IBP)開催 | ベトナム全土に「華僑脱出事件」起る(中国側発表:16万人) | ポル・ポト軍のベトナム侵攻、「ハティエンの虐殺」事件(3月)ベトナム軍の大規模な反撃始まる | 1978 | |||
1979 | 中越戦争(12月) | ベトナム、カンボジア侵攻、ポル・ポト政権崩壊、親ベトナムのヘン・サムリン政権誕生(1.7) | 第二次石油危機 | 1979 | ||||
1980 | ロンアン省で「ドイモイ」の実験始まる(〜81) | 1980 | ||||||
1981 | 戒厳令解除/11年ぶりの大統領選挙でマルコス大統領再選 | 第5回党大会で、グエン・ヴァン・リン政治局員・中央委員を解任される | プノンペンの住民36万人に増加 | 1981 | ||||
1982 | 反政府三派連合政府を樹立(9.4) | 1982 | ||||||
1983 | マニラ国際空港でベグニノ・アキノ・上院議員暗殺さる | 1983 | ||||||
1985 | 12月蒋経国「蒋家の者が権力を継承せず」と宣言 | 1985 | ||||||
1986 | 現職のマルコス大統領とコラソン・アキノ未亡人の大統領選対決、開票後アキノ側が勝利宣言するも議会はマルコス当選を宣告、エンリレ国防省とラモス副参謀総長マルコス退陣を迫り決起、マルコス大統領ハワイに亡命/アキノ大統領誕生 | 第6回党大会で、グエン・ヴァン・リン書記長、ドイモイ政策の公式導入(12月) | 1986 | |||||
1987 | 蒋経国「台湾がやがてあなた達本省人のものとなる」と発言。7月戒厳令解除、同月「私も台湾人だ」発言。探親目的の大陸訪問を解禁 | 新憲法公布(2月)/総選挙(5月)/新議会発足、包括的投資法制定(7月) | 1987 | |||||
1988 | 1月蒋経国死去。同月副総統の李登輝総統代行になる | 包括的農地改革法 | 新外国投資法制定 | 1988 | ||||
1989 | カンボジアからの完全撤退(9月) | 1989 | ||||||
1990 | 李登輝総統誕生 | ルソン島大地震(7月) | 1990 | |||||
1991 | 新外国投資法/ピナツゥボ山噴火 | 第7回党大会、ドー・ムオイ書記長(6月) | 国連軍最初の部隊到着(11月)/最高国民評議会(CNS)議長にノロドム・シハヌークを選出 | インドネシアとフランスが共同議長国となってパリ和平協定が締結 | 1991 | |||
1992 | 「1992年憲法」公布(4月) | 1992 | ||||||
1993 | 国連監督下で民主選挙実施 | 1993 | ||||||
1994 | 臨時党大会(1月)アメリカ、対ベトナム禁輸全面解除(2月) | 1994 | ||||||
1995 | 南部解放20周年記念式典(4月)、クリントン大統領、アメリカ・ベトナム国交正常化発表。ASEAN加盟(7月)、アメリカ・ベトナム国交樹立(8月)、建国50周年記念式典(9月) | 1995 | ||||||
2000 | 陳水偏総統誕生(3月) | 2000 |
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