ああ、カオサンロードに玉砕!
[非情の論理の街?]
by 遊佐たいら[ハリマオ]
東南アジアのさまざまな国々を歩き回ってはきたが、バックパッカーのメッカと呼ばれるバンコクのカオサンについて、私は知識も土地勘もまるでなかった。書籍であれインターネットのウェブであれ、バックパッカーたちの旅行記に必ず登場し、彼らがあこがれる町「カオサン」。そこに、私も行ってみようと思った。そこにあったのは私なりの好奇心だったが、その一方でこの町を知らないことには始まらないという「意地」があったといえる。
胸躍らせてようやくたどり着いた、世界中の旅人を引きつけてやまない町カオサン。しかし、行く先々で私は想像だにしなかった手ごわい応対の洗礼を受けつづけた。カモられ、だまされ、値踏みされ、ついには文句があるならほかに行けといわんばかりの冷たい仕打ちを受けたこともあった。そもそも観光地というものは、見知らぬ人々の訪問を手放しで歓迎し、近いうちにまた来てほしいと熱き思いを旅人に伝える場所ではなかったのか。それなのに、この町はいったい何さまのつもりなんだ......。私は、カオサンという町で初めて、「ホスピタリティ」のかけらさえも見せず、旅人に厳しく冷たい現実に遭遇しただただ戸惑い呆然と立ちつくすばかりだった。
「ここは観光地なんかじゃなかったんだ」
よく考えてみれば、当たり前のことだった。それを私はすっかり忘れて、ノー天気にここを訪れてしまったことをいまさらのように後悔した。
ハジャイから移動し、たった一泊だけで帰国するなんて、カオサンの連中にしてみれば不届きな旅行者だったかもしれない。物見遊山でちょいの間のくつろぎをカオサンに求めようとした私の心根自体が、この町の訪問者としては最も好ましくない失格者だったのかも知れない。
それが証拠にまず宿泊先を決める際に、この町の旅行者に対するおぞましい非情の論理をしたたか見せつけられたのだった。
「どこに泊まろうか」
私は露店のなかに迷い込みながら、通りのほぼ中間の小路を入った場所にある「ホテル」という名がついていた宿泊施設に飛び込んでみた。そのときの私には、やはりいきなり慣れない「ゲストハウス」に泊まるというのには、やや抵抗があったのかもしれない。
間に合わせの小さなホテルのフロントには、タイ人か中国人かわからないが、中年の女性がふたりいた。部屋を探している旨を伝え希望の料金帯を言うと、候補の部屋を二つ示してきた。エアコンつきの470バーツと500バーツ。しかし、いったん提示しておきながら、時刻が少し早すぎてまだ「部屋の掃除が終わっていない」というのだ。まどろっこしい。550バーツの部屋なら、いますぐチェックインできるとのことだった。
少々疲れていた私は、早く荷物を置いて、町に繰りだしたかった。
「じゃあその部屋を見せてもらえますか」
私は言った。
受付のオンナは無愛想な顔で鍵をこちらに渡してよこした。狭い廊下と階段を何度か曲がりひとり部屋の下見に直行した私は、なんだかいやな予感がした。部屋の中に入ると案の定それほどきれいではない。ベッドの上のシーツなどは、いつ取り替えたものかと思うほど薄汚く、しわだらけに見えた。しかし、一応シャワーは温水が出たし、トイレのフラッシュにも問題はなさそうだった。それから私は部屋に「セーフティボックス」があるのだろうかと見渡した。ゲストハウスにそんなものあるわけがないじゃないかと知ってれば余計な気を回さなかったかもしれない。しかし、そもそもゲストハウスに関して著しく常識に欠けていた。目に入った洋服ダンスに付属する引き出しに手を差し伸べ、ひとつをそっと開けてみた。とたんに悲鳴を上げそうになった。ホコリとくもの巣だらけの引き出しの中には、大きなゴキブリの死骸が横たわっていたのだ。そんなこともあって、結局部屋の下見にはずいぶん時間がかかったと思われる。キーをもって受け付けに戻ったときには、「あんたいったい何してたんだョ」と言いたげでオンナの機嫌はかなり損ねていたふうだった。
「アノー、ほかに部屋はないの?」
こちらがそういったとたん、オンナはふたりとも私のほうをにらみ返して、「ほかにもホテルはあるから、そっちにいってみな」
そのようなことを口走ったように思う。そして無造作に私から鍵を取り上げ仕舞うしぐさをした。私はその無作法に呆れ、とっさに荷物を持つ手にグイと力を込め、きびすを返してその場を退散したのだった。
それからいくつもの部屋を当たり、ついに痺れを切らし、ある一軒のゲストハウスで妥協しチェックインした。ゴキブリはいそうに見えなかったが、部屋は狭い。その割にはエアコンが大きく、なかでブンブンうなり声をあげていた。案の定このゲストハウスでは、最後の最後に後味の悪い事件に遭遇することになる。
とりあえず早速カオサンの通りに出てみることにした。
私の興味はまず格安チケットだった。一軒の看板を見つけて中に入った。狭い事務所で20歳前後の肩から腕を大胆にむき出しにした、キュートでスリムなオンナがひとり退屈そうにしていた。私の姿を認めると急に笑顔を振りまいてよこした。
「バンコク〜プノンペンのチケットが欲しいんだけど」
私が問い合わせると、彼女はじーっと笑顔を振りまいたまま、「へー、そんなとこに行きたいの?」とでもいいたげにただうなづくだけだった。南国の住人特有のたがが外れたような反応の鈍さ。愛くるしい分だけまだ許せるが、それにしてもなんかおかしい。しばらくして、もしかしたら「旅行社」を装ったいかがわしい商売なのではないかと想像するほどの自堕落なムードだった。
「あの、オープンチケットはどうなってるの」
頭のどっかがいかれているのではないかと思うくらい愛想がよく、しかしクラゲのようにふにゃふにゃ。
「ウ〜ん、そうね〜、あのー、ちょっとお姉ちゃんに聞いてみるね」
そういってオンナはどこかに電話をかけた。狭い部屋で彼女と客の私とふたりしかいないというのに、彼女は秘密めいた電話を誰かとするように声を潜め受話器のマイクのあたりに手を当て、わざとくぐもった声で相手と話した。そして、時々受話器のマイクを手で押さえつけながら私のほうを向いては、「プノンペン?シエムリアップじゃ駄目?」とか「タイ航空よね、バンコク航空じゃないよね」などといいながら、もう15分以上確認も長電話をしている。タイ語がまったくわからない私は、そのやりとりが分からないので、いつ終わりにしてくれるのかわからない長電話にイライラし閉口していたのだった。最悪なのは、何か質問するたびに「お姉ちゃん」という人に電話をかけ、同じことを繰り返すのだ。
(こんな単純なことになんでここまで時間がかかるのさ!)
要領が悪いのか、おつむが弱いのか、お嬢様そだちなのか、はたまた単に冷やかし客だと決めつけて私をからかっているのか皆目分からない。適当な理由を考えて、早々にその店を退散した。
それから立ち寄った別な旅行社には、4,5人の客が座れるカウンターがあり、最初の店よりは大手に見えた。ところが少しすると、隣の欧米人らしき客が突然怒り出したのにはびっくりした。
「昨日来たときには明日ちゃんと準備ができてるといってただろ!だから前金で全額払ったんだ。今日来てみたらあといくら払う必要があるなんて詐欺じゃないか。昨日応対に出た奴を呼んでこいよ!」
まあそんなふうなことを、すごい剣幕でがなり立てていたのだ。客があそこまで怒るというのは、何か相当許せないことがあったのに違いなかった。
それからカオサンでは、店員と客がもめて口論しているシーンを何度も見かけた。そして終に私自身もキレてしまう事件に遭遇した。
あるインターネットカフェでのできごとだった。私はそこで国際電話サービスを利用しようとして、若いオンナの店員に声をかけた。オンナは、先客がいるのでちょっと待つように言った。見ると電話ボックス状の小部屋にパソコンが置いてあり、欧米人らしき男がヘッドフォンをしながらPCに向かっていた。彼が終わると、料金の請求書を持ってきたさっきのオンナとなにやら揉めている。おとなしそうな顔の欧米人も、顔面を高潮させて怒っているふうだった。オンナも憮然とした顔をして負けじとくってかかっている。かわいい顔だがこのオンナかなり気が強そうに見えた。
私の番が来た。そしてオンナは妙なことを言った。
「インターネット電話にする?携帯電話にする?」
私はとっさに質問の意味をはかりかね、しばらく返答に窮していた。
「だからさあ、インターネットか携帯かどっちにするかってきいてんのさ!」
といってるようだった。私はとっさに、わけの分からない状況なら勝手知ったる携帯電話がいいだろうと判断した。するとオンナは、ボックスのガラス面に張っている注意書きを読むように言った。いまだになんだか分からなかったが、はっきりしているのはインターネット電話より携帯電話のほうが料金で少し高いということが、書いてある内容からわかった。
「読んだよ」
そうオンナにいうと、まだ不機嫌そうにボックスの中のPCを立ち上げた。おやおや、すると画面いっぱいにケータイ電話のイラスト画像がモニターに浮かび上がった。オンナは私があらかじめ渡しておいた電話番号のメモを見ながら、モニター上に現れたの「ケータイ」の番号ボタンをクリックしようとしたのだ。ちょっと待てよ?私は思わず言葉を挟んだ。
「アノー。これってケータイ電話に見えるけど、なんのこっちゃない仕組みはインターネット電話だよね」
この一言が「地雷を踏んだ」らしい。前かがみでこちらに背中を向けマウスを操作していたオンナの体がフリーズして固まった。
「はあ!?」
といって肩越しに視線を横目で煽りながら振り返ったオンナの表情といったらなかった。目の中に炎がめらめらと燃えさかっている。
「いや、これってインターネット電話じゃないの。ソフトでケータイに見せかけてるだけでしょ」
オンナは(てめえまで四の五のぬかしやがるんかい!?)といままさにぶちきれようとしている。恐らく前の客にも見ぬかれて立つ瀬がなかったのかもしれない。しかし、今回ばかりはすっかり開きなおりの表情で
「もうええわい、ほかの店に行きな」
と、当方を追い払おうとする。こちらも素人をたぶらかす悪質な商売だと見抜いたので、オンナに食い下がって文句をいった。するとほかの店員も集まってきたので、やばいかもしれない、とあきらめ店を退散したのだった。
こんな子供だましの商売を平気でやって、行きずりの旅行者から小銭を巻き上げていく。カオサンの旅行者は自ら貧乏旅行を誇りとしている人々だが、商売をするほうからしてみれば売りの客単価が小さく悩ましい。こんなだまし合いでもして、小銭をすくう以外に手がないのかもしれない。良心的な商売していたら、おまんまの食い上げなのかもしれない。カオサンで日々繰りひげられているのは、したたかな商売人と貧乏旅行者とのいわばだまし合いによる壮絶なサバイバルゲームなのだろう。
町が手放しで歓迎してくれるだろう。そうした旅行者の甘えと油断は、カオサンでは通用しないことがわかった。この町をほんとうに楽しみ居心地よく感じるのは、きっと当地の商売人も舌を巻くしたたかな旅行者で、「勝ち組中の勝ち組旅行者」なのでだろうと思った。
しかし、私の玉砕レポートはこれで終わりではなかった。私が宿泊先に選んだ「カオサン・パレス・イン」の従業員も、したたかな連中ばかりだった。大都市のシティホテルのコンセルジュを思い描いて気軽に相談すれば、なんでも答えを出してくれる.......、そう思うのは大間違いだ。相談は「ゆすりたかりのチャンスをひとつ与える行為にほかならない」。言い過ぎかもしれないが、当たっているだろう。
元来心配性の私は、このゲストハウスのフロントで、明朝の空港までのピックアップを予約するという「愚行」をあえて冒してしまった。ホテルは危険なほど愛想を振りまいて「ああいいよ、明日の朝声をかけてくれればOKだから、心配するな」としきりに言った。
しかし表通りの無数の旅行社が同様のサービスで請求する料金200バーツよりも高い300バーツを取られてしまった。ヤバイとは思ったが、まあとにかく初めての訪問地だし、とにかく移動の足だけは安全で確実な「ホテルサービス」を利用しておけば、何かがあったときにもあとでクレームがつけられる。その安心料を計算に入れつつ「ホテルハイヤー」を頼むなら、100バーツの上乗せぐらい当然かもしれない、そのときはノー天気にそう考えていたのだ。
しかし、ここはカオサンだ。ホテルに宿泊する客とは、店の側からすればあくまでも「出銭を最大化させ絞り上げるための格好のカモ」なんだろうとあとで思った。なんて馬鹿な素人客だろうと従業員たちは笑っていたかも知れない。
翌朝私は約束どおりゲストハウスのチェックアウトを済ませ、「じゃあクルマの手配頼みます」といったら、「OK着いて来い」といわれた。そしてカオサン通りに出たかと思うと、そこに着け待ちしていた乗り合いタクシーに向かって手を上げ呼んでいる。そして助手席のドアを開け体を突っ込んで運転手に何か耳打ちしているのだ。そしてこそこそと最初は150バーツ、ひと悶着あってさらに50バーツを支払ったのを目撃してしまった。
「ええっ!!空港までのピックアップサービスって、流しのタクシーかい?こりゃ詐欺だ」
私は騙されたjことに初めて気がついて、振り返って従業員に文句をいおうとしたらもうごらんの写真に見えるゲートをくぐって姿をくらましてしまっていた。はらわたが煮え返りそうな思いだった。これがカオサンか。旅行者に、最後の最後までこんな仕打ちをしてどういう人間たちなのだろうと絶望的になった。
しかし、打ちのめされた思いはまだ止むことがなかった。
後部座席に取り残されすっかり気が沈んでいる私。騙されて乗ったタクシーの運転手は、不運なことに日に焼けたいかつい体つきの男で、真っ黒などぎついサングラスをしていた。タクシーの中に、言いようのない緊張が走っている。
空港までの道すがら、きっと何かが起こるだろうと予想した。案の定しばらくして彼が切り出してきた。
「お客さん、ハイウェーの料金は払ってくれんだろうな」
「ええ!?」「なにいってんだ。全部コミコミって約束だろ!」「絶対ノーだぜ」「俺は昨日あのホテルのフロントでもう相当な金を払ってんだ。もうこれ以上びた一文も払う気はないからな」
すっかり開き直っていた私は、どうにでもしろという気持ちで語気を荒げた。
運転手は切返してきた。
「俺はただお客さんを空港まで送るようにっていわれたんだ。金のことは知らない」
「もうバーツなんか持ってないよ。とにかくこれ以上は払わないといったら払わないからな」
私の剣幕に、運転手は気後れしたのだろうか。彼の頭はクールダウンしていた。
「いったいいくらホテルに払ったんだ」
「400バーツ以上さ」
これは明らかに嘘だった。こうなれば300も400も同じだろう。騙された勢いってものがある。それに、大げさに言っておいたほうが形勢有利と踏んだのだ。
すると運転手は、真っ黒なサングラスから連想するこわもてイメージとはまるで裏腹に、白い歯を見せて豪快に高笑いした。
「ははは、あんた騙されたんだよ」
バックミラーで私を見ている男の表情がサングラスの奥で和らいでいる。すきに乗じて私はたたみかけた。
「まったくこの国のやつらはひどすぎる。旅行者にここまでするものかと驚いている。許せない!日本に帰ったら絶対にインターネットでこの問題を国中に知らせてやるヨ。おれは物書きを商売にしてるんだ。こういう悪質で泥棒まがいのことは二度とさせちゃいけない」
走っている間私は後部座席でべらべら喋り捲っていた。
運転手はタイの庶民にしてはめずらしく流暢な英語を話した。私の剣幕に、運転手は怒りの程度を理解しすっかり同情したようだった。そして妙にやわらかい口調で私をなだめにかかったのだった。気がつくとつのまにか彼は自分の判断で、高速ではなく下の道を走っていた。運良く下の道は思ったほど込んではいなかった。よほど私を気の毒に思ったようすだった。
「今度来るときにはここに泊まるといい」
とダッシュボックスの中から擦り切れたホテルのパンフレットを出して見せてくれた。はじめはこの運転手もホテルとぐるになっているやつだろうと疑心暗鬼になっていたが、どうやらそれは私の誤解だったようだ。男は努力家で、常識も良識もある人間だった。カオサン。どうしようもなく心がささくれ立った人間たちとの出会い。喧嘩や人間の浅ましさを見せつけられいやなことばかりが続いたが、それがすべてだと決めつけることも危険だと思った。
カオサンのバス停近くの裏道にあったタイマッサージ屋のおばさん。そして最後の最後に私の心を和ませてくれたこのタクシードライバー。ハードなカオサン初体験にあって、唯一私にとって魂の救いをもたらすものだった気がする。
日本人は東南アジアで甘やかされつづけてきた。私もいろんな国のさまざまな場所で「日本人だ」というだけで歓迎された体験がある。しかし、ハジャイにしろ、カオサンにしろ、今回は計らずも「ニホンジンなんてくそ食らえ」という場所を訪れたのだった。旅には最低限必要な緊張が強いられる。カオサンで、あらためて私は旅の心構えを教えられたような気がした。