ロコロコのチスミス放言録その2
Nov 9/2006

寄稿者:ロコロコ

ハリマオ談:
かねてから投稿を希望してきた現地長期滞在者ロコロコ氏のリアルな寄稿文をご紹介します。文の内容については小生関知しませんが、文体の調整という見地から「てにをは」レベルの加筆修正を加えております。



アンへレスで働く女たちは、いうまでもなくさしたる産業もないフィリピンの貧しい農漁村部で生まれ、十分な教育を受ける余裕もなく、家族を養うためという目的より、まず自分たちの「口減らし」のために故郷を離れた娘たちがほとんどである。それもビサヤ諸島群、とりわけサマールやレイテあたりの島々から渡ってくる女たちが多い。

同じ貧しさでも、「サマール人の貧しさ」と「レイテ人の貧しさ」とは根本的に違うといわれる。サマールは、ハリマオ氏も書かれているように、その面積の大きさにもかかわらず何もない島である。山岳部にフィリピン軍の訓練施設がある以外、現地人の雇用につながる特にこれといった産業振興のための施設などはない。特に北サマールから西サマールに古くから広く定住する「ワライ」と呼ばれる民族は、「ワラ(ない)」という言葉が暗示するように、何ひとつ生産手段をもたない不遇、不毛の土地に生まれた人々である。しかしハリマオ氏が絶賛しているように、この土地に育った女たちのその彫りの深い顔相は、アンへレス美人のひとつの類型を成しているといっていい。サマールの女は、いわばフィリピンを代表する地形的な不幸が生んだ貧しさの象徴でもある。

これに対しレイテの人々は、かつてフィリピンで最も「豊かな島民」と羨ましがられる時代を経験したことがあった。レイテは、太平洋戦争開戦当初日本軍が、のちにこれを奪還のため上陸したアメリカ軍が多数住み着いていた土地である。戦後も長く先進国アメリカから近代的な生活様式を持ち込みんで米兵が駐留していた。そして数多くのフィリピン女性が、その米兵の妻、愛人、情婦として、当時のフィリピン人の平均的生活水準をはるかに超える「ぜいたくな暮らし」を享受していた。彼女の周辺の家族も、その贅沢な暮らしの恩恵にあずかっていた。

外国人の男に依存して生きる生きざまが、レイテという島の風土を支配していた。やがて平和が訪れ、米軍が土地を去り、かつての不幸は再来した。頼るつてを失ったレイテの女とその家族たちは、とたんに路頭に迷い、地獄の貧困生活に堕ちていった。男や他人に「寄生」し依存する知恵には長けていたが、「自立」して生計を立てるという、人間としての基本的な能力を退化させてしまったレイテの人々は、そのおぞましい欠陥遺伝子を、世代を超えて今日まで受けついできている。人の世話にならずにこつこつと地道に働く価値を軽視し、他人の財布を当てにして生きるというレイテ人的気質は、フィリピンの歴史が生んだもうひとつの貧困の源といえる。

知り合ったばかりで、お互い素性もわからぬ見ず知らずの間柄に近い女や、場合によっては知り合いの女の知人だという直接は面識のない女などで、いきなり借金の無心をしてきたりする輩は、みなその劣性遺伝子を継承してモラルハザードを起こしているフィリピン社会特有の病的人間たちだといえる。日本ではありえない話だが、フィリピンではさして驚くようなできごとではない。

なにせ、知り合ったフィリピン人が最初に口に出す「歓迎の言葉」で、今度会うときは「パサロボン(おみやげ)」忘れないでね、とおねだりを何度も繰り返す国民である。日本文化にはそういう価値観が存在しないので、最初は戸惑い腹も立てたものだが、いまは自然に聞き流すようになった。外国人とみればモノをもらえるという期待と可能性が、いつのまにかもらうべき筋合いのものという権利意識に変化しているのか....それが、「こんにちわ」のレベルで日常生活で普遍化している恐るべき国である。

サマール的貧困とレイテ的貧困。フィリピン人、特にアンへレスの女たちに接するとき、彼らは常にこのどちらかの類型に属しているはずである。レイテの人には気の毒だが、象徴的意味合いであえて独断的に語っていることを承知おき願いたい。そうでない、自立し謙譲の美徳に満ち溢れる心優しきレイテ人もいることは、いうまでもないことである。


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