変貌するマニラシリーズ2
◆マラボン◆
「ぜひ見てほしいものがあります」
そういってアーニーさんは、私を離れに案内してくれた。
足を踏み入れると、そこには若い男たちの汗のにおいと熱気が充満していた。日に焼けた10代とおぼしき少年が数名、びしょぬれのTシャツと短パン姿で、こめかみから汗のしずくを垂らしながら真剣に何かの楽曲を練習している。

楽譜に目を凝らしたまま、彼らは見覚えのない私の姿を眼窩の片隅でちらりと一瞥すると、すぐに緊張した面持ちでもぞもぞと背筋を伸ばし姿勢を正して、歌う声や演奏する指の先に少し力をこめたようすだった。

「いまねワタシいちばん力をいれて育てているバンドがこれです」
そういいながら私のほうを振り向いたアーニーさん。その目は嬉々としていた。そして、夢を追う人だれもがそうであるように、まぶたの奥に深い輝きをたたえていた。
(なんて魅力的な瞳なんだ!)
アーニーさんのクリクリとした丸い瞳に吸い寄せられそうになりながら、私は不覚にもそう思ってしまった。
人間の面相には、生まれる前から約束された運命があるようだ。顔相はあきらかに人間とのつきあいを左右して、その人の人生を幸福にもすれば不幸にもする。アーニーさんの柔らかな顔だちは、きっとこれまでの彼の半生を実に豊かで味のあるものにしてきたに違いない。

「彼?」。そうなのだ。
アーニーさんは、男のからだをしている。しかし、心は女の繊細さと優しさを備えて生まれた。タガログ語でいえば「バクラ(おかま)」と呼ばれる人々の仲間なのだ。とはいえ、彼はれっきとした父親である。その天性の笑顔と特異な生涯を、神様はまるで祝福するかのようにふたりのすばらしい子供をさずけたのだった。

長女の名はアンジェリカ・デ・ラ・クルス。弱冠20歳。いまフィリピンの人気女性アイドルとして超売れっ子の毎日を過ごしている歌手であり女優である。そしてもうひとりが、私の目の前で練習している新進気鋭のロックバンド「Freshmen」のリーダー、ギタリストの長男である。
アーニーさんは、どうしてもこのバンドを私に見せたかったようだった。

ケソンシティのGMA(チャネル7)のスタジオで、その日私はアンジェリカの招きで、彼女が出演している人気の音楽番組「SOP」の公開生放送を見終えたばかりだった。ざわつくスタジオの入り口の中庭のあずまや風オフィス方で、遠くから私の名をしきりに呼ぶ声がある。アーニーさんの運転手が迎えに来ていたのだ。私はアンジェリカの楽屋を訪ねる暇もなくその運転手に従って、アーニーさんの自宅に直行した。道の角を何度も曲がって、クルマはおおむね北西の方角に向かっている。ケソンシティの西に位置するマラボン市、その閑静な住宅街の奥まった場所に、彼の仕事場とバンドの練習場を兼ねた家があった。

不思議なつくりの家だった。その昔お金持ちの中国人がこの家を建てたのではないかと想像した。庭のいたるところに、石で彫った中国かインドの神話に登場しそうな奇妙な姿の彫像が、雨ざらしの状態で置いてある。敷地の南東の角に、窓のないかやぶきの東屋風の建物があった。そこには大きなテーブルがひとつ。そしてTVや扇風機、ファックス、電話器(2台)が設置してあった。それがアーニーさんのオフィスだった。

バンドメンバーの練習場と住居(2階部分)アーニーさんが「スタジオ」と呼んだ建物は、二階建てになっていた。一階がバンドの練習場。奥に清潔で立派な設備のシャワールームがあった。部屋の片隅になぜか二段ベッドも置いてあり、メンバー以外の人々が腰掛けたり寝転がったりしていた。入り口を入ってすぐの角には二階に通じる螺旋階段があり、上の階がバンドメンバーの宿舎になっていると説明を受けた。

二十歳前と思しき肌の浅黒い女性が、グラスに入ったオレンジ色の濃い甘い飲み物を持ってきた。マンゴジュースのようだった。グラスの外側に粘りのある糖分がびっしりはりついている。女性は髪を正面で分け後ろに送って後頭部で丸まげのようにきつくまとめていた。腰から下にはサロンのような巻きスカートをはいている。頭からつま先まで見るからに質素で、フィリピンの片田舎から働きに出ているメイドであることを全身で物語っていた。

練習場の外には、囲いのない雨ざらしの屋外キッチンが据えてある。若いメイドはそこで客人に飲み物を作ったりバンドの食事の世話をしたりしていた。彼女以外にも、同じように質素な身なりの若い女性がいた。自分が洗った洗濯物だろうか。つるしてあるシャツなどに近寄っては鼻をすり寄せ何度も何度も匂いをかいでいる。「洗濯女」のプロ意識からか、あるいは単に洗い上がりをチェックしてるのか、実に不思議な光景だった。
とにかく、敷地内には若いメイドやら使用人たち、そしてバンドの練習を見学に来る近隣の少年たちがたくさんいた。彼らは、騒ぐでもなく慎み深く、じつに行儀の良い子たちだった。

屋外のキッチンアーニーさんは、じっと腕組みしながら立ったまま練習の様子を見つめていた。ときどきボーカリストに、「こんな風に歌うんだよ」とワン・フレーズ歌って手本を見せることもあった。そのとき自然の湧き水のように、腕や手の振りが加わった。ダンサーの素性が見え隠れした。
それから、あのフィリピン人特有のコミュニケーションのスタイル、つまり表現力豊かな目の動きを使って、ところどころ愛弟子たちにメッセージを送っていた。

「オリジナルソングはあるんですか?」
私の言葉を、アーニーさんは待っていたかのように敏感に反応した。
「もちろんですとも」
そういうと、少年たちの方に向き直ってタガログ語でなにか話しかけた。ときどき発する(オリジナ〜ル、オリジナ〜ル)という言葉だけが、私の耳に残った。彼らは求めに応じて三曲ほど弾いた。

フレッシュメンの練習風景1「ディスコ・サウンドはどうですか?」
どうやらそれは愚にもつかない質問のようだった。アーニーさんは苦笑した。
「オッ、オッォー、なんでも大丈夫。おいおまえたち、ディスコ・サンドだってさ」
少年たちの心が急にラフになったように見えた。
「She Bangs, Sex Bomb, Septemberあたりはどう?」
私がいうと、アーニーさんの通訳を待たずに、ドラムスがうなづいた。それまで練習でこらえていたものを吐き出すかのように、まるで信号待ちで吹かしていたエンジンを急発進させるかのように、彼らはいきなりビートの効いた曲をばく進させた。

マニラの昼下がり、練習場はたちまちライブバンドがうなりたてるディスコに変身した。使用人もメイドも、近所の子供たちも、練習場のドアを開けてそっと内側に忍び入ってきた。
フレッシュメンの練習風景2充満した男の体臭と汗が目にしみてくる。それを扇風機がむなしく攪拌している。

「Freshmen」は、アーニーさんの夢だった。その夢をリーダーの息子に託している。その関係はもはや父と子ではない。彼自身が息子を通してすっかり少年になりきっているようにみえる。それからもずっと一緒だったけれど、彼とバンドの関係も不思議に映った。それは同僚であり友人の関係のように見えた。アーニーさんはバンドのメンバーとまるで友達のように気さくに話している。メンバーもまた彼にあたかも尊敬する親友であるかのように語りかけるのだった。アーニーさんの気持ちが若いことはよくわかるが、少年たちもまたそれにもまして礼儀正しく、よくオトナに見えた。

アーニーさんは、音楽専門誌にたびたび広告を出し、フィリピン全土から有能なボーカリストやプレーヤーを公募。これまで、何度もオーディションをくり返し、ようやく編成したのが、いまのバンド「Freshmen」だった。いわば彼のこだわりの産物なのだった。みればあどけない少年たちだが、ライブをやればすでに会場を埋め尽くすことのできる実力をもった気鋭のグループなのだ。主な活動の舞台は、「KAMPO」というケソンシティのライブバンドが楽しめるレストラン。ここでは人気ロックグループ「AEGIS BAND」もたびたび演奏している。

KAMPO
Cuisine: Filipino, International, Seafood
Bar type: Dance/Disco, Live Band
Quezon City47 West Ave.Quezon CityTel. 411-9931, 924-0329
Open for dinner Open from 6pm to 1am, Monday to Saturday

5月15日、「Freshmen」は初めてのCDアルバムを発売する。アーニーさんの夢は着実に実を結びつつあるのだった。

アンジェリカ・デ・ラ・クルスの人気といいフレッシュメンの約束された成功といい、アーニーさんはフィリピン・ドリームのある典型を体現して見せているといえなくもない。
アメリカに次ぐ世界有数の大学進学率を誇るフィリピン。ファーストフード店の売り子になるにも「大卒」資格を求められる過酷な競争の労働市場。「大学は出たけれど」、運が良くても月給1万ペソ程度(2万5千円強)のオフィスワーカーどまりで終わるのが当たり前の社会なのだ。

教育がなくても、力と運さえあれば成功できる、そのフィリピン・ドリームが健在なことを、アーニーさんの半生が証明してくれている。バクラの彼は、若い頃「フィリピンの民族舞踊団」の一員として、富山県の山深い温泉町の宴会場で、夜な夜な浴衣着の酔客の前で踊っていたことがある。やがてそういう自分の将来に限界を感じ、思い切って「ジャズダンス」に転向。ダンサーとして、あるいはのちにコリオグラファー(振付師)としてショービズの世界に飛び込んでいくのだ。

クラブダンサーや振り付けの先生として日本とフィリピンをたびたび往復するうちに、日本でオーストリア国籍をもつアンジェリカ(アンジェリカ・デ・ラ・クルスのお母さん)さんとめぐり遭うのである。アンジェリカさんも日本でクラブダンサーをしたり、語学学校の先生をしていたことがある。縁がありかつて共に暮らしたふたりのあいだにできた娘が、いまやTVや映画のアイドルになったANGELIKA DE LA CRUZその人である。アンジェリカという名前は、お母さんからいただいた芸名なのである。

「Freshmen」のメンバーは18才から20才までの6人。日本の社会なら、学校も行かずにバンドで楽器を弾いていたら、親たちはさぞ心配するだろうと思えるそんな年頃の少年たちばかり。しかし、可笑しいのはいま目の前にいる子供たちは、親の夢をかなえるために好きなバンドをやっている幸福者たちなのだ。ドロップアウトという「悲壮感」や「暗さ」がまるでない。

しかも、バンドの世界にありがちなオトナ社会への反発や不信感を微塵も感じさせない。彼らは、オトナと同じ目線でものを考え、プロとしての誇りをもって生きているような気がした。その証拠に、メンバーのひとりは練習を終えてシャワーを浴び、身ぎれいにし終えると、自分の名刺をもって私の傍に来て自己紹介した。それからも、少しでも私が黙りこくっていると、退屈しているのではないかと気遣って「Are you OK?」などと、何度も声をかけてきた。

アーニーさんという、素晴らしき大先輩にめぐり合ったことも含めて、好きなことを誇りを持って好きなだけできる彼らが羨ましかった。それでも、私は喉骨に突き刺さるトゲを抜く思いで、再び愚問を彼らに発した。

「学校は行ってないのかい?」
すると彼らは、答えた。
「そのことはとても気がかりです。いま、二階の自分の部屋で時間を見つけて勉強してるんです。通信教育で単位を取る方法がフィリピンにはありますから」
その言葉を聞いて私はホットした。好きなことを一生懸命やるのはいいが、人並みのことを切り捨ててしまっては中途半端な人間になりかねない。その心配がないことを知って、安心したのだ。

アーニー・デラクルスさんアーニーさんは、自分が手がけているフィリピンの才能豊かな新しいバンドの力を見て欲しかった。そして、自分の夢を語りたかったのに違いない。だから、私をわざわざ自宅に招いたのだった。

しかし、私が感動したのは、むしろそういうことよりも、目の前の若者たちの「夢を追うひたむきさ」だった。彼らは、ドロップアウトしていない。夢も誇りも、先輩を尊敬する心もある。そういう意味で、日本に生きている若者たちよりもはるかに幸せで、また豊かな人生を過ごしているように思えた。羨ましくもあった。日本の若者が、無性に惨めで貧しく見えてしかたがなかった。

また、子供たちにそういう輝かしい機会を作って与えられるアーニーさんという人物も、実にチャーミングに見えた。とても52才とは思えぬ発想の若さだ。日本の社会ならば、くたびれ果てて「疎ましいオヤジ」として扱われだす年齢だろうか。

われわれのハカリでいつも「貧しい」と決めてかかるフィリピン。だが、貧しいがゆえに「豊かな人生」を暮らすことのできる人々もいる。貧しさとは何なのだろうか、それは本当に生きづらい環境なのだろうか。豊かさとは何なのだろうか、それは最後まで安心と安全を保証するものなのだろうか。私はまた、深い疑問の谷底に突き落とされてしまった。

スタジオに来て良かったと思った。
受験制度も教育制度も崩壊寸前にまで追い込まれた日本。産業界も政治も、コントロールを失って迷走し始めた日本。「ココロの豊かさ」を犠牲にしてまで「経済的豊かさ」を追い求めてきた日本人が、「豊かでなくなった社会」を目の前にして、(こんなはずではなかった!?)と途方にくれている。何を生きがいにして暮らしていけば良いのか.....。

窒息しそうな閉塞社会に住むいまの日本の若者たち。その生き方として、目の前の「Freshmen」の少年たちが何かヒントに近いものを与えてくれているようにも思えた。

「この家は、仮の住まいです」
アーニーさんがスタジオから東屋に戻る途中に唐突に言い出した。
「隣りに新しい家を作ってるんです、気がつきました?」
アーニーさんに先導され、私は敷地を出て小路を表通りに向かった。高い囲いの内側に淡い黄緑色の300坪はあろうかという三階建ての建物が空にそびえ立つように建っている。私は目をみはった。すすけた平屋建ての粗末な家並みの中で、それは大きさといい外壁の色といい異様な建築物にみえた。
「このコンパウンドは、兄弟のものです。となりがお姉さん、こっちのとなりはお兄さんの敷地です」
それを聞いてまたも驚いた。バス通りに面した商店を含めて、この一角はアーニー一族の敷地だというのである。兄弟がどのような仕事をしているのか聞くことはできなかった。しかし、このあたりでは明らかに成功した一読であることは間違いがなかった。

「成功者アーニー・デラクスの彫像が空に向かってそびえ立っている」
薄緑の巨大な建物を見上げながら、私はため息をつく思いだった。もうじきあの三階のガラス窓の内側から、クリクリまなこのアーニーさんが腕組みしながら現れ、一族のコンパウンドを見下ろし、セクシーなまぶたの動きで道行く人々に何か言おうとしている姿を想像し、可笑しさをこらえることができなかった。

アーニーさんのススメで、私たちはそれからマニラの観光省主催のフラワーフェスティバルの会場に行こうということになった。Freshmenの6人とアーニーさんと私とで、一台のワゴンに乗った。アーニーさんの息子が運転した。免許取立てに違いなかった。アーニーさんは客人の私に気遣って、助手席に座るよう勧めてくれた。後ろの席は窮屈だったろうが、走り出すとピクニックのようにタガログ語の会話がはずんでいた。