変貌するマニラシリーズ3
◆マラボン〜トンド〜マニラ◆
アーニーさんの家を後にしたクルマは、すぐに川にかかる小さな橋を渡った。
「パシグ・リバーですか?」
バカのひとつ覚えの川の名を私は上げた。
「マニラ・リバー」
後部座席からアーニーさんが身を前に乗り出すようにして言った。そういう名の川があることを初めて知った。やがてクルマは海沿いの広い道に出、そのまま左折して南に向かった。

Freshmenのメンバーとアーニーさんはしきりにタガログ語で何か話していた。運転席の息子がときどき会話に加わった。話の中心はずっとアーニーさんのようだった。まるでピクニックに向かう車中のように、皆の心は弾んでみえた。

途中で、このバンドがもうじき来日する予定なのだと聞かされた。「マリキーナ」という店にくるらしい。私の記憶にはない店の名前だった。息子はそのために今必死で日本語の勉強をしているらしい。確かに、クルマが信号で停まるたびに「これは日本語でなんて言うんですか」というような質問を熱心にしてくる。

「しんごう、の、てまえ、は、なんですか?」
いきなりそういう質問をされたことがあった。
「just before intersection かな?」
私はいい加減な答えを返したが、それでも息子はよくわかったような顔をした。本当にそんな細かい日本語が知りたいのか、あるいは隣にいる日本人の客人を退屈させないようと気遣っているのか判断に困るが、そういう疑問を湧かせるほど彼らは心優しい連中だった。

広い道をただひたすら南下した。右手1キロメートルほど先がマニラ湾だった。しばらくすると辺りの景色が一変し、急に殺風景になった。道端に積まれた何基ものコンテナが錆びついて赤黒く変色しているのが目につく。荒れ果てた光景だった。

スモーキー・マウンテン
息子はハンドルを握り締めたままポツリとそう言った。
「エッ!?スモーキー・マウンテン?じゃあここは
トンド地区なの?」
私は驚いて辺りを見回した。
左手に高さ10メートルほどの赤茶色の小高い丘がどこまでも続いている。むき出しになったただの土塁の丘のようだった。ゴミの姿は影も形もない。この丘もどす黒く錆びついてみえた。

(なんだかイメージと違うなあ)
私の心を見透かしたかのように、アーニーさんが背後から言った。
「昔のスモーキー・マウンテンね。ここが崩れたの」
あれは何年前だったろうか、ゴミの山が「土砂崩れ」を起してたくさんの犠牲者が出たことは、遠い日本にいてもニュースで知らされていた。あれいらいスモーキー・マウンテンは撤去され、立ち入り禁止になったようだ。その事故のことはなんとなく記憶に残っている。
「でも、あたらしいスモーキ・マウンテンできたね。あっちね」
いわれた方角はるか右手前方をみやると、そこにも夕日の逆光をさえぎる小高い丘のような影があり連綿と広がっている。目が慣れるにつれ黒い影の中に無数の白い断片が浮かび、その丘が明らかにゴミの山であることがわかった。

「ほら、スモーク出ているでしょ。だからスモーキー・マウンテン」
アーニーさんが、観光ガイドのような説明をした。
(うわあ、ホントだ、ところどころから煙がもうもうと立ち上っている)
小高い丘の「地獄谷」。しかし灰白色の煙の上がり方が独特だ。蒸気機関車の噴射蒸気よりは圧力が弱いが、温泉場の煙よりは力強い。だから「柱状」というより、上に向かって白い「帯状」の煙が勢いよくたなびいているという感じだ。

「どうしてあんなゴミの丘からもくもくと煙が出るんだろう」
誰もがそういう問いかけをしたくなるような、不思議な煙の立ち上り方だった。アーニーさんは、私の独り言で発した疑問に、律儀に答えようとした。

「チャコールって知ってる?あのグレーの......」
「エッ!?あのタバコのフィルターに入ってるとかいうヤツ?」
「そうそう」
彼はそういったきり、言葉をつぐんだ。理由が自分でもはっきりしないのか、説明のための日本語がわからないのか、とにかくアーニーさんの説明はしっぽの先が断ち切れた。そのチャコールがどうしたというのだ。しかし、まあいい、それだけわかかっただけでも...。百聞は一見にしかずだ。私は生まれて初めて目にする「トンドのスモーキー・マウンテン」に、ただただ驚嘆していた。

(どれだけ圧倒されていたかって?)
そう、ジーンズの前ポケットに忍ばせていた愛用のデジカメを取り出すのも忘れるくらい、脳天をぶちのめされていたようなのだ。逃したシャッターチャンス。悔しいけど仕方がない。

しかし、その先の光景に私は絶句した。
道の両側に累々と積まれた赤茶色に錆びついた物体。私は初めそれを放置されたコンテナだとばかり思っていた。いや、それはもともとコンテナだったのに違いない。よく目を凝らすと、その物体の通りに面した開口部のまわりに、白い無数の「点」がまとわりつくようにして動めいている。

「人だ!」
人が窓からこちらのようすを見ているのだ。それは、赤黒く錆びついた今にも倒壊しそうな箱の開口部にびっしりと寄り集まった、シロアリか羽虫の群れように見える。開口部の縁にゆらゆらと陽炎のように力なくはためくのは、洗濯物だった。クルマを走らせるにつれて、赤錆の物体の四角い開口部は次第に形を崩していく。木造のバラックが、危険なほど隣家に寄りかかっている。家には水道や下水の設備があるようにはとても見えない。電気も果たしてどうなのか。

その異様な建物が、軒を連ねて道の両側に不気味な昆虫箱のように折り重なっている......。ただそれだけの荒涼とした光景。その中をアーニーさんの息子は、微妙にスピードを落として、まるで自然動物園の猛獣の間を走る観覧車のようにして一部始終を私に見せた。それはあまりにも残酷なショーに思えた。
「悲惨だ。あまりにも惨めな光景だ」
私は、それ以外の言葉をなくし、助手席で金縛りにあったように身を固くしていた。

いろんな国を歩いてきた。ミャンマーのマンダレー郊外のイラワジ河にそったスラムでも、人間の暮らしとは思えぬ貧しい光景を目の当たりにした。カンボジアのプノンペンでも、「忘れられた人々」の悲惨な暮らしに驚愕した。

しかし、いま目の前に展開している光景とはどこか異質なものを感じる。なぜなのだろう。わからない。私の頭の中は混乱していた。どうやら原因は、先ほどまで成功者のひとりアーニーさんの三階建ての豪邸を見せられ、驚いた直後の出来事だったことに関係しているようだった。心はまだ動揺していた。

カンボジアの貧しさは、「誰もが共有しあう貧しさ」のように見える。社会全体がそうなのだから、誰もが平等に与えられた運命に耐えしのんでいる。貧しさの中にも、安穏としていられる余裕を感じることさえある。国が豊かになれば、富は自分たちにも応分に配分され、今の暮らしも少しは改善されるだろうという夢や希望があるように見える。そのゆとりが人々にあるからこそ、旅行者でも彼らの貧しさを直視もできる。そう思った。

しかし、いまトンドの目の前の「廃屋通り」で目にする光景はまるで違っていた。
この貧しさは、明らかに「敗者の貧しさ」といえるもので、疎外され、置き去りにされた惨めさそのものに他ならない気がした。誰もが共有しあえる貧しさではない。運命と呼ぶにはあまりにも「人為的に作られた貧困」と呼ぶ以外にない。

国がどんなに豊かになっても、人がどうあがいても、フィリピン社会の中で、この惨めさの極地を乗り越えることはできそうもない.....そうした残酷で、絶望的な貧しさがトンドの空気を覆い尽くしている。

赤茶けた深い悲しみの光景、その背後にいまにも沈もうとするマニラ湾の夕日が赤々と燃えている。その目にしみ入るようなまばゆい光を片手でさえぎりながら、私は暗鬱な気持ちになった。ここに暮らす人々にとって、あすの朝もう一度日の出を迎えることに、いったいどんな意味があるというのか......。私は思考停止の状態に陥り、その答えを見つけることができなかった。最も貧しいフィリピン_。えぐられた社会の断層からは、どす黒い血が噴き出していた。

もうもうと煙を立ち上げるスモーキー・マウンテンの丘。人間というのは、かくもはかなく無力な生命体なのだろうか。それにしても残酷すぎる光景だ。私は何の心の準備もなく、むき出しの「生き地獄」をいきなり鼻先に突きつけられた思いがして、泣きたくなった.....。


やがてクルマはロハス・ブールバードに出て、それからタフツアベニューの方角に向け左折した。出遅れた私たちはホリデイインホテルの裏手、国立博物館の横の駐車場に運良くクルマを停めることができた。そこから観光省の仰々しい建物の正門のほうに向かった。正門へのアプローチはまるでギリシャの神殿を髣髴とさせる幅広い階段になっている。その階段の真ん中から、特別に長い花道が設置され、大規模なファッションショーのような会場の設定になっていた。

薄暮の中で、すでに大勢の報道陣と観客がせり出した花道のまわりに集まっていた。
毎年5月に開かれる「フラワー・フェスティバル」。その最大の呼び物イベントが、この「サンタクルス」という「ビューティ・コンテスト」なのである。

アーニーさんを先頭に、Freshmenのメンバーと一緒に、私も人だかりのする方に向かって歩きだした。すでにセレモニーは始まっていた。若者たちの中には、TVやライブでFreshmenの顔を見知っている者たちがいたのだろう。彼らはじっとバンドメンバーの方を見続けているものもいた。さすがにまだ「黄色い声」に追い回され、衣服を引きちぎられるほどの人気になってはいないが、マニラ周辺で徐々に知名度を上げてきている確かな感触がうかがえた。

毎年一回開かれるこの美の祭典は、TV女優、映画女優、ファッションモデルなど、さまざまなカテゴリーの、およそ美の世界に関わる国中のすべての著名人が参加して開かれる「ビューティ・コンテスト」である。参加する美女たちにとっては、この上もない名誉といえる。これを観光省という行政官庁が自ら主催して行うところがくだけたフィリピンらしい。

これを日本に置き換えてみるとどういえるのか。経済産業省と文部科学省の共同主催で、国会議事堂正門前の表階段をショーの会場にして、全国の美女を集めて競い合うということになる。

しかし、まず日本の役所がそういうことをやるなどとは思えない。その点フィリピンというのは良し悪しは別として実にさばけた国なのである。

いうまでもなくアーニーさんは芸能界に顔が広い人だ。この日も彼の友人の女優がコンテストに参加するので見に行こうという話になり、私も着いて来たのだった。実をいえば娘のアンジェリカ・デラクルスもビューティ・クイーンとして過去二回このコンテストに参加している。

厳かな音楽が広場に流れ始めた。いよいよ美女たちの登場である。集まった報道陣のカメラのフラッシュが、闇夜に激しく殲滅する。建物の正面から、フィリピン中の選りすぐりの美女が、これもオーディションをパスした美男たちにひとりひとりエスコートされながらおごそかに登場しだした。

建物の正面からしずしず降りてくる美女たちは、20段ほどある階段を降りきったあたり、ちょうどせり出しの根元部分にあたる左右の審査員席と政府関係者席の前でまず一礼する。
そのあと約30メートルほどある長いせり出しを前進し、観衆のすぐそばまで近づいてくる。
その突端できびすを返しせり出しを戻る。エスコート役はここでドレスのすその向きを調整し、美女がそれを踏んだりつまづいたりしないようにひと仕事するのである。モデリングを終えたあとは、階段の中ほど約10段の高さあたりのところに、観客側から見て左手から順番に並ぶ。前のペアが、審査員席と政府関係者席で一礼をしたタイミングで、階段の最上階に待機している次のペアが階下に下りてくるという段取りである。

面白いものを見せてやろうと誘ってくれたアーニーさんには悪いが、見ていてすこぶる違和感を覚えた。正直言って退屈だった。
なぜだろう。
ひとつは、「美の基準が違いすぎる」ことが原因ではないかと思った。この問題はじっくり考えるに値するテーマだと思う。

下世話な話に戻ってしまうが、私はよくフィリピン関係者から、日本で売り込みたい「芸能人」だと称する謎めいた「美女」を紹介されることがある。直近でいえば、つい先日パンパンガのアンヘレス、バリバゴ地区でそういう経験があった。

ある高級クラブのショータイムで、大勢の酔客の前でその「芸能人」は大胆なセクシーショーをお披露目した。それは惜しげもなく、彼女はほぼ全裸に近い格好をしていた。実際には、薄物の帯状の布をカタチばかりにもっていた。時々微妙な部分を隠す風を装いながら音楽にあわせた演技をしたが、まあ初めから終わりまで全裸そのもので、ただ腰をくねくねさせているだけだった。そして、「ショー」が終わったあと、私の席にそのままの格好で近づいてきて、私の鼻先にカラダをゆさゆさすり寄せてきたのだ。芸能人特有の張りのあるみごとな円形のバストではあった。ヘアも几帳面に手入れされていた。

私の席に近づいてきて挑発する彼女の大胆なしぐさが、マネージャーのさしがねであることはいうまでもなかろう。私にアピールしろと命令したのに違いない。しかし、私は「あんたオレの目の前で裸になっていったいナニしてんだい?」「いったいオマエ何者なんじゃい?」って、言いはしなかったものの、実に冷め切っていたのだった。

フィリピンの芸能人にはご注意あれ、というのが私の持論である。「美の基準」が日本人のそれとは驚くほど違いすぎるのだ。どこが違うか?それは率直に言えば「目」のまわりである。

フィリピンの芸能人の悪しき特徴、考え違いは「ハード・メーク」だと思う。もともとくっきりした目をしている彼女たちが、そのうえになぜ強烈に目の周りを隅どろうとするのか、私にとってそれはいまも解きがたい謎のひとつである。フィリピン人はとにかくハードメークが好きである。件の「全裸のオンナ」も嫌になるほど目の周囲を真っ黒に隈取りしていたのだ。芸を打ち消す「裸踊り」と、美を否定するハードメーク。日本人の感覚からはちょっと理解に苦しむのである。

そしていま、目の前をしずしず歩いているビューテ・クイーンたちも、示し合わせたようにみなハードメークなのだ。そのことが、心の片隅に引っかかって私は心底楽しむことができなかったのだ。

日本ではいま「ナチュラル・ビューティ」がもてはやされている。何10年か前に、日本の映画女優もアイラインを強烈に引いていたから、いちがいに昨今のフィリピン女性ばかりも責められないだろう。
しかし、この国のハードメーク・ブームは当面去りそうな気配がないのだ。

美しさが「生きがい」や「精神的な充足」、さらには「個性」や「自然の素肌」などという抽象的なものに向かっている日本人とはまるで違って、この国はまだある種の「美の典型」を自分たちの外の世界に追い求めているようにみえる。上述の抽象的な日本の美のありようをいくら説明しても、彼らの目が点になるだけで理解不能に違いない。

そもそもこういう「美人コンテスト
」なる一種の遊興は、おそらく欧米の植民地主義の遺物なのではないかと思う。その後独立は果たしたが、こうした美の特権的遊興の世界は解放されず、フィリピンの行政官庁に無批判的に継承されたのではないかと想像している。コンテストの「アソビ」の形式にそれが如実に表れている気がする。

見ていて違和感を覚えるというのも、目の前に繰り広げられているショーが見れば見るほど「フィリピン的」ではないことが浮き彫りになるからだ。フィリピン人固有の素朴な美しさをどこかに置き忘れて、怖れや憧れや卑屈さがないまぜになったまま、借り物の「美の典型」「美の理想」を求めている姿は、実に滑稽にみえるのだ。

フィリピン人は、とにかく「美人コンテスト」なるものが好きだ。年がら年じゅうそういうことにうつつを抜かし、美を競争しあっている。

国の経済が小さいということは、富も限られているということだろう。「これしかないというパイ」を奪い合って、フィリピン人はいつも他人を差し置き、出し抜きながら競争しあう。フィリピンとはもともとそういう競争社会、サバイバル社会なのだ。だから、常に「勝者」がいれば、「敗者」もいる。敗者の極地が、さっき通り過ぎた目を覆わんばかりの悲惨な暮らしを背負わされる「トンド」のスラム住民たちだ。競争は一見すると公平で平等なように見えるが、富に限界が見えたときに「乏しさ」を争奪しあう正義に他ならない。だから、フィリピンのように、始終競争しあっている国は、他方で「貧乏」を広告しているようなところもあるのだ。気の毒なのは、「貧乏」どおしが競争しあえば、そこでの敗者は救いがたい貧乏つまり貧乏が産み落とす貧乏に陥るということだ。トンドの貧乏とは、煮詰められた結晶化された貧困に他ならない。

それは、美の世界にも及んでいる。さまざまな美があってしかるべきなのに、フィリピンの美的資源が乏しいから競い合うのだ。悩ましいのは、政府がそれに加担しているということだろう。観光省主催ではあるが、会場に集まっているのはどうみても暇をもてあまして来ているマニラ近傍の住民たちばかりのようだ。
「友人が出場するから行ってみないか」
私もアーニーさんのその誘いに便乗しただけなのだ。もし彼の誘いがなければ、折角の観光省主催のこのイベントも、その存在に気づかず、多忙な「観光客」として他に気を奪われ、これを見過ごしてしまっていたに違いないのだ。税金を使ってまでやる経済効果、行政的意図とはなんなのだろうか....。

しかし、好意的にみれば逆にこれも一種のフィリピン社会の豊かさの象徴なのかも知れないという気がしてきた。豊かさといったが、「おおらかさ」「寛大さ」といった方が言葉としてより近いのかも知れない。まだこんなことをしている余裕があるという意味で、そうなのである。

かつて日本人は「脱亜入欧」という、屈折した憧れの呪縛にとらわれていた時代があった。いま、目の前に次から次へと姿を現す美人たちを見ていると、かつての日本人と同じことが繰り返されているのではないかと鼻白む思いである。「脱フィリピン」と「欧米への強い憧れ」、いわゆる「脱亜入欧」の力こぶが、どうやらビューティ・クイーンたちの目の周りに振り下ろされているらしい。

(これも一種のドラッグみたいなもんだな)
私はクールに心の中でそうつぶやいた。政府が音頭を取ってこぞって「幻覚の世界」に逃げ込んでいる。いまの現実のフィリピンから目をそむける、それは空しい営みに思えた。

コンテストが終わり、会場上空に花火が打ちあがった。美の頂点に立つ「ビューティ・クイン」たちのパレードが始まるのだ。われわれのすぐ目の前をもうじき彼女たちが通り過ぎる.....。私は通り道に先回りして、デジタルカメラをもち彼女たちの行列を待ち構えた。

通り過ぎる美の頂点に立つ女、オンナ、おんな...。誰も彼もが、肌の白さを強調し、目の周りを怪しく隈取っている。しかし、やはり私の予想通り、彼女たちの相貌の奥には隠しきれないマレー・ポリネシア民族の遺伝子がくっきりと浮かんでいた。
「あなたたちは間違っている。もう目の周りを隈取るのはおやめなさい!」
私は近寄って行って耳元でそう叫びたい気持ちになった。

豊かで貧しいフィリピン、貧しくて豊かなフィリピン。光と影、天国と地獄を、私はここでも垣間見た気がした。