語り忘れた風景<タイ北部>
遊佐たいら
2004年1月29日更新

009 2004年2月2日(金)<バスターミナル>
昼間には気づかないが、タイの長距離バスターミナル周辺には、決まって怪しげな「カラオケクラブ」があり、日が落ちると誘蛾灯のような明かりをともす。遠くに旅立つ人で行きかう場所には、決まってそういう施設があるものだ。僕は早くからそのことに気づいていた。ピサヌローク・バスステーションの周辺も予想通りだった。僕が観察しただけで5〜6軒はある。客がまだついていない女たちは、思い思いのドレスをまとって店の前の長いすに腰掛けて客を引く..............。
=ナイトライフ相談室=にて報告します。
008 2004年1月30日(金)<ラジャプルー>
=ナイトライフ相談室=にて報告します。
007 2004年1月29日(木)<パイリンホテル>
僕が泊まったパイリンホテルは、旧市街の真ん中ほどにある。いちおう上級クラスに分類されている老舗のホテルだ。暮れも押し迫った31日のチェックインということで、念のため僕は昆明に旅立つ直前にチェンマイから予約を入れておいた。僕はそれからバンコクを経由して、ピサヌロークに入ったのだった。暮れの繁忙期に一泊810バーツ、日本円でわずか2000円あまりで宿泊できる「高級ホテル」だから、とりたてて報告すべきものはないといっていい。ただ、僕の部屋からはナーン川の川べりが一望できた。運良くそのとき夕方から始まる大晦日の特設ナイトバザールの準備が始まり、仮設屋台を組み立てる人々の様子を見ることができた。ナーン川にはいまでも水上生活者の粗末な家屋が浮かんでいる。僕はそれを目にしたとき、一瞬小栗康平の映画「泥の河」を思い浮かべてしまった。こんなところでも、珍しく日本人出遭った。ロビーのソファーのすぐ横に、ゴルフ焼けしたような初老の父親と若い娘が座っていた。娘は人目をはばからず日本語でよくしゃべり「お父さん」に甘えるしぐさをした。そのうちどうも様子がおかしいことに気づいた。娘と思っていた女が傍らの「父親」を「キョクチョー」「キョクチョー」と呼んでいたのだ。「局長」は、そのたびに僕のほうをちらちらと見ていた。男のほうはまだ恥じらいがあったが、女のほうにはまるでなかった。僕はタイの田舎町のホテルでいやなものに遭遇してしまったと思い、さっとその場を離れたた。パイリンホテルには、地下に謎めいたカラオケクラブがある。夜遅く寝酒にでもと思って入ったが、中は真っ暗な状態で、僕が席に着くなりボーイはしきりに女を席につけようとした。女を選ぶようにいわれ、しかも「スリープ・ウィズ・ユー、2000バーツ」と耳打ちされた。選ぶにも何も、真っ暗で何も見えない。選択するほどの数の女がいる風にも思えなかった。やがて薄明かりの中にとてつもなく図体の大きなシルエットが浮かび、スタッフの背後に立っているのを目にしたとき、僕はとっさに「ノー・サンキュー!また出直してくるから」と言い残して退散した。
006 2004年1月27日(火)<トップランドプラザ>
小さくて刺激のない町に見えるが、怪しいエネルギーを内に秘めているようなピサヌローク。大都会に住んですっかり便利さに慣れてしまった僕は、どうしても町の風景から「貧しさ」を思い浮かべてしまう。しかし、良く目を凝らしてみるとピサヌロークという小さな町には、必要なだけの便利さや豊かさがそれなりに備わっていることがわかる。町の北側に位置するトップランドプラザは、最大のデパート。ここに行くとひととおり何でもそろっている。置いてある衣服のセンスも悪くはない。もって行ったSDメモリーカードが不足してきたので心配だったが、上階の家電製品売り場にあって128メガのカードを一枚買うこともできた。デジタルカメラなどもすでに店頭に置いてある。街中には「ITマーケット」というデジタル製品専門のショッピングセンターもあった。ただ、品揃えという点でいえば数は少ないし、僕がいつも見て回るパソコンソフトもコピー品ばかりである。便利という店では、この町のいたるところに「両替店」があり、日本で使っているクレジットカードがあれば、ATMで現金を引き出すことができる。
005 2004年1月27日(火)<ナイトバザール>
この町はナイトバザールが面白い。しかし、バザールは町の中に僕が観察しただけで二ヶ所ある。ひとつはもうすでに触れた、川向こうの高地にある若者のナンパエリア「ピサヌローク・バザール」。バーやディスコ、カフェなどの集合地帯で、ここは買い物の場所ではない。よく言われるナイトバザールは、ナーン川の東の土手沿い、それもナレースワン通りに架かるアエカトサロート橋の南側のエリアである。川の土手に沿ってコンテナのような真四角の箱に商品を並べた小さな店が連なっている。雑貨や衣料店が目立つ。この店舗群の最南端に青空大衆食堂があり、これが通称「空飛ぶ野菜炒め」で評判になった店である。何人か調理の男がいたので、僕が「ここですか、あの例の店?」とひとり聞いたら、彼は「そうだ」と答え、傍らにいた男に「おい日本人が来たぞ」と声をかけた。それをみると、どうやらその調理人がやるのらしい。残念ながら、夜も遅く僕は食事をしなかったので男は評判の芸を見せてはくれなかったが、どうも野菜を炒めるとき、中華なべを巧みに操って、空中高くまで放り上げ、鍋を背中に回したりしてそれを受けるものらしい。僕が滞在していた大晦日には川の北東側の土手沿いにも屋台がずらりと並んでいた。これが常設なのか特設のバザールだったのか確認はしなかったが、大変な盛り上がりで屋台一軒一軒覗いて回るだけでも実に楽しかった。びっくり仰天の食べ物も売っていた。あ〜あ、思い出してしまった!
004 2004年1月25日(日)<ワット・プラシー・ラタナー・マハタート>
ピサヌロークの見どころは、と考えはたと困った。もともと観光にあまり興味のない僕だから、行き当たりばったりの行動を続けているからだ。ワットもタイを訪れる人々はさんざん見飽きて食傷気味なのではないかと思う。信仰心の薄い僕も実のところ、タイのあちらこちらにあるお寺の区別がまるでつかない不届き者なのだ。その僕が「これはすごいや!」と驚嘆したワットが、ここピサヌロークの「ワット・プラシー・ラタナー・マハタート」、通称「ワット・ヤイ」である。何が面白いのか自分にもわからない。とにかく信仰心の厚い人々でごったがえし、人はなぜこうまでして何かを信じ、祈るのだろうかと考えさせられるのである。それだけでなく、この寺の仏塔の周りには「市」が立ち並び、ものすごい活気。その地を這うような庶民の暮らしぶりを垣間見ることができる。聖と俗がいつも隣り合わせでいる風景は、アムステルダムの旧教会の周りにある「飾り窓地帯」やミラノの教会の周りの「立ちんぼエリア」を通り過ぎていつも目の当たりにしてきた。ここでも、黄金の仏塔の周りに、地から湧き出たような市のテントがびっしりと立ち並んでいる。旧市街の中心エリアは、どちらかといえば昼も夜も静寂である。この町のエネルギーと活気のすべてが、このワット・ヤイとその周辺に集まったかのような賑わいである。
003 2004年1月25日(日)
ピサヌロークを大づかみに捉えるにあたって、境界線となるのが「ナーン川」と「鉄道線路」である。市街地の中心は、両境界線にはさまれたエリア、通称「旧市街」である。一方、ナーン側の西側は東側より高地になっていて、新市街地にあたる。旧市街からからアプローチすると急な橋を登って渡る感じになる。だから旧市街を中心に商売をする自転車漕ぎのトゥクトゥクは、橋を渡ることができない。往来はエンジンが付いたモトサイで、ということになる。新しく開けた地域だけに、若者向けのシャレた店などが目につく。ここに「ピサヌローク・バザール」という一角があり、夜遊びの中心エリアになっている。ただしバザールとはいっても屋台街ではなく、怪しげなカフェバーが何軒も平屋の軒を連ねているだけ。遅い時刻になると連夜若者たちが出会いを求めて押し寄せてくる、いわば「ナンパ地帯」なのである。僕がカウントダウンを迎えたディスコ「ディスカバリー」もこのバザール内にある。ただし、言い忘れたが、この町には外国人に媚を売るそぶりはまったくなく、遊びのエリアでも案内板やメニューに「英語」表記はまるでなく、もちろん英語を話す人もまずいない。地元や近傍の町から来る客で十分潤っている印象である。残る鉄道線路の東側のエリアは、場末の雰囲気が漂っている。カラオケ店やマッサージ店など、風俗関連の店が、長距離バスターミナルの方に向かって点在している。街角につけ待ちしているトゥクトゥクの運ちゃんに「ラジャプルー」といえば知らぬものはない。この町唯一のマッサージパーラー(MP)も、このエリアの「ラジャプルー・ホテル」の地階にあるのだ。ちなみにこの町でマッサージパーラーでは通じない。「シャワー・マッサージ」と呼ぶらしい。
002 2004年1月24日(土)
ピサヌロークは実に小さな町である。とはいっても、バンコクからチェンマイにいたる鉄道「タイ北線」の主要駅で、特急列車も停車する。通常スコータイに入るにはこの町からバスで行く人が多い。駅舎は、僕の生まれ故郷の下北郡川内町の最寄り駅JR大湊駅に似て実に小じんまりしている。僕はバンコクから空路到着したその日に、4日後のチェンマイ行き特急列車の切符をこの駅で買った。駅員は実に親切で、何の苦労もなく切符は買えた。あとでわかったが約4時間乗車している間に弁当が2度配られ、これで運賃350バーツ(945円)は安いと思った。駅前の広場には古い機関車が置かれ、まるで東京の新橋駅のたたずまいである。目の前にはなにやら謎めいた気配を漂わせる「ピサヌローク・ホテル」という名の旅社があり、その建物の前にはこれも怪しげなトゥクトゥクやバイタクがたむろしている。僕が泊まったのは老舗の「パイリン・ホテル」といい、駅から歩いて7、8分の距離にあった。暮れも押し迫った31日からの滞在ということで、昆明に旅立つ直前にチェンマイから予約を入れて確保した場所だった。
001 2004年1月24日(土)
年末から年始にかけて過ごした北部タイと中国雲南省昆明について、何か書いてみようと思う。ふつう、人は旅から帰ると、心の高ぶりが覚めないうちに記憶を確認し整理しようとするものだろう。ところが僕は、いつもしばらくはその思い出にひたる癖があってなかなか動こうとしない。激しい運動をしたあとにからだを投げ出すと実に心地がいいように、濃密な刺激にさらされ熱を帯びた脳みそを開放して、何日もボ〜っとしていることが好きなのである。
それはそうと、今度の旅を振り返って、まず書かなければと思った町はピサヌロークだ。この町についてネット上で何か書いている人は少ない。僕が直感するかぎり、いろんな意味で実に面白そうな町である。
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