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東京夜話(Tokyo Night Walker's Eyes)
取材秘話と断片スケッチ

取材をしたけれどまだ原稿にできないいくつかのスケッチについて
公開します。有益な関連情報があれば、知らせてください。


秘話その2
  大揺れの台湾地震救援チャリティ<台湾>


  1999年10月上旬、東京周辺の在日台湾人の間で、ちょっとした騒動があった。著名な台湾人が発起人となって有志で企画した「台湾大地震救援チャリティ」が、発起人の願いも空しく流産してしまったのだ。このチャリティの目玉は香港の世界的映画スター、ジャッキー・チェンとアンディ・ラウが参加するというものだった。発起人には日本の国会議員や著名なスポーツ選手も名を連ねていた。関係者に配られた趣意書の日付は10月5日とあるから、わずか一週間足らずでこの大型チャリティ企画は挫折してしまったことになる。
  私を含めた日本人の「野次馬」たちも、ジャッキー・チェンを引っ張りだそうとしたこの企画に注目し期待をしたが、敢え無く数枚の「趣意書」が飛び交っただけの企画倒れに終わり失望した。
  錚々たる発起人の名を連ねながら、企画が実現しなかった理由として、巷間飛び交った噂によれば、当初発起人を中心とする「チャリティ実行委員会」は、スターたちの愛用する物品をオークションにかけ、5000万円ほどの募金を集めようとしていた。ところが、聞くところによればジャッキー・チェンの関係者は、5億円規模の募金ができるチャリティ・イベントを期待していたようで、そうでなければ、過密なスケジュールを調整してまで来日する意味がないということで断ったというのだ。
  これはあくまで噂だ。真相を確めたわけではないので、中止になったほんとうの理由は依然不明である。私はジャッキー・チェン側の言い分も、ある意味では当然だなという印象をもった。私はこの中止劇で、誰を責める気持ちもない。しかし、日本人の目からみてひとつだけ気になることは、その顛末が「日本に住む台湾人の発想を典型的に表出したできごと」だったような気がして複雑な思いにとらわれたのだ。
  この企画は「台湾大地震チャリティ」と名づけられた遠大な計画だった。しかし、どうも有志の集まりの域を出ていなかったようだ。「大物スターを呼びよせる」といきまいてはいても、あくまで個人の人脈を利用してのことで、今にして思えばそれは無理を承知で実現しようとしたものという感じだった。きわめて「身内の集まり」の部類に近かったといえるだろう。
  日本人の目からみて、台湾人は一般的に「目立ちたがることを嫌う」民族のように見える。時にそうした態度は「謙譲の美徳」と映り、好感がもてる場合もあるが、一方で存在感をもっと強くアピールしてもいいようなときでさえ地味で控え目すぎ、私には歯がゆく覚えることがある。すでに経済的に十分実力を備えた人々が多いというのに、台湾人はあいかわらず仲間内で存在を誇示することはあっても、決して社会的に目立つような行為をしない。少なくとも日本にいる台湾人は「身内」での集まり以上に大きな広がりを好まないようだ。学生OB会、学校単位の留学生会、無尽の会など、小さなグループが点々とあるだけで、お互いに噂しあったり、批判しあったりしている。
  台湾人は組織力を行使して「1プラス1を3にする」ような、相乗効果や規模の効果を予め計算してかかることを嫌うようにも見える。もしかしたら、団結することがもともと苦手な民族なのではないかと思うことさえある。
いうまでもなく、在日台湾人華僑の経済的力はすさまじく大きい。世界で最も媒体料金が高い日本で、堂々とテレビ広告を打っている台湾系企業はたくさんある。そうした企業のトップが団結すれば、そうとう大きな組織力を発揮しうるというのに、いつまでたっても台湾系華僑は、個々人がばらばらで、ひとりひとりがひっそりと鳴りをひそめて暮しているような印象だ。
  今回のジャッキー・チェンの担ぎ出しが失敗したのも、マスメディアの寵児ともいえる国際的スターを、身内の集まりに引っ張りだそうとしたことで、双方の行き違い考え違いが折り合わず中止劇に至ったのではないかと考えている。
  東京の華僑に比べれば、横浜の華僑は洗練された『匠』という情報誌を発行し、独自のインターネットのホームページを立ち上げるなどしてPR活動には積極的なように見える。しかし、友情の気持ちから敢えて台湾人に苦言を呈するのだが、日本全国を視野に収めて考えればそれとてもまだまだ「井の中の蛙」の行為に過ぎない。東京の新宿歌舞伎町でも、主だったビルやレストランのオーナーは台湾人なのに、彼らは人前に出ることを好まずひっそりとしている。日々その数が増殖し、大声を張り上げて、いつも傍若無人にふるまっているのように見えるのは大陸から来た中国人たちだ。
  台湾人は確かに「人脈」というネットワークづくりに関心が高く、またそれを構築する才能にも長けている。しかし、「人脈づくり」とは仲間を増やす行為であると同時に、「他」を排除する発想も内包している。台湾人が、身内で固まりやすく見えるのはそのためだ。
  同情の気持ちがないわけではない。台湾人は、日本の植民地時代や、戦後の「二・二八事件」や「白色テロ事件」など、辛く厳しい時代を経験してきた。だから、目立つことが生命や財産を危険に晒す結果になるという強迫観念がはたらくのかも知れない。1972年以後、日本とは国交を断絶した。その政治状況の中で、どんなに経済的実力を備えようとも、「じっと鳴りを潜める」以外に平和に生き延びることができないことを悟っているのかも知れない。いずれにせよ、日本にいる台湾人はその実力からすれば「身の丈」ほども発言していない。ただ沈黙しているだけだ。
  私は、日本にいる台湾人がもっと対外的コミュニケーションに積極的になって欲しいと願っている。在日の台湾人経済実力者も、もっと日本のマスコミなどに登場して発言すればいいのだ。そうすれば、日本に最も近い位置にある外国、中華民国の国家と民族の苦悩を、普通の日本人ももっと分かち合えると思う。台湾の歴史と文化について、多くの日本人がほとんど無知に近い現在の状況は嘆かわしい。それは、隣国の歴史に対する日本政府の教育的配慮の無さにも原因があるが、在日台湾人の「沈黙」にも責任があるのではないだろうか。
  話が脇道にそれるが、私は台湾人の控え目すぎる性格と個々ばらばらで全体をつなぎあわせて考える粘り強さに欠ける点が、今日国際的に通用する「台湾製ブランド商品」の開発を遅らせている原因のひとつになっているようにも思う。
世界のコンピュータの部品の8割近くが台湾製だと聞いてうれしい気持ちにもなるが、その状況はやはり「台湾的だな」と落胆の気持ちもある。物陰に隠れて活躍する「黒子」の存在に過ぎないのだ。「部品」や「素材」の供給に甘んじるのではなく、ぜひ台湾独自のブランドを開発し、「世界で目だつ全体商品」づくりに専念して欲しい、それが私の願いである。
  台湾大地震は、不幸な出来事だったが、わたしは震災の直後に「台湾の高山茶と紹興酒を台湾ブランドとして世界に知らしめる千載一遇のチャンスだ!」と、東京の台湾人の友人に話したら、地震が起こった直後なのに「何と不謹慎だ」といって怒られたことがある。有名な台湾人金城武とビビアン・スーが、それぞれ紹興酒と高山茶のコマーシャルのタレントになって、「日本の皆さん私たちを救うために買ってください。売り上げの10%が紹興酒と高山茶の産地、南投県の産業救済のために寄付されます」というアイデアだった。
  倒壊した家屋の瓦礫を片づけることが急務だというのは分かっている。しかし、住む家を確保したあとで「さて将来どうすればいいのか」と途方に暮れる人も多いだろう。不謹慎と思われても、「落ち着いた先のこと」を騒動と混乱のなかでさえ、誰かが考えておかなければいけないという思いから、そんな広告を発案したのだった。
  それはともかく、ジャッキー・チェンは言わずと知れた、国際的桧舞台で活躍する映画スターである。彼がスケジュールを調整し「ボランティア」で駆けつけて集めようとした募金の額は、在日の台湾系華僑の有志が働きかけて集めようとした額とかなり差があったということだろうか。いずれにせよ、この大地震救援チャリティは大揺れのすえ破産した。おそらく「身内意識」が災いしたのではないだろうか。「チャリティイベント」の趣意書を見ればはっきりしている、それは日本全国の規模で構想したものではなかった。東京エリアのみ、いやもしかしたら新宿歌舞伎町の中の有志だけの盛り上がりで終わったのかも知れない。
  このチャリティの中止劇は、台湾人華僑の団結力や組織力に関していくつかの問題を浮彫りにした。地域の寄り合いの集まりでは、大きなことができないということだ。台湾人は日本にあって、もっと自信をもって自己主張し、目立つことに馴れ、組織力や団結力を高める努力をすべきではないか。たとえば、新宿歌舞伎町のど真ん中に台湾人のプロ野球チームとホームグラウンドをもつくらいの大胆な発想をぶち上げて欲しいのだ。その実力はすでに十分にあると確信している。
  「台湾大地震救援チャリティ」の計画が中止と知ったその日、私は新宿歌舞伎町のちいさな店で台湾人の友人数名と酒宴を囲んだ。そしてその場で、長い間机の引き出しの中にしまっておいた1000円の台湾紙幣5枚を友人に託し、ささやかながら私なりに台湾地震救済のために寄付させていただいた。一日も早い復興を願ってやまない。

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