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三増合戦場


<場 所>
 神奈川県愛甲郡愛川町三増
 

<現 状>
 三増合戦場跡〜志田峠〜旗立松周辺
(石碑、解説板)


◇歴史◇

永禄十一年(1568年)十二月、武田信玄は今川領駿河に侵攻するが、北条氏康・氏政父子によって帰路を塞がれたため、一旦駿河を放棄する。更にその後、北条氏が上杉謙信と同盟を結んだことから、信玄は北条領国への侵攻を開始。永禄十二年(1569年)九月には碓氷峠を越えて鉢形城を取り囲んだ。その後、北条氏照守る滝山城を攻めて落城寸前まで追い込み、ついには北条氏の本拠小田原城を取り囲んだ。北条氏康・氏政父子は積極的に攻撃するのを避けて籠城策を選び、上杉謙信に武田軍の背後を脅かしてくれるよう要請する。このため、信玄は城下に放火して盛んに挑発するが、北条方は籠城策を堅持したため戦線は膠着。長期戦を不利と考えた信玄はついに撤退を開始する。これに対して北条軍も追撃の体勢を整え、北条氏照・氏邦兄弟は関東の諸将を動員し、武田軍の帰路にあたる三増峠付近に全軍を展開して待ち伏せする。
永禄十二年(1569年)十月六日、武田信玄は待ち伏せする北条軍と対峙する。背後には北条氏政率いる北条本隊が迫っているのを察知した信玄は、小荷駄を捨てて戦闘に専念するよう下知を下す。(甲陽軍鑑では、信玄が内藤昌豊に小荷駄奉行を命じたところ「殿軍ならともかく小荷駄は不名誉」と答えたため、「謙信の軍は、小荷駄部隊を崩されて敗れた。小荷駄奉行は重要な役目で、本来ならばワシ自らがしたいところだ」と諭したと書かれている)武田軍は地形の不利などから苦戦を強いられるが、山県昌景隊の活躍によって北条軍を総崩れに追い込み、それを知った北条本隊も撤退した。

◇攻略記◇

愛川町にある三増古戦場に到着。ここは武田軍と北条軍が激突した場所で、現在は石碑が建っている。周辺案内図を見ると武田信玄が大将旗を立て掛けたと言われる松(旗立ての松)があるという事なので立ち寄ってみることにする。この松はゴルフ場(東名厚木CC)から更に上に登った場所にあるので、ゴルフ場まで車で行き、そこから歩いて山を登る。山を登り頂上付近まで来るとなにやらガサガサ音がしている。「まさかクマじゃないだろうな・・・」と恐る恐る近づいて行くと先客のおじさんがいらっしゃった。ここはかなりの高所にあり眺望も素晴らしい。先程のおじさんと挨拶を交わして話しを聞くと「景色が良いので良く来る」との事。「こんな場所で人に会うのは珍しいので写真撮ってもらえますか?」とお願いされて絶景をバックに写真を写して差し上げた。

訪問日:@2005.01.09


◇見どころ◇

東名厚木CCの裏山には信玄が大将旗を立てたと言われる場所に建つ「旗立松石碑」。その当時からの松の大木が残っていたが、大正十二年に焼失してしまい、現在は二世松と石碑が残るのみ。

旗立松付近からの眺望。かなりの高所であるため遠くランドマークタワーや房総半島も見渡す事ができる。ここに来る途中にある志田峠は山県昌景率いる遊軍が下った場所だと云われている。


◇参考文献◇

「歴史群像シリーズ特別編集 図説・戦国合戦集」(学習研究社)
「歴史群像シリーズ 戦国合戦大全 上巻」(学習研究社)