富田林寺内町を舞台にした小説 「母の詩(うた)、晴子とともに」(嶋崎研一様著、朝日新聞社刊)

東筋界隈
初めてお便りします。嶋崎研一と申します。貴殿のホームページは、三年位前から、時々見せてもらっています。素晴らしいページで驚嘆しております。私は、昭和十三年生まれで、富田林第一中学校の時、奥谷君という方と一緒でした。貴殿はその奥谷君とご親戚ではないかと思いながら。 実は、私は、小学六年生の時、岡山県から転校してきました。そして、富田林第一中学校、富田林高校に学びました。幼い頃、両親を失い、富田林の叔母に引き取られてきたのです。この年になって、叔母と叔父の恩愛を書き残したいと小説を書きました。三月八日、朝日新聞社から発売されます。タイトルは、「母の詩(うた) 晴子とともに」ですが、舞台は、勿論、富田林です。昭和二十五年頃から、三十年頃までの、商店街の様子や寺内町の様子を織り交ぜています。昭和25年頃は、敗戦後五年ほどしか経ったおらず、みんな貧しかったけれど、助け合って生きた庶民の姿も、商店街の光景も書き残してみました。銭湯のことや、リヤカー行商のことも書き残してみました。

最後に一つ付け加えさせていただきますが、本の表紙カバーの装画は、「民家と町並み」スケッチで活躍中の岸本信夫さんが描かれた富田林の東筋の光景を提供していただきました。(インターネットで、装画にする材料を探していましたら、私が住んでいた長屋がその絵の中央に描かれていたのです。小説のために描かれたような絵です) それではまた。

http://www.eonet.ne.jp/~kishimoto-sketch/


富田林・寺内町を舞台にした自伝小説を著者の嶋崎研一様(堺市在住)からご案内頂きました。昭和25年頃の寺内町・富田林の様子が活き活きと描かれていますので、作品の中からその一部を引用させて頂きました。

第5章 決心 (58頁)

「ここを下りて石川のほうへ行ってみましょうか?」晴子はそう言って、すぐ横の山中田坂(やまちゅうだざか)を下って、石川の川岸へ二人を連れていった。川岸の向こうに畑も見えた。真一も則代も久しぶりに、そこに小さな自然を見つけて心が和んだ。遠くに山々が見えた。「あの山が金剛山というのよ。あの駱駝のこぶのように二つ山が連なっているのが二上山という山なの。金剛山と二上山の間にあるのが、葛城山という山なの。富田林駅前からKバスに乗って千早まで行って金剛山に登ることができるのよ。」 晴子はそう付け加えた。

第8章 銭湯通い (104頁〜105頁)

8月の夕暮れ時ははまだ昼間の熱気が残り、かなり暑かった。真一は下駄を履いてやはり下駄を履いた恰幅のいい数雄について家を出た。家を出ると、南に向かって歩いた。右手には「万里春(ばんりのはる)」の大きな酒蔵、左手には醤油の醸造場の大きな建物があった。一区画歩くとすぐに堺筋と呼ばれる両側に商店が軒を並べている商店街に出た。そこを左に折れて、かなり勾配のある坂を下っていった。真一と数雄は下駄の音を響かせながら道の真ん中を下っていった。(当時は終戦後五年ほど経った頃であり、自動車は通っていなかった。 自転車が時たま通るだけだった。)左右の店を眺めながら、二人は下っていった。電気器具店、「東ます兵」(寿司・料理扱い)、荒物店、茶碗屋、「柏屋」(御菓子司、創業百二十年)、時計店(時計・メガネ扱い)、写真館、雑貨店(洋品・雑貨・子供服扱い)、ミシン店(ブラザーミシン等の月賦販売・修理)、荒物店、薪炭(しんたん)店(石油コンロ・練炭・豆炭・炭団(たどん)扱い)、菓子舗など色々な店が並んでいた。 (中略)

商店街を下りきったところで、「金剛大橋」と呼ばれる大きな橋の袂(たもと)へ出た。金剛大橋を渡らず、手前で右手に折れて川岸を進めば、すぐに一軒、建物が建っており、「石川風呂」と呼ばれる風呂屋に着いた。石川風呂は、これといって何も無い石川の土手に、高い煙突からもくもくと煙を吐き上げながら建っていた。

(109頁〜110頁)
石川風呂が休業の時は「中風呂」へ行った。家を出て、西に向かって大きな屋敷を三区画ほど行ったところで、南北に走る富筋に出た。富筋の左手に家を家に挟まれて中風呂があった。石川風呂に比べて少し小さい風呂屋であるが、町中にあるため入浴客が多く、いつも混雑気味であったので、真一は好まなかった。しかし、行き帰りは平坦な道で、両側に大きな家が立ち並んでいるので、冬の寒い日は、道中吹きざらしの石川風呂へ行くよりはましであった。

第13章 住めば都 (151頁〜153頁)

殺風景に見えた町も、暮らしてみると色々な店などがあり、色々な人々が生き生きと働いていた。また、楽しい行事が彩りを添えていた。

真一が学校への行き帰りによく通る堺筋には「シミズ」(純毛製品・婦人服地・紳士用品扱い)、「ネザケ」(洋品雑貨扱い)、時計店(時計・眼鏡・貴金属・楽器扱い)、「三和銀行富田林支店」(周辺では珍しい洋風の建物。数雄と晴子が利用している。)、薬局、「田守邦文堂」(新刊書籍・雑誌・文房具・紙製品扱い。時々、鉛筆やノートを買いに入った)、「妙慶寺」、「興正寺別院」、「杉田医院」(小児科・内科。前を通ると薬品のくさい臭いがした)、石材店、「森屋仏壇店」、化粧品店、洋品雑貨店(洋品雑貨・既製服扱い)、「錦タンス店」(家具・製造販売)、自転車店、「塩谷青々堂」(書籍・雑誌・文房具扱い。二級下の女子生徒がいる)、履物店(セカイチョウ運動靴等・各種履物扱い)、「青木歯科医院」などがあった。

真一の家の前の東筋のひとつ西の亀ヶ坂筋は、通称「三和商店街」と呼ばれ、この商店街には、「新松商店」(生鮮食料品扱い。店先に漬物桶を置いているので、前を通ると糠味噌の匂いがした)、「東もんや」(高級呉服・雑貨扱い)、「たにも商店」(紙類・砂糖・銘茶卸・小売。一級下の男子生徒がいる)、「みちばた商店」(食用油脂、石油製油卸・小売)、薬局、「上田久(うえだきゅう)菓子舗東店」、魚屋(三宅久夫の両親が営業しており、前を通ると魚くさい臭いがしたが、鯛や蛸やイカなどが並べられている時があり、物珍しいので立ち止まって眺めた。いつも久夫の母が意気のいい声を張り上げて魚を売っている)、茶碗屋(同級生がいる)、傘店(和洋傘・提灯・旗類扱い。天気の良い日には、店の前の道に、修理した黄色の油紙の蛇の目傘を乾かしていた。かなり強い油紙の匂いがした)、「たばき」(紙製品扱い。一級下の男子生徒がいる)、酒屋(数雄の飲むビールや酒を配達してもらっている。酒類は、全て瓶詰めである)、理髪店、万屋(よろづや)花屋(冠婚葬祭のある時には、忙しそうであった)などがあり、店の前を通ると、店の人々が生き生きと働いていた。

もう少し北に行ったところに、映画館「富田林松竹」(松竹・日活・大映映画封切場)があった。また、そこから少し西に行ったところに「富田林映画劇場」(東映・東宝・新東宝映画上映館)があった。