今年の聖句


二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書 18章20節
 
日本キリスト教会

大阪姫松教会
〒545−0037
大阪市阿倍野区帝塚山1−2−14
Tel 06-6621-0586
Fax 06-6623-0596

牧師 藤田英夫

e-mail:himematsu@mvd.biglobe.ne.jp
   
 今月の説教
      (過去の説教はここをクリックしてください)

御名があがめられますように
                        牧師 藤田 英夫

天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
                                  マタイ六・九

 主の祈りは神を「天におられるわたしたちの父」とお呼びすることから始まります。神を父と呼ぶことは特別なことです。なぜなら、それは神のひとり子の十字架と復活があって初めて可能となったことだからです。わたしたちは神に背く罪人です。そのわたしたちに神が臨まれるとするなら、罪を裁く怒りの神として以外にはあり得ません。でも神は、わたしたちのためにひとり子を与えてくださいました。このお方に一切の罪の責めを背負わせて十字架におつけになったのです。こうしてわたしたちの罪を贖ってくださり、わたしたちを赦してくださったのでした。そして神は、聖霊なる神としてわたしたちの内に働き、信仰という器を通して、ご自身が成し遂げてくださったこの救いの御業を受け取らせてくださいました。わたしたちが神を父と呼ぶことの背後にはこれだけのことが必要でした。しかも神は、ただご自身の愛のゆえに、このすべてを自ら成し遂げてくださったのです。そのことを考えると、神を父と呼ぶことができるということ自体、いかに大きい恵みであるかが分かります。神を父と呼ぶことの背後にあるのは、わたしたちの言葉では表現しきれないほど深く、真実な愛です。この愛と恵みを受け取り、確かめるために、わたしたちは祈っているのではないでしょうか。
 言い換えるなら、わたしたちは神ご自身を得るために祈っているのだということです。わたしたちが持っているものは、見えるものも、見えないものも、すべて神の賜物です。ですが、神が与えてくださるものの中で、他のどんなものにもまさって、主こそが第一の賜物です。主の御業にあずかることを通して、わたしたちは神との交わりの中へ招き入れられます。その交わりこそ救いであり命です。他の何がなくても、この交わりがあるとき、わたしたちは自分のことを本当に尊いものとして覚え、喜ぶことができます。神を父と呼ぶことの中で、わたしたちはこの恵みにあずかっているのです。
 だからこそ、御名が崇められますようにと祈ります。「崇める」とは「聖とする」と言うことです。でもそれは、神の御名が今はまだ聖なるものでないということではありません。これは、神を、神ご自身の聖さにふさわしく崇めることができるものとしてくださいという祈りです。神がわたしたちのためにしてくださることを知るとき、わたしたちはただひれ伏して神を崇める以外何もすることはできません。それでもわたしたちは、何かあると神に言い逆らい、神よりも自分の方を信頼して生きようとしてしまいます。どんなに神の恵みを知っているつもりでもそうなってしまうのです。そんなわたしたちだけれど、しかし主において神を知るとき、なんとしても神をまことに神として崇めることができるようになりたいと願わずにいられません。神が本当に大きなことをしてくださったのだからです。自分でそうなることはできないことは分かっているけれど、それでも神を愛するものになりたいと願います。だから祈らないわけにいかないのです。神は、罪人を深く愛してくださるその愛において、他のどんなものとも比べることができない特別なお方です。その神の大いなる御名を、心から尊び、愛して生きるものにならせていただきたい。神が与えてくださる恵みによって、神に従って生きる新しい人に造りかえていただきたい。神を父とお呼びするのは、そのことを願うからです。そしてそう願うのは、神が確かに恵みを与えていてくださるからです。



                トップページに戻る