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古臭いと言わず観て下さい。面白いのです

ハリウッドの新作もいいでしょうが、昔の映画も観て下さい
過去の積み重ねがあって、今があるのです
当時の世相を振り返り、私が思った諸々を、とりとめもなく語ります

今月のこの一本

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 1964年・日活

   スタッフ

 原作:大島みち子
     河野実
 企画:児井英生
 脚本:八木保太郎
 監督:斎藤武市
 撮影:萩原憲治
 照明:大西美津男
 美術:坂口武玄
 音楽:小杉太一郎

    キャスト

 高野実:浜田光夫
 小島道子:吉永小百合
 道子の父:笠智衆
 入院患者:北林谷栄
 主治医:内藤武敏
 入院患者:宇野重吉
    同:笠置シズ子
    同:都喋々
 
          ほか

 諸々のこと

 「愛と死をみつめて」は、大島みち子と河野実の往復書簡集を基に映画化された。書簡集は、60年に出会った二人が62年8月から大島が軟骨肉腫で永眠するまでの1年間に交わされた書簡を収録したものである。大島が亡くなった翌月、63年9月に河野によって版元に持ち込まれ、12月に刊行されるや翌年末までに135万部を売り、ベストセラーとなつた。
 大島が「手紙だけは最後まで私達二人だけのものでありたいのです」と書いたにもかかわらず、河野はなぜ版元に持ち込んだのか。後日、河野は「前途有望な恋人を21歳の若さで奪われた怒りと、二人の足跡を残しておきたい気持ちで」と語っているが、二人の足跡を公にしなければならぬ理由は何も語ってはいない。

 映画封切りは64年9月だが、その前にテレビドラマ化されている。TBS「日曜劇場」のプロデューサー石井ふく子が、松竹脚本部出身で当時「七人の刑事」などを書いていた橋田寿賀子にホームドラマを依頼。橋田は話題の書簡集をドラマ化して、日曜劇場初の前後編で、前編は4月12日、後編は同19日に放映された。主演は大空真弓、山本学だった。ドラマは反響を呼び、プライムタイムで幾度も再放送された。テレビドラマがブームに火をつけ、映画が作られ、歌が作られて本の売れ行きを後押しする形になった。

 この年、10月10日の東京オリンピックを控えて、国内は雑然としたエネルギーに満ちあふれていた。連続殺人犯西口彰(佐木隆三「復讐するは我にあり」のモデル)逮捕、カルビー「かっぱえびせん」発売、「オバケのQ太郎」連載開始、尾崎士郎死去、産業スパイ初摘発、ジェシー(高見山)角界入り、海外旅行自由化、ライシャワー大使刺され負傷、モーニング・ショー始まる、「ひょっこりひょうたん島」放映開始、「平凡パンチ」創刊、佐藤春夫急死、昭和電工川崎工場爆発、新潟地震、トンキン湾事件、東京水飢饉、モノレール開業、銀座・みゆき族一斉補導、東海道新幹線開業…。

  関川夏央著「本よみの虫干し」(岩波新書)から
 「高度経済成長下の日本人は、たしかに『オリンピックによって人間の身体のもつ美しさを知り、大島みち子によって人間の精神の勁さを知った』(井上ひさし)のであり、また『まこ』の『無謀さ』が彼女の記録を世にとどめさせたのでもあるけれど、戦後日本社会の度しがたい特徴、青年の『幼児化』と『成熟への拒絶』は、早くもここにあらわになっている」

 書簡集からイメージする河野と、映画の高野のとの間に大きな乖離があるように思われる。八木保太郎が関川と同じ感慨をもって慨嘆し、脚本を書いたかどうかは


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「みこ…」 
  ……………       
「どうして来たの、私の病気がどんなか判って?」 

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「父さんとしては手術をしてもらい たい」
「僕もお父さんと同じ意見だ」 

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「元気になれんでごめんね」  
「仕方ないじゃないか」

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予告編

 雁の絵は見ていた!

 愛欲にのたうつ白い裸身を…
 冷たく燃える少年の憎悪を…

 雁の寺

水上勉の直木賞受賞作品を原作に奇才・川島雄三がメガホンを執って完全映画化成る!
女はかくも強きものか
したたかに生きる女の強さを
若尾文子渾身の演技で見せる
問題作ここに完成!!

雁の寺

近日 大公開!!!

分からぬが、高野の台詞は少しばかり「幼児化」を脱している。

  後日談(1996/03/01付 読売新聞から抜粋)
 「先月14日・車京都内のホテルで『21世紀100社会議』と題したセミナーが開かれた。参加したのは会社社長ら経済人約30人。この会の仕掛け人で、自らも『アジア情勢を斬る』をテーマに講演したのが河野実さん(54)。33年前、恋人だった大島みち子さんとの往復書簡を『愛と死をみつめて』の題名で出版し、『マコ』と『ミコ』の純愛は日本中の涙を誘った。現在は『株式会社マコ インターナショナル』の代表である。
 大島さんと出会ったのは1960年の7月。耳の手術のため長野から実家のある大阪へ行き、市内の病院にひと月ほど入院Lた時だった。大学を目指し、浪人中の19歳。一つ年下の大島さんは『軟骨肉腫』という不治の病に冒され、入退院を繰り返していた。『利発で美人で育ちがいいのに偉ぶらない。信州の山猿と播磨のお姫様との出会いでしたね』
 以来、文通が始まった。文通は翌年、東京の中央大学に進学してからも、63年に大島さんが亡くなるまでずっと続いた。3年間で交わした手紙は400通余り。3日に一度はどちらかが書いていた計算になる。『前途有望な恋人を21歳の若さで奪われた怒りと、2人の足跡を残しておきたい気持ちで』、年末に大和書房から出版。135万部という戦後最大級のベストセラーとなった。
 ―まこ…甘えてばかりでごめんネ みこは…とっても倖わせなの。青山和子さんによる歌はその年のレコード大賞に選ばれ、河野さんは「愛と死」ブームの渦中にほうり込まれた。『当時は台風の目の中にいるようなもの。本人はそれほど大変なこととは思ってなかったんです』。とは言うものの取材攻勢に疲れ2か月間、海外を放浪。大学をやめ、もともと好きだった写真を学んでフリーカメラマンとなった。76年、『経済界』に入社。89年に副社長で退職。翌年、会社を設立し、コンサルタントや異業種交流のほか、講演や執筆活動も続けている。
 『愛と死』の出版後、女性読者から2千通近い手紙が寄せられ、その中の一人と68年に結婚した。『あなたは悲劇の主人公になっているが、そんな人は星の数ほどいる、視野を広く持って下さいという手紙とともに、毎月2冊ずつ、文学全集が差出人不明で送られてきたんです』。2年間送られ続けるのを見て、消印を手掛かりに探し出し、1年の交際後に結婚した。2人で大島さんの故郷の兵庫県西脇市に行き、墓前に報告もした。(略)昨年8月7日の33回忌には、みち子さんの父親、忠次さん(84)と一晩中、酒を酌み交わしたという。
 仕事や本の執筆の際に「愛と死」の経歴を忘れない。『それを消したら読者に失礼になるし、欠陥のある略歴になる』。煩わしいことも多いが、仕事上でプラス仁なったことも多いと率直に認める」(猪熊律子)

 以上の記事から窺える河野の生き方をどう理解し、評価するか、それによって映画「愛と死をみつめて」を観る眼は違ってくる。貴方は、どう観るか。(敬称略)

    原爆被災者の恋人の死による悲恋物語

 ●「純愛物語」(57・東映東京)
   監督:今井正 脚本:水木洋子
   撮影:中尾駿一郎
   出演:江原真二郎/中原ひとみ/岡田英次/木村
      功/加藤嘉/宮口精二/東野英治郎ほか
 ●「愛と死の記録」(66・日活)
   監督:蔵原惟繕 脚本:大橋喜一/小林吉男
   撮影:姫田真左久 音楽:黛敏郎
   出演:吉永小百合/渡哲也/芦川いづみ/中尾彬
      /佐野浅夫/滝沢修/三崎千恵子ほか

(2002.05.01)

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