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バルカン紀行4カ国( 4日目:2009/5/22 )
ポストイナ鍾乳洞、国境、ポレチュ、ロヴィニ
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ブレッド湖のホテル出発まで:
05:45 起床。もう車の音が時々する。ワイフは未明まで寝付けず大変だったらしい。しかし、私の場合は爆睡に近く騒音は無いに等しかった。
06:40 スーツケース2個を廊下に出してからロビーに行く。朝食には早すぎ、散歩に出ました。ホテルの角から左側の歩道をブラブラと行く。ホテル裏の駐車場には大型バスが何台もあった。ツアー客の宿泊は多いようです。その辺りから昨日ゆっくりしたブレッド城が朝日を受けてよく見えます。垂直に切り立った大岩壁の上のお城は見事でした。その遥か後方にはピラミッド型の白い山すら見える。スロヴェニア最高峰のトリグラフ山でしょう。歩いた辺りはポツポツと住宅らしき建物があり、木々の緑と可憐な草花の咲く草地も多かった。知られた湖水リゾート、日本なら別荘地の趣きで町並みもきれいなものでした。

06:55 ホテルP階のレストランに入る。予定より少し早くオープンでした。
ツアーメンバーの多くは既に来ています。適当なテーブルに決め、食べ物を取りに行く。リンゴ・ジュース、フルーツ・ミックスにヨーグルト、バンにバターとジャム、メーンの皿にもハム・ベーコン・チーズ・卵焼き・サラダ類など量も種類も十分にもらいました。毎日ならメタボ体型に直行ですが、私は旅行中だけです。これが旅の楽しみの一つになっている。

Blejska Kremna Rezina(ブレッド湖のクリームケーキ) 昨日の何時だったか、添Yさんが「当地の名物ケーキにクリームシュニッテ(Cremeschnitte/独語)があり、ホテルのレストランで出ることもあります」と案内していた。 スロヴェニアでは Blejska Kremna Rezina(ブレッド湖のクリームケーキ)とか kremsnita(実際は"s"ではない) というらしい。当地は歴史的に長い間ウィーンを本拠とするハプスブルグ家の支配下にあり、自然にドイツ流のクリームケーキが定着して名物になった。いにしえの影響なのでしょう。
ワイフは食後のコーヒー(カプチーノ)を取りに行った。その時、目敏く皿に残ったクリームシュニッテの最後の一切れ見つけ、それをテーブルに持ってきた。一口だけ相伴したが、楽しめる味でした。

07:20 部屋に一旦もどった。
07:45 ロビーから階段を降りて裏口から駐車場に向かった。荷物は積み終え、ドアーは開いている。既に御夫婦1組が乗車していた。
直ぐに次々と乗車、添Yさんの人数確認が済みしだい発車です。

バス移動(ブレッド→ポストイナ鍾乳洞):
07:55 出発。
08:05 ブレッドの空港の傍を走った。ここは Lesce-Bled Airport といい、地域の自治体が設立した運営組織が管理している。主に Aero Club ALC Lesce-Bled とか Flycom などのプライベート・クラブが利用しており、一般向けの定期便はない。 しかし、グライダー用としては歴史もあり良く知られているらしく、世界記録の保持者もクラブメンバーに数人いるようです。ソアラなど高性能なグライダーは上昇気流を見つけて上昇し、高度を得るとそこから1度に数10Kmは滑空するそうです。それを繰り返してアルプスを越え、1000Km以上の国際飛行を楽しむというのだからスケールが大きい。ついでながら、世界記録は南米アンデス山脈で3000Km以上の滑空らしい。

山麓の緑豊かな森では時々ニセアカシアの白い花が満開の様子でした。
スロヴェニアは東の国境でハンガリーと接している。ブダペストに行った時(2004年5月)、無数のニセアカシヤが見事に満開でした。欧州では良質・高級品とされるニセアカシアの蜂蜜生産が盛んと聞きました。スロベニアでも同じでしょうか?
08:10 この頃に高速道路にのる。
08:27 料金所を通過した。

カルスト地形(Karst Topography/石灰岩の造形): 08:50 時々石灰岩の白い岩肌が見える山中の道となった。スロヴェニアは国土の半分が石灰岩とされるが、特に北西部の比較的限られた石灰岩の地域(イタリアのトリエステ湾とスロヴェニアのヴィパヴスカ谷〔Vipavska Valley〕)をクラス地方(The Kras)といい、石灰岩地形を表すカルスト(Karst/独語)の語源になったとされます。スロヴェニアでは8000以上もの洞窟が見つかっているが、約20の鍾乳洞が一般に公開されているらしい。その多くがこのクラス地方にあり、ツアーがこれから訪ねるポストイナ鍾乳洞はアメリカのマンモス・ケープに次いで世界第2の大きさ、欧州では最も大きい、とされています。他にもユネスコの世界遺産に登録されたシュコツィアン洞窟群(Caves of Skocjan)が知られている。規模が大きい鍾乳洞は見応えがあるが、カルスト台地にはいろいろなタイプの自然の造形があり、ドリーネ(doline/sinkhole/擂鉢型の窪み)、ウバーレ(uvale/ドリーネが集まり1つになった大きい窪地)、カッレン(Karren/Karrenfeld/鋸状の地形)、小峡谷、地下水脈、間欠湖(Intermittent Lake)などが知られている。自然の中でも変化に富んでいるのです。

話は前後して旅行も終りのころ、スロヴェニアで見なかった大小のドリーネをクロアチアのプリトブッツェ湖群国立公園の近くで車窓から数多く見ました。ドリーネは雨水が石灰岩の地下に浸み込む時に周辺の石灰岩を溶かして出来た擂鉢状の窪地です。日本でも秋吉台だけで大小のドリーネが何千個もあるとされる。その中には石灰岩の台地が擂鉢状にはっきりと丸く窪んだ場所すらあるのです。プリトヴィツェ湖群国立公園の近くでは、ポコポコと続く小型のドリーネの底部で畑を作っている村もあった。小規模なドリーネが集まった地形だけではない。広大な草原にしか思えないが、良く見ると遥か彼方の中央部に向けて僅かに傾斜し、その中央には広く草がない。大雨が降ると四方八方から水が流れて中央部に水が貯まり池になる。その水は石灰岩を溶しながら地中に少しづつ浸み込むのです。水が完全に地下に流れ込むまで時間がかかる。それで池はしばらく存在し、植物が育たない。傾斜が極めて緩やかな巨大なドリーネ(専門的には多分違う名称)で、池は出来たり消滅したりするので確か「間欠湖」と呼ばれている。添Yさんの指摘で気付いたもの以外にも自分でそれと分かるものもありました。見逃し易いが、珍しい地形の一つです。

注: ツアーでは寄らなかったが、スロヴェニアのセルクニカ湖(Cerknica Lake)が間欠湖として知られているようです。 「Notranjska Regional Park (英語) 」が写真付きで参考になります。

09:10 高速道路のポストイナ料金所を通る。

ポストイナ鍾乳洞(Cave of Postojna/Postojnska jama): ポストイナ鍾乳洞(Cave of Postojna)
ポストイナ鍾乳洞、右の建物が入り口、左の洞窟の穴が出口
日本語パンフレットの一冊、洞窟内は撮影禁止なので表紙をお借りしました。
09:15 ポストイナ鍾乳洞の広い駐車場に到着した。
無料の公衆トイレを利用したが、清潔なものでした。その後、山麓が急峻に立ち上がる場所の洞窟入口まで歩きます。途中には昔は洞窟の流れだったのか曲りくねった細長い池もある。その橋を渡ると鍾乳洞の門前町になった。土産店や大衆食堂やレストランなど色々あり賑やかです。
09:30 鍾乳洞近くで短い自由時間となった。土産店を物色すると大理石の土産物なども多くある。しかし産地が何処なのか分からない。結局は冷やかしに終わりました。
09:45 集合。そろって鍾乳洞の入口にむかった。

09:50 この鍾乳洞は片道2Kmをトロッコ電車で行く。現地ガイドさんが切符の手配をして日本語のパンフレット2種類を配付してくれた。それから改札口を通り、乗り場まで地底の道を歩く。もう団体として歩くことはできず個人行動です。
途中でカメラマンが観光客の写真を撮っていた。事前の説明では、出口に撮影した写真が張り出され、希望者は自分で自分が写っているものを見つけて購入するのです。もの凄い人数だったので撮影写真の枚数も多く、ツアーなら時間がなくて購入は難しいでしょう。
09:58 乗場に到着。細長い人道の両側にトロッコ電車の軌道がある。台車の上に2人用の椅子が縦に4脚ある簡便な車両が長く連結されている。到着時にはトロッコ電車がいたが、ほぼ満席で乗車は見送った。これが出発したら次が直ぐバックで入ってきた。ここは乗車専用で降場は別の場所になる。

ポストイナ鍾乳洞
Postojnska jama

この洞窟は全体の長さが20Km以上とされる。鍾乳洞は3層からなり、最上部の洞窟は乾いているが下の2洞窟は地下のピウカ川が浸水している。ピウカ川はポストイナ鍾乳洞の入口の近くで見ることができ、地下で洞窟に流れ下るとされる。
オールド・ケイブ(古い洞窟)は1818年に発見され、それ以後に多くの地下道が見つかりました。石器時代の原始人や13世紀頃の人が入った痕跡が発見されているようです。
1872年にオールド・ケープに軌道が敷設され、1967年に複線化されました。洞窟の入り口から約2Kmはトロッコ電車で入る。観光できる部分は約5.2Kmあるが、電車の終着駅から約1Kmを徒歩で観光するのが普通となっている。洞窟内の温度は安定し通年10℃とされる。
電車はペリカゴラ(大山)まで行く。そこの上部がこの洞窟の最高点です。そこから、ロシア橋、レペ・ヤーメ(美しい洞窟の意味)、ホワイト・ホール、レッド・ホール、タイガーズ・ホール、ウィンター・ホール、ブリリアント・ギャラリー(代表的な鍾乳石ブリリアントあり)、コンサート・ホールとまわる。
この鍾乳洞には多くの固有種が生息しているが、類人魚(Proteus anguinus)という目が退化したヤモリのような両生類がいる。エラ呼吸と肺呼吸を使い分け、1年近く食べずに生きることができ、寿命は80〜100年とも推測されている。 参考資料:
入場で配付された日本語パンフレット2冊&その他
10:02 この頃に出発。
トロッコ電車はオールド・ケイブをクネクネ曲がりながら走る。人工的なトンネル部分もあるが、大部分は自然の洞窟です。いろいろとライトアップされた場所もあり、大きな洞窟と直ぐに体感できる。電車は岩壁スレスレに走ったり、思わず身を縮め頭を下げるほど天井が低い処も数か所あり、狭い洞窟では反響で走行音が大きいし、スピード感もすごくてスリル満点でした。戦争で利用されたり恐竜の化石が見つかった洞窟を2Kmほど奥に入るのです。
10:12 この頃に到着。写真撮影禁止のマークがある。

到着場所から道はクネクネと上り坂となる。洞窟自体は大きな空間でも山状になった処に道があり、それに沿い幾つものグループが出来ていた。ガイド付きツアーは英語やドイツ語など異なる言葉で集まる場所が決まっている。事前に英語グループ参加と指示があり、”INGLISH”と看板のあるグループ近くで止まった。英語ガイドは太ったオバサンでした。大声で鍾乳洞について詳しく説明していたが、実は良くは分からない。初めは一緒に行動したが、直ぐに英語グループから離れ、説明なしで自由に見歩きました。洞窟内は一本道で最終的にトロッコ電車の乗場に出るので心配はありません。

今まで、日本の秋芳洞やニュージーランドのワイトモ洞窟、アメリカの?洞窟(昔のことで名称は忘れました)と3鍾乳洞を見たことがある。それぞれ特色があり楽しめる。しかし、洞窟の長さを含め規模はここが断トツです。鍾乳石にも色々な形のものがあり巨大化したものもある。しかし、その多くは洞窟の床から上に成長する石筍でした。天井からぶら下る鍾乳石は小型のツララ状が多いが、ウェーブ状に布がぶら下ったように成長したものも時々あった。薄茶色の石灰石が多いが中には白や赤に近いものもあり色にも変化がある。洞窟内は広くなったり、狭くなったり、大空間だったり、いろいろでした。歩道は整備されており、足元が濡れる心配はなかった。最後に類人魚が生息する近くや、ジェラ紀の大恐竜の模型が展示された場所にでる。そこからトロッコ電車の乗場は近くです。

洞窟内は写真禁止ですが、実は大勢が撮影しています。私もフラッシュは使わずISO値を上げて何枚か撮ってみたが、洞窟内では綺麗な写真は難しい・・・。禁止は禁止でしょうネ。

11:10 電車乗場に到着。
11:15 この頃、出発。
11:25 この頃、洞窟の出口駅に到着。
11:27 入洞時に撮影された写真が展示された場所を通り、洞窟の自然の穴から外にでる。
その右側はトロッコ電車の乗場入口です。その直ぐ先にレストランの建物がある。

昼食(ポストイナのレストラン): 11:30 建物の玄関から入りホールの一番奥に階段があった。それを上がると直ぐ大きいレストランだった。団体席は予約されており、我々は6人用のテーブルに他の御夫婦2組と座りました。
ウェットテシューで手を拭く。欧州なら何処でもパンがでる。これは手で千切って食べるのが普通です。添Yさんと店の人が飲み物の注文取りに回った。我々は2人でビール小瓶一本(2.50Euro)にする。グラスは頼まず、テーブルにセットされたワイン用ゴブレットを使った。
訪問者の多い有名観光地のレストランです。サラダ、メーンデッシュ(ターキー料理)、デザートと間の取り方もよろしく運んできます。日本では鶏肉は料理に多用されるが、七面鳥はポビュラーではない。久々にあっさりした食感を楽しみました。
最後に飲物代の集金があった。手持ちのユーロから小銭を探して支払いました。
12:30 レストランを出て駐車場に向かった。
料理の写真はどういう訳か色調が良くなかった。でも、PHOTO(ポストイナ鍾乳洞) のページに掲載してあります。

バス移動(ポストイナ→国境→ポレチュ): バス移動(ポストイナ→国境→ポレチュ)
12:40 バス出発。
しばらく後にポストイナの町が遠方に見えた。
13:00 高速道路に乗る。
これから西に向かってイタリアのトリエステ近くからイストラ半島を南下してアドリア海の古い町ポレチュまで行きます。
沿道ではレースフラワーとか云う白い花やエニシダの黄色い花が見られるようになった。時々ブドウ畑もあり、白ワインの産地でもあるようです。石灰岩を含む土壌のためか味は酸味が強いらしい。
国境に近付いたら添Yさんからシートベルト着用の勧めがある。国境警備官が乗り込むことがあるので用心でしょう。国境エリアは写真もダメです。

イストラ半島は第1次世界大戦後にラパロ条約(1922年)に基づきイタリア領となった。第2次世界大戦後の1947年に海港トリエステを除く部分がユーゴスラビア領となった。1991年のユーゴスラビア解体によりクロアチア領とスロヴェニア領に分割される。

EUから陸路で出域のスタンプ
国境〔 スロヴェニア→クロアチア 〕
13:55 スロヴェニアの国境検問所に到着。
スロヴェニアはEUメンバー国ですが、隣のクロアチアは加盟申請中ながら未だEU域外です。1昨日フランクフルトでEU入域後にオーストリアとスロヴェニアを移動したが、ここでEU出域となります。国境警備官がバスに乗り込み、1人づつパスポートを確認しながら右の出域スタンプを押してくれました。ここは DRAGONIA といい、古い塩田がある。
スロヴェニアの国境検問所を出るとしばらく緩衝地帯です。
15:05 クロアチア国境検問所に到着した。
詳細は記憶していませんが、確か、ドライバーさんがツアーに関する書類を持って事務所に行き、入国手続きをまとめて済ませました。

国境の両替所: 14:18 クロアチアはクーナ(Kn)が通貨です。食事時の飲物代、トイレ・チップ(2Kn)、枕チップ(5Kn/1人)、お八つ代や土産代など現地の通貨が無ければ不自由です。国境検問所のクロアチア側に両替所があった。便利なことに日本円から直接の両替ができる。必要額は分からなかったが、添Yさんは小額で間に合うはずという。当座用にワイフが5000円をクーナに両替した。手数料込みで 258.48Kn だったので 1Kn = \19.35、暗算用は 1Kn = \20 でしょう。当面の小銭として、100クーナをワイフから貰った。
14:22 バス出発。

スロベニアの塩田: 既にクロアチア国内を走っているが、車窓の右側(道の北側)の風景は未だスロヴェニアです。アドリア海までドラゴニア川が流れ、その川が作り出した平坦な谷が続いている。
14:24 車窓から遠方の谷底に塩田が見えた。ほんの一瞬でしたが、広いものに思えました。

帰国後に調べたところ、この地では14世紀ごろに製塩が始まり、スロヴェニアの国境地帯でアドリア海近くのピラン(Piran)郊外には広大な650haにも及ぶセチョブリエ塩田(Secovlie Salt Pans/Secovijske Soline)がある。実際には放棄されて塩分を好む植物が繁茂したり鳥の楽園となった塩田が多いらしいが、企業の資金援助もあり、一部の塩田では天日による製塩を行っている。従業者は全体で数十人程度らしく、製塩博物館を持つ公園でもあるようです。
日本でも昔は入浜式(潮の干満を利用)とか揚浜式(海水を散布)という塩田が各地にあったが、現在は製塩より展示用に保存されている程度です。スロヴェニアの塩田にも2種あるらしく、1つは天日による海水の濃縮と塩の結晶化を同じ塩田で行うもので、もう1つはその2つの工程を別々に行うものです。共に操業しているが、どうやら後者に軍配が上がっているらしい。

車窓からはブドウ畑やオリーブ畑などを時々みます。イストラ半島の農地はポーキサイト(アルミ原石)を含むので赤色が多いとされる。しかし、石灰質の土壌らしく白っぽい土の畑もあり車窓からは様々でした。欧州の農村部に多いが、小高い丘の高い所に教会とその尖塔があり、周辺の傾斜地には住居などの建物が群がる光景が時々ありました。
イストラ半島の産物として有名なのは地中の茸トリュフ。イタリアの白トリュフや黒トリュフが良く知られているが、ここイストラ半島の内陸部も白トリュフの名産地とされる。トリュフ・ハンターと云われる人たちが約1万人もいるそうです。かつてはヴェネチア王国やイタリアの領土だったためか、イタリアで販売される白トリュフの半分以上がイストラ産という調査結果もあるようです。日本で売られる松茸も輸入物(特に近隣国)が多いとも云われる。似た状況でしょう・・・。

15:00 この頃、町らしく家が増えてくる。

ポレチュ旧市街とエウフラシウス聖堂:  ポレチュ旧市街観光
ウフラシウス聖堂のモザイク/Euphrasian Basilica 15:05 ポレチュの駐車場に到着。現地ガイドさん(女性)が迎えてくれた。
ここにバスターミナルがある。しばしトイレ休息でした。
15:10 再集合、旧市街の散策に出発です。西の方向に少し行くと花壇のあるロータリーに出た。もうポレチュの港が見える。直ぐ近くは海のリゾートらしくヨットハーバーだった。 15:15 運よくロータリーの歩道にポレチュ旧市街のマップがあった。使用できるので撮影しておく。
海岸沿いに半島の先に向かって快適な広い道が続いている。まだ春の終りと云える初夏ですが、アドリア海の青空からは強烈な太陽の光が降り注ぐ。それを全身に受けて、潮風を受けながら道を歩くのです。用心して既に日焼け止めをつかっている。汗かきなので大した効果は期待しなかったが、結果論として僅かな日焼けで済みました。汗に流されると思ったが、効果はあったようです。

ポレチュ旧市街マップ、クリックで拡大
ポレチュ(Porec)
ポレチュはイストラ半島の西部海岸の港町、今日でも町の中心部はアドリア海に突き出た小さな半島にあるが、紀元前2世紀には古代ローマ軍がそこに砦を築いた。1世紀初頭の皇帝オクタビアヌス(Octavian)の時代に公的に認知された都市としてローマ帝国の植民地 Colonia Julia Parentium となった。3世紀には既に宗教施設を持つ初期キリスト教徒の組織的な共同体が出来ていたとされる。
ポレチュを代表するエウフラシウス聖堂(Euphrasian Basilica)の歴史は古い。原始キリスト教の最初の聖堂が東ローマ帝国時代4世紀・後半につくられ、パレンティウムの聖マウルス(Saint Maurus of Parentium)に捧げられた。6世紀の中頃(543-554年)に同じ場所の上にエウフラシウス司教(Bishop Euphrasius)によって現存するバジリカが建立された。石材はマルマラ海の大理石とされる。1997年にはエウフラシウス聖堂建築群がユネスコの世界文化遺産に登録された。
旧市街にはローマ時代の要塞都市の遺物が現存している。デクマヌス通り(Decumanus)とかマラフォロ広場(Marafor)などは当時の姿のまま今日でも市民に利用されている。中世は城塞都市であり、当時の遺跡として円塔、五角形の塔、城門が残っている。
市街地と周辺を合せて人口は約12,000人、郊外を含めるとポレッチ地域全体の人口は約17,000人になる。クロアチア人がほぼ75%で、他にイタリア人、セルビア人、アルバニア人などで構成される。宗教はカトリックですが、異民族には比較的寛容とされる。1947年までイタリア領だった。イタリア名はパレンツォ Parenzo になる。
参考文献:Ref.02、Ref.03
参考サイト:
Tourist office Porec, Istria, Croatia
Euphrasian Basilica
途中の右側、ナロドニ広場近くに小さいながら優雅で均整のとれた建物がある。クロアチア国旗が掲げられ、官庁かもしれません。
その先の広場奥に石灰岩で造られた円塔がある。高いものではなく、外壁の石灰石も古さを感じさせる。ポレチュは、南のドブロヴニクと同じく、城壁に囲まれた城塞都市だった。その時代の遺跡の一つらしいが、驚いたことに”CAFFE・BAR”の看板がある。中世の遺跡を喫茶店にするとは! 遺跡も現代に至るまで実用に供されるのがポレチュなのかも知れません。
その近くの岸壁にはクレーンを装備した漁船が何隻か係留されている。アドリア海の新鮮な魚をポレチュのレストランにも供給しているのでしょう。
海岸沿いに半島を2/3ほど行き、右折して細い横断路に入った。幅は4mもあるでしょうか?途中の左にオープン・カフェがあり、欧米系の人達が大勢休んでいた。我々のグループに気軽に声をかけたりするので観光客らしい。
その先に交差点がある。我々は直進で北に向かうが、東西は「デクマヌス通り」といい、古代ローマ帝国の都市植民地の道そのもの、半島の先端近くのマラフォロと同様に、当時の姿のまま今日でもポレチュの住民や観光客に使われている、とされます。添Yさんの表現では「ポレチュの銀座通り」、一番賑わう商店街なのでしょう。
我々はデクマヌス通りは後で歩く。今は直進して半島の北側に向かった。

エウフラシウス聖堂(世界文化遺産):  15:43 司祭館がある細い石畳の道を歩き、エウフラシウス聖堂の正門に到着した。この聖堂(バジリカ)は礼拝堂・本陣のモザイク画が有名ですが、正門の上部にも半円のモザイク画があった。この小モザイク画の説明にネット上で出会ったことはなく、何時の時代のものか不明です。

正門から細い道を行くと左に中庭、右が礼拝堂となる。まず中庭で現地ガイドさん(添Yさん)の説明があった。ここは礼拝堂や中庭や洗礼堂などの建物群がまとめて世界文化遺産になっている。
中庭と表現しますが、実は「アナトリウム」という。古代ローマ様式の邸宅や公会堂などの前庭のこと、噴水などが設置されることも多かったらしい。初期キリスト教の礼拝堂はその様式にならって建てられた。しかし、信者の増加と共にアナトリウムを取壊し、そこに礼拝堂を建設した。現存する実例は少なく貴重なものとされます。ここの石柱の大理石はマルマラ海から運んだとされます。その上の空間から鐘楼や礼拝堂の上部を見ることができるのです。聖堂の周囲は石造りの建物に挟まれた細い道ばかり、外観は空撮以外ではなかなか見れないようです。

礼拝堂に入る。入口近くの両側の床に手すりに囲まれた四角い穴がある。共に浅い穴の底の古いモザイクがある。エウフラシウス司教が6世紀に現在に残る聖堂を建立した時、この場所には4世紀からの教会堂があった。その教会堂のモザイクの床が保存されているのです。ここから当時の古い貨幣も出土したので時代が特定できたそうです。

礼拝堂は大理石の柱が両側に並ぶ三廊式、典型的な初期キリスト教の建築様式とされる。奥が祭壇となっている。天蓋式の祭壇(チボリウム)があり、その後方上部の壁面には6世紀のビザンチン様式といわれる金色のモザイク画がある。1つはハーフドームで、中央は天使に両側を守られた聖母マリア、幼子キリストを膝に抱いている(聖母子像)。聖母マリアを中心とする祭壇は多いが、実は431年のこと、アナトリアの古代都市エフェソスで開かれた公会議にて聖母マリアがテオトコス(尊称・神の母)として公式に認められた、とされます。年代を考えると、この祭壇のモザイク画は聖母マリアを掲げる最も古いものの1つでしょう。ビザンチン時代の傑作と云われます。
この種の宗教画では稀と思いますが、この大聖堂を建立したエウフラシウス司祭がマリア像の3番目、左から2番目に描かれている。黒衣の立像で左手に聖堂の模型を持っています。ハーブドーム外縁に沿った丸いモザイク画は中央に子羊(キリスト)、左右に6人づつ女性の殉教者が描かれているとされます。その中に次の訪問地ロヴィニの守護聖女エウフェミヤ(15才でディオクレティアヌス帝に処刑された殉教者)も描かれているそうですが、どれかわかりません。
ハーフドームの上はキリストを中心に12使徒がやはりモザイクで直線上に描かれている。キリストの左はペテロ、右はパウロ、らしい。
全体として印象に残るモザイク画でした。
ポレチュのアドリア海の対岸、イタリアのラヴェンナにサン・ヴィターレ教会(世界遺産、1996年)があり、そこのモザイクはここのモザイクによく似ているそうです・・・。しかし、写真で見る限り、こちらはキリスト像で聖母子像ではない・・・。

それから中庭を通って八角形の洗礼堂にゆく。天井は木造りで八角形がはっきりと分かる。窓のある壁面もそうです。床の中央部にあるのが洗礼用の池(?)の跡で、珍しいものでした。洗礼堂の壁面には巡礼者が持ち歩くホタテ貝とキリスト教のシンボル魚のレリーフもあった。これも古いものと思われます。

16:05 エウフラシウス聖堂を出てデクマヌス通りまで戻る。小公園の十字路で左折してスロボタ広場に向かったが、途中で「ゴシックの家」という古い建物があった。白い石造りの3階建てですが、ここだけ2階の窓に飾られた深紅のゼラニウムが印象的だった。クロアチアの一般家庭はゼラニウムの鉢植えを窓に置いて虫除けにする習慣は無いようです。
スロボタ広場近くに城壁の一部だった「五角形の塔」があるが特に目立つものでもなく高い石組の塔でした。外の空間はオープン・レストランだった。

スロボタ広場 : 16:12 広場に到着。聖ドミニク教会前の広場の趣きですが、明るい場所でした。広場の一辺にはカフェが並び、店前はカフェテラスのテーブルが並んでいる。
確か近くの無料公衆トイレの案内があった。しかし、店頭にアイスクリーム・ショップのあるカフェに行き、コーン・アイス(5.00Kn)を買った。直ぐワイフに渡し、「中のトイレ使っていいか?(英語)」と店員にきく。「奥の左(英語)」という。中は片側がバー風のカウンター、もう一方は椅子席が並んだ細長く奥行きのあるつくり、雰囲気はイタリアン・レストランといったところ・・・。トイレは少し狭いが清潔でした。
我々が訪問したバルカン諸国では、公衆トイレの多くは清潔で問題ないようですが、街中やリゾートではカフェがとても多い。そこで飲物など適当に買って店内のトイレを借用するのが意外に便利です。何も買わずにカフェのトイレを借用してチップを置くのはダメ。カフェは公衆トイレではありません。
それからツアーの人たちも同じ店で次々にアイスクリームを買いテーブルで食べながら休んだ。店の人たちは喜んだのでしょう。男性店員が出てきて添Yさんと親しく話し始めた。最後にはツーショットのモデルまで務めるサービスぶり。さすがバルカン諸国に頻繁にくる添Yさん、「顔が広い」と思った。ところが後で聞いたら、初対面という。アドリア海沿岸はイタリアの影響が強いのでしょうか。若くて反応の早い添Yさんはバルカン男性にモテモテのように見えました。最初の挨拶言葉は「サワラナイデ」だったとか、「ほっておくと体中ベタベタさわってくる」そうです。話を面白くしたのかも知れないが、あり得ないことでもない・・・。

14:30 バスの駐車場に向かった。ポレチュは太陽の光が素晴らしい、そんな散策でした。
16:35 駐車場に戻り、バスに乗車。現地ガイドさんは挨拶して帰っていった。郊外でご家族とお住まいのようです。
ここで、盛りは過ぎていたがマロニエの白い花を見かけました。西欧ではよく見る街路樹ながら、東欧の南のバルカン半島では今まで気付くことはなかった。

旅行記の記述の中断(2009.7.7-9.5)
2009年7月7日午前までは、ここまで記述しました。朝からパソコンの HDD が微かに「キー、キー」と音を出し、数時間後には「ガリ、ガリ」と音質が変わり Windows XP が立ち上らなくなった。パソコン(5年使用)は昇天しました。このページを含め、数日分の保存データを消失しました。
夕方、家電量販店に行き、最新型ノートパソコンを購入。 Windows Vista 搭載ですが、10月22日には次期OSの Windows 7 発売と発表になっている。PCメーカーは販売促進策として割安価で Windows 7 にアップグレードできるサービスを付けていた。いずれにせよ、使えるパソコンがないと旅行記の記述ができない。しかし、新PCと新OSの習熟に思わぬ時間がかかりました。
後日、もう一台のパソコン(6年使用)のウィルス・スキャンで「怪しいプログラム」が見つかり、削除のみではパソコンの機能が回復せず、結局は再セットアップとなりました。パソコンは使えても、無線LANの機種を変更したためか、どうしても無線LANの接続が上手くいかない。無線カードの故障らしく、やむを得ず先日に購入したPCの色違いをオンライン・ショップで購入しました。近年はPCなどの電子機器は新発売からドンドンと値下り、驚くばかりです。
ついでにインターネット接続を ADSL から NTTフレッツ光ネクストに変更もした。
それ以外にも、写真集「フォト・トラベログ」の引越し(有料→無料/300MB→1GB)をしたり、ホームページ「北行庵」の問題ページ(気付きながら修正しなかった頁)の多くを補修しました。ホームページの改善は常に必要、サイト運営をする限り続く課題です。
しかし、それはお休みとして、
バルカン旅行記の記述に戻ります。以上で、予定から約2カ月も遅れてしまいました。
(2009年9月5日、記)


バス移動( ポレチュ → リム・フィヨルド → ロヴィニィ ):
今日は既に2カ所の観光を済ませ、移動中はお休みモードでした。

偶然でしたが目覚めて、ポレチュとロヴィニィの間にあるリム・フィヨルド(Lim fjord/Limski Fjord/Limski zaljev)は見ることができました。細長い入江が多少の蛇行を見せながら延々とイストラ半島内部に続きますが、盛上った両岸は肥沃な土壌の雑木林に覆われた斜面です。この森には猪までいるらしい。ロヴィニィから車で20分、入江は海岸から約10Km(Lim Valleyは長さ約35km)、最大幅600m、深さ30m、両側の山は海抜100m以上、という数値も英語サイトで見かけました。[参考サイト: Lim Fiord]
バスはアドリア海側から右にリム・フィヨルドを見ながら内陸に向い、かなり入ってから谷を横切りました。その場所から上流側の谷に海水はなく乾いた枯谷でした。橋は不要な場所に道がつくられ谷を横切るのです。

リム・フィヨルド/Lim fjord/車窓撮影 フィヨルドと言いますが、実は、このリム・フィヨルドは氷食谷(氷河の移動で出来るU字谷)が沈水したものではない。最後の氷河期・前半は海面が低く、イストラ半島の山地から川(Pazincica川/現在は雨後以外は枯川)がアドリア海に流れ、その浸食で長い谷ができた。氷河期・後半になると海面が上昇し、その細長い谷が沈水した。地理学的にはフィヨルドではなくリアス海岸(Rias Coast/Rias)の一例になる。日本では三陸海岸や若狭湾がリアス海岸(リアス式海岸)とされることが多い。ついでながら、リアスの語源はスペイン北西部ガリシア地方の入江(リア/Ria)なのだそうです。

外見上は似た面もある上記2種の地形が明確に区別されたのは古いことではないらしい。
『アメリカの地形学者 D. W. ジョンソンが1919年に溺れ谷をもつ屈曲した海岸線を一般に沈水海岸線と呼び、河川の開析谷が沈水した場合をリアス海岸線、氷食谷が沈水した場合をフィヨルド海岸線と呼んだ。 [出典:日立デジタル平凡社、項目・リアス海岸、世界大百科事典DVD版、1998年]』

ここが「リム・フィヨルド」と命名されたのは定義が明確化した1919年前よりかなり前の事だったのでしょう。誤解しやすいのですが、おわかり頂けたと思います。実はブリトヴィツエ湖群国立公園を見た後にザグレブに移動でした。その途中で類似のリアス式海岸を数カ所もみたので、バルカン半島の少なくとも西側ではよくある地形のようでした。

その後はまたお休みモード、Z、Z、Z、・・・。
17:10 この頃にロヴィニの町に入った。我々が泊るパーク・ホテルは海岸近くにあり、2車線ながら狭く感ずる道を下ってゆく。

ロヴィニのパーク・ホテル(1)到着:
ロヴィニのパーク・ホテル正面の入口 17:27 ホテルに到着。アクセス路や駐車場から海岸の景色は見えなかった。ホテルの建物の外観はスタンダード・クラスながら古いものではなく、安心しました。
スーツケースはホテルが部屋に運ぶので、ロビーで部屋割りを待った。近代的で明るいロビーです。
添Yさんから明朝の予定表と部屋の鍵が配付になる。我々は4階の358号室、フロントの階は HOL階 と表示です。スーツケースは入口近くにまとめてあり、結局は各自で運ぶことになり(そのほうが早い)、奥のエレベータでそれぞれの部屋に向かった。

ロヴィニ(Rovinj)
歴史は古く、ローマ帝国、ヴィザンチン帝国、フランク王国などに支配された。中世にはドブロブニクのような城塞都市、1283年から1797年はヴェネチア共和国に属していた。1763年に海峡が埋立てられ半島となる。その後はオーストリアやイタリアの統治下にあったが、ユーゴスラビアとなり、1991年にクロアチアとなった。
旧市街は中世さながらに細い石畳の道が網の目に続き、あちこちにカフェやレストランがある。リゾートと海釣りで知られる。人口は13,562人 (2007年)。クロアチア人が3/4以上を占め、イタリア人(16%)、スラブ人、アルバニシ人、ボスニア人がいる。
17:35 部屋に入る。
スタンダード・クラスなので広さは普通ですが、とにかく清潔な第一印象で満足でした。
大急ぎで部屋の写真を何枚か撮影し、洗面のみ簡単に済ませてロビーに向かった。
17:45 まだ全員はそろっていない。ロビーの海岸側テラスから見るロヴィニの風景が最も美しいと云われる。プレジャーボートやヨットの浮かぶ港の向こうは小高い丘、その頂点に聖エウフェミヤ教会の尖塔が一際目立っている。その周辺は古き建物が取り囲み、海上のピラミッドとも表現できる感じでした。チャンスなので風景を数枚撮影しておく。

17:50 確か、この頃にロビーに集合でした。これから半島先端部にあるロヴィニ旧市街の散策で聖エウフェミヤ教会まで歩きます。

ロヴィニ旧市街と聖エウフェミヤ教会: ロヴィニ旧市街と聖エウフェミヤ教会
ホテル・パークから港と聖エウフェミヤ教会の見える風景 17:50 ホテルの裏口から海岸沿いの道にでる。ここから各種のプレジャーボートやカフェやレストランを眺めながら旧市街の丘近くにあるチトー広場までは団体として歩いた。聖エウフェミヤ教会まではグループで、帰路は自由散策を楽しみながらの予定です。
海のリゾートらしく左はプレジャーボートやヨットが沢山浮かび、右にはレストランやカフェが並ぶ。東洋人の団体は日本人と相場は決まっているらしく「コンニチワ」とか「イラッシャイ」などと盛んに呼び込みの声がかかる。まだ個人旅行客とツアー客の区別がつかないらしい。でも、愛想良く、悪い気はしない。
アドリア海沿岸のリゾート関係の人達は夏だけ働くそうですが、残りの日々はどうやって生活しているのでしょう?

18:10 チトー広場に到着。
18:22 広場からバルビ門を潜って行くと小広場がある。そこから丘の上の聖エウフェミヤ教会まで古くて狭い坂道を登る。両側には土産店や名物「ガラス板に描いた絵」を売る画商の店などがポツポツある。添Yさん推薦のガラス絵の店があった。店の人が出てきて何やら盛んに2人で話していた。知合いになっているようだった。帰りに寄ることにして、階段の坂道を登る。5月下旬の夕刻だから良いものの、真夏の日中ならさぞ辛い上り坂と思いました。

18:31 聖エウフェミヤ教会敷地の入口に到着。丘の上なのでロヴィニの町の眺めがよい。
白い石灰岩(大理石?)の教会は夕方の太陽光でも眩い位でした。入口は教会堂の裏側になり、正面まで風景を楽しみながら半周です。 教会の正面は広場になっている。デジカメのレンズを広角端(28mm相当)にしてやっと全体がギリギリ収まる広さだった。反対側はアドリア海や聖カタリナ島が見える展望台になる。ここで休む人も多く、教会の撮影はどうしても人物が入る・・・。運よく私はチャンスに恵まれました。

聖エウフェミヤ伝説: 宗教上の伝説の1つですが、史実と確認された事柄も混じるようです。エウフェミア(女性)は290年に現在はイスタンブール市内アナトリア側にあるカルケドンに生まれた。ローマ帝国ディオクレティアヌス皇帝(在位284‐305)は特に303年のキリスト教大迫害で知られるが、この皇帝は15才のエウフェミアを車輪で拷問のあげく円形劇場でライオンに噛み殺させる処刑を行った。ライオンは殺害した遺体を食べず回りをウロウロするだけだったという。遺体はボスポラス海峡の小アジア側にある生地カルケドンの教会に埋葬された。ペルシャの来襲により遺体はイスタンブールの教会に移された。後年になり東方正教会のイクノクラシス(Iconoclasm/偶像破壊)などの理由で800年の秋に遺体の石棺は忽然と消え、光の船に乗ってロヴィニの海岸に現れたという。石棺の上陸にも宗教的逸話があるが、5〜6世紀に丘の上に建てられた聖ユライ教会に納められ、ロヴィニの守護聖女となった。現在の聖エウフェミヤ教会であり、イストラ半島では最大のバロック教会であり最高の63mの鐘楼をもつ。塔の上部にシュロの葉をもつ聖女エウフェミヤ像がある。
[参考資料:Ref.02,pp.238-241 & Ref.03、項目『カルケドン』、『ディオクレティアヌス』、その他]

ロヴィニの小型ガラス絵(20.00Euro) しばし広場で休み、エウフェミア教会を全周するようにして帰りました。 下り坂道の途中にあるガラス絵の店による。ご主人は英語を話すがあまり上手ではない。説明では、「自分のワイフがアトリエでガラス絵を描き、自分がこの店で売る。全部ワイフの絵!」なんていう。私のワイフは宗教色のない小さなアヒルのガラス絵(20.00Euro)を購入した。この店はユーロでも価格表示され、実際に受取ってくれた。インターネットのURLを書いた店の名刺をくれ、説明はこちらという。接続はしていないが、名刺にある名と購入したガラス絵の背面に書かれた作者名は違っている。やはり観光地・・・。でも、ガラス絵そのものは珍しく、十分に小型の飾りになります。

ロヴィニのパーク・ホテル(2)夕食: ロヴィニのパーク・ホテルの部屋、夕食と朝食
19:10 ホテルの敷地に到着でした。
19:15 部屋に戻る。少し休んだ。実は風すらない30℃以上の気温で真夏日でした。そんな外を1時間20分の散歩はつらく、夏バテ状態になりました。大汗をかいたので、洗面を済ませて衣類を取り換え、時間までボーと休むしまつ。スロベニアで泊った2ホテルはエアコン無しだった。つい、その先入観により冷房設備に全く気付かず、「アツイ、アツイ。」

19:45 部屋を出てフロント階のレストランに向かう。
今晩は千葉から参加された年配の姉妹とご一緒でした。妹さんが私より1才年上ですが、お二人ともご主人を亡くされ外国旅行を楽しまれているようです。北海道も各地の旅行を度々されて、我々の地元にも非常に詳しい感じ、「灯台下暗し」で冷や汗の連続でした。
私は自覚以上に疲れたらしく、食事の写真も2枚の撮影のみで終わっています。
飲物は2人でビールの小瓶1本(16.00Kn)です。実はメモも大して残っていないのですが、夕食は皿の感じからバイキング料理だったと思います。少々夏バテで食欲をなくし、朝食から小食でした。
20:25 夕食から部屋に戻った。
やっと冷房があることに気づき、直ぐスィッチ・オン。これで涼しい風を受け、気分的にも落ち着きました。

明日の朝も早い。
モーニングコール(6:00)、スーツケース回収・廊下(6:30)、朝食(6:30-)、出発(7:30)です。
これなら我々は5時起きです。急いでシャワーで汗を流し、休みました。エアコンのお陰でよく眠れました。

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