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バルカン紀行4カ国(5日目:2009/05/23)
長距離バス移動、ザダール、トロギール
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ホテル出発まで:
04:45 起床。
06:15 スーツケースを廊下に出す。
06:20 部屋を出てレストランに行く。
ヴァイキング朝食なので同じようなもの。しかし今朝は種類を多く取った。ワイフは珍しくも梨とオレンジを丸ごと一個づづ食べた。私はカプチーノ2杯で仕上げでした。
06:55 朝食を終えて部屋に戻った。枕チップとして10Knを置く。
07:13 鍵を返却するだけのチェックアウト。
07:15 バスに乗車。
07:20 添Yさんの人数確認後に直ぐ出発となった。

サダールまで長距離バス移動(約320Km): バス移動、車窓の風景
イストラ半島のロヴィニィから東に横切るように内陸部を走り、クヴァルネル地方のオパティアから海岸に出てリエカを通り、素晴らしいアドリア海の海岸と島々を眺めながら沿岸をセンまで南下です。そこから再び内陸の高速道路を利用して南に走り、内陸部から西に向かってアドリア海に出るとダルマチア地方・北部のザダールです。実に長いドライブです。好天気に恵まれたので途中の風景は十分に楽しめました。これは運がよかったとしか云いようがありません。

07:20 ホテル駐車場を出発。
08:15 トンネルの入口。トンネルを抜けると石灰岩の山や谷がみごとでした。
イストラ半島からクヴァネル地方(Kvarner)のオバティア(Opatija)を通ったはずですが、記録がありません。

08:30 この頃にこの頃にリエカ(Rijeka)を通過、ここはイストラ半島の付根近くでアドリア海のクヴァネル湾(Kvarner Bay)に面し、クロアチアではザグレブとスプリットに次ぐ3番目の大都会(人口約14万人)、国内で最大の港をもち主に海上交易の拠点となっている。第一次大戦後にイタリア領に組込まれたがユーゴスラヴィア時代を経てクロアチア領となった。古くは長らくハプスブルグ家の支配下に置かれたので街並みはオーストリア的といわれます。 風光明媚な保養地であると共に石油化学、造船、製糸業などの工業都市であるためか、縁あり川崎市と姉妹都市になっている。車窓からはリエカの市街は遠望のみだった、はずです。

クロアチア観光・道路地図 08:35 高速道路のサービスエリアで15分の休息。トイレ・チップは2.00Knでした。コンビニでペプシ・ライト(3.00Kn)を買った。添Yさんはそこで無料のクロアチア観光地図(英語)を入手、全員に一部づつ配った。さすがクロアチア経験の豊富な人のこと、資料の入手場所も心得ている。広げると大判の地図で分かりやすい。観光先の写真や簡単な解説も多く便利なものです。
08:50 出発。
09:00 山上に古城が見えた。
09:06 自動車道は高台にある。が、目の前には見えてきたのはアドリア海に通づる深い入江の最深部、そこには町がある。町から急峻な山麓(崖?)が立ち上がり道は作れない。代わりにカーブする巨大な陸橋が作られ、バスはその巨大な陸橋を下った。風景はすばらしいものでした。町の名や入江の名は不詳ながら、クロアチアの海洋学校があるそうです。

車窓から遠くにクルク(KRK)島やツレス(CRES)島が見える。この先からクルク島の様相が変わり、緑に覆われた島から白っぽい剥きだしの石灰岩が果てしなく連なる奇妙な島になった。アドリア海の水の色と抜けるような青空の間にあって幻想的な姿になったのです。無機的で、静寂で、この世の風景とも思えない、ものでした。
実は遥か南になるが、コルナティ国立公園があり、公園内にある89もの島の大部分が不毛の岩場とされる。写真から想像するしかありませんが、そこは幻想的なクルク島をさらに細かく分けたような風景かも知れません。

09:30 この頃に、KRIKVENICA を通る。
クロアチアのイストラ半島とクヴァネル地方では、アドリア海の海岸や島々にナチュラリスト・ビーチ(旧名ヌーデスト・ビーチ)が多いと云われます。1934年の昔、公的に認められたナチュラリスト・ビーチが初めてラブ島(Rab)に誕生した。その後その数を増し、今や政府観光局が30以上を紹介するまでになった。政府観光局のリストに掲載されたビーチ以外ではナチュラリストは禁止です。利用するのはドイツ人や北欧人が多いそうです。やはり夏に太陽の光を体全体で十分に浴びたいのでしょう。宿泊はホテルというよりバンガローやキャンプ場の利用が多いらしい・・・。多分、長期滞在なのでしょう。
10:00 この頃、小高い道路を走る車窓の下にチラッとだけ見えた(と思う)ナチュラリスト・ビーチもありました。直ぐカメラを構えたが、車窓撮影は無理でした。残念! (笑)
セン(Senj)近く、アドリア海の無機的な島々 10:09 浅い湾沿いのリゾートの小さな町セン(Senj)になる。ここでトイレ休息の予定だったが、町は車で大賑わい、駐車場が満杯で停まれません。予定を変更し、そのまま海岸を離れ、Route 38 を使って内陸部 Brinje の高速道路に向かった。直ぐにヴェレヴィット山の峠越えの道となった。

センから内陸の高速道路に向かう。その峠のレストラン近く 10:18 上り坂の途中に峠の茶屋カフェ・ジョセフィーナ(Cafe Josephina)があった。その手前の駐車場にバスは停まった。坂を少し上った建物の後ろ側に小さいトイレがあり、利用させてもらう。トイレ・チップは不要だったが、無料の使用は申し訳なく、我々は表の店に入りジュース1本(12.00Kn)を買った。他の皆さんも同じ、何か買っていました。山中のカフェとしては突然の団体客で驚いたかも知れない。でも、ニコニコしてました。駐車場の広さから思うに、時には観光バスが寄ることもあるのでしょう。
10:40 この頃に出発。峠道の南北には1000mを超えるデナリ山脈が走り、峠も標高700m近くまで登るようでした。

11:10 高速道路に入る。
途中の山並みの頂上付近では所々に残雪があった。ダルマチア地方でも冬の山岳部ではスキーも楽しめる、とされます。
12:10 内陸から山脈を西に向かうと両側に海が見えてきた。ここも巨大な深い入江で恐らくはリアス海岸と思われます。デビッド海峡。アドリア海から立ち上る山並みは草木の緑より石灰岩の灰色がめだつ。直ぐに平坦な陸上の道となった。目的のザダールまでもう少し行かねばなりません。
12:25 高速道路の料金所。一旦は出る。この辺りは未だ高速道路が完成していない。
12:40 再度、高速道路にのる。外気温は31℃だった。
13:10 ドライバーさんはレストランの道を間違えてUターンする。その近くには凄く古いコンクレート製トーチカが幾つかあった。何時の戦争に使われたものかは分からない。
13:13 昼食レストランに到着。ザダール市内でも外れです。
今朝7:20に出発したので約6時間もかかった長距離ドライブでした。

昼食(サダール郊外): 昼食のレストランと食事
昼食レストラン 13:13 レストラン前に到着。直ぐ中に入ると思いきや、添Yさんは駐車場から右側の小さい小屋の前に連れて行った。小屋では薪火の上で子羊2体がロースト中だった。アドリア海沿岸の観光客は暑い夏にのみ来る。それで、薪火焼きの子羊ローストは屋外で作るのが習慣らしく、車窓からも時々沿道のレストランでも見かけました。ダルマチア地方の郷土料理として知られているらしい。

ロースト中の子羊の写真を撮ってからレストランに入る。ここはテント屋根のテラスと屋内にテーブルがある。我々の団体席は中の窓の近くに予約されていた。
飲物は2人で一本のビールだった。通常通りのランチで、サラダ、メーンデッシュ(魚料理)、デザートです。子羊ローストを食べたかったが、残念ながら出なかった。
メーンデッシュはカサゴのブイヤベースだった。このブイヤベースなるものは地中海料理の1つ。しかしフランスのマルセーユが発祥地とされ、彼の地では「 ブイヤベース憲章 」まで定めているそうです。それによると、地中海の岩礁に生息する魚のみを使用し、海老類・貝類・タコ・イカは邪道なので使用せず、数時間も煮込む魚の種類は少なくとも4種類以上、となっているらしい。
名は体を表すか?これが分からないのが料理というもの、ここはフランスのマルセーユにあらず、クロアチアはアドリア海沿岸のザダールでした。添Yさん曰く「クロアチア風ブイヤベース。」 率直な感想は、まあ、洋風のサバ味噌煮みたいな・・・。親しみが湧くでしょう?
14:05 レストラン発。
外気温は何と33℃、真夏の灼熱です。海の近くでも湿度は日本の気候とは違っていました。

サダール(Zadar)旧市街観光: サダル旧市街
ローマ遺跡フォロから眺める聖ドナト教会(左)と聖ストシャ大聖堂の鐘楼 14:17 この頃にザダール旧市街に到着。ローマ時代以前の石器時代からイリュリア人が住んでいたダルマチア(Dalmatia)地方で最も古い町の1つとされる。海沿いに現在のザダール市街地は広がるが、そのほぼ中央に長さ約1Kmの小半島があり、高い城壁も残る旧市街がある。

アドリア海沿岸には、今こそ「半島にある旧市街」とされても昔の小島を人工的に陸続きにした古い小都市(ドブロヴニク、ロヴィニ、等)が点在している。ところが観光事情を反映してか、ザダールの紹介サイト(英語)には「旧市街は自然の半島にある」と”太字”で書いたものもあった。恐らく本当のことで、天然の”半島”の先半分に古代都市がつくられたのです。大昔の都市国家間の競争を今なお観光都市間でしている、これを垣間見た思いです。

バスは旧市街に入る門まで行かず、手前で下車となった。透き通る青空で暑かった。湿度は高くはなく、かえって夏らしくて気持ちよい。

ザダール/ザダル(Zadar)
ダルマチア地方北部の中心地ザダールは人口は7万人以上、アドリア海沿岸のほぼ中央に位置する港町です。さらに5つもの国立公園、パクレンシア(Paklenica)、プリトヴィツェ(Plitvice Lakes)、クルカ(Krka)、コルナティ(Kornati)、北ヴェレビット(North Velebit)へのアクセスが比較的楽な立地とされます。
サダールの歴史は古く、石器時代に遡る。紀元前9世紀からイリュリア人が住んでいたが、紀元前3世紀からローマ人が侵入し始めた。前1世紀にはローマ人の支配する地となった。ダルマチア地方の拠点となり、ローマ式の都市が建設されて、城壁、城門、主要路、フォロ、ローマ神殿、水道、ローマ浴場、市場などが設けられた。
都市国家ベネチアのライバルだった故、第4次十字軍により1202年に徹底的に破壊された。1797年まではベネチア、1805‐13年はフランス、1918年まではオーストリア、1943年までイタリアの支配下にあり、第2次大戦後ユーゴスラビアに復帰した。1991年にクロアチアとなる。
2000年の昔を偲ぶローマ時代の遺跡が残され、主要な観光ポイントになっている。
ザダール旧市街の中心に聖ストシャ大聖堂があり、カトリックのダルマチア地方の大司教座(Archbishop)が置かれている。同じ場所に初期キリスト教の礼拝堂があった。その古いモザイク床が今に残っているとされる。
旧市街にある白亜の聖ドナト教会(St.Donat)は9世紀(プレロマネスク様式の時代)に建設されながら、東方ビザンチン様式で2階に廊下が設けられた極めて珍しい構造とされます。ザダールで最も良く知られた建物のようです。
未確認情報ながら、1396年には初の大学が設立、1536年には初めての小説、年代不詳ながら初めて新聞が当地で発行され、クロアチアでは先取的な土地柄のようです。
参考資料:
Ref.02, pp.170-185
Ref.04、項目「ザダル」
find-croatia/ザダール(英語)
中世ザダール観光(英語)
右側は天然の深いヤジネ(Jazine)港が細長く入り込み、船着き場が半島沿いに長く続く。左側は中世の城壁が延々と続いていた。半島の北東と南東の二面には外敵から街を守る高い城壁が今に残っている。ライオンの門(陸の門?)とか海の門(The Sea Gate/Morska vrata)など幾つもの古い城門があるらしいが、調べても良く分からない。城壁と共に作られた古い門は2つのみで他は比較的新しいという説もあった。

14:22 我々は半島の先端近く港側の門から旧市街に入った。城門の名は分かず写真もありません。城壁の中は当初は広い道だった。半島の中央でローマ時代から使われているらしいシロカ通り(Siroka ulica)と交差し、そこで左折した。道の先には両側の古き建物の間に聖ストシャ大聖堂の鐘楼が見えていた。

14:25 聖ストシャ大聖堂(Cathedral of St. Anastasia/Katedrala sv. Stosije)の入口に到着。聖堂入口上のレリーフは聖母マリアを中心にザダール守護聖人ストシャ(アナスタシャ)とやはりザダールの守護聖人ゾイルスが描かれている。素朴な感じでした。 この大聖堂の場所には古くから初期キリスト教の教会があったとされるが、12〜13世紀にロマネスク様式の大聖堂が建立された。ダルマチア地方では最大の聖堂とされ、同地方を教区とする大司教座(Archbishop)がおられます。ウィキペディア情報(英語)ですが、381年にはザダールにダルマチア教区(Diocese in Dalmatia)がおかれ、1146年以来は大教区(Archdiocese)になっているらしい。 中は拝見しなかったが、5世紀ころの初期キリスト教会のモザイク床があるとされる。ここも旧市街の中心部のため大聖堂広場に相当するものはなく、古く狭い街中の巨大な建物です。シロカ通りにある鐘楼なども凝った外観に思えました。

14:35 聖ドナト教会(St. Donatus' Church/crkva sv. Donata)  鐘楼の先でシロカ通りと分かれ右に行く。ローマ時代の遺跡らしきものがあり、右手の白亜の聖ドナト教会が目立っている。9世紀にドナト司教により建立された教会堂はずんぐりした独特な外観でした。建築史上はプレ・ロマネスク様式の時代ながらヴィザンチン様式とされることもあり、基本的には円形になる。内部の2階には回廊が設けられた珍しい構造をもつそうです。観光ウェブサイト(日/英)の多くが、ザダールを代表する建物として紹介している教会です。

この建物の南西は遺跡が散在する広場になっている。ここにローマ時代のフォロ(Forum) があった。単なる広場というより、ローマ帝国の植民地として古代宗教と政治を司った場所なのでしょう。遺跡と云っても素人が感心する程のものはなく、石柱が幾本か残っていたり、建物の基礎部分があったり、そんな空間です。広くはないので奥まで入ったが、古代の柱の基部や柱頭の彫刻などを観ただけでした。
フォロから木々の道を進み、次の見学先に向かった。

14:55 フランシスコ会修道院(Franciscan Monastery/samostan sv.Franje)に到着。 ここはダルマチア地方で最も古いゴシック建築として知られる。入口が開いていたので小さな中庭を巡る回廊を一回りしました。長方形のレリーフが幾つか壁面に埋められていたが、墓のようです。欧州の教会には床に墓が設置されることもありますが、壁面の墓は珍しいと思います。修道院を後にして、海岸に向かいました。
現地ガイドさんは次の予定の時間となり、一足先に帰りました。

15:00 シーオルガン: 半島の北西端は白い石灰岩のブロックで綺麗な岸壁が造られている。先の一部は階段状で海水面まで降りることができ、良い海水浴場でした。幾人か泳いでいる。その手前は水面から白い岸壁が立ち上り、何の変哲もないものに思えるが、ちょっとした仕掛けがある。波が岸壁の下のパイプに入り込み、空気を押したり引いたりする現象を利用して音を出すのです。岸壁上の歩道にハーモニカの吹き口のように四角い穴が並び、「ブォー、ブォー」と低い音が出る。この仕掛けはシーオルガン(The Sea Organ)と云い、35個のパイプで音を出している。今日は風もなく、さざ波。シーオルガンの音も小さく、耳を近づけてやっと聞こえる状態でした。
この施設(2005年設置)は2006年に都会公共施設に関するヨーロッパ賞を受賞したそうです。白く長い石灰岩の人工岸壁に変化を与え、ザダールの観光資源の1つとなったのです。良いビーチというなら白い砂浜を連想するが、カットされた石材でキチッと埋め尽くしても良い海水浴場を作れる一例でしょう。でも、大人向け・・・。
もし日本なら、音ならずミニ波力発電で色々なLEDを点滅させて遊ぶのでは? 自然の力の利用は同じでも、設備費と維持費が現代の産業に直結なので向いている・・・。
で、ヨーロッパは多少は豊かになり、日本は何時までも支払いに追いかけられる。

シーオルガン近くからザダール旧市街の海岸線とアドリア海、右下は海水浴用の階段

これで観る予定は済ませました。素晴らしい海岸沿いの道をゆっくりとフォロまで戻った。海岸に突出た桟橋(上の写真)があるが、その近くにアルフレッド・ヒチコック監督の大写真がある。クロアチア政府観光局サイトを引用すると『 映画監督A.ヒチコック(1899-1980)は、ザダル滞在時に、ザダルの日没は世界一だと述べた。』それ故の写真です。

15:21 フォロの木陰で5分程度の休息。強い日差しの下での散策はやはり目や体に刺激が強すぎるようでした。ローマ時代の遺跡らしき石の破片を椅子代わり、心地よいそよ風で身を涼めました。贅沢な一瞬です。近くにいたクロアチア人のオジサンが話しかけてきたりする・・・。
聖ドナト教会を過ぎ、シロカ通りを横切り、旧市街の細い道を進んで「海の門」に行く。それを潜って旧市街から港の道に出た。バスは近くで待っていました。ヤジネ港の写真を撮ってから乗車した。

トロギールまでバス移動: サダールからトロギールまでの車窓風景
アドリア海の牡蠣の養殖 15:35 ザダールから出発。
これからアドリア海沿いに南東に向かい、ビオグラード(Biograd)、シベニク(Sibenik)、プリシュテン(Primosten)、マリーナ(Marina)など沿岸の町を通り、約125Kmのバス移動です。正直、時々車窓撮影をした程度です。
通過する集落はオレンジ色の屋根に白壁が多く、バルカン半島でも南欧の趣が濃厚と思えました。
沿岸には大小の島々があり、時には内海に左の写真のような牡蠣の養殖場もある。日本では筏を浮かべて養殖するが、ここでは大きな黒い風船状の浮を使っていた。明日寄るストン(Ston)という田舎町は生ガキが名物の1つらしいが、そこの養殖場も同じ風船状の浮を使っている。クロアチア(もしくは欧州?)で共通するカキ養殖の道具のようです。
17:35 トロギール市内に入る。

トロギール旧市街(世界文化遺産): トロギール旧市街
トロギール、広場の聖セバスチャンの時計塔(15世紀) 17:40 長距離バスターミナルの近くで下車。
木々の多い場所だった。車が行き交う表道の向こうに大型スーパーがあり、その道の左先には広い青空市場がある。我々はスーパーの前から海側に伸びる道に進んだ。先には運河に架かる石橋がある。
トロギール(Trogir)市街は本土とチオヴォ島(otok Ciovo)に広がるが、その間の海峡に南北300m・東西500mの小さな島があり、目的の旧市街はその小島にあった。

トロギール(Trogir)
人口は11,000人 (2001年)程度、郊外を含めても13,000人程度のようです。
小島(南北300m・東西500m)の旧市街は1997年に世界遺産に登録されました。
豆歴史
イリュリア人の地に前3世紀からギリシャ人が植民地トラグリオン(Tragurion)をつくった。ローマ時代にはサロナ(Salona)が繁栄しトロギールの優位を奪った。スラブ族の侵入でサロナは破壊され、その市民はトロギールに逃げ込んだ。9世紀からトロギールは地域の支配者に年貢を納めたが、12世紀に自治権を持つ都市となった。トロギール司教区は11世紀に設けられた(1828年に廃止)。しかし直ぐ1123年にはサラセン人に征服された。13世紀と14世紀の経済発展により復活をとげる。しかし1420年にヴェネチアの支配が始まった。1797年にヴェネチアが凋落すると、トロギールは1918年までハプスブルグ帝国の一部となる。第1次世界大戦の後、スロヴェニア・クロアチア・セルビア連邦、結果的にユーゴスラヴィア王国の一部となった。トロギールの支配階級で人口の半分を占めたイタリア人は1918年後に母国に強制送還された。第2次世界大戦中はイタリアに占領されたが1944年に解放された。その後、第2次ユーゴスラヴィア連邦の一部となり、1991年からクロアチアとなった。
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参考資料:
Ref.02, pp.170-185
Ref.04、項目「トロギール」
Trogir(英語) → 上の豆歴史は部分翻訳
トロギールは小島と本土の海峡を完全には埋立てず、現在も陸続きの半島ではない。本土側と島側の両海岸は盛土し地盤を固め、石材で低い岸壁を築き、海水の運河として整備した。昔は水濠も兼ねたはずです。現在は小型プレジャーボートが数多く係留されたハーバーでした。両岸は整備された公園風です。

運河には自動車も渡れる石橋とかなり離れた場所にアーチ型の歩道橋があるが、トロギール旧市街に行く観光客は石橋の歩道を渡ります。島側に守護聖人イヴァン・ウルスィニの像が立つ北門(陸の門)がある。昔は日暮れと共に北門は閉ざされ、何人も城内の出入りは許されなかったそうです。
ついでながら、島の南東にチオヴォ島に渡るチオヴォ橋(Civoski most)があり、橋の取付けから少し離れた所に南門(海の門)がある。2本の橋は共に生活路でもあり、旧市街の外周路を利用して本土とチオヴォ島の間でも車の往来ができるようになっている。

15世紀には島全体を囲む頑丈な城壁が構築され、城塞都市となった。現在は17世紀の城門と15世紀の一部の城壁が残っている。

トロギール市街、ホテルの窓から、2009.5.23 19:43
左は本土の市街、右がチオヴォ島、間の小島に旧市街があり聖ロヴロ大聖堂の鐘楼が写っている

17:53 我々は北門から旧市街に入り、しばし街の喧騒に別れを告げた。 中世さながらの路地を北門から南門まで歩いて旧市街を横切ったのです。古代ギリシャ、ローマ、ヴェネチアの影響を色濃く残す建物が多くあり、1997年に世界文化遺産に登録されました。まずは、狭い石畳の道を左・右と曲がって旧市街の広場に出ました。

聖ロヴロ大聖堂 (Cathedral of Sv. Lovro) と広場
広場で最初に目に止まるのが聖ロヴロ大聖堂です。この場所に初期キリスト教のバジリカがあったが1123年のサラセンの攻撃で破壊された。その後13〜15世紀になり、同じ場所に現在も残る大聖堂が建立された。大聖堂ながら、昔の司教座は今はないらしい。
トロギールで最も高い47mの鐘楼もあるが、これは後から建てられたとされる。午前と午後の数時間は公開され、塔の上に登れるそうです(有料、5Kn/2009年/英語サイト情報)。

この聖堂で最も有名なのはロマネスク様式の正面入口ゲートとされる。左右にライオン像があり、その各々の上にアダムとイブの立像が一体づつある。その上にはキリスト誕生や東方三博士などの彫刻やレリーフがあった。古く1240年の作品になるそうで、彫刻家の名を付けてラドバンの玄関(Radovan's portal)という。この彫刻家はトロギール生まれとされるがよく分からないようです。ツアーはここまで、大聖堂内部の参観はありません。初代トロギール司教だった聖イヴァン・ウルスィニの石棺が礼拝堂の正面に置かれているそうです。

注: 聖ロヴロ大聖堂は英語サイトでは”聖ローレンス大聖堂/The cathedral of St. Lawrence (with Radovan's portal) ”とされることが多く、地元では短く”Sv Lovro”と呼ばれるらしい。St. Lovro は St. Lawrence のクロアチア語の名称のようです。

トロギール、聖ロヴゥロ大聖堂から出てくる新郎新婦、バラの花弁を降り掛ける 18:10 運よく聖ロヴロ大聖堂では結婚式が挙行されたばかり(今日は土曜日)。大聖堂入口の外にいる親族や友人達に交じって新郎新婦が聖堂から出てくるのを待ちました。本堂から揃って出てきたお2人にはバラの花びらが降り掛けられ、集まった人たちから祝福を受けています。何処の国でも結婚式だけは明るいムードです。
新郎新婦が広場に出ると、大聖堂の鉄格子の門扉が閉められた。もうラドバンの玄関を近くで見ることはかないません。少し早目の到着で我々は運が良かったようです。

18:15 ルネッサンス様式の市役所や時計塔の建物(15世紀)を外から眺め、時計塔の右側にある屋根付きの建物に入った。正面と左は壁だったが、広場側は柱のみで良く見渡せる作りだった。この種の開かれた建物はアドリア海沿岸には時々あるようで「ロッジア(Loggia/Town Loggia)」という。使途は集会場や裁判所など様々だったようです。ここのロッジアは天井の装飾や壁面のレリーフが残っています。広場から見て正面には当地の偉い人らしきレリーフがあり、その下にはリースが手向けられていた。左の壁面にも大きなレリーフがある。上部中央に天秤を持つ聖母マリアが描かれているが、中央部分は四角く削り取られていた。その空白の両側の2人はトロギールの守護聖人らしい。

18:19 広場を後にして細い石畳の小路を南門に向かう。門の近くに聖ニコラ(sv Nichole)g)教会がある。入口を拝見したのみでした。南門(海の門)も北門と同様に大きなものではない。外側の上部には彩色された UNESCO マークがあった。世界文化遺産の印です。
18:25 旧市街の南側は広く長い岸壁が続くプロムナードで椰子が並ぶ。東に向かうとチオヴォ島と旧市街の島を結ぶチオヴォ橋があり、西に向かうとカメルレンコ要塞(kula Kamerlengo)がある。しばし南門の近くで佇み、写真撮影などで楽しんだ。気持良い青空とそよ風、目の前は海峡ながらアドリア海の一部でした。岸壁にはマストを持つ大型帆船らしき数隻も停泊している。よき眺めです。

18:31 プロムナードを西に進み、カメルレンコ城塞が見える辺りでまた旧市街に入る。門があったかどうか?その説明などはなかった。ここには土産店がチラホラある。近海で海綿が採れるらしく、乾燥させた海綿も店頭で売っていた。次第に道は狭く、建物は古びたものが多くなった。そんな所をグネグネと通り過ぎると北門が見える広い道になった。これでトロギール旧市街の散策も終りです。

トロギール北門近くでアイスクリーム 18:45 北門を出ると右側に小さな両替所があった。手持ちに不安があったワイフは3000円を現地通貨に両替、手数料込みで約150Kn+alpha でした。そして近くの店でバニラ・アイスクリームのコーンを1個(6.00Kn/約120円)を買い、2人で少しづつ楽しみました。
石橋を渡る前に西側に行くと、少し離れているが運河沿いに公衆トイレがあった。確か無料だったと思うが、男性用は問題ないものでした。
スーパーの近くで駐車場からのバスを待つことになっていた。10分程度は自由時間だった。スーパーでミネラルウォーターを買った人や青空市場で果物を手に入れた人など、各自で過ごしたのです。我々は集合場所でピープル・ウォッチングでした。民族的にはスラブ系が多いはずでも宗教はカトリックが多く、「スラブ人」という感じがしなかった・・・。話す言葉の音感はロシア語に似ていると思うのですが・・・。

19:08 バスに乗車。

ホテル メディナ(トロギール泊り): ホテル メディナ
トロギール、ホテル・メディナ ホテル近くまでは順調に走ったが、公道からホテルのアクセス路に入れない。傾斜地に広い松林の敷地(70ha)を持つホテルの正面玄関は見えている。何事か、車道は渋滞し、歩道はパーティ衣装の物凄い人なのです。後で知りましたが、地元の学校の同窓会が同じホテルであるとか・・・。若い人達が着飾って大勢いる訳です。
何とか正面入り口近くまで行き、バスから降りました。スーツケースの運搬はポーターだったはず・・・。

19:25 ホテルに到着。大きなホテルで宿泊2棟とバンガローを持ち、1300人が泊れるらしい。部屋割りが済みキーを受取るまで待つのですが、広いロビーも若い人たちで一杯、座る場所すらありません。暫くすると部屋割りが終り、次々にキーと明朝の出発までの予定表を受取って自室に向かった。
19:40 渡り廊下を使いロビーとは別の棟に行く。エレベーターに乗り、706号に入室。キーは古いタイプだった。
バスルームやベッドなど調度品のチェック。スタンダード・クラスとしては部屋は広く、子供用のベッドもあり、スーツケースを開くのに問題はなかった。清掃も行き届いて清潔な感じ。それにしても室内が暑かった。まだスロベニアのホテルの記憶が消えず、頭からエアコンは無いものと思っていた。それで窓を開けたりする。窓ガラスのサッシはアルミでも、外側の鎧戸(サンブレード)は木製で古く感じた。
19:54 洗面を済ませてから夕食のためロビー奥の地階にあるレストランに向かった。

夕食: ロビーからレストランに降りる階段の中ほどで部屋番号のチェックがあった。レストランはとても広く、女性スタッフが適当な空席に案内してくれた。直ぐ飲物のワゴンが回ってくる。我々はビール小瓶を一本買い、その場で支払った。ビュッフェ・スタイルなので自分で料理を選ぶのだが、料理の置き場もレストラン中にあり種類毎に別々なのです。まず歩き回って様子を探る。
20:10 基本的なスープ、メーンデッシュ、サラダ、飲物などを集めるのにアチコチ歩きまわった。何となくロシアのホテルを連想し、旧ユーゴの共産党の指導下で建てられたホテルに思えます。ロビーの雰囲気も同様な連想をさせるものでした。が、レストランとして料理の数や味に問題はなく、空腹だったのでメーンデッシュは牛肉料理を追加で取ったりした。十分に食べました。
千葉から姉妹で参加されたお2人と同席でしたが、夕食の間は話が持ちました。ご主人は共に亡くされていましたが、国内外の旅行でいろいろ楽しんでいるそうです。何かと恵まれているように思えました。

21:00 部屋に戻った。
やっとエアコンがあることに気付き(旅ボケ?)大急ぎでスイッチを入れる。涼しい空気が出始めて本心からホッとしました。これで良く眠れます。
例によって、デジカメのバッテリーやシェーバーの充電をセットする。コンセント類もC型で問題ありません。

明朝の予定:
モーニングコール(6:00)/荷物回収(6:30)/朝食(6:00-)/出発(7:30)

我々は5時起床になる。シャワーでサッパリして早々に休みました。

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