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バルカン紀行4カ国(6日目:2009/05/24)
スプリット、長距離移動、コルチュラ島
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ホテル出発まで:
04:45 目覚ましの音で起床。
05:10 ウェイクアップ・コールあり。
05:35 トロギールの日の出。旧市街の聖ロブロ大聖堂の鐘楼も見える。部屋から撮影しておいた。
06:10 スーツケースを部屋から廊下に出し、ロビーから階段を降りてレストランに行く。
06:40 部屋に戻る。スーツケースは搬出されていた。
07:00 フロントでキーを返却するだけのチェックアウト。
07:05 バスに乗車。後部座席に座るつもりだったが、全て他の人たちに占領されている。後ろから5番目の席にする。

バス出発:
07:21 添Yさんの員数確認後に出発。今日も素晴らしい快晴。
これからローマ帝国のサロナ(Salona)遺跡があったソリン(Solin)近くを通り、クロアチア第2の大都会スプリットに向かう。

ローマ帝国、ディオクレティアヌス皇帝、在位284‐305年 ディオクレティアヌス
Gaius Aurelius Valerius Diocletianus

ディオクレティアヌス(244(?)‐316(?)年)、ローマ皇帝(在位284(?)‐305年)。
ダルマチアのサロマ(現ソリン)の奴隷(?)の生れで名は Diocletian、ローマ帝国に仕え軍人として頭角を現した。前皇帝の没後に東方のローマ軍団から推挙され、皇帝になり Diocletianus と改めた。以後20年間ローマ帝国の再建に尽力し、軍人皇帝時代に終止符を打った。
ニコメディア(現トルコ領イズミト)を居所とし、284年(?)に自らを東方の皇帝とし、292年(?)以前、僚友(?)マクシミアヌスを西方の皇帝に任じ、後年、2名の副帝を置いた。東方ではガレリウスが、西ではコンスタンティウス1世が副帝に任じられ、夫々に自分の娘を嫁がせたとされる。これを4分割統治(Tetrarchy)という。この制度は一代限りで終わった。
ディオクレティアヌスは軍団数を倍増し、騎馬軍・特殊部隊を整備した。後年になり、西方ではガリアのバガウダイの乱を、東方ではササン朝ペルシアを鎮圧・撃退させ、東方と西方の国境を安定させた。
帝国を4道に分け、その下に12の管区、約100の属州を置いた。軍政と民政を明確に区分し行財政の組織化と効率化も行った。官僚組織の階層序列化を進め、政策決定にも参与させた。
近衛軍総督を財務長官とし税制を改革した。厳格な土地測量と人頭の申告を行わせ、土地にユガ、人頭にカピタという抽象単位を当てて課税した。他の産物も同じ価値基準で課税され、収税体制は能率化した。しかし巨額の軍事防衛費は不足し、それを補うため様々な経済統制策を進めた。結果的に自立的中産市民は没落し、皇帝・国家への従属度の強い臣民が中心の社会となった。しかしディオクレティアヌスの下では立法・軍事・経済において統治域による差はなく、おおむね平和が保たれた。
経済不振と貨幣改鋳は物価の騰貴を招き、301年に最高公定価格令を発して、全物品の価格に上限を定めたが、その結果、市場から物資が消え逆効果だった。
ディオクレティアヌスは伝統的ローマ宗教に熱心でその復興に努めた。しかし、キリスト教徒の浸透は速く、軍役や異教の祭儀を拒否する事件が多発していた。303年に全帝国規模でキリスト教徒の迫害を命じるにいたった( The Diocletianic Persecution 303-13 ) 。第1勅令は教会堂の破壊、聖書の没収、高位教徒の追放を、第2勅令は聖職者逮捕を命じた。特にに東方での弾圧は激しいものだった。313年のミラノ勅令によりキリスト教徒への迫害は廃止となる。
この間ディオクレティアヌスは重病にかかり、回復後ローマ皇帝では初めて自発的に退位(305年)、それまでの2副帝を正帝とした。しかし、4分割統治は没後の後継者争いにより一代限りに終わった。
ニコメディア(アナトリア西部)にて退位したディオクレティアヌスは用意してあったスプリットの宮殿に移り、隠居した。
315年(?)に他界。ローマ帝国がキリスト教を公認した約2年後、コンスタンチヌス大帝がビザンチンに遷都するほぼ15年前だった。
参考資料:
Ref.04、項目「ディオクレティアヌス」
Wikipedia/Diocletian(英語)
ダルマチアの一角、ソリンとスプリットの双方に関係する重要な歴史上の人物がいる。軍人皇帝時代にローマ皇帝になったディオクレティアヌス帝です。奴隷の身分から皇帝にまで上り詰めたローマ帝国の豊臣秀吉(?)のような人物とされる。皇帝として、2皇帝に2副帝を置いた4分割統治を始め、軍事機構・官僚制度・税制なども大幅に改め、ローマ帝国を専制君主政にした人物とされる。AD303-313年のキリスト教大迫害でも知られるが、それで評判が良くない皇帝とも云います。

注: ディオクレティアヌス帝に関し手持ち書籍やウェブサイト情報(日・英)で調べたが、情報にバラツキがとても多く、どれを真とし偽とするか、短文を書くには専門家の勧める歴史書を読むか自ら「学術研究(不可能)」の必要があると思うほど・・・。主に百科事典を引用して、それに各種のサイトの情報を織り交ぜながら右のコラムをまとめましたが、他の資料と不一致する面も多々あり、おおよそ「こんな皇帝だった」というイメージ程度にお考えください。
塩野七生氏は若くしてイタリア留学し、長くローマ帝国に関する研究を続けられたが、そのような人すら著書で『皇帝になる前のディオクレティアヌスについては分からない(文章変更)』と述べている程です。
「奴隷」といっても近世の植民地時代以降の奴隷とは異なり、戦争で負けた国の人は勝った国の人の奴隷となることが多かったらしい。高い地位にあった有能な人物も、処刑されなければ、奴隷の身分となったのです。たとい奴隷となっても能力の高い人は自然に分かり、年月の経過と共に自由人になったり重用されたりしたようです。

07:45 ソリンを通過。ローマ遺跡のあるサロマには寄らず、ディオクレティアヌス帝が退位後に隠居生活を送ったスプリットに直行でした。

スプリット(Split)観光: スプリット旧市街
グルクール・ニンスキ司教の像。左足の親指に触れると幸運が訪れる、とか。 08:00 スプリットの旧市街、港の見える場所に到着。
08:02 フェリー切符売場の近くでバスから降りた。廃墟にも思える宮殿跡の角と青空市場が少し見える場所でした。ここで出迎えたスプリットの現地ガイドさんは昨日のトロギールと同じ女性です。現地ガイド(添Y)さんからまずはスプリットと旧市街の簡単な説明を受ける。

スプリットはアドリア海沿岸では最大の街、現在の人口は約20万人程度らしい。復元図(下の写真)にあるディオクレティアヌスの宮殿は皇帝が没すると次第に廃墟と化した。中世の7世紀ごろバルカン半島にスラブ民族が侵入し始めると、近郊のサロマの住人はスプリットの宮殿跡に逃げ込み、その基礎の上に宮殿の石材を利用して住居を作った。それ故、宮殿跡がそのまま旧市街となった珍しい例となっている。1420年に都市国家ヴェネチアの支配下に置かれ、旧市街は宮殿跡内から周辺に広がった。バルカン半島は16世紀にオスマン・トルコの時代となるが、スプリットはドブロヴニクと共に独立を保った例外的な都市になる、という。
ロマネスク、ゴシック、バロックなど時代を反映する建物が残るが、実際の宮殿跡はスラムになっていた。20世紀になり遺跡の復旧が開始されたが、今なお市民生活に使われる建物が多く残っている。世界遺産には「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」として早々と1979年に登録されています。

ディオクレティアヌス帝・宮殿跡の復元図

この宮殿は四方に約200mの城壁を持っている。夫々の中央に門があり、かつては銅の門(南門)、銀の門(東門)、金の門(北門)、鉄の門(西門)と呼ばれた。南門は直接船が着き、北門はサロナに通じて賑やかで重要な門だった。復元図の海は現在ではかなり埋立てられ、城壁に密着して2〜3階の建物があり、さらにプロムナードやカフェや桟橋ができている。

グループは宮殿の外壁沿いの広い道を先に進んだ。道路沿いの建物1階はレストランやショップになっている。それらの後方にあり、1700年も昔の外壁は壁面と窓が残るだけの廃墟に思える。さらに城壁内の施設は住宅用の素材として使われ、今では残っていないものが多い、という。外壁や門の他に地下とか玄関広場とかディオクレティアヌス帝廟(大聖堂)などが観光できる遺産、僅かが現存するだけのようです。復元図にある城壁内部は実際は生活用の建物で埋まった旧市街なのです。

08:17 ディオクレティアヌス帝・宮殿跡の正面入り口に到着。ここから先はカフェの大きな日傘が並ぶプロムナードになっていた。モルタルの建物の間に見える南門は想像よりは小さなものでした。

南門から入って直ぐ階段を降り、地下部分にはいる。土産屋などもあるが、ディオクレティアヌス帝時代の古い壁や柱や天井がそっくり残っています。初期キリスト教の洗礼池みたいな泉が床にあったり、後日に飾られたディオクレティアヌス帝の胸像があったり、凄く古い丸太が飾られていたり、そこそこ観るものはありました。石棺のようなものがあったり、壁に丸い金色の目印が飾られた所もあった。1階の謁見の間は廃墟で何もないので、恐らく謁見の間を模したものと想像しますが、記憶が不確かです。広い地下は元々は穀物倉庫などだったらしい。
両側に土産屋などが並ぶ薄暗い廊下の先に、天日で明るい階段があった。それを上り地上に出ると宮殿の東西と南北を結ぶ重要路の交差点、宮殿の中心になる広場で実に立派な遺跡があった。両袖に階段、4本の立派な石柱、原型のままの破風、これが謁見の間の玄関のファサードです。玄関の正面左側の柱の間には小型のスフィンクスまでがある。エジプト遠征の折に持ちかえったものとされ、旧市街には他に幾つものスフィンクスがあるらしい。引退したとは云え、実力派の皇帝経験者の雰囲気を感じさせる立派なものです。

階段を上り宮殿の玄関を入ると円形の控えの間だった。採光のため天井は丸い空間で青空が見える。ディオクレティアヌスはその奥の謁見の間で訪問客と会ったのですが、謁見の間は単なる空間と今だに残る民家のみとなり、見るべき物はないらしい。我々は控の間を見て戻るのですが、その場所で男性4人のヴォーカルが何か歌い始めました。クロアチアの伝統的な男性ヴォーカルで一般的に「クラパー」と呼ばれている。ドームの中は良い音響でムード一杯です。しばし佇み耳を傾けた。歌い終えるとCDの販売、1枚100Kn(約2000円)。数名の人たちが買った。添Yさんも購入し、後で移動中のバスで聴かせてくれました。このヴォーカル・グループは観光シーズンのみで冬は別の仕事をしているそうです。

玄関広場を後にして、旧市街(宮殿跡)の細い石畳の道を北門に向かった。北門の内部で別の男性ヴォーカルが営業準備中だった。幅広い赤布をウェストに巻き、何かしら雰囲気がスラブ的に思えました。

08:57 北門を出ると階段があり、その上の左に巨大な銅像があった。左手に聖書を持つグルグール(グレゴリウス)司教です。銅像は、クロアチアのロダンとも称される、彫刻家メシュトロヴィッチの作品という。10世紀にスプリットで宗教会議があり、教会でのスラブ語の使用が禁止となった。銅像のグルグール司教はその決定の撤回を求めた人物とされます。スラブ系の人達には宗教的に重要な人物でしょう。この銅像の足の親指がピカピカに光っている。「触ると幸運が巡ってくる」と云われ、触る人達が多いのです。

09:00 その後は自由時間となった。
宮殿跡の周辺は住居用の古い建物が多い生活臭の濃いセクションで、木の多い緑地の広場に露店が沢山並んでいる。果物、野菜、精肉、ハム類、乳製品など何でもここに集まっているが、魚介類を扱う魚屋は西門の外、ナロドニ広場の西側らしい。スロヴェニアの首都リュブリャーナの青空市場でも鮮魚店は別の場所だった。バルカンの人達は魚の臭いを嫌がるのでしょうか? たまたま偶然かも知れませんが・・・。
ブラブラと異国の食料品を見歩いて楽しみました。

カフェで一休み 09:30 青空市場から左程は歩くこともなく、南門のある海岸のプロムナードに出る。時間があるので海側に並ぶカフェの1つに入った。コーラ(14Kn/\280)とグラス2個を頼んだ。上天気なので、店内ではなくテラスのテーブルにした。落ち着いてから見渡すと、同じツアーの人達もいましたね。観光でいろいろ見て回るのも楽しいが、カフェテラスでユックリと時を送るのも乙なもの、最高でした。

09:51 カフェを出て、またアイスクリームを1個買った。6Kn(約120円)だった。近くの集合場所に移動してグループの人達と過ごす。また港の見える場所、帆船が通り過ぎて絵になる風景でした。
10:05 バスが集合場所に到着。

バス移動1(→メトコビチェ) : ネルトヴァ川メトコビチェまでの車窓風景
当初の予定では、スプリットからコルチュラ島はフェリーの船旅でした。後述の理由で変更になり、なが〜いバス移動です。
10:08 出発。
11:05 休息。ここのトイレは要チップ(2Kn)でした。
11:20 乗車、11:22 出発。
11:45 かなり昔、オーストリア軍との戦いが当地であったらしく、そのモニュメントが車窓から見える。バナナのような形だった。
12:20 海岸沿いの道が一旦終わるころ、「海水のダム」と説明された珍しい池があった。海からは距離がありそうだが、水は海水なのだそうです。ここを過ぎると直ぐにネルトヴァ川が作った広いデルタ地帯になる。地域はメトコビチェ(Metkovic)という。土壌が肥沃なのでミカンやレモンなど柑橘類の栽培が盛んな場所で、クロアチアのカルフォルニアと云っていた。果樹が多いことは共通でも、この表現は極端に大げさ、ミニ盆栽の木をセコイアの大木と称したに等しいみたいなもの。河口デルタの一部は元々湿地だったので運河状の水路が多くある。
バスは南下する道を左折し、ネルトヴァ川上流に向かった。そのまま行くと後日に訪問するボスニア・ヘルツェゴゥィナの町モスタルがある。

昼食(ネレトヴァ川沿いのレストラン) : メトコビチェで昼食
レストラン正面、写真はレストラン・パンフから借用 12:45 道路沿いのレストラン「ヴィラ・ネレトヴァ」に到着。
中に入ると純白のテーブルクロスの上に日本の国旗が飾ってある。サービスなのですが、私としては日本とクロアチアの国旗を一緒に飾って欲しかった。適当な席につく。
いろいろな日本人ツアーが寄るレストランらしく、飲物は日本語のメニューがあった。 ビール小瓶(15Kn)を一本注文、グラスは2個たのんだ。ワインはビールのほぼ半値、驚きでした。
ここでは少々変わったものを味わった。皿に垂らした緑のオリーブ油と挽きチーズ(?)を普通のパンに付けて食べる。バター代わり? 毎日食べると太る原因になりそうですが、味は珍しくて楽しめました。主食はイタリア風コメ料理の「シーフード・リゾット」と云うけれど、量も少なく、何となく物足りない。デザートはベリーソースをトッピングしたクリームチーズ・パイで、これは良かった。食後のコーヒーは忘れました。[PHOTO]ページに飲物料金表があります。
飲物代を精算してレストランを出る。バスは正面で待っていた。

この道をネルトヴァ川上流に走ると直ぐクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境になる。ツアーは城塞都市ドブロヴニク2連泊の後、ここをまた通って国境越えをします。今日は引き返し、海岸沿いの道を続けて南東に走り、ネウムの先でほぼUターン、今度は半島の道を北西にオレビッチ、大ドライブです。そこから遊覧船でコルチェラ島に渡る。

バス移動2(→ネウム→ストン→ペリェシャツ半島オレビッチ) : -
13:45 出発。
ネルトヴァ川沿いに海に向かい、左折して海沿いの国道に入った。この辺りから水郷の果樹園の様相です。水路と畑の織りなす風景がなかなか面白く見事です。

ネルトヴァ川デルタの先の海はペリェシャツ半島(Peljesac Pninsula)と本土の間の湾になるが、その湾はこの辺りで急に狭くなり、南東方向に細く長く食い込んでいる。国道はその峡湾の海岸に沿って延々と続いている。その所々に白浜のビーチがあった。カラフルなビーチパラソルが並ぶタイプではないが、海は素晴らしく綺麗で、海水浴の客で賑わっている。残念ながらナチュラリストではなかった(笑)。
こんな所の宿で1〜2週間もノンビリ過ごす休暇に慣れると、有名観光地のみセカセカ見回る日本人ツアーは忙しすぎて疲れると思います。ノーモア「カテドラル」、モーモア「ローマ帝国」、ノーモア「考古学」、ワイン飲んで、美味いもの食って、ビーチで寝ていたい、デショ?

アドリア海沿岸はこんなビーチが時々ある

さて、峡湾の中ほどの海岸線は9Kmだけボスニア・ヘルツェゴヴィナ領となり、ネウム(Neum)という町がある。クロアチア領はその9Kmで分断されているのです。ペリェシャツ半島やドブロヴニク周辺は一種の飛び地になる。

どうして他国に分断される領土になったのか? かつてはオスマン・トルコがバルカン半島で勢力を誇ったが、ハプスブルグ帝国(神聖ローマ帝国)の巻返しに押され、1699年に和約が成立した。ネウムの地域は和約上はドブロヴニク領となったが、都市国家ドブロヴニクは当時アドリア海沿岸を支配していたヴェネチアを恐れ、ネウムの地域を放置してトルコ領のままにした、らしい。それがヴェネチアとの緩衝地帯になった。歴史上では消滅した時もあったが、そのまま現代の国境線となり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナがアドリア海に出れる回廊となっている。クロアチアとしては9Kmながら他国領を通過せずには南部に行けない。それを回避するため、本土とペリェシャツ半島に橋を架けるプロジェクトがあるそうです。

本土とペリェシャツ半島やコルチェラ島の間に幾つものフェリーがある。ツアー申込みの時点では、スプリットからフェリーでコルチェラ島に直接渡り、観光後にオレビッチに渡ってストン経由でドブロヴニクに行く予定でした。しかし今年になりフェリーは経営不振のため政府管理下に置かれ、地元客を優先的に乗船させる理由でツアー客は利用できなくなった( 経営不振なら1人でも多く乗せる方が良いと思うけど・・・)。それでスプリットからペリェシャツ半島の付根まで南東に延々と走り、そこから北西に細長い半島を戻る感じで先端近くのオレビッチまで行き、チャーターした小型遊覧船でコルチェラ島まで往復することになったのです。 車窓の風景を眺めるのが好きなので気にしないが、実際には凄い距離と時間が余計にかかりました。

国境〔 クロアチア→ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 〕
14:05 クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境検問所に到着。ドライバーさんが何か証明書を見せるだけでOKのようです。前述のように、ここから9Kmのみがボスニア・ヘルツェゴヴィナ領となり、ディナル山脈を越えてモスタルやサラエボに行く山道がある。

14:10 海沿いの山麓傾斜地にある町ネウム、その沿道にスーパーなどが入居するレスト・エリアがあった。ここは大型バスが何台も停まれる駐車場がある。展望台も兼ねており、ネウムの街並みやペリェシャツ半島がよく見えます。
地階のスーパーに入ってみる。巨大ではないが、日常品を並べた通常のスーパーでした。ワイフは土産用にチョコレートや塩田で採れた塩、ホテルで使用するミネラル・ウォーターなどを買っていました。〆て約57Knを使ったようです。この種の店に寄る機会はないので、チャンスだったのです。 このネウムなる町にはクロアチア人も多く住み、通貨はボスニア・ヘルツェゴヴィナのマルカ(KM)ながらクロアチアのクーナ(Kn)も使える。

14:36 乗車、数分後に出発。
14:45 ボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアの国境通過、ここから再びクロアチアです。

マリストン湾とペリェシャツ半島、小島の上にかすかに横に伸びる城塞が見える 峡湾(マリストン湾)の最深部に近付くとカキの養殖場があった。昨日ザダールからトロギールの途中で見たものと同じ、黒く大きい浮が静かな海面に沢山並んでいる。その対岸はペリェシャツ半島、塩田は見えないが山麓に城壁が長く伸びているのでストン(Ston)の地域と直ぐ分かります。見える町は、正確にはマリストンという海岸の隣町でしょう。
マリストン湾が終ってから少し先でバスは右折、今までの国道からペリェシャツ半島の道に入った。片側1車線の舗装路、でも少し田舎道の感じかな?

ストン(Ston)は塩田のある小さな古い町です。
15:00 この頃、ストンを通過。塩田や城塞遺跡や山麓の斜面の城壁が車窓から見えました。少々気ぜわしかったが撮影も何とか・・・。塩田は現在も使われている。海から離れた内陸の谷間にあるので揚浜式です。昔は塩は貴重な必需品だった。オスマン・トルコやヴェニスが塩を狙い、陸から侵入する危険があった。それを防ぐ目的で13〜15世紀に長々とした城壁を山麓に構築したのです。現在は約5Kmが残っている。ここは独立を守りぬいた都市国家ドブロヴニクの領地でした。現在もペリェシャツ半島は行政区分としてドブロヴニク・ネレトバァ郡(Dubrovnik-Neretva county)になるようです。
帰路、このエリアのレストランで夕食の予定です。
目的地までボンヤリと外を眺めて過ごしました。海岸よりも山地の道が多かった。オレビッチに近付くと、凄い断崖絶壁の道となった。転落した車両が何台も放置されたままになっているらしい。反対側の座席だったので断崖の様子は見れなかった。坂を下り町に入った。

オレビッチ(Orebic)はペリェシャツ半島の先端寄りの西海岸にある。ドブロヴニクの北西120Kmにあり、2時間半で来れる。人口は約4000人ていど。コルチェラをオスマン・トルコから防衛するためオレビッチの町が作られ、16世紀のコルチェラの船長の名が町名(”船長の町”の意)になったとか。1960年頃から海のリゾート、アドリア海沿岸でも晴が多いとされる。海は手つかずのクリスタルクリアー(本当!)、ペリェシャツ半島にはイリヤ山(961m)があるが、その日当りの良い山麓はブドウ畑が多く地酒ワインでも知られるようです。車窓から見ても綺麗な町でした。

16:05 オレビッチの船着き場に到着。昼食後、約2時間半のドライブでした。スプリットからは昼食時間を含めて約6時間かかっている。

オレビッチからコルチェラ島(遊覧船): コルチェラ島への遊覧船
コルチェラ島まで乗船する遊覧船 我々を降ろし、バスは離れた駐車場に向かった。
チャーターした遊覧船は未だ船着場に着岸していない。しかし直ぐに乗れるようになった。
14:15 オレビッチ出発。
木製ベンチが両舷と中央に4列あり、このツアーに最適なサイズの遊覧船です。写真のように可愛らしい船でした。実はコルチェラ島の旧市街はオレビッチから直接向かうと近いが(15〜20分)、往路は遠回りしてアドリア海の風景を楽しみます。
と云っても、特に書くようなことも少なく、異国の明るくて穏やかな海を進む船上でノンビリとするだけ、贅沢な時の過ごし方に思えます。船の進行風も心地よい。
途中にはコルチェラ島の伝統産業らしき小さな造船所があったり、比較的大きな修道院が見えたりした。 目的地に近ずくと円形の城塞や教会の鐘楼のある旧市街が見えてくる。往路では旧市街は小半島の上にあることが良くわかる。
16:52 赤い灯台のある港に入り、コルチェラに到着です。
我々は小さな半島の旧市街のみ見学ですが、コルチェラ島は長さ47Km、村々にはブドウ畑やオリーブ畑がある。小さな造船所もあり、ちょっとした大きな島なのです。昔はペリェシャツ半島の周辺の島々はドブロヴニク領だったがコルチェラ島のみヴェネチア領だった。今は半島と同じくドブロヴニク・ネレトバァ郡(Dubrovnik-Neretva county )になっている。

コルチェラ(Korcula)旧市街の散策 : コルチェラ旧市街
遊覧船からコルチェラ旧市街 16:54 コルチェラの現地ガイドさん(男性)が出迎えてくれる。 船着き場の近くに小高い旧市街の中心部に行く優雅な階段があった。しかし、そこは利用せず、旧市街を1/4周する感じで低地を歩いた。すると旧市街への立派な階段とトミスタヴ広場(Trg Kralja Tomislava)がある。そこで現地ガイド(添Y)さんの簡単な説明があった。

すぐにトイレ休息となる。公衆トイレは無く、カフェのトイレを借用です。近くの右手と少し離れた奥まった場所の2カ所の案内があったが、自然に全員が奥まった Caffe bar "KIWI" に向かった。トイレ・チップは不要なので、カフェでコーラ1本(15Kn)を買って2人で飲んだ。その後にアイスクリーム1個(6Kn)も買う。ツアーの全員がこの調子なので店に人はニコニコでした。

17:30 トミスタヴ広場の正面階段下に集合(実際はカフェ前)、いよいよ旧市街の見学となった。昔はヴェネチア領、それで階段上部の塔門(南門)にヴェネチアのシンボル「ライオン」のレリーフがあった。塔内は小博物館らしい。そこを通り抜け旧市街に入ると狭い石畳の道がまっすぐに伸びている。
コルチェラ旧市街は一種独特の道で知られる。道路の構造ではなく、その全体的な道路の配置が面白いのです。長めの半円形をした旧市街(200x300m程度)の中心をメーンストリートが貫き、それに直角に僅か足りない角度で枝の小路が両側に沢山ある。地図上ではヒラメやカレー等の魚の骨に思えるのですが、夏には日除けと西風の取込み、冬には北風を除ける目的でこの作りになったらしい。自然発生的にこの道造りとなったのではない。

その狭いメーンストリートに入ると直ぐ左に旗を掲げたコルチェラ市役所があり、前は小広場(狭い)だった。旧市街がある町の名は島名と同じです。それから先の聖マルコ広場に進んだ。
街の主要な建物は海上から鐘楼が見える聖マルコ大聖堂で15〜16世紀に建立されました。コルチェラの守護聖人・聖マルコに捧げられた聖堂とか。ヴェニスのサンマルコ広場やサンマルコ寺院は世界的に有名ですが、当地のは、比較上とても可愛らしい感じです。とは云え、建物自体は旧市街のサイズや雰囲気に合っていると思います。内部の参観はなく、現地ガイド(添Y)さんの説明のみでした。正面入口の聖マルコ像や両袖のライオン像なども楽しめます。 この広場を囲う建物はそれぞれ由緒あるものらしいが、隣は大聖堂の宝物館になっている。向かいはアルメリ宮殿や市立博物館ということでした。

マルコ・ポーロ(Marko Polo)
イタリアの商人・旅行家。ヴェネチアの人。1270年末、再度元(げん)へ行く宝石商の父・叔父に伴われて出発、74年フビライに謁して任官、中国各地を見聞、海路インド洋・黒海を経て95年帰国。ジェノヴァとの海戦に敗れ、その獄中で「東方見聞録」口述し、ヨーロッパ人の東洋感に大きな影響を与えた。(1254-1324)
引用:  広辞苑「マルコ・ポーロ」、電子辞書
聖マルコ広場を過ぎると右にカフェテラスがあった。その先に極めて素朴で装飾のない聖ペテロ教会がある。小さな建物ですが、一種独特の雰囲気がありました。その教会堂の左コーナーの奥に、「マルコポーロの家」と称する建物が見えます。
中心の道を進む。右側の最初の小道の場所に目印の旗があった。その小道に入るとバルコニーと階段のある建物に赤い目印で MARKO POLO と書かれている。ただそれだけでした。現在は市の所有で博物館とか・・・。

マルコ・ポーロはクロアチア人とするにも諸説があるらしい。マルコ・ポーロはコルチェラ生れ、しかし当時はヴェネチア領だったのでヴェネチア人にされた、とする説もある。マルコ・ポーロの本家は11世紀にコルチュラ島からヴェネチアに移り住んだが、ポーロ家は5つに分れ、その分家の1つマルコの祖父アンドレアが東洋貿易に携わった。この説が一般的なのだそうである。(Ref.02,pp.121-123)
で、マルコ・ポーロの家とは?マルコが住んだ家なのか、マルコの遠い御先祖の家なのか、分かりませんが? いいの、いいの。東方見聞録だってそんな程度だったらしいの! 自己流「西方見聞録」でした。

これでコルチュラの見学は全て終わりました。来た道を戻り、大聖堂を過ぎた所で港側の小道に入り、坂道を下った。最後は往きに見た優雅な感じの階段でした。
17:58 岸壁の遊覧船に乗り、直ぐに出発。現地ガイドさんが見送ってくれました。
帰路は直接オレビッチに向かうので時間はかかりません。相変わらず波静かでした。
18:20 オレビッチの船着き場に到着、下船。
18:25 海岸沿いに駐車場まで5分歩いた。素晴らしく綺麗な海水です。直ぐ近くに数多くのウニ(紫海栗?)が手に取るように見える。リゾートとしてヨット遊びなども盛んな地方でも海は全く荒らされていない。

18:28 出発。
18:40 往路でも書きましたが、断崖絶壁の道を通ります。帰路の座席は崖側なので谷底を見ていました。本当に車の残骸らしきものが幾つか見えました。バスは右や左にカーブするので車窓撮影はとても無理でした・・・。
その後はウトウト・モードです。

夕食(ストンのレストラン): ストンの夕食レストラン
ストンのレストラン「VILA KORUNA」 19:36 ストンのレストラン「コロナ」に到着。2階と3階は民宿らしい。牡蠣や塩の生産で受賞もしているレストランとか。
写真の左側や建物の後ろ側には遺跡の城壁があった。新旧が混在でした。
広いレストランだったが、我々のツアー以外は欧米系の客がチラホラといったところ。
飲物はビールの小瓶(15Kn)にする。グラスは頼まず、テーブルにセットされたワイングラスを使った。
まずスープ、魚から味を出したらしく、私は少々生臭く感じた。
このレストランは当地産の生ガキをオーダーできる。問題ないと思うが、お腹が心配で注文しなかった。近くの席の御夫婦など数名が注文、見ていると新鮮で美味しそう、楽しむだけなら2人で一皿が量的には丁度よさそうでした。
メーンデッシュは白身魚のフライでした。フライより天麩羅の感じ・・・。
デザートはマカロニを使用した菓子で珍しいものでした。

余興と商売を兼ねて、食事中にストン産の塩がホタテ貝の皿に盛られて回された。1つまみ味わったが、食塩などと全く違う複雑な味でした。ワイフは食後に袋詰めを1つ(5.00Euro)買っていました。塩など全て同じ食塩の味と思っていたが、随分と色々な味があるもので・・・、細やかな食感を楽しみたい向きには良いでしょう。天麩羅にまぶすなど使い道は多い。
20:38 バスに乗車。

ストンからドブロヴニクのホテル:
20:40 出発。
南東のドブロヴニクに向かった。空腹もなんとか収まり、もう眠るだけでした。
ドブロヴニク近くに大きく比較的新しいトゥージマン橋(クロアチア初代大統領名)がある。そこを過ぎるとドブロヴニク新港は間近だった。これから2連泊するホテルは新港の西の丘陵でアドリア海側にあった。

ドブロヴニク泊(インポータンス・リゾート・ネプチューン): -
ドブロヴニクの「ホテル・インポータンス・リゾート・ネプチューン」 21:45 この頃にホテル到着。ここは旅行会社の評価でスーペリア・クラス(4つ星に相当)、しかし3つ星評価もあるので、3半星でしょうか。スーツケースはホテルに任せて、ロビーに入りました。

フロントの部屋割りが完了するまで適当に過ごす。部屋割りが済み、添Yさんから514号室の鍵と明朝の出発案内を受取った。明日と明後日に利用するホテルのレストランは海側の別館にある。分かり難いので出発案内に丁寧にその行き方が図示されていた。道路も横切るらしい。簡単に明朝の予定などについて説明を受け、エレベーターホールに向かった。
22:08 入室。
広さは普通で、欧州に良くあるシングル・ペッドが付けて置かれたツインでした。明るい感じで隅々まで清潔にされている。エアコンは後付けタイプ(日本のM電機製)、スイッチ・オンで直ぐ涼しい風が出始め快適でした。洗面所はソコソコの大きさ、シャワーは珍しく感ずる装置付きですが、快適に湯が出ました。
デジカメのバッテリーの充電開始、新しいホテルではプラグ・アダプターがあればコンセントは心配なしです。
今日も1日動き回り、夜は遅くにホテル到着、もう休むだけです。

明朝の予定:
モーニングコール(6:30)/荷物回収(なし)/朝食(6:30-)別館レストラン/出発(8:00)
午後のコトル往復はモンテネグロなので国境でパスポートが必要。

もう寝るだけです。

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