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バルカン紀行4カ国(7日目:2009/05/25)
ドブロヴニク、コトル(モンテネグロ)往復
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ドブロヴニク、ホテル出発まで:
05:30 起床。
窓の外は日出前、薄明かるいアドリア海と島々の風景も穏やかで良いものでした。
06:20 部屋を出て別館のレストランに向かう。少し早過ぎレストランに入れない。本館と別館の間の道をブラブラして過ごす。
06:32 レストランに入る。ここは広い室内と海側のテラスに分かれている。朝なので室内です。 料理はバイキング形式なので適当に・・・、何時も同じようなものでした。
07:00 一旦、部屋に戻る。2連泊なのでスーツケースの搬出はありません。とは云え、身の回り品はザッと片づけてスーツケースにしまいました。
07:30 部屋を出る。
07:35 バスの座席を決めた。今日の午後は長距離移動になるが、後ろから2番目にした。
07:40 ワイフはフロントで3000円をクロアチア通貨に両替。おおよそ \3000 = 157Kn でした。
それからホテルのまわりを少々散歩する。今日も抜けるような青空でした。
07:55 添Yさんが人数を確認、そして出発。

ドブロヴニク観光は新港近くのホテルから旧市街を通り過ぎ、ドブロヴニク旧市街の景勝がすばらしい展望台に行く。それから現地ガイド(添Y)さんの案内で旧市街の内部を見て回ります。その後、約2時間の自由行動。我々は城壁の上を一周しました。それから集合して昼食です。

世界遺産 ドブロヴニク旧市街(Dubrovnik)観光:
「ドブロヴニク」旧港と旧市街、2009/05/25 8:15AM 撮影 アドリア海の真珠「ドブロヴニク」旧港と旧市街、中央奥に新港、右はスルジ山(412m)、黄色の花はエニシダ
ドブロヴニク(Dubrovnik)
●ダルマチア地方アドリア海沿岸の最南端に位置するドブロヴニク(Dubrovnik)は人口約47000人(2001年)で、ドブロヴニク・ネレトヴァ郡の中心地、ダルマチア観光の最も重要な町でもある。旧市街は1979年にユネスコの文化遺産に登録されました。
●古代ローマ帝国の植民地が約15Km離れた所にあった。7世紀にはスラブ人が侵入、その地のローマ人はドブロヴニク旧市街の南半分になる小さな岩の島に逃げ込み、住みついた。スラブ人も次第にサルジ山麓に住み始めるが、10世紀には未だ自然の海峡があった。両民族は次第に平和的な往来を始め、橋も作られたともいう。12世紀になるとローマ人とスラブ人の集落は合併し、海峡も埋立てられた。現在の「プラッツア通り」は両民族の境界線だった。ラグーサ共和国は長く東方のヴィザンチン帝国に年貢を納め、見返りに自由貿易の権利を手にしていた。1205年以後はヴェネチアの支配下に置かれ、海上交易は制約されたという。しかし今日の旧市街の基礎はその13世紀に形作られたらしい。1358年のザダール和平条約によりヴェネチアに代わりハンガリーがダルマチアを併合した。しかしドブロヴニクはハンガリーを宗主国としながらも協定を結び自由な海上交易を含む独立を維持したとされる。その後に自由都市として承認され、1418年にドブロヴニク共和国になった。ついでながらドブロヴニクはスラブ語である。1420年にダルマチア地方は再びヴェネチアの支配下に組込まれたが、ドブロヴニク共和国のみ独立を守り続けた。1453年にビザンチン帝国を崩壊させたオスマン・トルコはバルカン半島を手中におさめ、1526年にはハンガリーをも征服した。ところがドブロヴニクはオスマン・トルコに年貢を納めて保護国とし、自らの独立を守りつづけ、東西貿易の中継などで繁栄し続けた。1808年にナポレオンがドブロヴニク共和国を崩壊させた。長く続いた都市国家でした。
●ドブロヴニクは早くも1272年にはローマの手法と土着の習慣を整合させる独自の法律をもったという。それ以外にも先駆的な福祉制度を確立したとされる。例えば、
1301年に医療サービスを導入
1317年に最初の薬局(営業中)が開業
1347年に高齢者の保護施設が開設
1377年にペスト予防の40日隔離を開始
1418年に奴隷制度を廃止
1432年に孤児院を開設
1436年に20Kmの上水道を建設
同時代に下水道も敷設された
中世からゴミの定期収集が行われた
1784年に種痘、ジェンナーの12年前
●ドブロヴニクの政治体制は風変わりだった。ハンガリー派遣の提督を拒み、代わりに任期1カ月の総督を民衆(実際は貴族)から選出、連続再選は不可という制度をつくった。合議制の伝統があり、独裁者を出さないための制度だった、とされる。
●ドブロヴニク共和国はイタリア語でラグーサ(Ragusa)といい、歴史的にはアマルフィ、ビザ、ジェノバ、ヴェニスと並ぶ5番目の海洋共和国として知られていた。アドリア海の東側では唯一ヴェネチアに対抗できる都市国家であり、15-16世紀に蓄積された富と熟練した外交手腕によって最も繁栄したとされる。ラテン文化圏の東の玄関口として重要な都市だった。
●1492年にレコンキスタがスペインで完了し、ユダヤ人までも国外追放の憂き目にあった。その一部はイベリア半島からドブロヴニクに逃れたとされる。
●1776年のアメリカ合衆国の独立宣言を真っ先に承認した国の1つとされる。
参考資料:
Ref.02, pp.11-60
Wikipedia/Dubrovnik(英語)
展望台:  08:12 ドブロヴニク市街を通り過ぎると国道はスルジ山麓を登る。その途中、かなり高い場所の展望台に到着した。この道路はそのまま進むとモンテネグロに通じている。
展望台と云っても道路沿いで、安全に風景を楽しめるようにした簡単なものです。でも天候は快晴で無風、城塞に取り囲まれた旧市街の眺望は素晴らしい。上の写真がその眺めです。
写真の左下半分で城壁に囲まれたオレンジ色の屋根が集まった岬の先端近く、それが岩の島に出来たオリジナル「ラグーサ共和国」の部分です。ラグーサの人たちは金貨を払ってスラブ人の住むスルジ山麓(上の写真の右側/昔は樫林)に水源や野菜の栽培を求めたと云われます。何時しか島に住むローマ人と本土のスラブ人が手を結び、12世紀になると境の海峡を埋立てて現在の半島にした。その埋立てた海峡に出来た両民族の境界線が下の写真にあるメーンストリート「プラツァ通り」でした。

実は1991年の内戦で破壊されるまでスルジ山(412m)にユーゴ・スラヴィア時代のロープウェーがあった。頂上は旧港や城壁など旧市街の全貌が良く見える展望台、しかしロープウェーは復旧されていない。車かタクシーで行くのですが、今だ戦争で埋められた地雷が完全に撤去されておらず、自由散策は難しい。車で登った人の話では、野花を摘んでいた少女が地雷を踏んで亡くなった事もあり、地雷原を示すドクロマークがあるそうです。[Ref.02(pp.55-57)]
追記: 破壊されたまま放置されていたスルジ山ロープウェイは2010年7月10日に装いも新たに運行が再開されたそうです。料金は日本円で約1200円程度とか。(2011年12月3日、記)

08:20 この頃に出発。

旧市街のツアー観光: -
メーンストリート「プラツァ通り」左はフランシスコ修道院、プラツァ通りの両側は主に商店(ピレ門の上から撮影) 08:35 旧市街のピレ門近くでバスを降りる。城壁近くからスルジ山方向の坂道には夾竹桃(ピンク)が満開で見事でした。

ピレ門: この門は非常に強固な構造です。外門を入ると左に曲がりヘアピン・カーブで右に行き、それから左に曲がって内門を潜る。その間は高い城壁がそそり立っていた。
途中に 1991年の内戦で破壊された場所を示す地図 がある。いざ民族・国家の命運をかけた戦いとなれば世界文化遺産と云えども遠慮なき砲火を浴びる様子が分かります。 内戦は主にクロアチア人とセルビア人(含むモンテネグロ人)の戦いでした。共にスラブ人で同根の民族、言語も同じといいます。しかしクロアチアはローマン文字にカトリック、セルビアはキリル文字に正教です。同じ民族が異民族に分離するプロセスなのでしょう。既に戦争の傷跡は修復されているようでした。

08:46 ピレ門を通りぬけると小広場になっている。右は聖クラレ修道院、左に救世主教会とフランシスコ修道院。そして中央に円形でドームを持つオノフリオの噴水がある。門と噴水の間にはオレンジの木がたわわに実を付けていた。ここから上の写真にあるメーンストリート「プラツァ通り」が真直ぐに東(旧港方向)に約300mほど伸びている。

オノフリオの噴水:  ドブロヴニク旧市街は岩盤上の町で水源に乏しい。ラグーサ共和国はナポリの建築家に依頼し、10Km以上も離れたスルジ山北側の水源から上水道を引いてもらった。1438年に12の出水口をもつオノフリオの噴水が完成した。プラツァ通りの東端にあるルジャ広場にはオノフリオの小噴水がつくられた。共に現在も使用されている。
ドブロヴニクは先駆的な制度や設備を中世に始めた極めてユニークな都市国家、一説ではオノフリオの噴水が出来た時代に上水道と下水道が整備された。さらに、中世の都市の多くが頭を痛めたゴミ処理だったが、ドブロヴニクはいち早く定期的ゴミ収集を実施していた、とされる。

フランシスコ修道院の遊びの突起(本当の目的は不明) お遊び: 08:54 噴水の説明を聞き終える。小さな救世主教会とフランシスコ修道院の正面入口の間に面白い遊びがあった。人面か獣面か不明ながら大きな目と口をもつ顔が路面から30〜40cm上に付いている。頭は平らで何とか人が乗れる。その上に立って壁面にキスできたら結婚できるそうです。若い添Yさんが遊びのデモンストレーション、2度チャレンジしたが難しい・・・。笑って終り。
実は・・・、私もチャレンジしようとしたら、ワイフに叱られた。 ← (ジョーク)

フランシスコ修道院(Franciscan Monastery): イタリアのアッシジに本部があるフランシスコ修道士会に属する修道院、正面玄関の上部にはピエタの浮彫りがあった。
08:55 中に入り、中庭の回廊手前まで行く。回廊に面する角に薬局があった。ここは1317年の創業でクロアチア最古の薬局とか。ヨーロッパで現存する薬局として3番目に古く、営業している薬局では最も古いという説もあります。とにかく薬局としては珍しい存在であることは間違いないようです。昔は薬の販売のみならず医院程度の活動もしたらしい。
この修道院の中庭はロマネスク様式の回廊に囲まれている。薬局の回廊の壁上部には小鳥に説教した聖フランチェスカの一生を描いたとされるフレスコ画があった。かなり傷んでいる様子でした。中庭には植物が沢山植えられ、オレンジやバラが印象に残っている。とても綺麗な庭園です。回廊を一回りしました。
09:18 外に出る。ツアーで見学した場所に限り、修道院としては明るくて感じの良いところでした。

ルジャ広場に移動:  この広場はプラツァ通りの反対側にある。賑やかな商店街を行くと思いきや、フランシスコ修道院の角だったと思うが、左の横道に入り、少し坂道を登った。最初の道がブリイェコ通り、その道を東(旧港方向)に向かう。驚いたことに道はカフェ・レストランのテーブル・セットとパラソルがいっぱい、延々と続く感じだった。中には 日本語メニュー( 価格はクーナ Kn/1Kn=\20 ) を用意してあるレストランまでもある。 途中には金持ちの家だったらしきバルコニーをもつ建物もあった。ふと左の脇道を見ると階段が延々と続いている。ドブロヴニク旧市街は思いのほか坂道も多いのです。

09:33 ブリイェコ通りも終りに近づいた。聖ニコラ教会(?)が見える所で右の脇道に入り、そこを下った。広場への途中、”SINAGOGA / Jewish Museum”と看板をドアーに付けた建物がある。隣の入口では若いユダヤ人らしき男性が立っており、笑顔で我々を見ている。不思議に思った同行の女性メンバーが、「ここ、何ですか?」と聞いた。「ユダヤ人のお寺です。」 納得した顔で仲間に伝えていた。気付いたらユダヤ人らしき男性の姿はなかった。

話は飛躍しますが、国はスペイン、最後の砦アルハンブラ宮殿のイスラム勢力が負けてカトリック教徒のレコンキスタが完了した1492年のこと、スペインはイスラム教徒のみならずユダヤ人にまで改宗か国外追放の選択をせまった。その時にイベリア半島からここドブロヴニクに逃げ込んだユダヤ人も多かったようです。商業が盛んだったドブロヴニクはユダヤ人にとって生活し易い土地柄だったのでしょう。気のせいか不思議に思うのは、アメリカ合衆国の独立宣言(1776年)を真っ先に承認した国の1つが小さな都市国家ドブロヴニク共和国だったのです。1492年に新大陸を発見したコロンブスの船に乗組んだのは、多くが改宗ユダヤ人だったという説もあり、何処まで史実か分からなくとも、妙な符合も感じます。

ルジャ広場(Luza Square):  09:36 脇道から広場に出た。ここには1418年に製作されたローラント像があり、右手の肘から手までの長さ 51.2cm が当時の商取引での基尺になっていた。誰でも商品の長さを確認できるように広場に設置されていたのです。日本人には馴染みは薄いが、欧州、特にハンザ同盟都市のあちこちにローラント像が残っているらしい。しかし長さは多少ちがうようです。
ここで小休止。時計塔スポンザ宮殿の間を左に行き、旧港の門を過ぎた先に公衆トイレがあった。利用したが、何の問題もありません。確か、チップも不要だったはず・・・。
09:45 ルジャ広場から聖ヴラホ教会市庁舎の間を進み、旧総督邸の列柱のファサードを見ながら大聖堂に行く。途中、グンドリッチ広場の青空マーケット入口だけチラッと見ました。

大聖堂(The Cathedral of Assumption of the Blessed Virgin Mary): 
09:50 大聖堂の前に到着。
中世にはドブロヴニクは通商の基地のみならず十字軍や巡礼の航路になっていた。第3次十字軍から帰国の途中、イギリスのリチャード1世の船は嵐に巻き込まれ、王は船上で「助かった地と祖国に教会を建てる」と聖母マリアに誓った。ドブロヴニクの沖で座礁し、ロクルム島の住人に助けられた。リチャード1世は誓いを守り、後期ロマネスク様式の教会がドブロヴニクに建てられた。ところが5000人以上が亡くなった1667年の大地震でその教会は崩壊し、1713年にバロック様式で再建されたそうです。それが今日の大聖堂の建物になる。

どこでも同じようなもの、でも、よいお八つ 10:00 ルジャ広場に戻り、時計塔の横を行き、「海の門」を通って旧港エリアに出た。
門の近くにカフェテラスがあった。そこでアイスクリームを1個(7Kn)を買った。椅子に座って暫し休みました。フゥー。
10:15 城壁の入口に一旦は集合です。
ここで自由行動となりました。集合場所はピレ門近くのオノフリオの噴水、時刻は確か 12:00 ころのはずでした。時間はたっぷりある。我々は城壁を完全一周する予定です。

自由時間(城壁一周・約1時間): -
城壁の最高部ミンチェタ要塞の窓から旧港の方向、鐘楼はドミニコ修道院、大型客船も停泊中 10:16 旧港近くの入口から城壁に入った。 午前8時から午後7時まで、入場料は大人 50Kn、子供 20Kn と表示してある。団体割引の有無は分からないが、ツアーなので個人的な支払いはない。入場後は自由行動でも当初はグループとして階段を上った。次第にバラバラになりました。

ドブロヴニク旧市街には幾つもの要塞があり、北のミンチェスタ要塞、西のボカール要塞、そして東のイヴァン要塞の3つは城壁で結ばれている。山麓側・東のレヴェリン要塞(旧市街へのプロチェ門あり)と西のロヴリィエナッツ要塞の2つは旧市街の城壁とは離れています。それで城壁一周では展望台や休息所になっている3要塞を巡るのです。
一周の距離は約2Kmなので写真を撮りながらほぼ1時間です。ただ、城壁上の道は石畳で意外にもアップダウンがある。上の写真で、ミンチェスタ要塞と城壁との高度差がお分かり頂けます。

人によっては「城壁の上からは旧市街の赤い屋根ばかり」というらしい。雨天ならともかく、これは極端に過ぎる表現です。やはり高い場所からの眺望は十分に楽しめるし、一周すると同じ風景もいろいろな角度から見るので違って見える。我々は十分に満喫しました。
不思議なのはミンチェスタ要塞の高い展望台では、たまたまですが、あまり写真を撮っていない。でも見張り小屋の窓からは額縁の絵のよう写った写真もありました。城壁の道から階段を上って最上部に行く価値は十分にあります。
城壁は一本道ですし、その途中にいろいろな展望所があり、本当にアドリア海のブルーと旧市街のオレンジ色、建物や自然とが織りなす形が素晴らしい。半周ならピレ門の階段を降りてオノフリオの噴水の広場に出れば良いだけ、これなら30〜40分で済むはずです。
細かく記述するより写真ページをご覧頂くのが分かり易いと思います。要所々の時刻も写真ページに掲載しました。

11:22 1時間6分で城壁を一周し、入ったゲートから旧市街の道に出ました。少し足が疲れましたが、達成感が十分です。素晴らしい風景と美味しい空気と強い太陽を満喫しながら楽しい散歩でした。天気が良くて時間があったら、ぜひ一周すべき城壁と思います。
小さな都市国家が独立を守り抜くために、こんな頑丈な城壁も必要だったのでしょう。税金を払い、資材と技術と労力を提供し、長い時間をかけて作り上げたものです。日本のお城にも迫力十分なものがあるけれど、ここでは少し異質なパワーを感じました。スゴイナー。
これ程に完全な形で中世の城壁が残り、観光で一周できる街はヨーロッパ広しと云えどもあまりない、と思います。城壁に登っていないが南ドイツのネルトリンゲンの城壁は一周できる。しかし、構造や規模が全く違います。
[追記 2010.10.07] 第二次世界大戦で破壊されたが復元された城壁がフランスのサン・マロという大西洋に面した街にあり、そこも一周できるようです。[追記・終]
[追記 2012.02.29] 英国の北西イングランドにローマ時代の砦が町になったチェスターがある。城壁に囲まれており、1部は崩壊しているが城壁上の遊歩道をほぼ一周(3Km余)できるようです。比較的近くの北ウェールズにコンウェイという小さな町があり世界遺産の古城がある。その町の城壁も1周できるようです。[追記・終]

その後はピレ門近くのオノフリオの噴水までプラッツァ通りをブラブラ戻った。この通りは商店街でいろいろな店がある。ピレ門近くの店に入ってみる。結局、何も買わなかった。もうメンバーはそれぞれの予定をこなし、泉や日陰で集合を待っています。
12:55 添Yさんの人数確認があり、揃ってピレ門に向かう。今回は内門から外門の間は真直ぐの道を通り、簡単に旧市街の外に出れました。

昼食(ピレ門近くのレストラン): -
12:00 ピレ門の外は小広場、そこを通り過ぎ、左手のレストラン「ミモザ」に入った。奥の右側にツアー用テーブルが用意されている。観光客で大賑わいの店内でした。
飲物はビール小瓶1本(17Kn)を注文、グラスはテーブルのワイン用ゴブレットを使用した。
昼食はスープ、イカリングのフライに付合せ(ポテト・キャロット・ビーンズ)でした。デザートはカットフルーツのミックスにクリームかけ。他にパンの籠があったはず・・・。
午後はモンテネグロのコトルまで長距離ドライブです。食後はトイレ必須でした。
12:40 レストランを出る。
12:45 ヒルトンホテル近くの広場からバスに乗車。

バス移動(ドブロヴニク→コトル): -
12:47 出発。
13:14 ドブロヴニク空港前を通過。もうウトウト・モードです。

モンテネグロ(Montenegro)
モンテネグロは面積1万3812平方km(ほぼ福島県)、国土の多くはカルスト地形、国名は「黒い山」の意味。地中海気候で1月の平均気温は5oC、6月の平均気温は25oCとされる。人口は約65万人。首都はポドゴリツァ(Podgorica)でモンテネグロ最大の都市。セルビア人から分化したモンテネグロ人は1943年に民族として承認され、モンテネグロの人口の過半数を占める。しかしセルビア人やクロアチア人も多い。言語は Crnogorski とされるが、歴史的にセルビア・クロアチア語(Serbo-Croatian)がモンテネグロ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチアの言語だった。セルビア語という場合もあり。宗教はセルビア正教だったが、1995年にモンテネグロ正教会として独立を宣言し破門されたらしい。多くは不毛な山地、最も高い山は Kuk(標高2522m)。経済的には極めて貧しく後進国とされる。自国通貨を持たず、通貨はユーロ。しかしEMSに認められたユーロ国ではない。
参考資料:
Ref.04、項目「モンテネグロ」/その他
discover-montenegro
国境〔クロアチア→モンテネグロ〕
13:32 クロアチア国境検問所に到着。
13:44 モンテネグロ国境検問所に到着。
パスポートチェックは無かった。
13:51 検問所を出発。モンテネグロ国内になる。
国境地帯の山麓は雑木林でしたが、その中で一際目立つのが糸杉(Cypress)の群落でした。ツンツンと高く成長する独特の樹形はヴィンセント・ゴッホの名絵で良く知られるが、日本では見れないもの。糸杉自体は広く分布するが、自然のこんな群落は珍しいと思った。

しばし走るとコトル湾沿いの道となる。この湾は狭い所と広い所が幾つもあり複雑な形で陸地に奥深く入り込んでいる。南フィヨルド(the southern fiord)とも云うらしいが、当旅行記4日目後半で説明したように、氷河の侵食谷が沈水したフィヨルドではありません。
湾が狭まった所にフェリーがあり、利用すると時間の短縮が出来ます。しかし、風景を楽しませるためか往路では利用せず、コトル湾沿いの道を走った。もし晴天なら綺麗なリアス式海岸の風景をもっと楽しめたことでしょう。生憎と怪しい暗い雲行きでした。途中でついに稲妻・雷鳴・土砂降りに遭遇したのです。幸い10分程度の短い時間で雨は上がりました。
湾から離れ、陸地をしばし走るとコトルの町に到着です。

コトル(Kotor)
●コトルの人口は中心部に約5000人、郊外を含めて約23000 (2003年)のようです。コトル湾(Bay of Kotor/Boka Kotorska/the southern fiord)の最深部に面している。
●コトル旧市街は聖イヴァン山と海岸の間にあって見事な三角形に作られている。中世の建造物や記念碑を数多く有し、ユネスコの世界遺産に登録(1979年)された。
トリホン大聖堂(Cathedral of Saint Tryphon)ここは旧市街で最も知られる/ 13世紀の聖ルカ教会(Church of Saint Luke)/ 12世紀の聖アナ教会(Church of Saint Ana)/ 13世紀の聖マリア教会(Church of Saint Mary)/ 15世紀の神の慈母教会(Church of the Healing Mother of God)/ 17世紀の王宮(Prince's Palace)/ 19世紀のナポレオン劇場(Napoleon's Theater) などはコトルの重要な文化遺産の一部になる。
●中世は城塞都市でヴェネチア共和国により今日まで残る城壁が築かれたとされる。昔は、現在のコトル旧市街を下町(Lower town)、背後の聖イヴァン山(Hill Sveti Ivan)の要塞(Fortress Sveti Ivan/San Djovani)を上町(Upper town)としたらしい。
●その歴史はアドリア海の地域そのもの。 紀元前2〜3世紀まではイリュリア人(Illyrians)が住んでいたが、168BC〜476ADにローマ人がコトルの基礎を作ったとされる。その後、1185年まではビザンチン帝国の支配下にあった。 1185〜1371年はセルビアに属し経済と文化の面で発展した。1371〜1384はハンガリーに支配されたが、1391〜1420年は独立した共和国だった。バルカン半島がオスマン・トルコの勢力下に置かれたが、コトルは1797年までヴェネチア共和国に属する一都市だった。1797〜1805年はオーストリア帝国、1807〜1813年はフランスに支配されていた。1814〜1918年は再びオーストリア帝国の支配するところとなった。
●コトルの歴史を辿ると1537、1563、1667、1729、1979年に大地震を経験し、 1422、1427、 1457、1467、1572年にはペストの大流行があった。
参考資料:
Ref.04、項目「モンテネグロ」
旅写真日記 コトル(日本語)
Visit-montenegro/KOTOR(英語)
discover-montenegro/KOTOR(英語)

コトル(Kotor)旧市街の観光: -
コトル/聖トリプン大聖堂(1166年) 14:59 広い旧市街の駐車場に到着。並木の向こうに水濠と城壁と背後の岩山が見える。天気は曇りだが、暗い雲が流れる感じだった。
数分も歩くと旧市街の正門に着く。そこまでの途中から背後の岩山(標高260mらしい)が良く見えたが、聖イヴァン要塞や旧市街から続く城壁が見える。山上には教会すらあるらしい。ここコトルは、相対的に小規模で破損も激しいながら、ドブロヴニクと同じく城壁に囲まれた城塞都市だったのです。ただ、コトルの方が遥かに小さく狭いし、長くヴェネチアの支配下にありました。

15:03 旧市街の正門に到着。中は広場となっていて、正面に時計塔があった。
現地ガイドさん(女性)が現地語で挨拶して旧市街の現地語マップを配布した。残念ながらマップは飲食店やホテル名ばかりで観光する施設の名称がない。歩いた道の大凡は分かりますが、説明を受けた教会や施設名がこのマップでは分からない。結果論ですが、インターネット(英語)でも適切な地図を探しだせなかった。
ともかく、現地ガイド(添Y)さんの案内で小さな三角形の旧市街の見所を逆時計回りに見歩きました。
最初は塔を2つ持つ古い聖トリプン大聖堂(1166年)でした。大聖堂というからに、多分カトリックの聖堂でしょう。内部の参観はなく、外から写真を撮るだけでした。

次の見所に向かう途中で、稲妻・雷鳴・土砂降りとなった。狭い旧市街の道は小型の折畳み傘でも開くと歩きづらい。それに、雨も猛烈で傘など役立たずの感じ・・・。近くのカフェテラスの大パラソルの下に逃げ込みました。店の人は「何か飲物を注文して欲しい」という。カフェとしては当然でしょう。我々はコーラ1本(2.00Euro)にグラス2個を頼んだ。ニコニコして持ってきました。15分くらい休みました。確かチップは不要だったはず・・・。

雨が止んでから、石造りの聖ルカ教会やギリシャ正教系の教会などを眺めながら、出発点の時計台が見える所まできた。本当に小さな建物が多く密集しており、教会堂もその広場もかなり小さく狭い。石畳の道も幅狭くクネクネ・ゴチャゴチャした感じで、中世そのものを彷彿とさせる街並みでした。
そこで、現地ガイドは「次のグループの時間」と云って急いで離れていった。
その後、一旦は自由行動となる。特に見たいもの買いたいものは何もなく、時間潰しでブラブラと大聖堂まで逆回りに歩き、その道をまた戻った。途中の公衆トイレを利用したが、普通と思います。

生憎の天候、旧市街だけの散策で新市街については何も分かりません。物足りなさが付きまといますが、実は早くホテルに戻ってゆっくりしたかった。
16:20 集合。添Yさんの人数確認後、駐車場に向かった。
16:25 バスに乗車。

バス移動(コトル→ドブロヴニク): 往路と同じ写真ページ
16:29 出発。
添Yさんから「フェリーを利用するので往路で走った湾の奥には行かない」と発表があった。皆さん、大喜びの拍手でした。コトル・ドブロヴニク間の走行時間も短くなるはずですが・・・、記録上は妙な感じとなりました。
16:40 コトル国際空港の近くを通過、実態は小規模なローカル空港らしいが、近郊の国(旧ユーゴ連邦時代は同じ国)への便もあるのでしょう。
16:50 この頃、フェリー乗場の手前で停車。乗船待ち車両の後ろに並んだのです。猛烈な混雑に驚きました。
17:00 添Yさんが退屈しのぎのクリームサンドの箱2種類を回してくれた。
時刻ははっきりしないが、色々な車両が次々と乗船し、他のバスも積み込んでフェリーが出発した。乗れなかったので凹みましたが、直ぐ次のフェリーが着岸したのでホッとする。数分後に我々のバスも乗船です。
17:30 フェリー離岸。
バスから降りて風に当たった。近くは大型バイクのグループだった。何処の国でもライダーは結構いるものです。カッコいいから。
17:40 フェリー着岸。
もう風景を眺める気持ちの余裕すらない。ほぼ半眠り状態でした。

国境〔モンテネグロ→クロアチア〕
18:20 この頃、国境。まずモンテネグロ検問所に到着。外気温は25℃と表示されていた。
18:25 検問所を通過。
18:30 クロアチア検問所。警察官が床下トランクを開けさせ、目視検査をする。
18:35 検問所を出発。
両検問所共、パスポートのチェックは無かった。ドライバーさんの書類提示で済んだのです。

19:00 ドブロヴニク空港を通過。
19:20 この頃に新港エリアを通過。
19:30 ホテル着。未だ明るい時間帯です。

ホテル(ドブロヴニク2泊目): 昨日1泊目と同じ写真ページ
2009/05/25 20:07 Sunset ホテル前で降車、夕食は各自でヴァイキング料理です。
我々は食事前の洗面のため一旦部屋に入りました。今日も日没近くまでよく観て回りました。
今日はもう使わない一眼タイプのデジカメはバッテリーを外し充電しておく。

20:00 部屋を出て、別館のレストランに入る。
室内ではなく、海側のテラスのテーブルにする。
何やら幾人もがテラスの先に行ったり帰ったりしている。物見高く、行ってみた。途中ですれ違った若い女性が「急がないと沈んじゃうよ」という。テラスの先端に行くと、太陽が正に沈む最中だった。コンデジの設定も何もせず、急いでシャッターを押した。日出、日没では太陽の動きは実に早い。

食事はヴァイキングです。しかし、ウェイターが飲物の注文取りにくる。ビールの小瓶(?Kn)1本だったはず・・・。スープ、メーンデッシュ(スパゲッティミートソース、フレンチフライ、マッシュドポテト、等)、グリーンサラダ、チョコレート菓子でした。レストランの料理は種類多く用意されているが、我々は量的に控えめでした。

20:45 部屋に戻った。

明朝の予定:
モーニングコール(6:30)/荷物回収(7:00)/朝食(6:30-)別館レストラン/出発(8:00)
モスタルはボスニア・ヘルツェゴヴィナになる。クロアチアから行くので国境でパスポートが必要。モスタル観光後は約6時間のドライブでプリトヴィツェ湖群国立公園まで行く。

明日はモスタル観光のみで歩きは少ない。しかし、バス・ドライブの時間が長く、車窓撮影も楽しみです。我々は5時30分の起床予定、シャワーで汗を流し、早々に休みました。

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