中国旅行記|北京4日間(3日目:2010/4/5)
故宮博物院(旧・紫禁城)と天壇公園
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◇◆◇

2010.04.05 天安門 朝食、ホテル出発まで
バス移動(→天安門広場)
★ 天安門広場
★ 故宮博物院(旧・紫禁城)
昼食(麺料理/街のレストラン)
中国茶の店
★ 天壇(テンダン)公園
民芸品店
★ 夕食(北京ダック/全聚徳)
新世紀ホテル北京(3泊目)


朝食、ホテル出発まで:
05:20 自然に目覚めた。しかし、疲労感が残っている。
デジカメ用の充電器はしまい、シェーバーの充電開始、これは1時間で終わるはず。リュックの中を整理して軽くした。
06:20 部屋を出て、4階のレストランに向かった。エレベーターで2階下りるだけです。
やはりレストランは開いている。適当なテーブルに決めてから、料理を取りに行く。
中国流の蒸パン3種や甘みのあるパン類、ホウレン草のソテーやスクランブル・エッグを皿にとる。今日は果物もとりました。他にはオレンジジュース、食後にコーヒーをたっぷり。だいたいは何時も通りでした。
06:50 部屋に戻った。忘れずに処方薬はのんでおく。
07:23 ロビーに行く。
07:30 集合、番号点呼あり。

バス移動(→天安門広場):
07:35 バス出発。
07:55 前門近くでバスは停車、我々は急いで降車となった。
ここから天安門広場と周辺の建物を眺めながら天安門に向かって行きます。

天安門広場: ○○○ 2010.04.05 人民大会堂と人民英雄記念碑 天安門広場
The TianAnMen Square
Square of Heavenly Peace

天安門の前にある南北880m、東西500m、面積44万平方mの広場、世界最大の広場とも云われます。1949年の中華人民共和国の成立後に整備された。
正陽門/箭門
(/ZhengYangMen): 
1432年に建てられ北京城の防御門で多くの銃眼がある。高さ38m程。昔は正陽門とつながる建物でした。
◎箭門と前門の間は大通り、地下鉄の前門駅あり。
正陽門/前門
(Front Gate/ZhengYangMen/Qianmen): 
1421年に永楽帝が建てた高さ42mの皇帝専用の門だった。城楼、瓮城、箭楼から構成され、城楼は有料ながら登れます。
毛主席記念堂
(Mao's Mausoleum): 
天安門で中華人民共和国の成立を宣言した毛沢東主席は1976年に死去、その後に建立された霊廟、水晶の棺に納められている。
人民英雄記念碑
(People's Heroes): 
1958年に建てられた約38mの記念碑、表面に毛主席の自筆短文、裏面に周恩来の碑文がある。
天安門広場の左右に次の巨大な2施設がある。
人民大会堂(西)
(Great Hall of The People): 
国会議事堂に相当する全国人民代表会議の議場、500席の会議場と1万席の聴衆席を持つ。国際会議場としても使われる。
歴史博物館・革命博物館(東)
(National Museum): 
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参考文献とサイト
Ref.01、pp.48-49
Ref.02、pp.27
Ref.04、DVD百科事典、項目「故宮博物院」
Ref.Web Wikipedia 項目「故宮博物院」
Ref.Web Yahoo! 日本大百科全書→故宮博物院
Ref.Web アラチャイナ→北京見所案内→故宮博物院

07:57 バスを降りた近くに横断地下道があった。それを利用して交差点を渡った。東西の大通りには地下鉄2号線があり、ここに前門駅がある。
そこから王朝時代の大きな門が2つ見える。近くは正陽門(前門)で明3代目の永楽帝が1420に建立したもの、これは綺麗に改修・維持されていた。他の門も離れているがよくみえました。それは正陽門(箭門)といい、地味な色彩が施されている。昔は2つの門はつながっていたらしい。
何か分からなかったが、巨大な行列が広い歩道に出来ている。行列というより、木々に囲まれた建物があるが、その木立の外周りに人垣が出来たようなものだった。

08:08 再度、地下道を通って、反対側の歩道にゆき、歴史博物館沿いの歩道を天安門方向に向かった。中国人の団体も幾つも固まって歩いているが、同じグループは同色の帽子を被っている。グループが分かり易くなっている。
大通りの向こうには毛主席記念堂があった。その辺りを過ぎる。先刻の人垣はさらに天安門方向に伸びている。毛主席記念堂の木立が終る所まで続き、人民会堂方向に曲がっている。何事かと思っていたが、毛主席記念堂の入場待ちなのだ。その人数たるや幾許か? 北京を訪れる中国人は毛主席記念堂を訪ね拝礼する人達が多いのです。それにしても、何時間も待つのでしょうね。

08:15 この頃、今度は横断歩道で天安門広場に入った。既に人垣は曲り、天安門広場の見通しは良くなった。左に毛主席記念堂、前の遠方に人民大会堂、間に人民英雄記念碑があった。
ここでは特に説明もなく、10分余の自由時間となった。思い思いの場所で記念写真を撮って過ごした。
08:30 集合。番号点呼の後、広場を天安門に向かって歩いた。途中、中国国旗を掲揚する所には正装の衛兵2名が直立不動でした。やはり約1時間が限度で交代でしょうね。
天安門の中央に毛主席の肖像写真が飾られ、左右には中国国旗4組づつ翻っている。有名な中国のシンボルです。その前の左右には、ペルーのクスコ空港で見た上部に翼があるオベリスク、それと良く似た形の石柱が立っていた。柱頭は獅子らしい。この飾り柱の意味は不明です。

08:42 天安門広場と天安門の間は大通りで地下鉄1号線がある。広場側から天安門に向かって右側の地下道で大通りを横切り、故宮博物院に近付きました。均整のとれた天安門は斜め前から見ても中々立派なものでした。

いよいよ明朝と清朝の宮殿、紫禁城です。

故宮博物院(旧・紫禁城): ○○○ 故宮博物院/紫禁城
The National Palace Museum/Purple Forbidden City
Gu gong bo wu yuan

北京の旧市内のほぼ中央にある紫禁城(シキンジョウ)、明・清時代の古い宮城なので故宮と呼ばれる。両王朝の約490年間、24人の皇帝の居城でした。始まりは1420年(永楽18年)に明の永楽帝が元の宮城跡に建立した大宮殿である。明朝末期に大破壊を被ったが、清がその規模を受けつぎ復興させて今日に至っている。
故宮は大きく広い。南北960m、東西760m、面積は約73万平方メートル、高さ10mの厚い城壁に囲まれ、四面の城壁に1つの門、城壁の四隅に角楼があり、その外に幅50m余の水堀をめぐらしている。この中に9000近くの部屋があり、明代では9000人の宮女、宦官10万人が住んでいたといわれる。
注: 宦官は明代までは数千人程度で、おもに後宮に配置されたが時には政治的な影響力を握るものもいた。明代となり爆発的に増え、約10万人に膨れ上がったという。宦官の制度は中国で最も顕著だったが、1924年に消滅した。他の世界では、エジプトやメソポタミアやペルシアなどの古代東方諸国にもあり、韓国やインド、トルコなどイスラム世界、ギリシャやローマ帝国、ビザンチン帝国にもあったとされる。キリスト教の台頭と共に衰えたらしい。
故宮は前朝と後寝のニつの部分がある。前朝は太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿を配している。このエリアで皇帝が国家行事を行ない、政治を取り仕切った。後寝は乾清宮、交泰殿、坤寧宮、東西六宮、御花園を中心とし、東側に奉先殿、皇極殿、西側に養心殿、雨花閣、慈寧宮などがある。このエリアは皇帝と后妃たちの居住区になり、宗教活動や日常の政務を行っていた。
故宮は南北の中軸線に沿って宮殿の建築物が配置され、左右対称である。城壁の各方面に城門があり、南の天安門と端門に続く午門が参観の入口であり、北の神武門が出口になる。東西には西華門(West Glorious Gate)と東華門(East Glorious Gate)が午門に近い南側の場所にある。通常の参観は午門から神武門に通り抜け、主に建物を鑑賞する。
現在、故宮博物院は中国を代表する美術館ながら北京(ペキン)と台北(タイペイ)に同名の美術館がある。本来は一つで、1925年10月10日、紫禁城(しきんじょう)に設けられた。明朝と清朝が収集した絵画、書籍、陶磁器、玉器(ぎょくき)、金銀器、漆器、染織、服飾、文房具、家具、祭器など数十万点があった。青銅器や玉器などのように古いものは殷(イン)や周(シュウ)の昔にまでさかのぼり、瀋陽(シンヨウ)の故宮、熱河の行宮(コウキュウ)に所蔵されていた宝物も移管され、一般に公開された。
1931年に満州事変が勃発、当時の国民政府は、これらの重要美術品や書籍を約2万個に分けて梱包し、まず上海に、ついで南京に移動させた。しかし1937年に戦火は南に広がり、これをさらに四川省や貴州省など奥地に疎開させた。1945年8月に戦争は終結、中国の宝物はふたたび南京に戻された。次に内戦が勃発し、1949年に数万点の宝物が台湾に運ばれ、1965年11月に台北市の故宮博物院がつくられ所蔵品の一部を展示することとなった。所蔵品中の圧巻は多数の名画とされる。
1949年の人民政府の樹立以来、北京の故宮博物院も遺留の宝物に加えて新収集品があり規模も拡大している。明清工芸館、珍宝館、絵画館、陶瓷(とうじ)館、青銅器館に分かれており、宮殿や門楼の一部を公開して特別展なども開催されることがある。
世界文化遺産:1987年登録
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参考文献とサイト
Ref.01、pp.64
Ref.02、pp.36-37
Ref.04、DVD百科事典、項目「故宮博物院」
Ref.Web Wikipedia 項目「故宮博物院」
Ref.Web Yahoo! 日本大百科全書→故宮博物院
Ref.Web アラチャイナ→北京見所案内→故宮博物院
2010.04.05 紫禁城の中心、大和殿 天安門広場側に水濠と石橋5本あり、その1つを渡る。中央の石橋は広く、他は比較すると狭いもの。まず外朝(Outer Court)の見学です。

天安門(Gate of Heavenly Peace): 
1417年に明の永楽帝が建てたが焼失、清代1651年に再建されて「天安門」と命名された。2階建で高さは33.7mという。
08:53 天安門は故宮博物院のゲートで入場料の支払いがある。運よく大して待たずに入れました。

端門(タンモン/DuanMen): 
08:55 端門を通り抜けた。この門もかなりの規模がある。上部は鉄パイプの足場を組んで改修中でした。次の建物まで距離があるが、並木でその後ろに恒久的な同じ小建物の土産屋がポツポツあった。

午門(The Meridian Gate/Wumen): 外朝の案内図
09:06 この頃に午門を通過した。この門はコの字型の巨大な建物になるが、コ型の上下の線の外は幅50m余の水濠(筒子河)になり、水濠の内側(紫禁城の外周)に高さ10mの厚い城壁が築かれ、午門につながる。コ型の最奥部に出入りの通路口が3つ作られていた。随分と頑丈な門でした。

脱線ですが、インドのアグラ城の門、モスクワのクレムリンの門、イギリスのウィンザー城の門、クロアチアのドブロヴニクの門、・・・、見知った城門と比較しても午門は極端に大きい。しかも、正陽門(前門)に始まり次の大和門まで巨大な門が幾つあるのか? 筆者は「ドギモを抜かれた」状態でした。でも、まあ、ロダン作「地獄の門」が小さくて大きいかも・・・。

午門を過ぎると四方を建物に囲まれた広々した空間になる。中央に真直ぐな石畳の道が作られ、広場の中央近くには金水川が流れ、5本の石橋が架かっている。渡る時に川面をみると鏡面で流水の感じはしない。石橋のかなり先に大きな建物がある。それが次の門になる。今まで通り、写真を撮りながらゆっくり歩いた。

太和門(Gate of Supreme Harmony):
09:12 大和門前の石段に到着した。中央の広い石段はバリケードで使えない。今だに皇帝専用らしい。両側の狭い石段を上がった。小高いテラスから振り返って午門を見る。

横長で茶色の巨大な台上に二重屋根の建物が堂々としており、両袖にはここからは小振りに見える二重屋根の建物を従えている。さらなる両外には城壁に登る折れ曲がった階段が作られていた。午門は太和門のテラスから見ると雄大そのものです。

ここに紫禁城の案内図があったので写真に撮った。
09:20 この頃に太和門を通り抜ける。
すると、またまた大きな広場の向こうに巨大な石の台座とその上の大和殿が見えた。随分と多くの巨大な門を通り抜けてきたが、この太和門が最後のものだった。

太和殿(Hall of Supreme Harmony):
創建は明代1420年でも現在は清代1695年に再建されたもの、金漆塗りの龍の座(Dragon Throne/Longyi)があり、春節や冬至節や皇帝誕生祝いなどの大典行事を行った最も重要な建物です。3段の石の台座の上にあり、正面約60m、高さ35m、奥行き約33mの故宮で最大、屋根の色は黄色をおび一際めだつ。釘は1本も使われていない。屋根の夫々の嶺に動物の焼物が10個あるが、この数は大和殿のみ、他の建物ではその数が少ない。
09:26 石段を上り、大和殿の前に到着。朱色の柱列に龍の絵が数多く描かれていた。全ての扉は閉じられ、中は残念ながら拝見できません。
大和殿の右側を周り、次の建物に向かった。

中和殿(Hall of Central Harmony/Zhong He Dian):
明代1420年の創建とされるが、何度も焼失し、現在のものは清代1627年に再建されたもの。建物は正方形で屋根はピラミッド型の寄せ棟、床は「金煉瓦」と呼ばれる高質な煉瓦が敷かれ、内部の中央に玉座が置かれている。大和殿の皇室行事が行われる前に皇帝が待機するための設備です。
09:32 中和殿の前にくる。
大和殿の石の台座は中和殿の横で窪みとなり、立派な石段が設けられている。草木の全くない石造りの空間だが、その先には赤く塗られた平屋(歴代芸術館)が塀のように左右に長く続いていた。
大和殿と中和殿の間に大勢の観光客がいた。その中に、民族衣装で着飾った若い女性が何組かいる。頼まれたのか、記念写真の撮影ではしゃいでいる。プロの観光モデルではない。

保和殿(Hall of Preserving Harmony):
ここは科挙の最終選抜試験「殿試」が行われた建物になる。科挙とは、国家統一を果たした隋の文帝が587年に始めた官吏登用試験のこと。保和殿に登るまでに幾多の試験で合格しなくてはならない。最後の殿試は成績による順位を付けるために行われた。主席を状元、次席を榜眼、3位を探花といった。合格者は中央政府の、あるいは地方行政区の高級官僚となった。科挙の制度は1905年まで続いた。
09:34 保和殿の前に到着です。屋根の嶺の動物数を数えたら9個で大和殿より1個少ない。
赤い柱が10本並ぶ二重屋根の横長の建物です。ここは2カ所の扉が開けてあり、中を覗き見ることができました。「皇建有極」と掲げた小祭壇が見えました。
ここでも民族衣装の若い娘たちが記念写真の撮影でした。

裏に回ると、故宮内廷の正門として使用されていた乾清門が見える。大和殿、中和殿、保和殿を乗せた巨大な石の台座から階段で降りて石畳の道をゆく。

☆ 内廷(Inner Court): 乾清宮、御花園、西六宮(West Six Palaces/儲秀宮のみ)  内廷 内廷の案内図

乾清門は小高く、前に3本の階段がある。乾清門の階段の間には金色の大きな獅子が置かれ、左右の壁面前には大きな真鋳色の鉢が10個置かれている。飾りながら防火用水槽としても用いられたらしい。

乾清門(Gate of Heavenly Peace/Purity):  09:45 乾清門(ケンセイモン)の前の獅子に到着。これから階段を上り、門を潜る。
その中は四方を建物に囲まれた草木のない前庭だが、乾清宮までは石畳の道の両側に石の欄干が作られている。この種の前庭はここが始めてだった。

乾清宮(Palace of Heavenly Peace/Purity):
乾清宮(ケンセイグウ)にて皇帝は日々の政治や内廷典礼や外国公使の謁見を行った。当初は寝所を兼ねたが、それは養心殿に移った。明代1420年の創建とされ、現在の宮殿は1798年に再建されたもの。
09:48 乾清宮に到着。
ここも石の台座上に建物が作られている。屋根の動物は9個でやはり大和殿よりも1つ少なかった。正面の台座上には大きな金属製の香炉が幾つも置かれている。金箔を貼ってあったらしい。重要なものらしく、鉄柵で触れないようにしてあった。
乾清宮の中央3つの扉が開かれ、内部の玉座などが簡単に拝見できました。大和殿は式典などの皇室行事、この乾清宮で日常の皇帝政治が行われていたのです。皇帝が崩御されると、棺は乾清宮に仮置きされました。そして外国公使などに公開し、平和裏に人生を終えたことを見せたそうです。

09:55 建物の右側に進み、大きな青銅製の亀の傍を通って階段を下り、「近光左門」なる門を潜り抜けた。この門は乾清宮の東側にあり北に向かう回廊にでる。
回廊の左は建屋で右は高い塀だった。塀の所々に回廊から東六宮の建屋に行く小路が有った。遥か先には小山と楼閣が見えた。小山は景山といい水濠の筒子河(カンシカ)を掘った時の土砂で作った築山、頂上の楼閣は万春亭といい紫禁城の全貌を眺めることができる景勝地という。景山公園の一部です。回廊の先端は行き止まりで、「左に御花園」の標識があった。

乾龍花園/御花園(Imperial garden): 
10:00 御花園に入ると、ゴツゴツと穴がある不規則な形状の庭石が並べてある。後方の木々の緑と良い組合せとも云えましょう。他にも、庭園のアチコチに同種の庭石が大切に置かれている。大湖石です。江南の無錫にある太湖から採取される石で、穴ぼこで同じ姿は二つとない独特の形が昔の中国で好まれ、重宝されているのです。大湖石もさることながら、草木の全くない外朝と内廷を歩いてきたので、久々の木々の緑にホッとした気分です。

10:02 御花園の中央に、朱塗りの坤寧門(Gate of Terrestrial Tranquility)があった。この門に入ると坤寧宮がある。そこは行かなかった。
御花園の先に変わった形に育った2本の柏(桧柏/Sabia chinensis)がある。幹が2本で途中の枝がX型に交差している。「最後の皇帝(Puyl and Wanrong)ご夫妻が結婚式の後、この木の前で記念写真を撮られた」との説明書き(英語)があった。その時に、
”We wish to fly in heaven, two birds with one pair of wings, and to grow together on earth, two trees with branches interlaced.”
という言葉(絶句または短詩?)をここに残されたそうです。
多くの中国人ペアー観光客が次々とこの木の前で記念撮影をしていました。現在の政治形態とは違う専制政治だったとしても、長い中国史における最後の皇帝はやはり人々の心に深い記憶として残っているのでしょう。

その先には太湖石の庭園、小山まで作ってある。「危険、登山禁止」となっていた。その近くは朱塗り柱の派出な印象の2階建がある。その近くで御花園は終り、次の見学先の道標があった。その辺りは皇后や妃の住まいや皇帝の寝所などがあった西六宮と云われる一角です。慈禧皇太后は西宮に長く住んだことから”西太后”と呼ばれるようになった。(注:中国では使わない日本人だけの呼称らしい。)

儲秀宮(Palace of Gathered Elegance): 
10:07 儲秀宮に着きました。 明代1420年に建立され、清代1655年に改築された。明と清の二代に渡り后妃がここに居住した。長春宮に住んでいた慈禧皇太后(西太后)は50歳の誕生日を迎えるにあたり改装工事を行い、この宮殿に移り住みました。
前庭は石畳の四角い広場ですが、広くはない。儲秀宮の前には青銅製の龍と鹿が飾られている。い和園の西太后の寝所前は鶴と鹿の飾りがありました。屋根の動物の数は5個で大和殿の半分、私的な空間に近かったのでしょう。
庭に面した建物の窓から中や展示物を眺めて終りです。

☆ 東六宮 East Six Palaces(古陶器研究所、時計博物館、九龍壁、珍宝館など)  内廷

次の見学先である御花園の東側は西六宮に対し「東六宮」と呼ばれ、皇后や妃の後宮があったところです。テーマ別の展示館を主に回りました。個人的には「奉先殿(時計博物館)」と「九龍壁」が印象に残った程度で、正直に云って疲労と飽きで興味をかなり失っていました。
東六宮を回ってから神武門を通過して紫禁城の見学を終えました。
まず、乾清宮の東側にある古陶器の展示館にいきました。

陶磁器研究所(Center for Ceramic Research): 
10:22 この研究所の前に奇妙な鉄の構造物を幾つも屋上にもつ建物があった。天文観測をした場所にも思えますが、現在は建物全体が廃墟です。
陶磁器研究所の中は撮影禁止、適当にガイドさんに付いて回り展示品をチラチラ眺めた程度でした。

10:33 長い回廊から広場に出た。ここで短いトイレ休息です。

奉先殿(Clock Museum):
この建物は明代や清代には宗祖の位牌を安置する霊廟だった。現在は鐘表館と云われ、収集された中国製やイギリス・フランス・スイス製のみごとな時計の展示館になっている。
10:42 時計博物館となっている奉先殿に到着です。内部の参観は自由行動でした。
展示された大小様々な時計は数多く、変化にも富んでいた。ゆっくり眺めました。ここは見応えがある、と思います。
11:00 集合し、次の見学先に向かった。

鐘表館(Palace of Terrestrial Tranquility):
2010.04.05 サービスのお茶 11:02 「鐘表館」と書かれた門を通り、その中の建物に入った。掛け軸や書などの売店だった。店内は写真禁止でした。
一通りの拝見を済ませ、椅子に座って休んだ。お茶のサービスがありました。
11:45 書道家による書の実演販売があった。10分程かかった。この書道実演は撮影の許可がでました。
12:00 苦情が出るほどにゆっくりと休息(予定表では20分)、次の見学先に向かう。

九龍壁(Nine Dragon Screen Wall):
皇極門の近くにあり、高さ3.5mで長さ29.4mの瑠璃瓦の壁です。黄色の龍が中心と両端に、左右に6匹の龍が青色、白色、紫色で見事に描かれている。清朝1773年に造られた。九龍壁は北京の北海公園(清朝1756年)や山西省の大同(明朝1392年)にもある。
12:08 九龍壁の前に到達。多くの人達が記念写真を撮っていて、ゆっくり撮影も出来なかった。大きな焼物の龍が長い壁に埋められている。
2010.04.05 九龍壁 12:10 ここを後にした。

珍宝館(Palace of Imperial Supremacy):
12:13 皇室の宝物類の展示館に入る。
いろいろ置いてあるが、紫禁城そのもののスケールに比べて、驚くほど数も質も魅力に欠ける。多くの宝物は台湾の故宮博物院にあると想像しました。
12:22 珍宝館から外にでる。

(?):
12:26 飾り石などの展示館に入る。
当日はもうクタクタでした。書いていても、何も思い出せないのです。

暢音閣
1776年の創建、宮廷舞台と云われ3層の舞台と観客席が分かれた建物で、皇帝たちは舞台の向かいの建物から中庭ごしに演劇を鑑賞したという。
チラッと見たはずですが、写真にも納めていなかった。

珍妃井(The Well of Concubine Zhen):
12:33 ここの説明板(英文)とネット情報を合せて説明すると、 『清朝末期に光諸帝が制度改革を断行しようとした時、側室の珍妃は皇帝をあらゆる面で支持したが西太后はその制度改革に反対で珍妃を憎んだ。1900年に8カ国連合が攻め入った時、光諸帝と西太后は逃げたが、その前に珍妃は捕らえられ、井戸に投げ込まれて溺れ死んだ。』
その悲劇の井戸が観光ポイントになっている。

神武門(Gate of Divine Might):
12:39 立派な神武門を通り、紫禁城を後にした。
正面には景山公園の緑の小山(高さ43m)と山上の万春亭が見えた。小山は北海を作った時の土砂の上に筒子河を掘下げた時の土砂を盛って作った築山です。現在は紫禁城の全域を眺る景勝地として知られている。

幅52mという筒子河(水濠)を渡り、濠沿いに東に向かった。北東の角楼(The northwest corner tower)が見える辺りで左の道に入り、待っていたバスに乗った。

昼食(麺料理/街のレストラン): 昼食
麺レストラン 12:55 街中のレストランに到着、階段を上る2階だった。
8人掛けのテーブルが並ぶレストランの奥に行く。
3テーブルを使用した。
運ばれた料理を食べていると男性2名が麺粉を練り固めたものを包丁で削ぎ、荒く太い麺を作るパーフォーマンスがある。ソバ打ちが普及した日本人にとって、特に感心したり食欲をそそるものでもなかった。
次々に出てきた料理を食べて、お腹は満ちましたが、味は正直いって今一の感でした。どんぶり入りの麺に数種類のトッピングをしたものも出たが、ウーン、評価や感想の表現が難しい。格安ツアーなので欲張りは禁物、満腹で満足です。
13:45 店を出て、バスの到着をまった。

中国茶の店: ○○○
お茶屋さん 14:04 ○○茶芸というお茶屋さんに到着、2階に上がる。
まずは、12人ていどが座れるテーブルにつく。お茶が幾種類か、急須やポットや湯呑セットなどが置いてある。店の女性が説明しながらお茶を入れてくれる。確か5種類くらい1口づつ賞味したと思います。
薄味や渋みの強いものやほのかに甘みを感ずるものなどがあった。お茶の種類などは記憶に残っていない。
その後は茶道具と茶の売店です。皆さん、いろいろ物色され、随分と購入していました。我々は趣味がなくて・・・。
14:45 この頃に店を出る。

天壇(テンダン)公園/世界遺産: 天壇公園 天壇公園の地図 天壇(テンダン)
Temple of Heaven
Tiantan Gongyuan

現在の北京には紫禁城(現・故宮博物院)を中心に東西南北に日月天地を祭る壇が設けられた。 それぞれは日壇(東)、月壇(西)、天壇(南)、地壇(北)、 南に建立されたのが天壇であった。全て公園になっている。
古来から儒教では天子のみ天を祭ることができ、古くは前漢時代に南郊壇が、後漢時代に円壇が作られたのが原型のようである。以後、魏晋(ギシン)、南北朝から隋(ズイ)、唐、宋(ソウ)、金、元、明(ミン)、清(シン)と変化しながら南郊壇と円壇は継承された。
明王朝になると、洪武帝(コウブテイ)が南京を都と定め、その南郊に大祀殿(ダイシデン)を建立し天地の合祭を行っていた。永楽帝の北京遷都の後、1420年(明の永楽18年)に故宮の南郊(実際は南東)の傾斜地に天地壇を築き、天を祭り五穀豊穣を祈っていた。天地壇の総面積は270万平方メートルあり、故宮の約4倍の広さでした。
嘉靖帝(カセイテイ)は1530年に天壇と地壇を分離し、故宮の北東に別に地壇を築いた。1534年に「天壇」と名を改め、大祀殿を取壊して大享殿(タイキョウデン)を建立した。
清朝は明朝の天壇を引き継いだが、1749年に大理石で現存の圜丘(カンキュウ)を築き、1751年に大享殿を祈年殿と改称した。これは1889年に落雷で焼失したが、1896年に再建され現在に至る。
「天は円、地は方」という古代思想に基づき永楽帝の天地壇が作られたので、天壇の壁は北側が半円形で南側が方形です。さらに北は高く南を低くして天地を表現している。この両壇をつなぐのが石板を敷き詰めた丹陛橋(長さ360mの通路)です。これは天壇を南北につらぬく1200mの中軸線の一部であり、この中軸線上に祈年殿や皇穹宇、圜丘壇などの建築物が並んでいる。
祈年殿(キネンデン):  創建は明代だが、現在の建物は1896年に再建されたもの。明と清の皇帝が正月に五穀豊穣を祈る儀式の場所でした。釘を使わない中国の伝統木造建築物とされ、周囲の12本の金色の柱は12支干支、内部にある4本の龍井柱は四季を表すといわれる。
皇きゅう宇(コウキュウウ):  皇帝の祖先の位牌を安置する建物になる。内部の壁が滑らかで音が壁面に沿って伝わることから「回音壁」といわれる。
圜丘(カンキュウ):  白大理石の3層の円形の基壇で、最上部の中央にある丸い石台は「天心石」という。皇帝は冬至に詣で、「天心石」の上に立って一年の出来ごとを天帝に報告したとされます。また、天帝を祭る儀式をここで執り行いました。
天壇公園は観光地でありながら、同時に庶民の公園としても人気がある。
世界文化遺産:1998年登録
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参考文献とサイト
Ref.01、pp.64
Ref.02、pp.36-37
Ref.04、DVD百科事典、項目「天壇公園」
Ref.Web Wikipedia 項目「天壇公園」
Ref.Web Yahoo! 日本大百科全書 項目「天壇」
Ref.Web 中国国際放送局 →旅行・文化→天壇
天壇公園の祈年殿
天壇公園にあった日本語の説明板/クリックで拡大
15:05 天壇公園に到着。東門から園内の駐車場に入る。
緩い曲線を描く城壁状の門を通り抜ける。内の広場では人々が虹のようなリボンで遊ぶ姿があった。庶民の公園なのです。
それから長廊に行く。その右は壁、左は柱列はあるが窓なしです。大勢の人達が思い思いの遊びに興じている。カードをするもの、蹴羽根をするグループ、ダンスの人達、大変な賑わいで団体で通るのも気が引ける思いです。でも、庶民の皆さんは明るく楽しそうです。長廊はしばらく直線ですが、祈年殿近くで折れ曲がる。近道で行く。

15:16 祈年殿の下に出ました。
円形の3段の台座の上に円形の独特な3層の建物がある。下から見上げると安定した建物です。周囲は石畳の広場になっている。祈年殿の正面にまわり、そこで記念写真を撮った後、解散となりました。

15:27 祈年殿の台座に登った。正面入り口から祈年殿の内側が覗ける。その行列(?)というか人混みに入り、少々押しあいながら前に出て写真を撮った。入口から奥には赤と金の2色で図柄が描かれた柱が2本づつあり、祭壇の後方など壁面沿いに赤い柱で並んでいる。正面は4段の階段を上がる台座があり、その上に「皇天上帝」と書かれた祭壇があった。明朝と清朝の皇帝はこの祭壇で五穀豊穣を祈った。その時は荘厳なものだったことでしょう。この建物は釘を1本も使わずに建てられているそうです。
後ろの人数も凄いので、写真を数枚とって場所を空けました。

それから、例によって祈年殿の周りを一周した。台座上からはほぼ東西南北に建物があったと思うが、何の建物か分からないものもある。南方向には祈年門があり、そこから丹陸橋という広い道が南に延びている。大勢が歩いているのも見えた。その先に成貞門があり、その後ろは皇帝の控の建物「皇きゅう宇」の屋根が見えている。その後ろに、皇帝が天帝に祈りを捧げた3層の丸い石壇「圜丘壇(カンキュウダン)」があるが、これは低いので近くに行かないと見えません。

15:41 台座を降り、祈年門に行く。
ここからは丹陸橋が良く見えた。恐らく2/3の観光客は成貞門からこちらに向かってくる。圜丘壇(カンキュウダン)から祈年殿を観る人達が多いようでした。たまたまかも知れないが・・・。

15:50 祈年殿をあとにして、再び長廊を歩いて出口に向かった。しかし、長廊は折れ曲がった所までで、その後は長廊沿いの外の道を行く。こちらは人が少なく歩きやすい。時には長廊に入り楽器を弾く人達や蹴羽根のサークルを眺めたり、楽しみながら歩きました。

蹴羽根 15:55 駐車場近くでは蹴羽根で遊ぶ人達が多かった。使えるのは足だけと思ったが、手袋をはめて手で打ち返す人もいる。英語サイトの説明では「手以外の体を使って返す」とあり、ルール違反かも知れません。しかし、皆さん、気軽に楽しんでいるのでしょう。

日本語ページでは”蹴羽根”を”蹴鞠”と表現する人達も多い。蹴鞠は丸い鹿革のボールを地面に落とさぬよう円陣のプレーヤーが蹴り返し続ける。これも中国で生まれ、約1400年前の大和朝廷時代に日本の伝来し、鎌倉時代には武家社会、江戸時代には庶民も楽しんだらしい。明治維新(1868年)で途絶えたが、1903年に保存会が結成され今日に至っている[出典:宮内庁サイト]。本家本元の中国では大昔に蹴鞠は途絶えたと云われます。

ところが中国では、蹴鞠の代わりに蹴羽根が考案され、こちらが長く遊ばれ続けている。蹴羽根のルールは蹴鞠と同じようですが、ボールの代わりに写真のものを使う。実際に現地の人達がプレーする羽根は色無しでグレー又は白でした。

土産屋で若い女性が蹴羽根を手にして売っている。僅か5人民元なので、1個買いました。羽根は綺麗な色に染めてあるので飾りにもなる。天壇のよい記念となりました。

16:00 出発。

民芸品店:
民芸品店というが、国営の博物館を兼ねた複製品の販売店でした。セールス担当ながら学芸員の雰囲気が漂う女性が案内係、日本語は上手です。
中国の伝統的な建築様式の1つらしい屋根の支持構造を実例を示しながら説明したり、珍しい建物の模型なども見ました。宇治の平等院と共通する外形の建物も展示されている。残念ながら、中国の古いものは文化大革命で多くが破壊され、農家などに密かに隠されたものが無償で国に返還されている状況にあるそうです。
ここは写真禁止で記憶も大してありません。
17:15 店を出る。太陽は未だ高いがその形が見える。やはりスモッグが凄いのでしょうね。
これで今日の観光は全て終えました。

夕食(北京ダック/全聚徳): 昼食 北京ダック/全聚徳
Roast Duck
Kao ya dian (カオヤーディエン)

日本では「北京ダックは皮のみ」なる情報も流布しているようですが、中国ではローストダックの皮付きの切身を北京ダックとしています。 この北京ダックのアヒルを中国語で「kao/鴨」というそうです。
北京ダックの歴史
『 北京ダックはかつて明朝宮廷の高級料理で宮廷では「金陵ダック」と呼ばれていました。15世紀初期、明朝が都を北京に移すと同時に、ローストダックの調理技術も北京に伝わりました。北京ダックは皇帝や宮廷の人々に愛され、清の時代には宮廷料理としての地位をさらに高めました。
全聚徳は清朝1864年に楊全仁氏によって創業され、すでに140年の歳月が経ちました。楊氏は鶏やアヒルの肉を売って生計を立てていましたが、干し果物屋「徳聚全」が倒産したきっかけに、全財産を投じてその店を買い取りました。 その後、名前を「全聚徳」に改め、宮廷で炙り鴨を調理していた料理人孫氏を迎え、炙り炉による絶妙な美味しさの鴨料理を宮廷から民間へと伝えました。』
[引用: 全聚徳  無断引用です。 ]
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『中国原産のペキン種と呼ばれる卵肉兼用のアヒルの通称(イラスト)。また、これを材料とする北京料理として有名な搾鴨子(カオヤーズ)を指す。生後50日前後のアヒルに高タンパク質の練り品を1日2〜4回、機械で胃の中へ押し込む強制給品を行う。この特別に肥育したアヒルの内臓を抜いて空気でふくらませたものを、あめを全身に塗って乾かす。これを搾炉と呼ぶかまど(竈)の中につるしてナツメやアンズの薪で焼く。途中、したたり落ちる油に香料と調味料を加えたものを何度も表面に塗る。焼きたてをうすくそぎ切りにし、小麦粉でうすいハスの葉状に作った蛭(ピン)に、甘みそやネギ、キュウリのせん切りといっしょにくるんで食べる。(後略)』 
[引用:世界大百科事典DVD版 項目「北京ダック」]
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参考文献とサイト
Ref.01、pp.76-77
Ref.04、DVD百科事典、項目「北京ダック」
Ref.Web Wikipedia 項目「北京ダック」
Ref.Web Yahoo! 日本大百科全書「北京ダック」
Ref.Web 全聚徳
全聚徳、北京ダックの切り分けパーフォーマンス 17:30 全聚徳の近くでバスを降りる。この有名なレストランは北京に6店有るらしい。東京にも進出し、銀座と新宿にあるとか・・・。
17:34 席は2階の一番奥に用意されていた。2階は我々以外は全て欧米系の人達だった。恐らく、個室を除けば、特等席に近いものだったと思います。
店の雰囲気や従業員の振る舞い方から今回のツアーでは破格の高級レストランに思えます。

中華だから、料理は次々に沢山でてきます。
目玉は北京ダックのロースト皮付き切身です。それを春餅(シュンピン)とか薄餅(バオビン)という蒸した薄皮に乗せ、細く切ったセロリとキュウリを添え、甘ミソを塗り、春餅で包んでから食します。言うなれば、日本の手巻き寿司の中華版に思えます(歴史的には北京ダックが古い、と思う)。ここのローストダックは油が乗り、噛んでいると甘みが口に広がる。美味しかったので4個も作って食べました。これだけ食べれば満足です。不思議に北京ダックの皿は間をおいて3枚も出てきました。
ツアーの中には北京ダックが始めての人もいたので、ウェイターさんが食べ方のコーチもしてくれました。丁寧な感じです。
最後に口直しのスイカとミニトマトですが、同じ皿でした。昨年暮れの香港旅行で知ったのですが、中国ではトマトは野菜でミニトマトは果物とか、今も不思議ですが・・・。 「トマトは野菜でミニトマトは果物」に興味ある方は筆者の別経験談、
旅行記|香港、マカオ、深セン(5泊6日) 4日目(2009/12/06)
項目「夕食(民俗村内のレストラン)/ミニトマト」

をご覧ください。私も知らなかったので驚き、調べて記述してあります。
北京ダックに興味のある方は筆者の香港での経験談、
旅行記|香港、マカオ、深セン(5泊6日) 2日目(2009/12/04)
項目「夕食(繁華街の北京料理)」

もご覧ください。記憶は当てになりませんが、夫々の味に特色があり共に楽しめましたが、今回の北京ダックの方が薄い甘みのある油味でモッソリ感よりコッテリ感があった、と思っています。全聚徳は銀座と新宿に出店しています。その日本語サイトで拝見すると、緑の野菜などもあり日本人好みにアレンジされているようにも思えました。

18:42 この全聚徳レストランの1階はほぼ全員が現地の人達というか、オリエンタルでした。住み分けているようです。サンフランシスコの中華街で食事した時も、1階はオリエンタルで2階は欧米系(アメリカ人)と住み分けられていた記憶があります。中国人は気にしないのかも知れません。

レストランの外に出る。外は小雨、驚きました。夕焼けのような太陽を見ていたので、北京の天候はこうも早く変わるのか?と不思議に思った。濡れないよう、バスに急ぎました。翌日の情報では雨は30分ほどで止んだそうです。
18:45 乗車、人数の確認後に出発。今日の予定は全て終り、ホテルに帰ります。

新世紀ホテル北京(3泊目): ホテル 19:20 ホテル着。
明朝早く5時にホテル出発の予定、それで4時起きです。朝食は弁当になる。
手早くシャワーを済ませてパッキングを終えた。購入した土産品は2人のキャリーパックに分散して入れる。全て丁度良く納まってくれた。

09:30 就寝。時刻が早い為か寝付きが悪く、2度も起きた。しかし、何とか眠る。

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