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旅行記|オランダ・ベルギー、秋の周遊旅行 ( 3日目/2005年10月17日・月曜 )
アムステルダム市内観光とザーンス・スカンス村
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ホテル出発まで:
05:00 起床。快適な部屋だったらしく目覚めることもなく熟睡できた。直ぐに湯を沸かし甘いインスタント・コーヒーを2杯も飲む。シェーバーは昨夜から充電しているので切れ味は十分になっていた。
06:05 今日からショルダーバックはやめてウェストポーチとリュックを使用することにした。リュックはバスに残せるので観光や写真撮影が楽になる。急ぎ携帯品を詰め替えた。
06:20 ロビーを横切った場所のレストランに行きバイキング朝食。
07:05 レストランから自室に戻る。外は未だ暗闇だった。日の出は8時頃のはず・・・。
07:50 部屋を出る。暫らくロビーの売店を覗いたりしたが、私だけデジカメ片手にホテルの外を少し散歩する。天気は晴天、日の出の直前でした。
08:20 バスに乗車。
いよいよ今日から観光開始、アムステルダムからオランダとベルギーの観光先を巡ってアムステルダムまで、バスの車両とドライバーさんは初めから終りまで同じ予定です。

観光先までの車中にて:
08:25 現地ガイドさん(日本人女性)が合流し、ホテル前を出発。
これからアムステルダム国立美術館に行くのだが、途中で現地ガイドさんがオランダやアムステルダムについて色々と説明をした。車窓の風景を眺めながら時々メモしたので、その1部を書き残しておきます。聞き違いやメモ間違いがあるかも知れませんが、ご容赦を願い上げます。
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 * 今朝は少し冷え込み、約5度だった。
 * オランダは好景気なのか物価高、ユーロの対円相場も高く1ユーロ約140円もする。
 * 当地では釣銭は2捨3入。
   例えば、92セントの商品を1ユーロで支払うと90セントで10セントの釣、
   93セントの商品なら95セントとなり5セントの釣となる。
 * 100ユーロ紙幣は受取りを拒否されることがある。偽札が増加したためらしい。
 * ホテルの枕チップは1人1ユーロが相場。レストランやタクシーはアバウトでよい。
 * 有料トイレの料金は30〜50セントで場所により異なる。
 * トイレの区分は男性用がヒーレン(H)、女性用はダーレン(D)。
 * 水は良質でそのまま飲めるが硬質である。
 * 今日の午後に行くザーンス・スカンスは日本の「明治村」のようなところ。
 * アムステルダムはオランダ第一の都市で人口は約73万人。
 * アムステル川は唯一の自然の川、ダムは「堤」の意味で日本のダムとは異なる。
 * 市内は根を張らず運河を傷めない楡の木が多いが、菩提樹が増加中とのこと。
 * 公認カジノが数件ある。
 * 売春は公認で、飾り窓の家がある。
 * すべからず自己責任での行動が求められる国である。・・・、等々。
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鉄道沿いに走った時にイェローとブルーに塗装された列車を数度見かけた。二階建て列車は日本にもあるにはあるが、やはり珍しく思われた。 アムステルダムの風景(車窓)

アムステルダム国立美術館 (Rijksmuseum):
2005/10/17 Rijksmuseum
アムステルダム国立美術館の建物
この美術館は1885年の開設で、アムステルダム中央駅を設計したカイペルスによる見事な建物、とされる。中央駅と同じく2本の塔があり、その他の特色などにも素人目にも共通点を感じました。
ガイドブックやネットの情報サイトでは国立博物館とするものもあるが、ツアーでは国立美術館と言っていた。Museum はどちらの意味もあるので何に重点を置くかの違いでしょう。アムステルダムの人達は親しみを込めて「 ライクス 」と呼ぶそうです。
収集品はデン・ハーグのハウステンポス(意味は”宮殿”)のコレクションと歴史博物館の収蔵品を合わせたもので、世界最大規模の美術品コレクションの1つのようです。特に17世紀に活躍したレンブラントとフェルメールなどの作品に特色があるとされます。他に中世の祭壇画、船の模型、デルフト陶器、ダイヤモンド工芸、アジアの美術品、等々も展示されているようです。

09:05 国立美術館近くでバスから下車。
09:07 「ライクス」に到着。直ぐに入館し2階の展示室に行く。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz.van Rijn/1606-69)の傑作「夜警」や「自画像2点」、「ユダヤの花嫁」、「布地組合の見本監督官たち」、等々、
フェルメール(Johannes Vermeer/1632−75)の「恋文」「牛乳を注ぐ女」「小路/デルフトの家の眺め」「青衣の女」、
アーフェルカンプ(Hendrick Avercamp/1585-1634)の「スケーターのいる冬景色」、
ライスダール(Jacob van Ruisdael/)の「風車」
等々、17世紀の名作を中心に現地ガイドさんの案内で1時間ほど鑑賞しました。もちろんレンブラントの作品の展示が多かったのですが、全部で30点余しか残っていないとされるフェルメールの作品4点がこの美術館で見ることができるのです。19世紀のフランス印象派の油彩画とは雰囲気を異にしますが、やはり素人にも何がしの迫力を感じさせる絵が多かったように思います。国立美術館の写真ページでは「ミニミニ美術館」として撮影した絵画を掲載しています。 アムステルダム国立美術館
10:10 美術館から出る。
注1: 国立美術館「ライクス」へのリンク ⇒  Rijksmuseum
注2: この美術館の中央部分は2003〜2008年の予定で大規模な改装工事をしている。それに合わせ1部の収蔵美術品が世界を巡回して公開されているが、2005年10月25日から2006年1月15日までは日本で公開され、兵庫県立美術館(神戸市東灘区)で「オランダ絵画の黄金時代、アムステルダム国立美術展」が催行されます。
レンブラント作「青年期の自画像」やフェルメール作「恋文」、アーフェルカンプ作「氷上の遊び」、ライスダール作「ペントハイム城」なども兵庫県立美術館で展示されます。
徒歩移動: その後は国立美術館の南西にある国立ゴッホ美術館に徒歩で行きました。同じ公園(ミュージアム広場)にあるのです。直接ゴッホ美術館に向うと数分の距離ですが遠回りして公園や辺りの街の風景を眺めました。
道順は思い出せないのですが、途中の右側に有名なコンセルトヘボー(コンサートホール)がありました。若い時にはアントルメ指揮コンセルトヘボー管弦楽団の音楽(LP盤)を聴いていた記憶がありますが、最近の活動はどうでしょうか。初めてみる建物ですが、その名がとても懐かしく思われました。 アムステルダムの風景(徒歩移動)

ファン・ゴッホ美術館 (Van Gogh Museum):
2005/10/17 Van Gogh Museum
ファン・ゴッホ美術館の正面入口
10:18 「ライクス」や「コンセルト・ヘボー」の建物とは全く違う近代的なゴッホ美術館に到着しました。
ゴッホ兄弟が収集した浮世絵を数多く所蔵する点でこの美術館と日本は特別な関係があるともいえます。さらに、現代でも関係がありました。本館はオランダの建築家へリート・リートフェルト氏(1888−1964)によって設計されましたが、1999年に開館した別館は著名な日本人建築家の黒川紀章氏の設計によるものとされます。
オランダを代表する世界的画家のゴッホ(Vincent Willem Van Gogh/1853-90)の専門美術館のこと、さすがのコレクションですが、残念ながら写真撮影は禁止です。それで他の美術館と違い「ミニミニ美術館」は写真ページにありません。
2005/10/17 Gogh Booklet
フィンセント・ファン・ゴッホの生涯
1853年3月30日 ズンデルト村に誕生
1878〜1880年 ポリナージュ
1880〜1881年 ブリュッセル
1881年 エッテン
1881〜1883年 デン・ハーグ
1883年 ドレンテ
1883〜1885年 ニュネン
1885〜1886年 アントワープ
1886〜1888年 パリ
1888〜1889年 アルル
1889〜1890年 サン・レミ
1890年 オヴェール・シュル・
オワーズ
1890年7月29日

帰りがけにミュージアム・ショップで「VAN GOGH MUSEUM フィンセント・ファン・ゴッホ、その生涯、作品そして仲間たち」というガイドブック(日本語、写真)を購入しました。
それによると、ゴッホが画家になる決心をしたのは27才の時(1880年)だった。画家の時代は僅か10年でしたがその間に1100点のデッサンと約900点の油彩画を描いたそうです。その内のデッサン500点と油彩画200点が、さらにスケッチブック4冊、800通もの書簡、ファン・ゴッホ自身と弟テオが集めた美術品などがフィンセント・ゴッホ協会に買い取られ、そしてオランダ政府に永久貸与されてこの美術館(1973年設立)に収められました。兄弟で集めた美術品の中には日本の浮世絵570点も含まれているそうです。

初期のゴッホは「落穂拾い」や「晩鐘」を描いたミレー(バルビゾン派)の影響を受け、農民の絵が多く残っている。この時代の油彩画は暗い画風のものが多い、ようです。
1885年3月にパリに移り住んでから、印象派の影響で明るい画風に変わり筆跡もゴッホ特有のものになっていった、と思われます。
1887年には、子供時代から見覚えのある「収穫」という農村風景も描いている。明るく穏やかな素晴らしい風景画の一つ、と思います。この絵から”炎の人”の連想はとても難しい。しかし、ゴッホは次第に精神的に行き詰まっていった・・・。アルルでのポール・ゴーガンとの共同生活はよく知られているが、結局は破綻します。そして自分の耳を切り落とし、最後には病院に入ることになった・・・。

1970年代前半(何時かは忘れた)、ニューヨーク市のブルックリン美術館でゴッホの特別展覧会があった。徹夜組の長い列が出来たほどの人気だったと記憶している。その展覧会を見なかったし、今までニューヨーク時代の悔みの1つでした。この美術館を訪ねることが出来て、何故か肩の荷を降ろしたような気もしました。
そういえば、ニューヨークは当初オランダの植民地でした・・・。

11:23 美術館を出る。 ファン・ゴッホ美術館
注1: 国立ゴッホ美術館へのリンク ⇒  Van Gogh Museum (English)
注2:主な収蔵品:
畑で仕事をする農夫(1883年)、 フェルトの帽子をかぶった自画像(1887年)、 日本趣味(広重『江戸百景』より)(1887年)、 キャンヴァスの前の自画像(1888年)、 種まく人(1888年)、 野菜畑(1888年)、 アルルのゴッホの部屋(1888年)、 荒れ模様の空と畑(1890年)、 カラスのいる麦畑(1890年)、等々

バス移動: 我々はアンネ・フランクの家に向った。ミュージアム広場からはプリンセン運河(Prinsengracht)沿いの真北になる。離れているので西教会まではバスだった。
11:48 西教会のまえ。花の供えられたアンネ・フランクの銅像などの写真を撮影。しばしここで過ごす。
11:55 アンネ・フランクの家の見学に行く。しかし、その建物から手前のコーナーまで、そのコーナーからさらにズーーーと長い観光客の列が出来ていた。これでは1時間以上の待ち時間となるらしく、午後の見学に変更して他の見学予定地に向った。

カッサン・ダイヤモンド研磨工場(CASSAN Diamonds):
2005/10/17 CASSAN Diamonds
カッサン・ダイヤモンドの正面入口
12:15 ダイヤモンド研磨工場に到着。直ぐに研磨作業の見学となった。オランダは歴史的にユダヤ人への迫害がなく、多くのユダヤ人が住んでいたといわれる。その一部の人達が今もダイヤモンド関連の仕事をしており、ベルギーのアントワープ程には知られていないが、かなり盛んとの説明でした。
研磨作業の見学といっても比較的素朴な機械と道具で小さなダイヤモンド原石に精密な面を磨きだす作業です。原理は直ぐに理解できる。しかし次の展示即売所では簡単に財布が開く訳もありません。活発な「カイ」が入ったようには思えませんでした。しかし、この会社は銀座2丁目にオフィスがあるので、気付かずにここの製品を購入している人もいるかもしれません・・・。
12:55 ダイヤモンド研磨工場の外に出る。前の建物に休息所があり、無料のコーヒーで喉を潤しました。 カッサン・ダイヤモンド研磨工場

昼食(レストラン):
13:05 街中のレストランに到着。
メーンデッシュはポーク・シュニッツェル(薄いトンカツ)の予定。飲物はコーラ1本(@2.30E)を注文。パン(少ない)、スープ、メーンデッシュ、デザート(アイスクリーム)の昼食だった。聞いてはいたが、フライドポテト(フレンチフライ)がメーンデッシュの付合せにあり、少量のパンを補っている感じだった。 昼食(レストラン)
14:15 昼食レストラン出、バスは表通りで待っていた。
14:20 再度アンネ・フランクの家に向って出発。

アンネ・フランクの家 (Anne Frank Huis):
2005/10/17 Statue of Anne Frank
西教会前のアンネ・フランクの像
14:33 午前と同じく西教会(Westerkerk)の前でバスを降りた。このプロテスタント系の西教会はベアトリクス女王(1980年4月30日即位)が1966年に結婚式を挙行されたことでよく知られているそうです。
驚いたことに高名な画家レンブラントはここの共同墓地に眠る。ルーベンスやベラスケスと並びオランダを代表する画家は晩年になり経済的に困窮の極みだったらしい。女性関係にたいする教会の批判や浪費癖による強制財産処分などレンブラントの個人的な苦境が重なったとされます。その後ですら絵を描き続け、名作を描き残した天才でした・・・。しかし当時の評価は今日程ではなく後世に見直されたとされます。[Ref.04、項目(レンブラント)]
西教会の高さ85mの鐘塔はアムステルダムでは最も高く、50個のカリオンの音は素晴らしいようです。その教会の広場に少女アンネ・フランクの銅像があった。
そこからプリンセン運河沿いに「アンネ・フランクの家」に向った。観光客の行列はあったが、午前に比べるとかなり短く待ち時間も僅かだった。

アンネ・フランクが残した「アンネの日記」は知られていると思うのですが、日本ではヨーロッパの昔の物語として風化しているかも知れません。簡単に書くと「アンネの日記」は次のようなものです。
diary of Anne Frank
1994年4月発行、文芸春秋社
1933年に政権の座についたナチス・ドイツのユダヤ人迫害は酷いものだった。アンネ・フランクの一家は父オットー・フランクと共にアムステルダムに難を逃れ、スパイスやジャムの加工用薬品などを販売する会社を経営して生計をたてていた。そのアムステルダムも1940年にはナチス・ドイツ軍が侵攻し占領するところとなった。アンネ・フランクの一家はユダヤ人であるが故に、ナチス・ドイツの秘密警察ゲシュタポに捕まると強制収容所に送られる運命となったのです。ゲシュタポに見つからぬよう、一家は1942年7月からプリンセンフラハト263番地にあったオットーの会社の屋根裏に2年間も隠れ住みました。しかし結局はゲシュタポに発見されてしまった(密告らしい)。1944年8月4日に隠れ家から連行され、同年9月6日にポーランドの強制収用所(アウシュビッツ)に収容されたのでした。同じ隠れ家の8人の内、アウシュビッツで亡くなった人もいましたが、アンネ・フランクはベルゲン・ベルゼン女子収容所(ドイツ)でチフスに感染し病死したとされる。
アンネ・フランク(当時13〜14才)は隠れ住んだ毎日の出来事を日記に書き残しました。アウシュビッツではアンネの父オットー・フランクのみが生き残り、戦後になり娘の記録を「アンネの日記」として出版したのです。そして60もの言語に翻訳され、世界中で読まれているのです。[Ref.12][Ref.05 項目(アンネの日記)]

追記: ユネスコは2009年8月1日までに「アンネの日記」が世界記録遺産に登録されると発表しました。ユネスコでは「世界中で読まれた書籍トップ10の1冊」としているそうです。なお、世界記録遺産はユネスコの世界遺産認定活動の一環として1995年に創設されました。日本からの登録はないそうです。[出典:日経 2009年8月2日、要点のみ]

バラの「アンネの思い出」。幾つか異なる花を付け、その1つです。
日本のある公園で撮影したバラの一品種「アンネの思い出」の説明版です。
アンネはバラの名にもなっている。
日本の公園で撮影。(2007.10.17 追加)
14:41 「アンネ・フランクの家」に入る。この家は実は本物の「アンネ・フランクの家」ではなく、本物から数軒離れた家に本物と同じ作りで再現されたレプリカ(移設?)らしい。それでも隠れ家の出入口を隠す本棚のドアーや狭い階段、台所、等々閉じ込められたフランク家の長い不自由な生活を偲ばせるに十分です。内部は観光客でとても混んでいたし、写真撮影は禁止でした。

15:15 「アンネ・フランクの家」を出る。数軒先にある本物の「アンネ・フランクの家」は緑色に塗られて「 ANNE FRANK HUTS 」と表示されいる。内部は見ることが出来ませんから、記念写真だけをその前で撮りました。
ついでながら、西教会から「アンネ・フランクの家」、そして北教会方向へプリンセン運河がのびている。秋のことで木々の色が明るく変色し、運河のある街の風景が素晴らしく絵になるものでした。 アンネ・フランクの家

追記: アンネの隠れ家の裏庭に高さ約22mで推定樹齢150〜170年の栗の木があった。アンネが屋根裏の窓から眺めるのを楽しみにしていた木とされる。23日に強風により地上1mの所で幹が折れ、全体が倒れた。 [出典:読売オンライン 2010年8月24日、要点のみ]

15:25 バスに乗車。
15:30 出発。海軍博物館の近くにあるトンネルを通過し、アムステルダムの新興住宅地をしばし行く。それからザーンセ・スカンス村に向って高速道路を走った。
15:55 高速を降りると小奇麗な集落だった。そこを過ぎると風車が見えるようになった。

ザーンセ・スカンス (Zaanse Schans):
2005/10/17 Zaanse Schans
ザーンセ・スカンスの風車
16:00 ザーンセ・スカンス村の駐車場に到着。
アムステルダムの北西15Kmにあるザーン川沿いのザーンセ・スカンス村には数基の風車が残り野外の博物村がある。ここの風車の塔は一段と背が高く、平屋の建物とペアーになっていようです。キンデルタイクの風車などオランダの風車の多くは灌漑用(水位調節用)らしいが、ここの風車はマスタード挽きやオイル絞りとか風車の回転力を鋸の上下運動に変えて製材に使われたとされる。特に製材用風車は”パルトロック”と呼ばれ、この地方で造船が盛んだった16世紀に数多く作られたそうです。いうなれば、生産設備の動力源だった。
現在は運河や牧草地に混じり伝統的建物が固まっている。そこでショップと共に木靴やチーズの製造デモンストレーションをしています。その先に少し歩くと現存する昔の風車になる。愛知県の明治村のように昔の建物と設備を保存して観光用施設になっているのです。

ツアーとしては、駐車場から昔の住宅らしき小さな家々の傍をとおり、まずショップ併設の木靴工場に入った。

tool_for_patchwork
陶器のゆびぬき
mini-woodenshoes
ミニチュア木靴
木靴工場: 入口から各種の木靴が並んでいる。奥では天井と壁に木靴がビッシリだった。そこに木靴製造機があった。1つは完成した片方の木靴を固定し形をなぞる機能、もう一つはその通りに生木から木靴を削りだす機能、その2つが1つになった素朴な機械だった。これを使うと、手作りで3時間かかる木靴がたったの3分ですむらしい。背の高い職人さんが片方の靴を仕上げて見せた。材料は「ポプラの生木」で、この機械で作られた木靴に文様を彫ったものや彩色を施したものなどオランダ名物の種類は多かった。
大きいサイズの飾り彫りの木靴が見事と思ったが、重くてかさばる。それでミニチュアの木靴(@14.90E)を記念に買った。ワイフはパッチワーク用の小道具(@2.50E)を土産用に幾つか購入していた。この指ぬき(?)はコレクションする人もいるらしい。

チーズ工場: 次に入ったのが質素なチーズ製造の家でした。タイル張りのスペースにチーズ作りに使用された道具類があり、オランダ人女性がどうやってチーズを作るか説明していたが、特に興味は涌かない。
ショップもあるが、チーズは種類が多く口に合わないものもかなり経験しているので我々は何も購入しなかった。どのタイプが一般的に日本人でも大丈夫か簡単なガイドが無いと残念ながら難しい・・・。

そこを出てからは、風車のある運河沿いの小路を自由散策して過ごしました。ここの風車の1つは中国人グループが中に入っていたので自由に入れるのかも知れません。しかし我々のツアーでは前もって何の説明もなかったので近くで眺め写真を撮っただけで引き返しました。時間的には丁度良かった。
添乗員さんが何かついでの時に、「今のツアー料金のままでは中国人や韓国人が見れる所も日本人は見れなくなります。会社は儲けていますが・・・」といったことがある。この種のことを暗示していたのかも知れません。
運河の遠方では白鳥も固まって遊んでいた。が、これは定住させているものかも知れない。渡り鳥の白鳥がオランダに飛来するには時期が早過ぎるように思えました。

17:20 駐車場まで来た道を戻り、バスに乗車。 ザーンセ・スカンス村

夕食(レストラン):
18:00 レストラン着。
飲物はビールだったと思いますが、記録を忘れていた。分量たっぷりのサラダ、パン、メーンデッシュ(シチュー風の牛肉の煮込み)、共通(温野菜・フライドポテト・?)、デザート(カット・フルーツ)でした。
19:15 レストラン出。
19:20 バスはホテルに向けて出発。 夕食(レストラン)

アムステルダム泊(NH スキポール・エアポート/2泊目):
19:45 ホテルに戻る。
デジカメのバッテリーとシェイバーの充電を開始。デジカメの充電池は2時間で完了だが、朝まで放置する。
21:10 就寝。
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