HOME旅行記集
旅行記|東欧4ヵ国旅行( 2日目/2004年5月20日・水曜 )
パリ乗継、ベルリン観光、ケムニッツに移動
TOP ツアー 国情報 準備 始め 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 6日目 7日目 8日目 終り
文字サイズ変更ボタン(本文のみ)
◇◆◇

パリ、シャルル・ド・ゴール空港・到着: ドゴール空港(1)
夜明け前のドゴール空港
04:45 フランスの入国審査。厳重にパスポートの写真と顔の確認をうけ、手荷物と身体のレントゲン検査を済ませて、一般のスペースに出る。この空港は相変わらず厳重なセキュリティ対策が実行中だった。
05:15 1時間の自由行動となる。空港内の店をブラブラ見歩き、書籍・雑誌や簡単なお菓子類を並べたキオスク風の店で口慰み用のガム(@1,10E)やスイート(@1,00E)を幾つか買った。早朝なので開いていないカフェや商店が多い。未だ暗い第二ターミナルの建物の外に出てみたり、ホールの椅子で休んだり、時間潰しをする。

06:20 出発口はD64だった。渡された搭乗券と航空券はホッチキスで止められていたが外すように言われる。パスポートを見せて搭乗口を通過し、ボーデングブリッジに入った。実は搭乗機はこの先端にいない。どこかで待機中なのだ。当然シャトルバスを利用するはずです。これからが珍しい。このボーデングブリッジの中央部にはバス乗降用の出入り口がある。そしてその真下の地上ではかなり大型のバスが2台待機している。車輪とエンジンのあるプラットホームから乗客用の箱部分が離れて高く持ち上がるエレベーター式バスなのだ。ボーデングブリッジ中央の出入り口とリフト型シャトルバスの出入り口がドッキングされ、そこから乗車するのである。搭乗客は階段の登り降りがなくて負担が少なく、セキュリティー上も不審者の混入・脱出の可能性がないでしょう。

06:42 エレベーター式シャトルバスに乗車した。内部は意外にも幅広く通常のバスの二台分以上と思われた。奥行きもかなりある。リフトアップした状態で乗車、ゆっくりとリフトダウンし車両プラットホームとの合体が完了する。そして搭乗機までの走行を開始した。到着すると今度は逆の作業となり、搭乗機の乗降口までリフトアップしてドッキング、出入り口の扉が開いた。このシャトルバスから出ると搭乗機内になる。かなり以前に写真で見た記憶はあるが、このシャトルバスの乗車体験は初めてだった。 エアーフランス機内

ベルリン行きに搭乗・出発: ドゴール空港(2)
ベルリン便からド・ゴール空港
06:55 シャトルバスから搭乗機内に移動。機材はエアバス A318 / A319 の何れかのようで、主翼先端にはめざわりな垂直翼がついているものだった。
07:28 駐機場から動き始めた。出発予定時刻(07:15)より多少遅れているが、ヨーロッパではこの程度の遅れは普通なのでしょう。
07:45 離陸。
08:05 朝食が運ばれてきた。デーニッシュ2個とチーズの機内食。エールフランスの軽食は好みの味で食べやすく何時も満足します。今日のフライトは綿雲がポカポカと浮かぶ穏やかな日和で下界の様子も時々楽しめた。ドイツの領空になると、昨年春にロマンチック街道と古城街道のバスドライブで時々あった満開の菜の花畑を今回は空から見れました。確か、ドイツ国内での原子力発電は将来的には中止となり、周辺国からの買電で需要をまかなう計画を推進中のはず、だったと思います。その補助手段でしょうか、発電用の風車群もかなりありましたね。規模は日本の風車群(TV放映で見るもの)よりもかなり大規模で、それらがアチコチにありました。帰国後にテレビで知ったのですが、聞き違いが無ければ、総発電量に風力発電が占める割合は、ドイツ(37%)、アメリカ(16%)、日本(2%)なのだそうです。ドイツで風車が目につくわけです。 エアーフランス機内

ドイツ入国

ベルリン空港に到着: テーゲル空港
ベルリン、テーゲル空港
08:57 テーゲル(Tegel)空港の滑走路に着陸し5分後にターミナルビルに着いた。ベルリンが分割統治されていた冷戦時代、この空港は西側諸国の専用空港だったという。今ではドイツの首都ベルリンの表玄関でありヨーロッパ方面の玄関口にもなっているが、ハブ空港と呼ばれる現代の巨大空港ではないようだ。
しかしベルリン市街の中心部に30分程度で行ける便利な立地にある。六角形の建物に搭乗口が配置されるこの空港は設備も少し古く感じられ全体的に狭い印象は免れなかった。が、空港内の移動は距離が少なく楽とも言えよう。ついでながら、ベルリンには他にシェーネフェルト空港(東欧及びアジア方面)とテンペルホープ空港(主に小型機の発着)があります。

日本の地元空港を出発してから乗継を含め実質25時間の航空機の旅もやっと目的地に到着して終わりです。外は綿雲の浮かぶ晴れだったが、ベルリンの外気はヒンヤリと爽やかで心地よく感じられました。

テーゲル空港ターミナルビルでは現地の旅行会社の女性(日本人)が出迎えていた。ツアコンFさんは、挨拶もそこそこに、「バ、バスは大型でしょうね? 間違いないでしょうね?」とバスの車両をかなり気にしている様子。実は、阪急トラピックスの海外ツアーは昨年末にエジプトで2度、ペルーで1度、連続バス事故に遭遇してマスコミで報道された(運の悪い偶然が重なった、と思われる)。しかし、我々の経験に照らしても、事故ではないが、昨秋のスペイン旅行で乗った中型バスのフロントガラスに大きなヒビが2ヵ所もあり、メンテナンスの良くない観光バスだった記憶がある。当然、我々も内心はこの点が気になっていました。旅行会社に苦情がかなり寄せられたはず、添乗員さんも気にせざるを得ないでしょう。

我々が利用した搭乗口は確か14番でターミナルビル中央に近いものだった。僅かな移動で、ショッピング・エリアを横切り、ホールを抜け、空港の表玄関に相当する場所に出た。そこでバスの到着を待ちました 。 ドゴール空港からテーゲル空港

ベルリンと市内観光
まずベルリン市の概要です。地理的にドイツ北東部、シュプレー川が街中を流れ、およそ750年の歴史を有する大都市です。プロイセン王国(1701成立)の王都から、1871年にはドイツ帝国の首都、つづくワイマール共和国、ナチス〈第三帝国〉時代にも首都でした。第2次世界大戦後は、冷戦体制のもとで東西二つの都市に引き裂かれ、東ベルリンはドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都、西ベルリンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の事実上の一州だったのです。1990年10月のドイツ再統一により東西ベルリンも統一され、統一ドイツの首都となり現在に至っている。
市の総面積は約883平方Km( 旧西ベルリン480平方Km、旧東ベルリン403平方Km )で東京23区の約1.5倍の広さ、そのうち約44%は森林、湖、河川になるとか。ベルリンの人口は約350万人でドイツ最大の都会、ベルリン市というが行政的には”市”ではなく”州”になるそうです。第2次世界大戦前の行政区ブランデンブルク州と統合の話はあったが、1996年の住民投票の結果、旧東側住民の反対がつよく否決されたそうです。海抜74mほどの平地で、海洋性気候と大陸性気候が交わる地域なので、ベルリンの気候は比較的温和とされている(7月の平均気温18℃、1月の平均気温−0.6℃)。
観るべき施設も多くアクティビティも活発な大都会、知っていると得する旅行者向けの制度も幾つかあるようです。例えば、◇ウェルカムカード(Berlin Welcom Card / 19,00E / トラムやバスなどVBB交通機関が3日間乗り放題+チケット・入場料の割引など)、◇BVG1日間乗車券(6,10E)、◇BVG7日間乗車券(22,00E)、◇博物館などは月に1度の入館無料日がある、等々。探せば他にもあるかも知れません。我々も今でこそパックツアー利用ですが、かつてはロンドン等でこの種の割安サービスも利用しながら自由な個人滞在を楽しんだものです。
これから半日ながらドイツの首都ベルリンの観光です。バスで市内の主要道路を走り車窓観光をするのですが、ペルガモン博物館は入館し自由見学の予定、ベルリン大聖堂やブランデンブルク門は下車して近くから拝見します。僅かな時間で多くの良き印象を得たいもの、と欲張った期待だけは膨らみました。
我々は通常ベルリン市とか首都ベルリンと表現しますが、行政区分としては州になるそうです。詳細は、豆情報「 ドイツ連邦の州 」をご覧下さい。

テーゲル空港からベルリン大聖堂に向う: ジーゲスゾイレ
ジーゲスゾイレ(上部はビクトリア像)
09:30 今月24日のブタペストのホテルまで5日間も乗る水色の大型観光バスが到着した。ベルリンからブタペストまでのスルードライバーはアンドレアス(A)さんという若い感じの中年男性で如何にもドイツ人といった顔付の人だった。スーツケースの積み込みが完了したら直ぐに出発となる。

09:41 ビスマルク通りを東(ブランデンブルク門方向)に走った。現代的な建物のベルリン・ドイツ・オペラ座(Deutsche Oper Barlin)の前を通過、巨大なエルンスト・ロイター広場のサークルを通り過ぎ、両側はベルリン工科大学のキャンパス(校舎群)となる。その後は広大な森の市民公園ティーアガルテンになった。この公園はシュプレー川とラントベール運河に挟まれ、掘れば水が湧き出るような土地とか・・・。
09:45 地上67mのジーゲスゾイレ(戦勝記念塔、1873年)の大サークルを通過した。この記念塔の頂上には黄金の女神ヴィクトリアが輝いている。塔の展望台(地上50m)に上がることもできる。さらに、バス車内からは昔の東ベルリンのシンボルだった365mのテレビ塔も見えた。こちらは地上203mの展望台からベルリンの眺めを楽しめるそうである。そろそろバスの遥か前方に、ティーアガルテン東端にあるブランデンブルグ門も見えてきた。 ベルリン市街・車窓撮影

09:51 ブランデンブルグ門は車両の通り抜けは出来ない。手前で曲がり迂回路を使用した。しばらく後にウンター・デン・リンデン通り(ビスマルク通りのブランデンブルク門の東側)に戻った。

米ソ冷戦時代の1961年8月12〜13日にかけて東西ベルリンの交通を遮断するため東ドイツ政府は総延長156Kmにもなる「ベルリンの壁」の構築を開始、その後のブランデンブルグ門は壁に囲まれて冷戦の象徴となった。良く知られるように1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊し、1990年の東西ドイツ統一が実現した。ベルリンの壁の大部分は撤去され、僅かに壁の痕跡があちこちに残っているに過ぎない。ブランデンブルク門の近くにもあり、迂回路を走行中に「そこ、そこのレンガの線が壁の跡」とツアコンFさんは説明したが、反対側の座席だったので良く分からず残念だった。
ベルリンの壁は既に歴史の中です。が、興味があり詳細を知りたいなら「ベルリンの壁博物館(the Berlin Wall Documentation Centre)」があり、鉄道・東駅から徒歩10分のシュプレー川沿いには本物の壁が保存されているそうです。さらに、オンライン検索でも現時点(2004.07.30)では詳しい「ベルリンの壁」サイトがリストされ、その詳細を簡便に知ることができます。
現在のブランデンブルグ門は、ウンター・デン・リンデン通りの西端、パリ広場と共に単なる観光地として賑わっている。もちろん「ドイツ統一のシンボル」となったのですが・・・。ツアーは、後でこの場所に戻り自由時間をもらえる予定です。


博物館島・左から、Bodemuseum ( ボーデ博物館 )、Pergamonmuseum ( ペルガモン博物館 )、
Neues Museum ( 新博物館 )、Alte Nationalgalerie ( 旧ナショナルギャラリー )、Altes Museum ( 旧博物館 )
図面はペルガモン博物館のパンフレットからお借りしました。勝手ながら川と運河は当方が着色。
(博物館島全体がユネスコ世界文化遺産)


ベルリン大聖堂 ( Berliner Dom ): ベルリン大聖堂・天井ドーム
天井ドームのステンドグラス
(大聖堂ウェブサイトから無断借用)
10:00 ブランデンブルク門から1.5Kmほど東の場所にあるベルリン大聖堂( Oberpfarr- und Domkirche zu Berlin / The Berlin Cathedral )に着きました。博物館島の旧博物館の直ぐ近くで、上の図面では右下の建物から図面外の右の場所になります。下車はしたものの、せっかくながら大聖堂の内部の参観は予定外でした。丁度ミサが執り行われているとのことで、予定していても団体の参観は難しかったかもしれません。

ベルリン大聖堂といっても、カトリック司教区の中心たる大聖堂ではなく、プロテスタント系の大聖堂ということです。 しかし、ガイドブックなど幾つかの文献を調べても宗派や歴史は分からなかった。大聖堂のウェブサイトによると、1465年に創立されたベルリン大聖堂はローマ教皇により認知されたカトリック教会だった。1539年にルーテル教会に転向、1613年にカルビン派教区教会に、1817年にウィルヘルム2世がルーテル教会と改革派教会の結合を宣言し、連合福音教会( the Evangelische Kirche der Union / Evangelical Church of the Union ) になった、という説明がありました。この大聖堂サイトに掲載されている昔の写真によると当初の建物はドームが中央に1つでした。上の写真のような中央と両脇の3ドームをもつ現在の形は1894〜1905年の再建時からのようです。

内部を参観した人たちのオンライン旅行記の報告では、大聖堂にはホーエンツォレルン王家の納骨堂があり装飾の見事な棺類も多いようです。また、高さ114mのドームは270段の階段で登ることが出来るとか。健脚向きですが展望はかなりのものらしいですね。

実は、昔からの聖堂は第二次大戦の空爆で破壊され、現在の建物は1975〜1993年に復元されたものです。ドイツには大戦以後に復元された歴史的建造物は数多くありますが、几帳面なドイツ人気質によるものか、煤け黒く汚れた感じまでも復元してあるので、いかにも古い歴史的な建物にみえます。前後しますが、昨春に訪ねたフランクフルトのレーダー広場周辺の建物も復元されたものですが、汚れが無く素人にも新しく感じられたものでした。それに比し、今回の旅行ではベルリンでもドレスデンでも古臭い雰囲気をも再現したものが多かったと思います。
我々は旧博物館の広い前庭からこの由緒ある大聖堂の外観をゆっくりと拝見し、記念写真を撮っただけでした。それでも、王家の菩提寺に相当するドイツでは重要な大聖堂です。真っ先に拝見する価値はあるのでしょう。ついでながら、聖堂前からは旧博物館の堂々たる建物とか、印象派の絵画が多いといわれる旧ナショナルギャラリーのギリシャ神殿風の建物がよく見えます。その意味では便利な地点です。 ベルリン大聖堂

10:12 出発。博物館島の中心ともいえるペルガモン博物館へ移動した。距離的には徒歩圏内でセキュリティー上も問題はないのですが、バスで付近をグルリと回ったのです。なお、博物館島は全体がユネスコの文化遺産に指定されています。

ペルガモン博物館: ペルガモン博物館
ペルガモン博物館の前庭、奥が入口
10:17 ペルガモン博物館まえに到着。運河の橋を渡り、低い階段を上り、コの字型の博物館・前庭広場の奥まった入口に行く。直ぐに入館し、簡単な説明の後に自由行動となった。右側に進みカウンターから日本語の説明が聞ける携帯ボイスレコーダーを借り受ける(無料)。個人参観で時間が十分にあるならば、その説明の指示通りに観て回るのが良いでしょう。ただ、我々には時間がなかった。ついでながら、退出時にボイスレコーダを返却するのだが、入口ロビー・受取場所(地図の5)ではなく出口ロビー(地図の1)になる。

ペルガモン博物館
上と左: (1)(5)ロビー (2)ペルガモン室(ゼウスの大神殿) (8)ヘレニズム建築 (6)ローマ建築
右: (9)バビロニア・イシュタル門 (8)バビロニア・行進用ホール
上の図面はペルガモン博物館のパンフレット(英語版)からお借りしました。

最初の中央展示場(Pergamon Room)に入ると「ゼウスの大神殿(Pergamon Alter, 180〜160B.C.)」の幅広い石段、両袖の台座部の大レリーフと上部の石柱列が目に飛び込んでくる。通常の博物館では観れない発掘遺産の展示法である。大勢の見学者らが石段に座っていたが、上部まで登り石柱列の後ろに行く人たちもいる。我々も石段を上がり、上部後方の展示室(Telepos Room)に入ってみた。ペルガモン遺跡から発掘された数々の貴重なヘレニズム文化の遺物、例えば、小さな色タイルを組み合わせて鳥を描いたものやリボンと植物の図案を巧く表現したモザイク類、多くの石像とか当時の金属製品の断片などが並べられていた。一通り拝見して階段を降りた。

この博物館にはトルコ・アナトリア(小アジア)にある古代ギリシアの遺跡の名が付けられている。それは、ヘレニズム時代の遺跡ペルガモンから発掘された「ゼウスの大神殿」を、既に説明したように、博物館の中央部に忠実に再現しているからだ。

トルコ旅行でベルガモからクネクネした山道をバスで登り、山上のペルガモン遺跡に行ったことがある。急斜面に造られた大円形劇場や遠方の高山の水を運び上げた水道跡などが印象に残っているが、神殿や図書館などの多くの文化遺産は長い時間の経過のなかで荒れ果て瓦礫化し形を失っていた。それを思うと、例え遥かに離れた異国としても、近代的設備の中で適切に保存され公開されていることも意味深いと思われたものだった。特に、ここは能書き付き「瓦礫の倉庫」ではなく、現実的な立体的スケールがあり、素人にも大都会にありながら古代を偲ぶことができる展示なのでなおさらである。

ペルガモン遺跡のみならず、博物館内にはタイル壁画でライオンなど多くの動物画が描かれたバビロニアのイシュタール門や古代ギリシアの遺跡などスケールの大きい再現・展示物が幾つもある。それ故、ベルリンにある博物館では最も世界的に知られているという。

階段下の向かい壁側は模様替えの工事中だった。正面左側のヘレニズム建築の部屋に入る。やはりギリシャ建築がリアルな形で再現されていた。記念写真を撮り、再びゼウスの大神殿の前を歩いて反対側のローマ建築の展示室に入る。左壁面いっぱいに再現された古代の建物(Hall in the Trajaneum)を少し上り、柱列の間から展示室(Roman Architecture)を見下ろすこともできた。その反対側の出口の裏がバビロンのイシュタール門(Ishtar Gate of Babylon)である。古代のタイルは見事な好きになれるブルーだった。それを背景に各種の動物画が色タイルで描かれている。動物の姿は全て横からの歩行図だった。当時の描画法なのか、古代エジプトの人物画も横顔ばかりと記憶している。よく描かれ、それなりに面白いものでした。そこから、バビロンの行進用(行列用)ホールウェイ(Processional Way of Babylon)が再現されている。規模を実感できるものでした。

素人の我々ですら直ぐに時間が過ぎてしまう。急ぎ幾つかの展示室を回り、11:05に館外に出て集合場所に行きました。ペルガモン博物館、ここは考古学ファンにとっては魅力が尽きない博物館の1つでしょう。帰国後にパンフレットを見ると、ローマ時代の「ミレタスの市場門(Market Gate of Miletus, 120AD)」という大型遺跡の再現も展示されているのです。見ずじまいだったのが大変に残念です。マァ、1時間弱の見学時間ではこんなものと諦めるしかありません。 ペルガモン博物館

博物館前の広場を過ぎると博物館島をつくる運河(Kupfergraben canal)がある。対岸の通りに観光パスは駐車できなかった。それで我々はバスが来るのを待つしかなかった。運河を行く観光船を眺めたり近くの高架橋を往来する電車を見ていたり、ボンヤリと時を過ごした。心地よい外気だった。
しばらく後にバスは到着し出発した。間もなく緑豊かに菩提樹(Linden Trees)が茂るウンター・デン・リンデン通りを走ってパリ広場近くに着いた。が、先客の駐車中の観光バスが数多く、我々のバスを止める場所がない。ブランデンブルク門近くでUターンし、かなり戻ってからやっと空きスペースにありついた。

ブランデンブルク門とパリ広場: ブランデンブルク門
パリ広場からブランデンブルク門
11:35 パリ広場(Pariser Platz)に到着。短時間ながら自由行動となったので、ベルリンでは名実ともに最高級かつ最上流ホテルとされるホテル・アドロン(Hotel Adlon Kempinski Berlion)の前を通りブランデンブルク門まで歩いた。ドイツにも”イナカッペ”はいるもので、ホテル・アドロンの正面入口でふざけ半分の記念写真を撮っている。泊り客ではなく通りがかりの観光客なのだ。撮る方も写される方も大笑いしながらだった。そして大勢の観光客も笑いながら立ち止まって見ていましたネ。そこからブランデンブルグ門は直ぐの距離でした。

ブランデンブルク門( Brandenburger Tor / The Brandenburg Gate、高さ20m )はプロイセン王国の凱旋門として1788‐91年に建設された。古代ギリシア・パルテノン神殿のプロピュライア(神殿の門)を手本に作られたものだそうです。門上の飾りは1793年に完成したもので、四頭立て2輪馬車に乗る「勝利の女神」といいます。しかし当初は「平和のシンボル」だったとか。ナポレオン・ボナパルトがベルリンに入城し大陸封鎖令を発した頃に、この「勝利の女神」をフランスに持ち去った(1806年)。が、ウォータールーの戦い(ワーテルローの戦い、1815年)の後にドイツに取り戻され、その意味も「勝利の象徴」に変わったといわれる。その後はブランデンブルク門に飾られています。

特にすることもなく記念写真を撮っただけでした。前にも書いたが、門の西側はティーアガルテン(広大な緑地公園)、東側はパリ広場と呼ばれている。広場の中ほどで観光客目当ての人力三輪車(前は自転車で後部2車輪の間に2人用座席)が幾つも客待ちしていた。日本の観光地の人力車と同じようなものです。我々が行った時には乗る人を見ませんでしたが、時には楽しむ人もいるのでしょう。 ブランデンブルグ門

11:50 出発。街中をしばし走った。欧米系観光客が散策している近代的な市庁舎や運河を車窓から眺めたりした。1884年から1888年まで衛生学の研究のためドイツに留学し、ベルリンに1年4ヵ月間も滞在したとされる森鴎外の下宿先が記念館として保存されている。車窓からチラリと見れました。知らない文学者のことを書くのも気が引けますが、代表作は『高瀬舟』『阿部一族』など、本名は林太郎、島根県津和野の出身で家柄は医家、東大医学部を最年少で卒業し陸軍軍医となり、最終的には陸軍・軍医総監となり軍医としての最高位についた。『舞姫』や『うたかたの記』などドイツ留学記念の三部作もあるようです。晩年まで作家活動は活発でした。明治時代では夏目漱石と並ぶ文豪、ドイツ v.s. エゲレス、健勝 v.s. 病弱、大出世 v.s. 転職三昧、いろいろ面白いですネ。ちなみに、ロンドンでは漱石の下宿先も保存されています。

追記: ベルリン中心部にある森鴎外記念館は訪独100周年の84年に地元フンボルト大学日本文化研究センターが記念館として整備したものです。このたび記念館の外壁に縦5メートル、横3.6メートルの「鴎外」の巨大な文字が描かれました。街の景観を重視するドイツでは巨大広告や看板が規制されることがあるが、ベルリン市当局の承認も得たもののようで、目立つので分かりやすくなったようです。[ 注: 鴎は「鴎」のはこがまえの中が「品」です。] (2005/07/14 asahi.com の記事から要点のみ)


昼食: ビール
ランチ、まずはビール!
12:15 レストラン着。入口から奥に細長い造りのレストラン、まずビールなどが飲めるカウンターがあり、奥はテーブルが並ぶ普通のビア・レストランだった。お客さんは少なかった。思えば、テーゲル空港に着いてからは全く飲まず食わず、さっそく普段は飲まないビールを注文した。値段は忘れたが、多分2ユーロ程度だったと思う。ドイツでは全国ブランドのビールはないらしく大部分は地ビール、上面発酵の酸味のあるビールがまた美味しい。下戸の我々も楽しめました。
何時だったか、添乗員のFさんは「このツアーではお腹なんか壊しませんよ」と言っていたが、出てきた料理は、スープ、肉と野菜のトマトソースの煮込み、インディゴ・ライス、生野菜少々、デザートだった。ドイツの食事は心配無用、我々も経験済みで安心して食べることができた。ただし説明によると、ドイツではメーンデッシュにポテトがつくとパンは出ないそうである。今回はライスだったがポテト同様にパン無しだった。質実そのもの、ナルホド・・・。( 昨年のロマンチック街道ではパンは出ていたし、地域で習慣が違うのかも?まさか格安ツアー向け特別メニューでは?要確認!) 苦情は出なかったらしいし、マァ、食べ過ぎによる体重増加もおさえれます・・・。最後に飲み物代の清算をして店をでた。 ランチ

13:15 バスに乗車し出発。観光的な意味ではもうベルリンは終えたのである。これからドレスデンとライプツィヒの中間点南側の町ケムニッツ(Chemnitz)までの長距離移動になる。それで市街地を出る前にトイレタイム兼用で日本人が経営する土産屋に寄る事になった。

ベルリン市内の移動と土産屋: ドイツの旧帝国議会議事堂
国会議事堂(旧帝国議会議事堂)
13:21 運河を越え、右折・左折をしながらドイツの旧帝国議会議事堂(Reichstag)前を通過した。広大な芝生の広場とガラス・ドーム(1999年完)の堂々たる建物が見える。東西ドイツ統一後の現在はドイツ連邦の国会議事堂として使用されている。
有名な歴史の1コマだが、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は1945年4月29日ソ連軍包囲下のベルリンでエバ・ブラウン(Eva Braun)と結婚、翌30日にソ連軍のベルリン侵攻が決行され、2人とも自殺した。その明確な場所を示すことは少なく「地下壕」程度の記述が多いようだが、一説によると、現場はこの旧帝国議会議事堂の地下室だったという。

13:24 ジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)を再度通過する。
その後、商店街を行く。質実剛健で知られるドイツでもやはり商店街は行き交う人々の姿が多い。ドイツ最大のユダヤ系デパートと言われるカー・デー・ヴェー(Ka De We / Kaufhaus Des Westens)の前も通った。さすがに大きな建物だった。原則的には金と商品の物々交換の場所なので、ドイツ語は知らずとも商品を指差すだけで用は足りるそうだ。
デパートの少し先では自転車に乗った中年男性群が大声を上げながらすれ違った。説明では、今日は「父の日」とか、木曜日だけど・・・。そのお祝いの行事の一つらしかった。

13:29 高層住宅が建ち並ぶ街の一角に土産屋(キムラヤ)があった。そこでトイレ休息。店内をザッと見たが、買いたくなるものも見からず、外の散歩をした。近くに公園があったので覗いてみる。大部分は芝と小木類だったが、風船で飾られ、ピクニック用の椅子とテーブルには日光よけの赤いテントが張られていた。大人も子供も好天気の午後をのんびりと過ごしている。仲間に入りたい気がしたものです。
チトお恥ずかしいのですが、公園の散歩を終えたら急にトイレに行きたくなった。大急ぎで土産屋に戻り使わせてもらいました。きれいなトイレではなかったが助かりました。 ベルリン市外の点描

ザクセン州ケムニッツにバス移動:
土産屋近くにバスが到着(前はパトカー)
13:50 土産屋前を出発。ベルリンから出て高速道路を南下、まずは一路ドレスデンに向う。日本からドイツへ飛び、簡単ながらベルリンの市内観光も予定通りにすませ、もう全員が疲れはて居眠りタイムです。それでも時々のFさんのガイドとか説明が耳に入る。「ドイツの高速道路は大型車は100kmまで、乗用車に速度制限はない」とか、「速度制限のない道路は世界でもアウトバーンだけ」とか「推奨速度は130km」とか・・・。「エー、推奨速度って何でしたっけ?」 半分眠っていたので全てうろ覚えです。


高速道路沿いに多かった赤松林
時々窓の外を見ていると、下枝を切り払って背が高くなった赤松の林が実に多かった。日本の植林した杉林みたい、ともいえます。しかし赤松は良く見ると杉のように真っ直ぐではありません。ドイツでは赤松で何の材料を作るのでしょうか。時々白樺が赤松に混じっているのが色彩的にも印象的でした。

オランダやスペインの風車みたいな風情は無いけれど、実に多くの発電用の風車をみかけました。大群落と表現できる場所までありました。起伏の少ない大地を吹き抜ける風のエネルギーは日本のような山国では想像できない程かもしれません。

ケムニッツ(Chemnitz): 明日観光するドレスデンの街を左に見ながらさらに走り、高速道路から一般道におりてトコトコ行くとケムニッツの町(人口約8万人)になった。当初は下町というか実に貧しい家並やボロアパートの地域で、内心「コリャ酷いとこに泊まるらしい」と思ったものです。貧しさが薄らいだころ、今度はアラブ風ドームとミナレットが数本ある大きなビルがあった。モスクではない。一般の建物で長く売り出し中だが誰も買わないそうです。しばらく行くと左側が大きな池のある公園になった。そこで右折して坂を登ったら閑静な住宅街になり、本心からホッとしましたネ。

ツアーの都合で宿泊地となった訳ですが、ガイドブックにも載っていないケムニッツとは一体どんな町でしょう。日本語の検索エンジンでは大学で知られているとか、駅前にはトラムが走りホテルが数軒ある、程度しか分からない。仕方なく英語でサーチすると町の公式HP(英語)が検索され、Technische Universitat Chemnitz という学生数6千人の技術系大学があり、そのレベルはドイツでもトッブクラスを誇っているようでした。1800年頃に初めての綿工場が出来たり、最初の蒸気機関車が作られたり、産業的にも活発な面があった町のようです。当初に車窓からみた貧しい一角とは異なる、一応のレベルの地方都市のようでした。

【追記 2017年5月】 ついでがあったので Technische Universitat Chemnitz の大学ランクを見たら、2017年ランキングではドイツ46位(トップ10%)、世界565位となっています。突出したドイツを代表する大学でもないが、工科系大学に限定すると上位の良い高等教育・研究機関になるようです。[追記・終]

ルネッサンス・ケムニッツ・ホテル( Renaissance Chemnitz Hotel )に到着: ルネッサンス・ケムニッツ・ホテル
ルネッサンス・ホテルに到着
高台の良い住宅街の中にルネッサンス・ホテルはあった。高速道路の走行が順調だったので、予定より30分も早い17:30に到着した。満開のツツジと石南花が玄関先で我々を迎えてくれました。日本でもルネッサンスホテルは宿泊料金の高いホテルの1つだが、ここも高級なようで正面左側の駐車場入口にはポルシェなどの高級車が次々に入っていく。部屋割りを待つ間に前庭の満開のツツジを背景に記念写真を撮ったりロビーで寛ぎ雑談で時間を過ごした。まず部屋に落ち着いてから夕食の予定だった。ツアコンFさんが気を利かせ、レストランと交渉して早めの夕食に変更となった。食事中に部屋割りとスーツケースの搬入を済ませることになったのです。我々としても自室で休む時間が長く取れるのでその方が Better です。

ルネッサンスホテル
ルネッサンスホテルで夕食
ホテルで夕食: 17:45 ホテルL階(1階)の右側奥の小奇麗なレストランで夕食。飲み物はビール(@2,50E)を注文、これでは「下戸、普段は飲まない」と言っても信用して貰えない、ですネ。でも、ビールを「グィー!」ならず「チビチビ」です。今晩は薄切りの牛肉をロールした料理だった。時折のビールが口をサラッとさせてよかったと思います。総勢16人の小さい庶民的グループのこと、互いに馴染んでゆっくりと19:10まで夕食会でした。ただ、途中から別の日本人のお金持ちツアーが隣に陣取り、ギンギラギンの雰囲気を我々のグループにまで漂わせました。ツアーなるもの料金等々で自然にタイプが出来るもの、実感しました。(蛇足:でも泊まるホテルは同じ。スィートかな?)

ホテルの部屋: 19:15 ホールから1階下の部屋(159号室)に入る。傾斜地に建てられたホテルでロビー上下の数階が客室になっている。スーツケースは運び込まれていた。部屋はとても感じの良いもので、窓の外には多くの緑がありました。
もう疲れを癒し明日以降に備えるのが仕事です。 MINI-BAR 料金表 ルネッサンス・ケムニッツ・ホテル
◇◆◇
HOME旅行記集 東欧旅行記TOP現在の頁( 2日目 )
Page▲Top