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旅行記|東欧4ヵ国旅行( 3日目/2004年5月21日・木曜 )
ドレスデンとマイセン、その後チェコに
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起床からホテル出発まで: 05:00 目覚め、起床した。外はまだ暗かった。トラベルポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーをたっぷりと飲む。デジカメ用電池の充電も完了ずみで予備電池をショルダーバックにしまったり、その他の準備を済ませたりで時間を過ごした。

06:30 部屋近くのエレベータで1階上のL階に行く。昨日の夕食と同じ明るいレストランに入った。入口近くだったが窓際の眺めの良い席が空いていた。そのテーブルにハンカチを置いて使用中のサインをしておく。朝食用には十分な品数が置いてある食材カウンターに行った。パンやヨーグルトや生野菜を皿にとって持ち帰りる。コーヒーはテーブルのポットから飲み放題。豪華ではないけれど、こんな感じが好きな朝食なんですネ。満足しました。

07:12 自室に一旦もどり、スーツケースを廊下に出した。その足でホテル近くの散歩に行く。今度はエレベータを使用せず階段を登った。フロントの近くに出るので玄関まで直ぐだった。
昨日も書いたように、ホテルの前庭に植込まれたつつじと石南花が満開ですばらしい。玄関を出ると車寄せの左端に駐車場出口がある。昨夕は反対側の入口に次々に車が入っていったが、今度は出口から絶え間なく車が続いて出てくる。どういう訳か、我々が見ていた時はポルシェ(高級スポーツカー)ばかりで、中年、熟年のドイツ人カップルばかりだった。

昨日バスで来たゆるい坂道をブラブラと歩いてくだった。欧米では良くあるタイプの良質な住宅街の雰囲気だった。つまり、車道両側に歩道、樹齢を重ね枝を伸ばした並木があり、そして大きな邸宅が続いている。反対側の2階で話し声がするので、思わず見上げるとドイツ人の若者(男)がベランダに数人いた。何か分らないが、我々を笑い顔で見下ろしていた。アメリカの大学町ならフラタニティの雰囲気だが、ドイツでは何だろう?
少し行くと左手に大きな教会があり、時計のある立派な塔の上方に目立たない十字架が付けてあり、プロテスタント系らしき雰囲気だった。道路には白のマロニエが満開なのに赤のマロニエと違い何か地味で目立たない。その辺りから折り返しホテルに戻った。時折、車は通るが歩いている人には出会わなかった。 ケムニッツの住宅街

07:25 部屋に戻り時間まで休んだ。
07:45 カードキーを返却しチェックアウト。直ぐホテル前に停車しているバスに乗り、出発となった。

イギリスとドイツのご先祖
イギリス人は民族的にアングロ・サクソン(Anglo-Saxon)と言われ、5〜6世紀にサクソン人(ドイツ北西部/ユトランド半島付け根)、アングル人(ユトランド半島)、ジュート人(ユトランド半島)がブリテン島に船で侵入し、先住のケルト系ブリテン人を被支配民族にした。それぞれの定住地は異なり、イングランド北部からテームズ川までアングル人(アングリア方言)、南東部はジュート人(ケント方言)、ウェセックスはサクソン人(ウェスト・サクソン方言)だった。彼らの言葉は総称的に英語 English と言われたが、時にはサクソン Saxon と言われたらしい。そして新移住者たちは7〜10王国を樹立した。当初はドイツと同じ自然崇拝的な多神教だったが、6世紀ごろにキリスト教化され、9世紀ころに統一された。イギリス(England)とは「アングル人の地」の意味のようである。9〜11世紀にはディーン人、11世紀以後の支配層となったノルマン人やフランス人、さらに昔からのケルト系スコットランド人やウェールズ人の交じり合ったのが現在のイギリス人と言われる。
( 一言:今日でもカナダとアメリカを総称的にアングロ・アメリカという。つまり「アングル人のアメリカ」であろう。イギリス人をアングロ・サクソンと表現しても、全くの想像ですが、長い歴史によりアングル人文化が主流になっているのかも知れない。若き頃にアメリカの一流研究所の研究員から「アングロ・サクソンではなく、アングルだよ」と会話の中で訂正された記憶もある。ついでながら、イギリスの国名は United Kingdom (U.K.) / the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland で England ではない。)
古代ドイツに関して、ギリシヤの地理学者プトレマイオスの記録にザクセン人(注:英語ではサクソン人)のことが既に書かれているという。ユトランド半島のホルスタイン南西部(エルベ川口からハンブルクまでの北側地域)に住んだ小部族だったようだ。先に見たように、このザクセン人の一部がジュート人やアングル人と共にブリテン島に移住したのだった。他方、大陸に残ったザクセン人は7世紀頃までに居住区を南にエムス川を越えライン川近くまで広げた。一口にザクセン人といっても単一部族ではなく多くの部族を吸収・合併・連合した集合体のようであるが、ドイツでの拡大過程は不明とされる。そして、8〜9世紀にかけてカロリング朝フランク王のカール大帝によりザクセン人は屈服を余儀なくされキリスト教化された。現在、ニーダーザクセン州が中世初期のザクセン人の居住区の一部、ライプチヒやドレスデンなどを中心とするザクセン州一帯は近世のザクセン選帝侯国の中核部分だった、ようである。
以上は単純化した説明だが、とかく現代の歴史に華々しく登場するドイツとイギリスは大昔には民族的に同根に近い部分を共有していたようです。
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(次の参考文献から要点を抽出し文章を作成:日立デジタル平凡社、世界大百科事典DVD版、1998、初版)
ドレスデンに向う:
車窓からの風景
昨日は高速道路から眺めただけのドレスデンに向った。途中はなだらかな起伏の多い菜の花畑や麦畑らしき農村風景だった。菜の花畑はドイツと周辺国に多いが菜種油を抽出するための大規模栽培が行われている。時々、大型の発電用風車の小〜中規模の群落が見えたりした。化石燃料の比重を下げるための努力でしょう。

ドレスデン(DRESDEN):
ブリュールのテラスからアウグストゥス橋
エルベ川に沿う古都(旧東ドイツ)で東西ドイツ合併後はザクセン州の州都、人口は約50万です。19世紀に工業都市に発展し、早くも1828年には工業大学が設置された。現在も産業活動(精密・光学機器、電機、機械、化学、織物工業)が活発な街とされます。16世紀以降は芸術と文化の都でもあり、「エルベのフィレンツェ」という表現もあるそうです(文豪ゲーテの言葉らしい)。ハイレベルの音楽的伝統もあり、1548年に宮廷楽団として創立されたドレスデン国立管弦楽団とかドレスデン国立歌劇場(ゼンパーオペラハウス)をもっている。「魔弾の射手(1820)」を作曲しドイツ・ロマン派歌劇を確立したといわれるウェーバー(1786-1826)も指揮者を務めたことがあった。また、J.S.バッハ(大バッハ)のお墓もトーマス教会前にあるようです。18世紀、ポーランド王も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王) Friedrich‐August I (1670‐1733) の時代にドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会、ツウィンガー宮殿、日本宮殿なども建設された。さらにアウグスト強王は東洋の白磁に魅せられて欧州で初めて陶磁器を作ることに成功し、ドイツが世界に誇るマイセン磁器が始まったのでした。神聖ローマ帝国の解体により1806年にザクセン王国の首都となり、それ以後は初めに記したように中東部ドイツの先進工業地帯の中核都市に発展したのです。

劇場広場とゼンパーオペラハウス:
ドレスデン観光の中心、劇場広場
08:40 アウグストゥス橋・旧市街側の劇場広場に到着した。ここはゼンパーオペラハウス、ツィンガー宮殿、ドレスデン城、大聖堂などに囲まれたドレスデン旧市街観光の中心です。我々も広場から観始め、ツィンガー宮殿、ブリュールのテラス、聖母教会(再建中)、シュタールホーフ(君主の行列)、そしてツィンガー宮殿に戻り、自由行動の後に広場で観光を終えました。日本宮殿(Japanisches Palais/博物館)のあるエルベ川対岸や新市街には行かなかった。しかし旧市街に見るべきものの多くがあるので観光的にはマァ丁度よい散歩でしょう。
内部の見学はしなかったけれど、ゼンバーオペラハウス(Semper Opera House)の建物・外観は印象的でした。5月下旬から6月上旬は音楽祭があり、その故か垂れ幕が下がってしました。1841年に建築家ゼンパーにより建てられ、その後焼失したが1871年に子息により再建され、第2次大戦で再び全壊、1985年に再建されました。ワーグナー作曲「タンホイザー」やR.シュトラウス作曲「サロメ」などが初演されたとされる重要な歌劇場の1つです。その正面の屋上に4頭のライオンに引かれる2人乗り二輪車の銅像があります。武器こそ手にしていないが、ドイツらしいと言うべきかミスマッチと言うべきか、何れにせよ、この種の飾りはドイツ人のお好みのようですネ。
広場の中心には立派な銅像があるのですが、誰なのか忘れてしまいました。 劇場広場とゼンパーオペラハウス

ツヴィンガー宮殿(the Dresden Zwinger):
ツヴィンガー宮殿、クローネン門と中庭
08:58 バスを下車してから周りの建物を眺めながらゼンバー・オペラハウス前に集まり、現地の日本人女性のガイドさんから各種の説明を受けました。それも終わり、劇場広場からツヴィンガー宮殿に移動です。宮殿の右端にはカフェテラスがあり、作曲家ウェーバーさんの銅像がカフェの椅子に囲まれて立っています。朝なので閉まっていたが、コーヒーでも飲んでノンビリするには良い雰囲気です。アカシア(ハリエンジュ/ニセアカシア)の白い花の近くを歩き、傍の石段で宮殿2階に相当する広いテラスに上がりました。ニンフの浴場や王様の寝室棟や中庭などが良く見える場所です。このテラスからクローニン門を含め宮殿全体が見渡せると言っても過言ではありません。ニンフの浴場は故意に古臭く復元したためか清潔に思えなかったが、綺麗好きのドイツのことなので問題はないのでしょう。近くの小劇場風の建物前では、中世のコスチュームを着たペアーが観光客グループに何やら説明をしています。観光地では時折見られる風景ですが、上から見下ろす限りでは、宮殿の建物の雰囲気に実に良くマッチしていましたね。旧市街の観光を終えてから、再びツヴィンガー宮殿の中庭に反対側のソフィー通りから入るのですが、ここで一旦は宮殿から離れました。 劇場広場とゼンパーオペラハウス

ブリューゲルのテラス( エルベ川の眺望 ):
ブリューゲルのテラス
09:10 ツヴィンガー宮殿のテラスから降り、劇場広場を横切り、トラムの軌道を越えて大聖堂の前を歩いた。大聖堂と鉱物博物館の間(アウグストゥス橋の袂)からは大聖堂、ドレスデン城、シュタールホーフ(君主の行列・壁画)を一望にできる。ドレスデン(ザクセン)城には高さ101mの塔がある。この塔よりも高いものは建設禁止なのだそうです。グループはサッサと鉱物博物館の手前にあるブリューゲルのテラスの広い階段を登った。写真を撮りながら歩く私はついて行くのが大変だった。鉱物博物館を過ぎ、美術大学の手前でゆっくりと「ヨーロッパのテラス」と形容される場所からエルベ川と対岸の風景を楽しんだ。外輪型蒸気船(観光用)なども係留されている。川の反対側、博物館と大学の間にはヒルトンホテルにつながる小路があり、その両側はレストランが並んでいる。上から眺めて気分が何となくホッとする雰囲気の道だった。その向こう側には戦争で破壊された聖母教会が再建中で大きなクレーンが立っている。我々はテラスの眺め楽しみながらもう少し先に行き、階段を下って先述のレストランの小路を歩いて聖母教会に行った。中は再建工事中で見学はできない。旧東ドイツ時代には戦争の悲惨さを伝えるために破壊されたままになっていたそうだが、今は募金をつのり、昔と同じ姿に復元する途上にある。ドイツ語による説明板などがあるが、ザッと拝見しただけだった。 ツヴィンガー宮殿

[追記1] ドレスデン聖母教会、60年ぶりに復元を完了:
旅行した時は工事中だった1743年完成の聖母教会(プロテスタント)は、総工費1億8000万ユーロ(1億ユーロの寄付金を含む)を使用し60年ぶりに再建されました。再建は1990年にベルリンの壁が崩壊した後に市民運動として始まり1994年から実際の工事が開始されたそうです。2005年10月30日にケーラー独大統領やメルケル次期首相、英王室ケント公などが出席して完成式典が行われるそうです。[追記・終り、2005.10.29 NikkeiNet 要点のみ ]

[追記2] エルベ川流域は世界遺産から抹消 :
「ドレスデンのエルベ川流域(Dresden Elbe Valley)」は2004年にその流域18kmがユネスコの世界遺産に登録されました。しかし、ユネスコ側の反対を押し切り、住民の過半数の賛成によりエルベ川に新しく橋がつくられます。スペインのセビリアで開催中のユネスコ世界遺産委員会は2009年6月25日に「ドレスデンのエルベ川流域」を世界遺産から削除する決定を下しました。世界遺産の抹消は2件目になるそうです。[追記・終り、2009.06.25 NHK BS1 ニューズ、他オンライン・ニューズ、要点のみ ]

09:30 再建中の聖母教会前にはヒルトンホテルがあった。短い時間ながら休憩となりホテル1階のトイレを急ぎ借用した。1階ロビーは朝なのに観光客らしきスタイルの人達で混んでいましたね。

シュタールホーフと大壁画「君主の行列」: 09:43 ホテルを出て右に少し進むとシュタールホーフの入口となる。交通博物館と鉱物博物館の間の細長い道路であるが、中世にはこの直線路で騎士達の馬上試合が行われたそうである。例によって、重い甲冑に身を固めて長槍を構えた騎士が馬を走らせ、すれ違いざまに相手を槍で突き落とす試合だったのでしょうか?今は交通博物館の外壁に歴代のザクセン王達を年代順に描いた長さ101mの大壁画がある観光通りになっている。「君主の行列(Procession of Princes)」といわれ、マイセン磁器25000枚を使用しているそうである。有名な王様の前では立ち止まって簡単な説明があった。これは「ガイド付きツアー」の良さでしょう。 シュタールフホーフと「君主の行列」

宮殿の中庭、美術館、カフェテラス: 10:02 ドレスデン城の裏側を通り、ソフィー通りを横切ってからツヴィンガー宮殿の中庭に入った。これから自由時間となる。この時、「お茶にするならドレスデン城の裏側のカフェテラスが良い」と現地ガイド嬢から言われる。コーヒーも飲みたかったが、庭園もぶらつきたい。先刻は未だだった噴水も全て出ていたし、中庭の観光客も相当な数になっている。我々は中庭と噴水の周りをブラブラ歩きしただけでした。今は、ポーランドの王冠を模したクローネン門を通り抜け堀の外側から宮殿を眺めるべきだった、と後悔しています。

アルテ・マイスター絵画館
美術館チケット、裏・表
10:20 ツヴィンガー宮殿の美術館(アルテ・マイスター絵画館/@6,00E)に入る。入口は劇場広場と宮殿中庭を結ぶ通路の中ほどにある。大きなタペストリーが幾枚も飾られた劇場風の部屋を通り、その右側にある絵画の展示室をブラブラと見歩いた。高名な絵もあるそうだが、数多い大コレクションでもなさそうだった。劇場広場に出たが集合には少し間があった。

10:35 コーヒーを飲むことにして、先刻言われたドレスデン城の裏側に行ってみる。カフェはあったが未だ準備中の感じだった。ツヴィンガー宮殿の左端にあるカフェテラスでコーヒーにした。そこからは劇場広場がよく見渡すことが出来た。若いウェイトレス2人が仕事中だったが、英語ではダメで、メニューのコーヒー(@1,90E)らしきものを指さして注文、しかし期待通りのものが出てきた。ゆっくりと心地よい時間を過ごした。それはそれで良かったのだが、宮殿の反対側にある作曲家ウエーバーさんの銅像のあるカフェテラスの方が記念になったかも知れない、とも思っています。 ツヴィンガー宮殿

出発、マイセンに向う: 11:05 ここまで我々をガイドしてくれた現地日本人女性とはお別れです。バスは劇場広場から出発し、マイセンに向いました。エルベ川下流方向になる。特に印象に残るというよりは、なだらかな低い山間の道といったところでしょうか。途中で天候が怪しくなってきました。

マイセンで昼食:
地ビールのコースター類
11:45 エルベ川沿いに家々が並ぶマイセンの街(人口は約36,000人)に入った。川と平行に走る道に昼食のレストランがあった。こんな内陸部なのに入口のマークは真鍮の錨で「Zum Goldenen Anker」だった。大河を船舶の航行に利用する国ならではのレストラン名でしょう。ちなみにハンブルクを通り北海に流れるエルベ川は約1100Kmの長さといいます(ドナウ川は約2200Km/約2800Km)。

レストランの内部はバーをL字形に囲む客席が配置されている。清潔な感じの店だが、チト風変わりなものがテーブルに置いてあった。鉄敷とハンマーです。店の人を呼ぶのにベル代わりにこれを叩くのか? あるいは骨付き料理のときは「これで骨を砕いて食べなさい」といっているのか? 冗談はさておいて、たぶん飾りでしょう・・・。飲み物はビールにした。値段は忘れましたが、多分@2,50E程度だったでしょう。まず野菜がたっぷりの皿がでました。メーンデッシュは白魚の揚げ物ですがポテトが数個付いている。昨日も説明しましたが、ここでもポテトが出たのでパンがないのです。昨年のポテトですから甘味が増していました。あとはデザートで終わりです。味も量も十分でした。

12:45 レストランを出て、少し離れたバス駐車場のエルベ川河川敷まで歩く。途中、例によってグループと離れてエルベ川近くまで芝原を走り、川近くで写真を撮影した。川と芝原の間の斜面では比較的背の低い矢車草が丁度満開でした。チョットした良い風景写真のアングルでした。その後小雨になり次第に本格的な降りになった。皆さんからもかなり遅れ大急ぎでバスに駆け込んだ。 昼食、エルベ川

マイセン磁器工房・見学:
手間をかけた超豪華なマイセン磁器
13:00 マイセン磁器工房に到着、雨は本格的に降っていた。大急ぎで建物の中に駆け込む。入口ホールの左側がマイセン磁器の売店、向いがトイレ、右奥が見学者入口となっている。ホール入口近くは雨のせいか鮨詰め状態といえるものでした。我々のツアーは予約してあった時刻より30分位早かったようです。ツアコンFさんが工房と交渉に行き、10分程度の待ちで見学できるようになった(万歳!)。トイレだけは済ませて、右手の誰も居なくなった見学者入り口に並びました。配布されたチケットを見ると団体入場料は@5,00Eでした。

マイセンのコーヒーマグ
購入したコーヒーマグ
純正マイセンの印
マグの底には製造番号と黄色の記号
工房見学といっても工芸品製作のデモンストレーションを見るのですから工場見学ほどに大げさではありません。まずビデオで全般の説明を観ます。次に磁器の基本的な形作りを見学し、その後は幾つかの段階別の彩色工程の実演を見学するのです。それぞれ異なる担当者でした。世界一の磁器とも評価されるマイセン磁器ですから見学者も実に多く、完全に観光コースの一部となっている。工房側も要点を押さえて見せますし、見学といっても肩のこらないものでした。各制作過程の職人さん(工芸家さん?)も愛想良く作業を見せてくれます。

見学後は自由時間となり、階上の博物館で豪華なマイセン磁器の数々を拝見しました。手と金は出せず、ため息が出る場所でした。その後は売店で過ごしました。綺麗な磁器が沢山あり、ヨダレが出ました。ソーサー付きコーヒー茶碗が知られていますが、自分専用のマグタイプのものが欲しかったのです。日本のデパートで白地にマイセンのマークを横に付けただけのものは見たことがあるし、1万円を少し越えた程度だったと記憶しています。しかしこれは少し淋しい感じなので購入していない。ここの売店には絵柄のコーヒーマグがあった。しかし図案は三種類しかなく全て花柄です。一見女性向けで迷いましたが、せっかくなので写真のものを@211,00E (\28,723)で購入しました。さすが高いですね。しかし底の番号・記号を確認するとここで制作された本物と分かるそうです(写真でははっきり見えませんが・・・)。ワイフはソーサー付きデミタスカップを土産に買いましたが、こちらは約21000円でしたね。 マイセン磁器工房

出発、プラハに向う: 14:35 工房の反対車線に停車したバスに乗り、マイセンを後にした。本格的な雨の中をチェコに向ったのです。途中のことは覚えていませんが、ドイツとチェコの国境は低いエルツ山地の中にありました。

16:10 検問所に到着しましたが風と雨がひどく嵐の一歩手前の感がします。国境の写真撮影は厳禁と言われ何も撮れません。バスの中で係官のパスポート検査を待ったのですが、来るまでにかなり時間がかかった。警察官(男性)を伴った国境警備官(女性)がバスに乗り込み16名のパスポートと本人の確認をしました。ドライバーさんの場合は分かりません。検査のやり方は成田空港にリムジンバスで入る時と似ています。チェコ入国のスタンプはありません(観光客としてはスタンプ欲しいネ)。また、この国境検問所では免税手続きは受け付けていなかった。最後のハンガリーで、とのことだった。その後、建物横のトイレ(清潔)に行ったが、山中は荒れ模様の天候で肌寒く震えました。

追記:2007年12月21日にチェコはシェンゲン協定に加盟、国境の検問は廃止されました。

チェコ入国


一見、工事事務所風の小屋

土産屋の集合
16:33 国境検問所を出発。これからエルツ山地をブルタバ川の平地に向かって下る。我々のチェコ入りを歓迎(?)して手を振ったのは意外な人達でした。書き残すか否か迷ったが(チェコは不名誉に思うかも知れないので・・・)、単純に社会現象の見聞の1つとして書いておきます。

16:38頃 山地の森を切り開いた下り坂の途中に幾つかの工事事務所のようなプレハブがあった。売春屋です。大きなガラス窓の中で売春婦が純白の下着のみでクネクネと体を動かし踊っているのが見えたところもありました。ドイツに出稼ぎに行き、金を持って帰国する労働者がお目当てとか・・・。トラックなども利用するそうですが、当然バスはお呼びではない。

かなり昔、何時だったか記憶に無いのですが、西欧諸国で少女が行方不明になり東欧や中近東の売春屋に売られたのだ、と欧米のジャーナリスト達が随分と騒いだ記憶があります。このような所に売られたのだろうか、と思ったものでした。

しかし、「夫婦でやっているところもある」との説明に驚きました。もっと驚いたのは、ツアコンFさんに彼女らについて熱心に質問するのは年配女性だったことです。もっとも話題が話題なので笑いながらでしたが・・・。話が前後しますが、チェコからオーストリアへの国境近くでも違う形態の同業の人達が見れるのです。ここでも、一番興味を示したのは年配女性たちでした。どうしてでしょうネ。

東洋人がやっているというバラックの土産屋がかたまった場所があり、そこでポツポツと4〜6軒続いたその種の小屋は終わりになった。
「歴史などの解説は皆さん半分は眠っているようですが、ここの説明だけはどんなツアーでも全員が目をパッチリ開けて興味深々にきいています。老若男女、共通の庶民的な話題なのでしょう。」 ツアコンFさんの説明でした。需要と供給による人類最古の職業ですものネ。
さて、ここは何という峠?それが分からない。

16:50 小さな町を通った。たった一軒だったが表通りに同業の建物があり、窓から下着姿の数人がバスに手を振った。ツアーの女性数人もお返しに手を振っていたが、どういうこと? 料金は安くても30ユーロ(約4000円)で街中は高いらしい、とのことでした。

チェコは今年5月にEUのメンバー国となりました。労賃や土地代の安さを武器に企業誘致を活発化させているので将来は豊かになるかも知れません。ドイツ人に近い国民性とも言われるのですが、旧ソ連の下で共産主義体制を長く続けたので、未だ一般庶民は経済的に貧しいのでしょう。農村地帯を走行していても、ドイツの農村風景にみる建物の外観や大きさなども違い、比較上は豊かな感じはしなかった。ただ、ドイツやオーストリアとの国境に近い地域ではチェコ語よりもドイツ語が日常会話に使用されるという。陸続きの諸国は日本のような島国とは何かと違うようです。

平地ではチェコの高速道路(無料)を走った。片側2車線で最高速度は右車線が100Km、左車線(追越用)は120Km、ドイツのように速度制限・無指定ではないのですが、日本の高速道路よりは柔軟な制度に思えました。風景は山地が多く全体的に日本の風景に似ています。沿道の建物のポールに日本の国旗が掲げられたところもあった。これはトヨタ系の自動車部品メーカーT社のチェコ工場で、 2003年秋に進出したようです。経済関係の報道では「自動車関連の日系企業の東欧進出が活発化している」とされますが、「やはり」と思ったものでした。

プラハ市内を走行・車窓観光: チェコ国立博物館
車窓から国立博物館
17:45 厚い雨雲のためか、古い街並みのためか、薄暗いプラハ市内にはいった。市内ではヘッドライトを点灯した車が多かった。これから夕食のレストランに行き、その後ホテルに投宿の予定である。しばし歴史を感じさせるプラハの街並みを車窓から眺めることになった。「明日は通らない地区も多いので良く見ておいてください」とのこと、そして重要な建物があるとFさんが簡単に説明をしてくれた。さて、走行中のバスから薄暗い街の風景の撮影となりましたが、デジカメはシャッター速度・優先設定にするしかありません。その結果、全ての写真が暗くて質がよくなかった。レタッチソフトで明るさとコントラストを調整し、なんとか見れる程度になったけれど・・・。
この時は意識していなかったが、コースはブルタバ川(注)の下流側にあるシュトパイツェ島の橋を渡り新市街に向ったのでした。薄暗い空模様の下でプラハ・マサクリ駅、プラハ本駅、国立オペラ劇場、国立博物館と走り、夕食のレストラン近くまで行きました。下車の頃には、運良く雨はおさまり、空も少し明るさを増してきました。 プラハ市外・車窓

(注) ”ブルタバ川”(ドイツ語でモルダウ川)は多くの参考書で”ヴルタヴァ川”と記される。検索エンジンGOOGLEで確認すると、8月21日現在で”ブルタバ川”(227件)と”ヴルタヴァ川”(706件)が検索される。”ヴルタヴァ川”の使用頻度が高い。ただ、どちらがチェコの発音に近いかは不明だが、日本人がどちらの発音をしてもチェコ人には同じと想像される。簡明な”ブルタバ川”をこの旅行記では用いることにする。

プラハの老舗ビアホール、ウ・フレク(U Fleku):
1499創立のウ・フレクー(U Fleku)入口
18:15 レストランまでのバスの乗入れは出来なかった。街中の表通りでバスから降り、賑やかな通りの歩道を少し歩いた。第2次大戦中にできた銃弾の痕がある石壁をそのまま残した所があった。弾痕の上には兵士と聖職者の像、その間に文字の書かれたプレートがあり、下には生花が供えられていた。プラハの人々には忘れがたい出来事があった場所なのでしょう。
その先で右折し、ずらりと小型車が駐車する石畳の道を奥に進む。案外と距離がありました。商店街ではなく低〜中層の住宅街に思えますが、人通りや車の通行は少なかった。しかし小奇麗な小路で不安などは全くありません。地図で調べると、場所は新市街市庁舎とブルタバ川・スラブ島の中ほどを北方向に入ったところです。
小路の左側にレストランの時計が見えてきました。窓の上の外壁に創立年の1499が書かれている。上の写真は帰りに撮影したもので薄暗いのですが、着いた時は雨も完全にあがり、未だ明るい時刻でした。

ビール事情:チェコは重要
日本人とビールの出会いの最初は 1724 年の”和蘭問答”で「麦酒たべみ候処、・・・、びいると申候」と記述されている。幕末の蘭医・川本幸民(1810‐71)は訳書”化学新書”の中でビールの製法を正確に記載したので、この人が日本で始めてビールを醸造したとも言われるらしい。 明治初期にも幾人かビール製造の先達がいたし、イギリス流の上面発酵とドイツ流 ( 注:今日的にはチェコ流?) の下面発酵が試みられたとされる。が、結果としてドイツ流下面発酵ビールが日本人の好みに合っていたらしい。工業的生産は1876年に北海道開拓使により札幌(官営)で開始されたとされる。(Ref.1)
さて、チェコのビールの歴史は古い。紀元前3世紀ころ当地に移動したケルト人が大麦から飲物を造ったのが始まりという。13世紀にチェコ南部の町ブルノ(Brno)でビールが醸造されたのをきっかけにビール造りがチェコ全土に広がった。歴史的にビール醸造は上面発酵酵母によるものだったが、1841年にビール革命が発生し下面発酵酵母による醸造が開始された。翌年そのビールが発売された。これが「ピルスナー」である。
現在でもチェコのビールなら「ピルスナー」と世界の愛好家に知られるが、プルゼニュ地方で産する Pilsner Urquell が元祖とされる。また、他の地方に Budejovicky Budvar というビールがある。ドイツ語では Budweiser Budvar で、このビール工場の職人がアメリカに渡り有名なバドワイザー・ビールを造った。(Ref.2)
古いデータで恐縮ですが、世界最大のビール生産国はアメリカで世界全体の 20%強(2370万キロリットル)を占める。次いでドイツ 9.9%、中国 8.8%、イギリス 6.1%、日本 6.1% と続く。消費量を1995年の数字でみると、チェコが1人当り157Lでトップ、次いでドイツ(138L)、デンマーク(124L)、ベルギー(104L)、イギリス(101L)、アメリカ(84L)、日本(56L)である。(Ref.1)
チェコ人は日本人の約3倍もビールを飲んでいることになる。 --------------------
Ref.1:日立デジタル平凡社、世界大百科事典DVD版、1998
Ref.2:地球の歩き方、「中欧」、2003/7/25、第6版、pp.37-38
18:26 レストランに入る。この「ウ・フレク(U Fleku)」はプラハで最も古く(1499年創立)最も有名なビヤホール、大昔は修道院だった場所でその当時の製造法を今も守る”黒ビール”に人気があるそうです。

玄関を入ってから右側の大部屋の奥中ほどに我々の席は用意されていました。中央のテーブルは空席でしたが、食事中に欧米系の団体で満席となった。テーブルに落ち着くと、直ぐ食前酒のテベロフカ(48度)が出た。恐る恐る舐めてみたが、火酒に慣れない口はまさに火がついたような刺激があった。ツアーには酒豪がいて平気でグィと空にした。次にお目当ての黒ビール(13度)が出る。ジョッキ上部の泡は実に細かなものだった。樽から出したての正真正銘の生ビールである。説明によると、初めて栓を開けた樽ではビールの泡が不揃いなので、最初のジョッキ20杯分は捨てる。客には21杯目から出されるのだ。このレストラン(旧修道院)のこの方式「21杯目から」がチェコの習慣として広く定着しているそうです。キリスト教の修道院は自給自足が多いので各種の伝統のなかには庶民化して一般に広まったものもあるのでしょう。ついでながら、世界的な黒ビールのブランド(大量生産品)はアイルランド・ダブリンに本社のあるギネス(Guinness)で150以上の国々で販売されているようです。

黒ビールの味を楽しんでいると野菜サラダとハムロールの皿がでた。丁度よいつまみになった。 この頃にレストラン専属のアコーディオン弾きが現れ、賑やかな音楽で華やいだ気分を盛り立てました。時々テーブルの間を演奏しながら回ります。不要とは思いつつ、楽しさを盛り上げているので1ユーロをポケットに入れてあげました。演奏しながら、口を結び軽く頷き目で礼をいいました。 次に牛肉の煮込み料理とクネドリーキ(粗引き小麦と水と牛乳を混ぜ蒸し焼きにしたチェコ名物)がでてきた。実はクネドリーキを楽しみにしていた。出されたものは私のガイドブックの説明より大きくて厚かった。この種のものは店により多少は違うのが普通でしょう。皿の上の四切れ全部食べたかったが、2切れを終えるとワイフが脇腹をつついた。体重増加を避けるためのストップサインでした。蒸しパンも好物なので、残念・・・。

我々はデザートを済ませると完了ですが、追加の黒ビールを飲んでいる人や強い火酒を飲み干す人、様々でなかなか動きません。ビールの歴史的本場の有名ビヤホールなので趣味ある人達には止められないのでしょう。このレストランの雰囲気も良いし、一秒でも長居したい様子すら見え隠れする感じでした。 レストラン「ウ・フレク」

19:54 レストランを出る。まだ薄明かりが残っていた。来た石畳の道を戻った。

バス乗車、出発: 20:05 バスに乗車。凸凹のある石畳の道を長く歩いたので、ワイフは股関節の痛みを訴えていた。これからホテルに向うのだが、当初に予定されたホテルは出発直前に変更された。ボーリンク場があるので若者の出入りが多く治安上の不安もあるようなのです。ツアコンFさんはホテル ドリント・ドン・ジョバンニに変更になって喜んでいました。比較するとかなり Better なところらしいのです。車中で明朝の予定時刻を発表し、ホテルの部屋のキーを早々と配布しました。食事中にバスのドライバーさんがスーツケースをホテルに届け、部屋のキーを受け取ってきてくれたのです。我々の部屋は322号室でした。

ホテル( Dorint Don Giovanni )に到着: 20:30 ホテル ドリント・ドン・ジョバンニに到着。少し変わった建物でロビーの雰囲気も珍しいものでした。どこのホテルが巨大な人間の心臓の模型をロビー中央の空間に吊り下げるでしょう? ロビーで解散となりエレベータに乗った。我々の部屋はホールウェイをクネクネと歩きに歩いた一番奥まった場所でした。静かなことは間違いありませんが、それにしても随分と歩かされた。

20:37 自室に入る。スーツケースは既に運び込まれていた。部屋そのものは綺麗だったし、ベットの上には純白のコットン・ケースに入った毛布がキチンと畳んで置かれている。気持ちよい部屋でした。ところが壁の絵を見てビックリ、人間のマスクの絵なのです。特殊な思考をするデザイナーに作らせたホテルなのでしょうか・・・。マァ、清潔なので、特に問題はありませんが・・・。良く休めましたし、「良し」とすべきでしょう。

明日の用意として小型折畳み傘を捜したが見つからない。無くしたと思ったが寝る直前に見つかった。ウッカリ洗面具の袋に入れていたのだ。マイセンの購入品をバスに置き忘れたことも思い出した。やはり、かなり疲れているようでした。 ホテル トリント・ドン・ジョバンニ
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