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旅行記|東欧4ヵ国旅行( 4日目/2004年5月22日・土曜 )
プラハ半日観光、その後ウィーンに
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起床から出発まで: 06:00 起床。熟睡できた。外は曇りで風はないように思えた。
例によってトラベル・ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
06:30 朝食のレストランがオープン。
07:15 スーツケースを廊下に出し、2階のレストランに向かった。エレベータ・ホールに回転ブラシの自動靴磨き機があった。ワイフが試用してみたらきれいになる。各部屋に靴磨きの小道具(日本では紙製の使い捨て靴磨き)を置くより簡便で時間潰しにもなりますね。
レストランでは札幌のご夫婦と同席になった。コンチネンタル・スタイルに近く、自分で選んだチーズ、ハム、生野菜、パンとジャム、ジュース、コーヒーの食事となる。味はクセがなく食べやすかった。量的には私としては抑え気味でした。西欧でも東欧でも欧州のパンに塩味を全く感じない。これは良いですね。

07:30 予定ではモーニングコールの時刻。部屋に居なかったので分からない。
07:40 食事を終えた。直ぐ部屋には戻らず、ホテルの外に出てみる。正面は広い道路でトラムの軌道がある。連結された電車が時折走っていた。 昨日も暗闇で「変わった建物」と思ったが、やはりホテルとしては珍しい雰囲気の外観でした。大陸の内陸部のためか外気は少し肌寒い程だった。しかし日中は違うので心配はない。
07:55 自室に一旦戻る。午前中はプラハ城から旧市民広場まで徒歩観光になる。特に痛みなど不具合はないのだが、用心して関節の痛み止めを服用しておいた。連続服用でなく、1〜2度なら経験的に問題はない。
08:45 フロントにキーを返してチェックアウト。バスに乗車して、直ぐプラハ観光に出発。

プラハ: プラハの風景
プラハ城とブルタバ川西岸の街
チェコ共和国の首都で人口約121万人、歴史的にもボヘミアの中心だった。ボヘミア統一を成し遂げたプシェミスル家が870年にプラハ城の造営を始め、王城を中心に町造りを行ったとされる。10世紀にはカトリックの司教座が置かれた。中世の宗教改革の先駆けとなった国ではあるが現在はカトリックと無宗教(?)がほぼ均衡しているような情報もある。またユダヤ人が古くから住みつきプラハ発展の原動力の1つだったようです。12世紀から現代まで続いている規模の大きいユダヤ人街は世界的にもユニークでしょう。
プラハ市の歴史地区がユネスコの世界遺産に登録(1992年)され、後に京都市と姉妹都市(1996年)になった。見るべき観光ポイントはブルタバ川に架かる最古のカレル橋を中心に半径約2Kmくらいの東西両岸の地域にあり、健脚ならば徒歩観光も可能とされます。といっても、電車・バス・タクシーの利用は何かと便利ですし、時には公共交通機関の利用は旅行経験を豊富にすることでしょう。

個人的にはドボルザークやスメタナの音楽を時々聴いたり、ボヘミアン・カットグラスを使用したり、若い時にお世話になったアメリカの指導教授のご先祖様はチェコにいたとか(関係無いですネ)、プラハ放送交響楽団(The Prague Radio Symphony Orchestr)の来日公演(1996年)を聴きに行ったとか、マァ〜、そんな程度の知識と関係しかありません。でも、結果論ながら、年代と様式の異なる興味深い建築物が多く、綺麗で印象的な街でした。

◇チェコ共和国の豆歴史◇
今のチェコは、北西と南西にドイツ、南にオーストリア、北東にポーランド、南東にスロバキア、の4国と国境を共有し、北西部のボヘミアと南東部のモルドバの2地方からなる。ボヘミアは北海に流れるエルベ川とその支流ブルタバ(モルダウ)川のつくる平地があり、モルドバには黒海に流れるドナウ川の支流モラバ川のつくる低地がある。
紀元前3世紀ころこの地にケルト族ボイイ(Boii)が住み着いた。この民族名がラテン語ボヘミア Bohemia の語源といわれる。その後ゲルマン民族が住んだようだが、ゲルマン大移動の空白地帯といわれ、6世紀頃にはスラブ系の諸族が移住し西スラブ人を形成したとされる。この頃に国家と言えるものも成立したとの説もある。9世紀には西スラブ族の手で大モラビア国が建設された。最盛期(9世紀)の領土は現在のスロバキア、チェコのモラビア地方を中心にボヘミア、ポーランド、ハンガリーを含んでいた。
10世紀初頭(906)に大モラビア国はウラル南部から移動したマジャル人に滅ぼされた。その後マジャル人はハンガリーを建国するが、積極的にローマのカトリックを受け入れたので支配下の西スラブ人はビザンティン帝国との関係を絶たれ、ローマの影響を受けることになった。特にスロバキアは第1次世界大戦後まで約1000年もハンガリーの支配下にあり、チェコ人とは異なるスロバキア人(西スラブ人)としての民族性を形成した。スロバキアが1993年にチェコと分かれ独立国家になった理由の1つである。(チェコ人と西スラブ人といってもチェコ語とスロバキア語はほぼ同じらしく、互いに通ずるともいう。)
他方、ボヘミアでは大モラビア国時代からその支配から離れた西スラブ諸族が抗争を続ながら統一に向っていた。870年にはプラハ城建設に着手していたプシェミスル家が10世紀にチェコ人の諸族をまとめボヘミアの統一を行った。ボヘミア王国初代のキリスト教君主とされるバーツラフ Vaclav (聖王、在位921‐929)はカトリックを国内に布教するのに積極的に努めた。929年に暗殺されたが後世ボヘミアの守護聖人になった。プラハには現在もバーツラフ広場があり騎馬像がある。プシェミスル王朝は962年に神聖ローマ皇帝に臣従し、ボレスラフ2世(在位967‐999)の時代にプラハに司教座が置かれた。チェコの国家としての基礎が固まった時代だった。
チェコはその後は神聖ローマ帝国の下でドイツの影響を強く受けることとなる。プシェミスル・オタカル1世(在位1198‐1230)は初めて世襲の王号を獲得し(1198)、1212年にはボヘミア王国の独立が正式に承認された。後にボヘミア王国は実質的にオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入るが,王国としての形態は1918年まで保った。
ボヘミア王カレル1世(在位1346‐78)は1347年に神聖ローマ皇帝に選出され(皇帝としてはカール4世)、1356年の金印勅書でボヘミア王を7選帝侯の首位におき、神聖ローマ帝国の強化の基礎をチェコにおいた。カレル大学(プラハ大学)の創立、プラハの大司教座への昇格、ドイツ語と共にチェコ語を公用語に指定、カレル橋の建設、等々大きな業績を残した。カレル1世は「祖国の父」と呼ばれる。
イギリスのウィクリフの改革思想に共鳴し宗教改革の先駆者となったヤン・フス(カレル大学総長)は異端裁判で死刑(1415)となったが、支持者らによるフス戦争(1419‐36)はボヘミア全土を巻き込む大規模な宗教戦争となった。内部分裂などもあったが、最終的には教会側が要求を聞き入れ収束したようである。当時の改革派宗教組織は現在でもその活動を続けているといわれる。
ルドルフ2世(在位1576‐1612)の時代にはプロスタント文化が急進した時でもあった。政治を嫌い学問・芸術を愛したルドルフ2世は、プラハに居を定め内外の人文主義者を集めた。ティコ・ブラーエ(デンマーク人)やヨハネス・ケプラー(ドイツ人)の天文学的研究(地動説確立に貢献)もルドルフ2世の支援のもとでプラハで行われたといわれる。ついでながら、先達コペルニスクはイタリアで学んだポーランド人、後継者としてはガリレオ(イタリア)や ニュートン(イギリス)となるでしょうか。
宗教改革派の抑圧者とされるフェルディナント2世(在位1619‐37)がハプスブルク家によってボヘミア王に指名されると、チェコのプロテスタント貴族は彼の即位を拒否し、1618年5月に派遣されてきた国王参事官をプラハ城の窓から外に投げ出す事件を起こした。これがドイツを中心にヨーロッパ諸国を巻きこんだ30年戦争(1618‐48年/宗教戦争)の発端となった。しかしボヘミアは1620年にハプスブルグ家の支配下に入ったとされる。
第1次世界大戦が終るとスロバキアはハンガリーの支配から離れ、チェコはスロバキアと共にチェコスロバキア共和国をつくった。第2次世界大戦中はナチスドイツに占領され、チェコとスロバキアはドイツの保護領となった。終戦(1945)とともにチェコスロバキアは再び統一国家となったが、旧ソ連の影響下で1948年に社会主義体制となった。1960年代に民主化運動が進行し、1968年に「プラハの春」事件が発生、ソ連軍の侵攻でこの民主化運動は終りました。しかし人権抑圧への抵抗は続き、1989年のソ連邦の崩壊と共に「ビロード革命」で社会主義政権が崩壊し、チェコスロバキア共和国となった。さらに1993年1月1日、平和的な合議によりチェコスロバキア共和国はチェコ共和国とスロバキア共和国の2つの独立した国となったのです。
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参考文献1:日立デジタル平凡社、世界大百科事典DVD版、1998
参考文献2:外務省ウェブサイト
各国・地域情勢(チェコ)
参考文献3:プラハ英語サイト
http://www.prague.cz/aboutp.asp
さて、我々はホテルを出発してから、トラムの走る広い道を行き、ブルタバ川沿いにしばらく対岸の風景を眺め、それからプラハ城の北側地域(王城を挟んでブルタバ川の反対側)の坂を上りました。

プラハ城・入口:
聖ヴィート大聖堂への道にて
09:05 駐車場に到着。下車して直ぐ丘の上のプラハ城(Prague Castle)に向った。この王城は長さが 570m、幅も平均で 128m、面積は 7.28haもあり、4〜6階建とおぼしき建物がまさに巨大な城壁のように取り囲む構造だった。そしてその建物の何箇所かに通路が設けられ、城内への出入り口となっている。中には幾つかの宗教施設の他に3つの中庭に加えて広場などがある。この王城は全ての歴代ボヘミア君主の執務場であり住居でもありました。現在もチェコ共和国の大統領府が置かれる事実上の”新王城”として機能しているのです。

ツアーは王城内にある聖ヴィート大聖堂と聖イジー教会を外から拝見し、黄金小路を通り城外に出る予定だった。大司教宮殿近くの「第1の中庭」を通らず、乗馬学校方面から王城に近づいた。その途中は聖ヴィート大聖堂の全景をカメラに収めることが出来る唯一の場所とか・・・。しかし大聖堂の上部と尖塔が撮影できる、という意味だった。それでも大勢の観光客がそこでカメラを構えている。私もファインダーを覗き、アングルを定めた。 ホテルからプラハ城の入口まで

突然、左の二の腕をきつく掴まれた。そして関西弁で 「あんた、私のグループやろ。こんな所で何してるねッ。」 見知らぬ30才くらいの女性が腕を引っ張り自分のグループの方に連れて行こうとした。驚きのあまり声もでなかったが、幸い傍にいたツアコンFさんが気付き、「おいおい、うちの人に何するんだ!」 こんな所でツアコンが客の奪い合い? それはない。この人、本当に別グループの添乗員かな?

プラハ城・第2の広場:  チェコ大統領官邸
第2の広場、中央に大統領執務中の旗
「第2の広場」の入口では、左右の衛兵用ボックスに1人づつ正装の衛兵が直立不動で番をしている。この正装の衛兵と写真を撮るのが観光の1つとなっている。面白半分・記念半分、順番待ちでツーショットをお願いした。
通路を潜り抜けると明るい外壁の建物に囲まれた石畳の中庭だった。中央には1686年に造られたコールの噴水がある。ハプスブルグ家の紋章”双頭の鷲”が付いていたそうだが、今はない。写真の左は聖十字架礼拝堂でその右はチェコ共和国の大統領府、屋根の上の旗は大統領が現在ここで執務中を示している。大統領府の建物に沿って庶民や観光客が自由に休める白いベンチが並んでいる。カップルや寝転がった人などがいた。平均的な感覚からは「驚き」と表現できる、と思います。我々は見事な石畳と建物の中庭を拝見し通過したのみでした。

プラハ城・聖ヴィート大聖堂(St Vitus Cathedral):  第2の広場から聖ヴィート大聖堂の”西のファサード”に出る。このでは既に大勢の観光客が大聖堂正面のファサードを見上げていました。この堂々たる大聖堂は1344年に皇帝チャールス4世が基石を据え、現在の姿が完成したのは20世紀中頃というから本当に気の長い建設だった(欧州では良くあること・・・)。左右に二本ある西の塔のうち左側は高いところまで櫓が組まれ工事中だった。中央の大きな円形ステンドグラスはその上に細い三日月形のステンドグラスがある。この部分は珍しいと思いましたが、どうでしょう? 内部から見ると素晴らしいでしょう。実は、内陣とか新礼拝堂などのステンドグラスが大規模で見ごたえがあるとか、チェコの画家ムーハ(ミュッシャ)等々20世紀の作家達の作品が多いようです。
この大聖堂は幾人かのボヘミア君主の廟所であり、さらにボヘミアの守護聖人ヤン・ネポムツキーのお墓も聖堂の一番奥(西ファサードの反対側、祭壇の裏)にあるのです。ガイドさん曰く、「大聖堂内部は撮影禁止です。日本人には撮影する人もいますが・・・」とのことでした。
残念ながら我々は外観のみ拝見して、右手の”第3の中庭”に向かいました。大聖堂の周辺広場の石畳は通常の小さい割り石ではなく大きな角型の色石が敷き詰められていた。ここは考古学的発掘が何度か行われたらしく、それで新しい石畳なのでしょう。 プラハ城 

プラハ城:第3の中庭
聖ヴィート大聖堂の西塔(左)と南塔(右)
時計のある凝った作りの”南の塔”は大聖堂の中央部にあり聖堂建物から出っ張ったものだった。この塔が中心にも思える”第3の中庭”は大聖堂と王宮の建物の間になり実に広大な空間でした。王宮の建物の丁度”南の塔”に対峙する2階部分に立派な半円形のバルコニーがあり、チェコの国旗が掲げられいた(現在はチェコ警察庁らしい)。全くの想像ですが、歴代のボヘミア君主はこのバルコニーから大聖堂までの広場を埋める国民の歓呼を見下ろしたことでしょう。往時の様子が目に浮かぶ場所でした。大聖堂への渡り廊下がある赤い屋根の王宮部分にもう一つのバルコニー(比較的質素)があり、使い分けられていたようです。

聖ヴィート大聖堂は大きく、西塔と南塔は高い。それで両塔の先端と第3の中庭の石畳を一枚の写真に収めるには通常のコースからは無理である。デジカメに収めるにはチョットしたがんばりが必要なのです。グループを勝手にはなれ、大急ぎで王宮建物のコーナー近くまで行った。 立ったままよりは低い姿勢がよいので、石畳に胡坐を半分かいて身を低め、さらにデジカメを立てにして目一杯の広角で撮影しました。尖塔の先端と石畳が何とか一枚に撮影できましたが、出来栄えは、ウーン? 走ってグループを追いかけました。

大聖堂の一番奥にボヘミアの守護聖人ヤン・ネポムツキー(1340頃‐1393)のお墓があることは先述しました。実は外壁にもこの聖人の横たわった銅像があるのです。現地のガイドさんはその前で色々と説明していました。プラハ大司教の総代理をしていた人だったので、大司教と争っていたボヘミア王バーツラフ4世に逮捕され、拷問の後にカレル橋からボルタバ川に突き落とされ、殉教したそうです。観光用と思いますが、これからの見学ルートにヤン・ネポムツキー像が他に2つあり、「全部見ると幸運が訪れる、といいます。見落とさないように」 とのことだった。全ての像の頭部後方に金色の5つ星の輪があるのが特徴です。チェコの守護聖人となっている人物は他に何人もいるのですが、聖ネポムツキーは最も大衆人気があるとされます。

プラハ城・聖イジー教会:
イジー修道院(右)と広場、衛兵の行進
大聖堂と王宮建物の渡り廊下を過ぎた先は古い石畳のイジー広場となり、その左に聖イジー修道院(女子)と広場奥に付属の聖イジー教会がある。広場の壁にもう1つのヤン・ネポムツキーの立像がある。現地ガイドさんの案内なので見落とすはずもなく、「はい、これで2つ拝見しました。もう一つはカレル橋にあります」ということだった。(注:左メニュー下部からチェコの壁紙をご覧ください。)

丁度3人の衛兵が先頭に1人後方に2人の隊形でカッカッと軍靴の音を立てながらイジー広場を行進していった。左肩に立てた小銃には銃剣が光っていた。プラハ城の東の入口(黒塔)まで交代に行ったようだった。
さて、このイジー教会は921年完成の城内最古の教会とも言われるが、オリジナルではない。現在の建物は1142年に改修された基礎の上に建てられたものという。教会堂の音響効果が良いので「プラハの春」音楽祭でコンサート会場の1つになるとか・・・。
次は黄金小路に移動で、イジー教会の尖塔の横の細い道を先に進みグループは左の黄金小路入口に向った。又々グループから離れ、右の隣の道まで走って行った(距離的には大したことはない)。そこから細い坂道の先にある”黒塔”などの写真を撮影し、大急ぎで戻り黄金小路の入口に行く。ワイフはそこで待っていた。 プラハ城  

プラハ城:黄金小路
黄金小路、カフカの家(水色)
10:05 入口を入ると左側にも店屋があり人の山だったが、右側が通り抜ける小路で、ユダヤ系作家フランツ・カフカの家などの小さい商店がある。独特のブルーに塗られたカフカの家は、1916〜17年の半年間だけユダヤ系の作家フランツ・カフカが執筆活動をした場所といわれます。現在はカフカに関する本屋さんでした。実際のこの小路は大勢の人達で埋まり、土産店に入ったり出たりの人込みです。でも、短いもので直ぐに終わりになる。
この小路はまだプラハ城内です。1597年に従者などの住宅として建てられ、その後に錬金術師が住んだために黄金小路と呼ばれるようになった。現代は”大錬金術師”から”錬金術師もどき”まで世界中にいる時代ですが、ここは錬金術には程遠い(と思う)土産屋が多い観光用の小路です。他に1〜2軒を覗いただけでした。 黄金小路とプラハの風景

10:18 小路の出口を潜り出ると右側に旧王宮階段がある。プラハ城で一番古いといわれる黒塔に行く道です。そこから見渡すプラハ市街(ブルタバ川の北側)の展望もよいものでした。遠方なので小さく見えるが、尖塔も数は多いといえるでしょう。

帰路は傾斜の穏やかな旧王宮階段を下ります。最上部以外は土壁色の塀があり何も見れません。所々の土産露店を覗いたり、足元に注意して階段を降りたり、案外と長く感じました。丘を下りきったところの右側に小公園があった。そこのベンチで暫しの休息でした。カレル橋まで距離があり、さらに橋を渡って旧市街地まで歩くのです。

カレル橋
カレル橋と小地区橋門塔
10:35 しばし小奇麗だが狭く感ずる古い石畳の道を歩くと、運河らしき水路と石畳の道が交差する場所にでた。見上げるとカレル橋がある。道路なのだが小さな広場的な空間で、プラハ城を見学したグループはここでガイドさんからカレル橋について説明をうける。ボヘミア王カレル1世(在位1346‐78)が1357年に建造したゴシック様式の石橋で幅は約10mで全長は約520mという。直線ではなく穏やかにカーブした石橋です。橋の両側の欄干には15基づつ合計30もの聖人や英雄のバロック時代の像が立ち並んでいる。当初からこれらの立像があったのではなく、1683年に建立されたボヘミア守護聖人ヤン・ネポムツキー像が初めてのもので、ネポムツキー像のみがブロンズのようです。
説明のあと、橋の上に出るために橋塔のある取り付け部までグループとして歩きました。丁度、橋沿いに戻る感じです。この周辺も古い街で”小地区”と呼ばれます。

10:43 カレル橋の脇の階段を少し登ると小地区橋門塔(塔は2つ)の間にアーチ状の潜り門があった。アーチの王城方面の通りも大勢の人達が歩いていた。露店が出ていたり、歩く人も多く賑やかで、まるで祭りの雰囲気でした。我々はそこから自由散策となった。カレル橋からの風景や土産屋や聖人像などを見ながら本当のブラブラ歩きを楽しみながらブルタバ川の反対側、旧市街に向いました。小地区橋門塔からブルタバ川まで案外と長かった。

ブルタバ川の上にでる。上流側に落差は小さいながら堰があった。閘門は見えない。下流サイトでは大きな遊覧船も動いているので、どうやら下流から来た船はカレル橋で航行止めとなるらしい。

欧米の人々には幼き頃から逸話などでお馴染みの聖人や英雄が30基も立ち並んでいるが、我々には親しみがなく有難さ・面白さが分かりません。賑やかな雰囲気の一時を楽しむだけでした。散策の観光客が多い、夫々の像はグループで囲み説明を聞いたり記念撮影をする欧米人観光客が多い、聖ヤン・ネポムツキー像の台座に触りたい人達が多くて行列ができていた、カレル橋には土産屋がとても多い、プラハ市街と王城の眺めがよい、こんな俗なことしか印象に残りません。日本にも布教にきた聖ザビエルの像もあるのですが、人込に紛れて見ずに通り過ぎてしまいました。幸運を呼ぶための「おまじない」として聖ヤン・ネポムツキー像の台座だけは行列に加わり触りました。全体としてカレル橋の散策は肩もこらず楽しめる、と思います。


カレル1世銅像(旧市街地橋門塔近く)
11:05 旧市街地側のカレル橋の入口、旧市街橋門塔に集合しました。ここから遠くの王城がみごとで、最も良い王城の撮影サイトかも知れません。5分程度あったので、旧市街橋門塔をゆっくり眺めました。こちらは対岸の小地区橋門塔と違って1つです。カレル1世の子息が建てたものとされ、ヨーロッパで最も美しい橋門塔という評価もあるようです。そのブルタバ川上流側にスメタナ博物館(ラジャンスキー宮殿)がある。ここにスメタナは実際に住み、「売られた花嫁」などを作曲したとされる。こちらは博物館の裏側ですが、正面左手には立派なスメタナの銅像があるのです。風変わりなのは博物館の下を流れる水流の出口が2ヵ所あり、スメタナ博物館とカレル橋の間が水溜りになっている。小型遊覧船やボートが係留されているので、ミニサイズの港のようだった。
反対の下流側は一段と低い広場でした。その中央に実に大きく立派なカレル1世(神聖ローマ皇帝・カール4世)の銅像がある。カレル1世はブルタバ川に始めて架橋したのみならず、カレル大学の設立やチェコ語を公用語とする等々その功績は突出しており、スケールの大きな王でした。 カレル橋
時間となり、旧市街・橋塔を後にして人通りの多いカレル通りを旧市街広場に向いました。

ボヘミアン・グラスの店(Rott Crystal)
ボヘミアン・グラスのプラハ記念品
11:15 旧市庁舎の1つ手前の交差点近くだったと思いますが、Rott Crystal というボヘミアン・グラスの大きな店に入る。確か3階もあり、高級なクリスタルグラスのカッティング実演もしていました。本場だけにカットグラス製品の種類は多く、またガーネットのコーナーも女性には人気のようでした。我々の場合、花瓶などボヘミアン・カットグラス製品の幾つかは持っているし、シャンデリアなど使い道はなし・・・。という訳で、店内をゆっくり見ただけに終わった。ところがもう残り時間も少ない帰りがけに、プラハのものは何も買っていないので、極めて直接的な記念の小物を急いで購入した。支払いは現金(@418.00CK相当のユーロ)、包装は驚く位に丁寧でした。これを手持ちのボヘミアン花瓶の前に置くと、いかにもプラハで買ったように見えますネ。

ところで、チェコ土産の代名詞的なボヘミアン・グラスとは何でしょう? ガラスそのものはエジプトやメソポタミアの古代遺跡から発見される程に古くから使われています。一説によると、チェコのグラス製品は西スラブ人のガラスビーズや指輪に始まり、13世紀ころから装身具に加えてステンドグラスの製造が盛んになった。しかし多くは破壊され現存しないとか。当時の素材ガラスは透明度の低い素朴なカリ・ガラスだったらしい。14〜15世紀に吹きガラス法による各種のガラス製品も作れるようになったが、17世紀以前は長くイタリアのベネチア・グラス(原料はソーダ・ガラス)の影響下にあったようです。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世がプラハに居を構えて芸術や学問を推奨した頃から状況は変わりました。良質な珪石と堅い木の木灰と消色剤を使用して森林ガラス(Waldglas)というカリを多く含んだ優れて硬く透明なガラスを独自に発明したのです。小さな円形の銅板で透明なカリ・グラスの表面に文様を刻むグラヴィール技法も定着した。18世紀にボヘミアン・バロック・グラスとして最盛期を迎え、多くの工場でテーブル・グラス、シャンデリア、鏡、宝飾品等々を製造し世界中に輸出するまでになりました。

透明カリグラスの発色面のカッティング
しかし17世紀後半のイギリスで酸化鉛を溶剤に加えることで屈折率が大きくカッティングに向いた透明度の高い鉛ガラスが発明され、時代と共にクリスタル・グラスと言えば鉛ガラス製品を意味するようになった。強力なライバルの出現、関税障壁、戦争などでボヘミアン・グラスは一時は衰退しました。しかし、ボヘミアでは色被せグラスの製造法が発明された。グラスの表面に発色用の溶剤を塗り、還元窯により化学反応で発色させ、表面にグラヴィール装飾するというものでした。さらに数多く乱立していた個人工房と工場を統廃合し業界の再編成を行ったことも成功し、幾多の手作業を重ねる工芸品としての今日のボヘミアン・グラスがあるようです。
注:ガラスとグラスの使い分けは全く日本語的で、原語は同じ単語。書きながら頭が痛くなりました。

11:50 カットグラスの店を出る。

旧市庁舎・からくり時計
天文時計のからくり、窓が開き使徒の姿
11:55 有名な天文時計のある旧市庁舎に向かった。近づくにつれ驚くほどの人の波となった。12時のからくり時計を観るために大変な観光客の集まり方で、かなり離れた場所からの見物となった。「からくり」といっても構造的には単純なものと思われる。キリストの12使徒が天文時計の上にある2つの小窓に次々に姿を現すだけなのだ。そして終わると上の鶏が一声鳴くそうですが、覚えていません。勝手な憶測ですが、欧米のキリスト教の人たちにとって12時と12使徒は何らかの連想が働くのかも知れません。そうとも考えたくなる人の集まり方でした。写真のからくりは、15世紀に作られ今も動いている天動説に基づいた2つの時計、プラネタリウムとカレンダリウム、の上にある。そしてこれらは旧市庁舎の高いゴシック様式の塔(展望台)の下部に設置されています。ティーン教会やヤン・フスの像で知られる旧市街広場は直ぐ先というか、もうその一部に入った感じの場所でした。

地下レストラン、昼食
地下レストランの入口
12:05 人波を掻き分ける感じで旧市庁舎の向いの小路に入った。少し先の左側にある地下レストランで昼食です。穴倉と表現できるレストランでしたが、階段を降りた先の一番奥の場所に我々の席が用意されていた。朝7時半からボヘミアン・グラスの店で水を一杯飲んだだけ、飲まず食わずに近い状態でした。テーブルにつくとホッとしました。かなり疲れていたのでしょう、何を注文して飲んだのか、幾らだったのか、メモ1つありません。
最初のサラダは新鮮なトマトとキュウリ、メインは鶏肉チャウダー、ライス、フレンチフライなどでした。我々の場合、似たものを自宅で時々夕食にするので違和感を全く感じなかった。皿が小麦と花の図柄で明るくてよかったですね。味? 空腹なので、賞味するというより、ガツガツ喰らう感じでした。
13:20 レストランの外に出る。そこから旧市庁舎のゴシック様式の塔がよく見えました。

旧市街広場 13:25 旧市街広場は相変わらず人、人、人・・・。特色あるゴシック様式の二本の尖塔をもつティーン教会(先覚的な天文学者ティコ・ブラーエの墓がある)を見ながら広場の反対側を急ぎ足で歩きました。ティーン教会の左2つ目のキンスキー宮殿前には、宗教改革の先駆けで知られるヤン・フスの像(1915年制作)があるのですが、ゆっくりと拝見もせず写真も撮らず、バスに急いだのです。ミクラーシュ教会を過ぎたあたりの素晴らしい緑の大通りでバスに乗車した。その緑豊かな並木道をしばし行く。クラッシックカーと思しきオープンカーを見ましたが、これはプラハの観光用でした。時々見かけます。他の観光地では馬車が多いのですが・・・。バスで通過した道の左側は旧ユダヤ人街と言われる地区が広がっている。「世界中のユダヤ人に知られた巡礼の地」という表現にも出会ったので、世界でも有数のゲットーだったのでしょう。そんな歴史と規模のあるユダヤ人街なので個人旅行の場合はゆっくりと散策する人達も多いようです。すぐにホテル・インターコンチネンタル近くのブルタバ川にでました。数隻の白い遊覧船が航行していたのが印象的でした。丘の上のプラハ城を眺めながらスパトプルク・チェコ橋(1908年、アールヌーボー様式、カレル橋から川下側の2つ目)を歩いて渡りました。ここでプラハ城とヴィート大聖堂の尖塔の風景は見納めです。

プラハからオーストリアへ向う 13:45 バスに乗車、これでプラハ観光は終り、ウィーンに向けて出発です。ほとんどは眠って過ごしましたが、時々目を開けて眺めた途中の風景は南ドイツと似ていました。発電用風車の群れがあったり、菜の花畑が明るい黄一色だったり、なだらかな丘陵地帯がどこまでも続くものでした。


セルフサービスの給油所
14:58 ガソリン購入の停車。チェコは失業率の高い国の1つですが、高速道路のガソリン・ステーションはセルフ・サービスでした。企業が常に合理化を推進するから失業率が高いともいえるし、全体的な失業率などかまわずに企業は合理化経営をしなければ脱落する、ともいえます。欧米の給油所はセルフサービスが多い(全部?)ようです。バスから降りて少し歩き回り、丁度よい休息でした。その給油所の敷地では白いハマナスがかなり咲いていました。
15:05 ガソリン・ステーションを出発。

これからオーストリアの国境に向うのですが、バスは暫く後に高速道路から出て、対向2車線(片側1車線)の一般路を走りました。途中のチェコ側で珍しいものを2つほど見ました。

その1つは、ドイツからチェコに入国した時にも書きましたが、このオーストリア国境近くでも若い(?)女性達が仕事中でした。農村で両側の畑の所々に農家らしき家がある。バスの走る2車線路から時々畑や農家への細い道がある。そういった場所に少し下がって立っている。声がかかるのを待っているのです。交渉成立なら近くの家に行くそうです。

次に、昨年ロマンチック街道のアルプス寄りでも遠くに数本見ましたが、チェコのオーストリア国境近くでメイポール (マイバウム/Maibaum/樹木の精霊が病気や悪霊から家や家畜を守り太陽と光と雨を招き豊饒と繁栄をもたらすという民間の樹木信仰の象徴) と思しきものを見ました。旗竿のように細長く真っ直ぐな樹皮を剥いだ木を立て、その上部にモミかトーヒ類の葉を束ねたボンボリを1つ付けただけのものです。これが道路近くの農家らしき家に立てられていた。国境を越えたオーストラリア側の農村地帯でも数本見かけたので、欧州の田舎では未だ続いている素朴な習慣かもしれません。ただ、大陸のバイエルンやチロル等々あるいはイギリスの農村に今尚残るメイポールの習慣は、街の中心部の広場に立てられボンボリ代わりのリースだったり色とりどりのリボンが付いていることも多いようです。その柱を中心に周りで子供達が踊る地方もあるようです。

チェコ出国

17:55 国境のチェコ側に到着。係官が居なくて待たされた。
17:05 係官がバスに来る。ツアコンFさんのパスポートのみ検査・確認して終了だった。心待ちにしていたパスポートへの出国スタンプはもらえなかった。

EU域内の国境なら出入国は1カ所のゲートの通過ですが、EC域外では事情が違います。出国ゲートと入国ゲートの2ヵ所を通らなくてはならない。その2つのゲート間は何れの国にも属さない地帯(共同管理?)があり、時にはその幅が数キロメートルもあるのです。
ショップやレストランが入居した建物
我々が通ったチェコとオーストリアの国境がその幅広い例でして数キロはありそうです。ゲート間のたぶん中心付近と思いますが、両国の合意の下に作られた免税店、レストラン、ホテル、カジノ等々の一大施設がある。原則的に何れにも所属しない地区なので、カジノ等の利益はチェコとオーストリアで山分けするそうです。今年5月にチェコがEUメンバーになり両国ともEU域内となったが、大設備を作って営業している以上は、ここの国境事情は変わらないのでしょう。

17:07 少し走り右側の駐車場に入った。オーストラリア方向に幾つもの駐車場と建物が並んでいる。免税店やレストランが入居した最初の建物でトイレ休息となった。何とも奇抜な恐竜類の飾りがドハデなものでした。

追記:2007年12月21日にチェコはシェンゲン協定に加盟、国境の検問は廃止されました。

オーストリア入国


陸路の入国スタンプ(EU共通デザイン)
17:30頃、オーストリア入国。ゲートではパスポートにEU加盟国の共通・入国スタンプを押してくれた。左上の星11個に囲まれたアルファベットが国を表します。オーストリアは A、ドイツは D、フランスは F、イタリアは I、等々です。右上に入国手段が絵で表示されている。自動車は陸路、飛行機は空港、船は港からの入国です。左下の矢印が右向きで”コの字”に入るものなら入国、左向きなら出国になる。オーストリアは割りに几帳面にスタンプを押す国なのかも知れません。昨年のことですが、約30分だけボーデン湖近くの領土内を通過した時にもスタンプを押しました。

オーストリア側も丘陵地帯と言えるような地形だったが、陽の当たる斜面にはワイン用ブドウ畑が多くなってきた。しかし平地では他の畑ばかりだったので、特にブドウ農家が多いという印象はありません。

18:21 ドナウ川を渡る。黒海に注ぐこの大河は源流をどこにするかで 2200Km と 2800Km の2説があるとか。何れにせよ、我々が最初に目にしたドナウ川は川幅が広く水量が豊かなものでした。船の姿は無かったが、これから訪問するウィーンもブタペストもかつてはドナウ川の港町として栄えたのです。

その後すぐにウィーンの市街地に入った。中心部に近づくにつれ、彫刻や各種の飾りの付いた建物が多くなり、第一印象は「素晴らしく綺麗な街」といったところです。
18:40 国立歌劇場近くでバスから降りた。そこは小さな広場のおもむきだった。
横の道では赤いバラを1本だけ手にもって歩く御婦人の姿が目立ち珍しかった。
これからレストランまで徒歩で行く。建物は古い形式も多いが全て綺麗に見え、ゴミもない道路には大都会らしく大勢の人々が忙しく行き交い、ホッと安心した気分にしてくれました。そんな大都会の小路をレストランまでかなりの距離を歩きました。 レストランまで市街を歩く

ウィーンのレストランで夕食
ウィーンのレストラン入口
18:49 レストラン(Zum Kellergwalb)に到着。綺麗な比較的本格的と思えるレストランでしたが、実は記録を忘れ、記憶もほぼ無く、写真もありません。
サラダとウィンナーシュニッツェル(薄い牛肉のカツ)の夕食だった。当然、スープとデザートも出たはずです。
21:15 夕食を終え、同じ道を戻りバスに乗車した。

ウィーンのホテル( Artis Tower Hotel ) ホテルに到着。夜ながら高層ホテルで外観的には問題がないと思われた。スタンダード・クラスなので期待していなかったが、結果として失望ものだった。後日(ブタペストに向う日の朝食時)、JTBツアーの女性参加者2人と情報交換したところ、やはり我々の経験・印象とほぼ同じでこのホテルの評判は良くなかった。

部屋の広さはマァ良いとしても、調度品類は鉄パイプで作った椅子だったりで、安い部屋なのが一目で分かる。そして、部屋は冷え々としていた。暖房はスチームらしく、今夜(?)は単なる鉄の塊にしか過ぎなかった。空調らしき噴出し口は壁上部にあるが、集中管理らしく、温度調節を探しても見当たらない。もちろん空気は出ていない。予備の毛布を探したが無い。ワイフはシャワーで体を温めて寝ることにした。寒いので急ぎ、確認もせずにバスルームの戸を閉めた。今度はバスタブにシャワー用のカーテンが無い。バスタブに湯を貯めて風呂に入るか、身を屈めて湯を散らさないように体を洗うしかないのだ。大急ぎで同じツアーの女性メンバーがいる隣の部屋に行き、シャワーカーテンが付いているか確認した。隣もやはり付いていないという。ツアコンFさんに何度電話しても通じない。諦めるしかないのだ。鼻水が出始めた。使用済みティシューを捨てようとしたらゴミ箱が無い。探し回ったらバスルームに1つだけあった。壁や絨毯も清潔な感じではなかったが、蚊まで2匹追いかけ殺すことになる。”ホテルの部屋で蚊”は初めての経験と思う。( 翌朝に知ったが、ツアー・メンバーに数ヶ所刺された人までいた。) 昨日、一昨日と満足できるホテルだったので落差があまりにも大きく、「ここに2泊もするのか」と気分が本当に滅入ってしまった。もう、もう諦めて眠るしかない。 MINI-BAR 料金表 ウィーンのホテル

22:30 就寝。本当に体も気分も冷え切った状態でベットに入った。もちろん快適なベットとは思えなかった。寒がりのワイフは薄い毛布一枚では眠れず使い捨てカイロを幾つも使用した。今思うと、添乗員さんに頼らずに、自分でフロントに電話するなり行くなりして、スペアー毛布とヘヤー・ドライヤーを借りれば良かった・・・。気が利かず、風邪を引かせてしまった・・・。

私自身は旅行の訪問先に関し先入観としての嫌悪感や好意を持ち合わせていないのが普通です。
しかしウィーンの記述に関しては、通常とは異なり、筆が重かったのが正直なところです。偶然と思うのですが、”私にとっては”不快な事柄が滞在中に重なり、本当に残念に思います。
見学した宮殿やウィーンの街自体は綺麗で素晴らしいのですが、はっきり書くと、自由行動の時間にオプショナル・ツアー「ウィーンの森とホイリゲの夕べ(@16000円)」に参加せず、自由にウィーンの中心部を散策したり、美術館を訪ねたり、音楽を天井桟敷で聴いたりしたほうが良い印象を持ち帰ることができたかもしれません。旅行記を拝見すると、多くの方々は個人行動でも良い思い出と共に帰国されているようなのです。
ホテルの良し悪しとかつまらん些事がこんなに街の印象を変えるものとは思ってもみませんでした。
さらに、筆者自身もメモ忘れ、撮影忘れ、ピンボケ、手ブレなどの失敗が実に多いのです。かなり疲れもたまっていたのでしょう。
簡単ですが、前もって事情の説明といたします。
2014.02.17 追記:
2010年にオーストリア一周旅行を楽しみ、ウィーンの印象も変わりました。素晴らしい古都でした。


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