HOME旅行記集
旅行記|東欧4ヵ国旅行( 6日目/2004年5月24日・月曜 )
ハンガリーに移動、ブダペスト半日観光
TOP ツアー 国情報 準備 始め 1日目 2日目 3日目 4日目 5日目 6日目 7日目 8日目 終り
文字サイズ変更ボタン(本文のみ)
◇◆◇

起床から出発まで: 05:30 起床。急いで朝のインスタント・コーヒーを飲み、パッキングを済ませた。昨日は毎食後に風邪薬を飲み、日中も使い捨てカイロを幾つも使用し、夜にはスペアー毛布を2枚も掛けたりでした。その甲斐があって、ワイフの風邪は治ったようでした。朝のことで油断はできませんが、ホッとしました。

06:30 昨日と同じレストランで朝食。テーブルでは JTB Look World で来た中年女性二人連れと向かい合わせになった。記憶に間違いなければ、確かアムステルダムで乗継ぎ、直ぐウィーン入りしてこのホテルに2連泊したようだった。まずこの人達がホテルに関する不平から話し始めた。それから互いの部屋などの情報交換となる。ヘヤードライヤーなし、シャワーのカーテンなし、スペアー毛布なし、ドアの鍵は旧式、壁・絨毯は古く不潔な感じ(主観が一致)、等々は同じだった。我々の部屋には蚊が数匹いたなどと話す。やはり、JTB Look World も 阪急Trapics でもツアーで使用する部屋はどちらも同じ条件のようだった。

今朝のビュッフェスタイルの朝食には食べるものがあまり無い。我々は幸運にもハム・チーズ・茹卵・ジュース・パンを取れた。が、ぎりぎり最後に間に合ったのだ。テーブルに並んだ食べ物の大皿はほぼ空だった。遅くにストロベリーヨーグルトが出たが、早いもの勝ち。生野菜なし、ヨーグルトなし、フルーツなし、パンの皿が出たら直ぐになくなった。遅れてきたツアー・メンバーの中には何にもありつけず、「惨めな思いをした」という人すらいたのです。欧州の朝食はパンとコーヒーならコンチネンタル・スタイルと説明されるのが普通だ。しかし、今回は”ネンタル”を”キショー”に入れ替えると適切ともいえよう。「団体客には差別的な貧弱なサービスのホテルなのだ」とテーブルの4人で結論した。

07:30 朝食を終え、部屋に戻った。
07:50 スーツケースを廊下に出す。
08:00 ロビーに行き、鍵を返すだけのチェックアウト。

ホテルから出発: 08:25 バス出発。ツアーメンバーから「CNNテレビの報道では、パリのドゴール空港で飛行機がボーデングブリッジに激突し空港の使用が中止となった。シラク大統領が視察。」と情報がながれた。「すわっ、テロ事件か」と思ったが、後日のニュースによると単なる建物が壊れただけの事故だった。

ウィーンの市街地を少し走りブタペストに通づる高速道路にのった。
09:00頃、主に進行方向の右側だったが、発電用風車の巨大群落があった。日本では見ない規模であろう。この辺は農地だが、広大な平地で大した山も視界にないのだ。細長い防風林で畑は区切られ守られている。ここの風のパワーには凄いものがあるらしい。

ハンガリー入国


ハンガリー入国スタンプ
09:25 オーストリア・ハンガリー国境ゲートに到着、前にバス一台のみでガランとした感じだった。チェコと同じく今年5月1日にEUに加盟したハンガリーだが、ゲートは EU 車両と Non-EU 車両の区分があった。ツアコンFさんが全員のパスポートを集めて回った。
09:40 ゲートの先には派手な色彩の建物が幾つもあるが多くは両替店だった。ハンガリー通貨は日本での両替が不便なので短期訪問なら使い切る額しか持たないのが良いらしい。観光客が行く場所ではユーロが使えるし、数少ない経験ながら実際にはユーロを歓迎する感じすらありました。
商店や飲食店も入居しているレストハウスのトイレを使用した。ここもユーロで、まず0,30ユーロ(約40円)を払い入口用トークン(token/一種の専用コイン)を購入する。それを使用して中に入るシステムだった。 オーストリア・ハンガリー国境

追記:2007年12月21日、ハンガリーはシェンゲン協定に加盟、国境の検問は廃止された。

09:55 出発。返却されたパスポートにはハンガリー入国のスタンプが押してあった。 ハンガリーになると高速道路沿いに大小のアカシアが多くなり、白い房状の花が満開だった。眺めていると道路沿いのみならず、広々とした畑の防風林にもアカシアの木が利用されている。これ程に多くあり満開ならば、ミツバチを放って蜂蜜を生産できることは明らかだ。ハンガリーでは養蜂業が盛んなのかも知れない?
前後するが、夕刻に立ち寄ったブダペストの土産店ではやはり蜂蜜や蜂の巣を少量ながらおいてあった。 日本では成分が違うのでレンゲの蜂蜜とかミカンの蜂蜜のように花の名で蜂蜜を種類分けする場合がある。筆者の居住地ではアカシアの蜂蜜が採れ、癖の少ない良質なものとされる。欧米で一般的とされるクローバーの蜂蜜やアカシアの蜂蜜を花の名で区別するかどうか、これは分かりませんでした。
(注: 習慣的にアカシアと書きましたが、白い花を房状に下げて咲かせるハリエンジュ/ニセアカシアのこと。)

11:35 車中では居眠りしていることが多かった。バスを追い抜いたバイクの爆音で目覚めた。もうブタペストの郊外だった。中層アパートの群れや戸建て住宅やショッピングセンターなどがあり、ありきたりの沿道の風景だった。それ程に時間を取らずにバスは住宅街から都心部に入った。

ハンガリーとブダペスト・歴史
西暦年代が B.C から A.D. に代わった直後のころ、ローマ人が初めてこの地を訪れたらしい。2〜3世紀に本格的に現オーブダ地区に入植を開始、 アクインクムと呼んだ。ペスト地区にはコントラ・アクインクムという砦を構築した。ローマ人はフン族の侵入が激しくなった5世紀直前にアクインクムから撤退したとされる。王宮の丘から北に行った地域オーブダ(マルギット島の西)にローマ時代の遺跡を見ることができる。
フン族は内陸アジアの遊牧騎馬民族で、トルコ・モンゴル系が中核となり種々の民族が包括されたもののようです。2世紀以降に西進し、ゲルマン民族大移動の誘因になったといわれる。ハンガリー平原を根城に、アッティラがフン族全体の支配権を握り(445年)、黒海からライン河畔に至るフン帝国が出現した。アッティラの死後、フン帝国は急速に瓦解した。
ウラル山脈の中・南部地域から南下したハンガリー人(マジャール人/言語的にフィンランド人などと遠い先祖が共通らしい)が大モラビア国を滅ぼし、895〜896年に7部族(約40万人)がハンガリー盆地に入った。族長アールパードが諸部族のまとめ役として選出され、900年ころにアクインクム地域に集落を作った。有力な族長の名前からそこをブダと名付けた。ほぼ同じころ対岸のドナウ左岸にはペストの町も形成された。両町はドナウ川を利用した交易で発展した。ただし、王宮を含む首都機能はドイツ国境近くエステルゴムに置かれた。
イシュトバーン(アールパード家・直系/在位997〜1038年)はキリスト教の洗礼を受け、カトリックを国教と定めてハンガリーに教区制を設置した。1000年にローマ教皇から授けられた王冠を戴いてキリスト教国ハンガリーの初代国王となった。諸部族を統一し国内行政組織を整備してハンガリー封建国家を樹立した。当時から数奇な運命を辿った「王冠」が現存している。
1241〜42年にはモンゴル襲来がありエステルゴムもブタも破壊された。
その後ペーラ4世が現在の「王宮の丘」に頑強な王城を築いてエステルゴムから遷都した。アールバート以来のブタ地区はオーブダ(旧ブダ)と呼ばれるようになった。
15世紀、マーチャーシ1世の時代にブダとペストは欧州の都市として文化的に遜色のないものとなった。1470年に両市はハンガリー王国の自由都市として自治権を獲得するまでになった。
しかし、その後ハンガリーは国家主権を失い、オスマン・トルコ(1541〜1686年)とオーストリア(1686〜1867年)の支配下にあった。
1867年のオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で実質的な国家主権を取り戻したしたとされる。そして1873年にはブダとオーブダとペストの3地域が合併してブダペストとなる。現在では人口200万人以上となり欧州でも屈指の大都会です。
長く影響力を保ったオーストリア・ハプスブルグ家はフランツ・ヨーゼフ皇帝の時代となったが、次々と継承者を亡くすこととなる。その最後がサラエボで継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことだった(1914年)。これが第一次世界大戦の発端となったのである。 第一次世界大戦が終了し(1918年)ハプスブルグ帝国が消滅すると、衰退した。ハンガリーはドイツの影響を強く受けた反動政権となったらしい。第二次大戦後はソ連の支配下となった。1956年のハンガリー動乱で圧政に対して蜂起したが鎮圧され、1989年にソ連が崩壊すると共に再び完全な主権国家となる。今年の春(2004年5月)にEUのメンバー国となった。
他の欧米文化圏の諸国とは異なる習慣がハンガリーにある。人名の順番で、欧米では「名・姓」の順ですが、ハンガリーでは日本と同じく「姓・名」の順になる。例えば、ハンガリー出自の作曲家フランツ・リスト(欧米流)は当地では「リスト・フェレンツ」というそうです。
---------------
以下の参考文献から要点を抽出し、文章を作成:
(1)日立デジタル平凡社、世界大百科事典DVD版、1998、初版
(2)世界の国シリーズ、「東欧」、講談社、1984
(3)ワールドガイド街物語、「ウィーン・プラハ・ブダペスト」、JTB、2001
ブダペスト中心部に到着:
ペスト側からドナウ川越えに見る王城
11:50 ブタペスト市街に入る。かつては計画経済の国だったためか道路も整備され住宅街も外見上は快適に思えた。電柱と電線が無いために街並みがすっきりと感じられ、街路樹なども枝が良く伸びているようにも見える。ところがブダペストの中心部では路面電車とトロリーバスが走っているので、その架線が蜘蛛の巣のように張られている。市街地の写真は張られた架線が相当にうるさく感ずるものも多かった。


ドナウ川に架かる自由橋
12:00 王宮の丘近くからドナウ川沿いに南に走り、少し古めかしい自由橋まで行く。この緑の鉄橋はハンガリー建国1000年を記念して造られ(1896年・建国祭)、フランツ・ヨーゼフ皇帝が着工を告げるリベット打ちのボタンを押した。当初は皇帝の名を冠した橋だったが不人気だったそうです。戦後になり自由橋と改名されたとか・・・。

ドナウ川には大きな白い客船が動いている。橋を潜れるように背丈は低いが長さがある。観光用としては大きすぎると思えるし、定期運行の客船であろうか。自由橋を過ぎたところでバスはUターンをしてもどった。左側は岩山の急斜面だが、ゲレールトの丘(ゲッレールトの丘)として知られている。頂上にはブダペスト市街とドナウ川の眺めが素晴らしい展望台がある。そこは夕刻に登る予定でした。この丘の斜面にはハイキングコースもあるようでトレッキング中らしき人達の姿も車窓から見えた。

12:05 自由橋と鎖橋の間にあるエルジェーベト橋を渡った。ブルーにスターを配した真新しいEU旗が掲げられていた。ハンガリーは今月1日に加盟したばかりです。ここからも丘の上の王宮がよく見えました。橋を渡り終えると平坦なペスト地区になる。(注:ついでながら、橋の名のエルジェーベトはハプスブルグ家フランツ・ヨーゼフ皇帝の后エリーザベトのハンガリー名です。ウィーンを離れて生活することの多かった后はブダペストをこよなく愛し、ハンガリーに多大な貢献をしたとされる。それ故、今日に至るもハンガリー国民に敬愛されつづけ、御芳名がブダペストのあちこちの施設に冠されているそうです。)

しばらくは市街地を走った。建物のコーナー屋上部には個性的な塔をつけたものが多い。欧州の一部なのだが、何かしら変わった雰囲気の建物が多く、多様な文化の交差点らしく思われた。外壁は汚れたままの煤けた感じの建物も多いし、表通りの壁や柱にベタベタとポスターを貼った所もあった。場所によっては貧しい雰囲気が漂っている。仮にデジカメ片手に1人で散歩したい場合、それが可能なセクションとそうでないセクションがあるような印象だった。「旅行者と知れると少し怖い街」と表現できるエリアもあるようです。 ブダペストのペスト地区
街の人達を眺めていると太った人を見ない。食事の基本は肉なのですが、ブダペストの人達の体脂肪率は低いそうです。

昼食(ペスト地区のレストラン): 12:30 大型バスが数台停車しているレストランに入る。中は広く大きなレストランだった。それが満員に近い状態だった。
「いらっしゃいませ〜」と声がかかった。日本人のウェイターかと思ったが、日本の会社の大団体が入っているようで何らかの混線があったようだ。
料理はスープ、メーンデッシュ(薄いトンカツ・ライス・コロッケ風揚げ物・生野菜)、デザート(ケーキ)だった。特別な料理ではないが、心配なく食べれるものでした。飲み物は食後のカブチーノだけでした。 ランチ
ここでは全てがスムースで問題はなかった。レストラン内の照明や騒音、従業員の態度や仕草など何かしらホッとするものがありました。

13:45 レストランを出てバスに乗った。ここからハンガリー女性の現地ガイドさんが案内担当で、添乗員さんから紹介があった。正直に言って、彼女の日本語は殆んど大丈夫、でも時々分からない。しかし、「これだけ話せればかなりのもの」と評価できるでしょう。

車窓観光・くさり橋: 13:50 バス出発。今度はペスト側の自由橋に出てドナウ川沿いの道を上流方向に走り、先刻のエルジェーベト橋を通り過ぎ、有名な鎖橋を利用してブダ地区に行きました。

この鎖橋(セーチェニ公のくさり橋)が1849年にイギリス人技術者によって竣工するまではブダとペストの間は渡し舟しかなかった(船を繋ぎ並べた原始的な浮橋があった、という説もある)。両市の統合を願った政治家セーチェニ・イシュトヴァン伯爵の尽力でドナウ川への架橋が実現したのだった。1873年に両市はオーブダを加えて統合となりブダペストになりました。鎖橋の外形はニューヨークのブルックリン橋に似ているとも言えます。鎖橋が遥かに小型ですが・・・。橋上の風景は共に印象深いものですが、ニューヨークとブダペストでは素晴らしさの性質が違います。鎖橋のような由緒ある橋は自分の足で渡るのが一番かも知れません。地元ブダペストの人達でしょうか、または観光客でしょうか、欧米系の人達の渡る姿を車窓から何組も見かけました。天候さえ良ければ、自分の足でドナウ川の鎖橋を渡るのは最高の体験の1つとなるでしょう。
追記(1):鎖橋の先、王宮の丘の麓に2つの施設がある。ひとつはトンネルで、その入口と一体の構造物として左側に石造りの建物があった。この橋を造った技術者がこの建物に実際に住んでいたそうです。そして、鎖橋に向かった窓から自らの作品を毎日眺めて余生を送ったとされます。(2004.11.29)
追記(2):そのトンネルのさらに左側に100年前に設置された短いケーブルカーがあり、王宮の丘にはこれで登ることもできる。ブダとペストを結ぶ橋の建設に情熱をかけたセーチェニ公の御子息がこのケーブルカーを作りました。当時は貴族専用でした。(2004.11.29)


丘の上のマーチャシ教会と漁夫の砦
ブダ地区の鎖橋のたもと(王宮の丘の下)に大サークル(ロータリー)がある。そこから左に見上げる王城の雄姿は均整の取れた堂々としたもの、真上の漁夫の砦やマーチャーシ教会などの建物群は「まるでお伽の国のもの」のように思えます(左の写真)。結果論ですが、このサークルで15〜20分程度(鎖橋の袂に行き撮影できる程度)のカメラ・タイムがあれば、と思わずにいられません。願わくば鎖橋を歩く時間も・・・。もっとも天候が適している場合ですが・・・。

14:00 サークルの少し先でバスから降り、王宮の丘の階段をゆっくり登りました。

イシュトバーン騎馬像と漁夫の砦:
イシュトバーン騎馬像と漁夫の砦
「王宮の丘」上部にある防御壁「漁夫の砦」から平らな広場に入る。そこには四頭のライオンに守られる聖イシュトバーン王の騎馬像があった。
少し回りくどいが、ペスト地区には英雄広場があり、その建国1000年記念碑・中央にマジャールの7族長を代表するアールバート騎馬像がある。その直系最後の族長ゲーザの子バリクはキリスト教に改宗し、その名もイシュトバーンに変った。つまり、将来の初代ハンガリー王はアールバートの子孫らしいのです。

当時のハンガリーは神聖ローマ帝国とビザンチン帝国(東ローマ帝国)の狭間にあり、常に両帝国から政治的圧力を受けていた。イシュトバーンはハンガリーを存続させるため遠いローマ教皇の力を借りようとし、そのためにカトリック教国にする決意をしたのです。教会を建て、教区制も制定しました。ローマ教皇から贈られた王冠で1000年のクリスマスに戴冠し、ハンガリー初代の君主、イシュトバーン王となった。翌1001年にはカトリックの司教座がエステルゴムに置かれ、現在も続いています。ハンガリーの首都も13世紀までは同じくエステルゴムだったようです。しかしモンゴル来襲により破壊され、ペーラ4世により現在のブダ地区に遷都したのです。

ここの聖イシュトバーン王の騎馬像は水平2本の十字架(ロレーヌ十字?または単なる王者の棒?)を手にしている。横棒の1本は宗教的権威者、もう1本は世俗的権力者であることの象徴のようです。
ついでながら、カトリックの十字架は下棒の長いローマ十字架(ラテン十字架)といわれるものですし、中・東欧に多い東方正教会の十字架は縦横の長さが同じです。

広場のドナウ側は急な崖となっていて、そこには石灰石の白い城壁がある。尖がり帽子(円錐形)の塔が5つと大きな主塔が1つ、その間を結ぶ高い回廊状の城壁がある。1905年の完成ですが、このあたりは漁師組合が守ることになっていたので「漁夫の砦」と呼ぶようです。

塔の階段を登り、城壁の上を歩くと展望は素晴らしいものと思います。ですが、全ての尖がり帽子の塔の階段入口には数名のガードマンがいました。単なる警備のためか、有料でモギリなのか、わかりません。我々は漁夫の砦に沿ってマーチャーシ教会の裏側を先に(北に)行き、城壁の一部らしき展望台から広々したドナウ川とペストの風景を楽しみました。「ドナウ川の真珠」と呼ばれる風景はここからかなり王宮寄りの展望台から眺めるもののようですが、目前の風景もブダペストのシンボル的な国会議事堂などが目の前ですばらしいものでした。約100年の歴史があるゴシック様式の建物ですがそのキューポラ(ドーム)はロマネスク様式とされる。ドーム内部を下から見上げるテレビ映像を見たことがあるが、構造と彩色、ドーム最高部の窓から入り込む光の効果が素晴らしいのです。ついでながら、巨大な議事堂からは想像できないが、ハンガリーの国会は珍しい一院制です。 漁夫の砦、イシュトバーン像

マーチャーシ教会:
マーチャーシ教会と三位一体の塔
14:30 聖イシュトバーン騎馬像からマーチャーシ教会(マーチャーシュ教会ともいう)の正面方向に歩き、高い尖塔の横・下部にある入口から内部に入った。この教会はイシュトバーン王がオーブダに聖母マリア教会を建立したのが始まりとされる。当初の建物はモンゴルの来襲により破壊された。現在の教会の原型はベーラ4世がオーブダから防衛し易い南の丘に場所を変えて1255〜69年に建造したゴシック様式のものでした。1470年になり時のマーチャーシ王が高さ88mの尖塔を増設した(現在の塔は80mとか)。1479年に同じくマーチャーシ王が最盛期のゴシック様式を用いて大々的に改築したので、王の名が教会名に冠されたそうです。ハンガリー歴代の諸王はこの教会で戴冠の儀式を執り行い、王室の婚礼などの式典も挙行されるようになった重要な教会です。「戴冠教会」なる別名もあるようです。ハプスブルグ家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世もオーストリア・ハンガリー二重帝国が1867年に成立するや、早々にこの教会で戴冠式を行いました。

戴冠式に欠かせないもの、それは王冠です。ハンガリーの王冠は神聖王冠とも呼ばれ、初代イシュトバーン王が戴冠の際に用いたものとされます。しかし事情は少し違うようです。現存の王冠は、写真によると、頂上の十字架が斜めになっている。二重構造で上部はラテン冠と呼ばれ時のローマ教皇から授与されたもの、初代イシュトバーンはこの部分で戴冠したようです。しかし当初の王冠は早くに失われ、代わりに製作されたものが残った。下部はギリシア冠と呼ばれ東ローマ帝国(ビザンチン帝国)皇帝からゲーザ王(在位1047〜77年)に贈られたとされる。ラテン冠とギリシア冠の接合の時期は不明で、11〜12世紀ころのようです。以来、ハンガリーでは、日本の三種の神器に似て、この王冠の所持者が王権者とされたようです。

ハンガリーの歴史の中でこの王冠は何度も行方知れずになり、ある意味で神秘的です。時の権力者により略奪されたり、こっそりと仕舞い込まれたり、担保として差し出されたことすらあるのです。最近では、1944年11月4日にハンガリーでナチズム政権が成立してから人目に触れなくなった。一説によると、ハンガリー人の手により王冠はオーストリアの湖畔に隠されたらしいのです。その後、進攻した米軍によって発見され、戦後長く密かにアメリカで保管されていました。1978年カーター政権の時に返還され、ペスト地区にあるハンガリー国立博物館に収蔵されました。2000年1月1日になり、博物館から国会議事堂に移設されました。議事堂の中央、みごとな”ドームの間”にガラスケースに収められて展示されているようです。このマーチャーシ教会にはその模造品が公開されています。(このパラグラフは2004.11.29に改善)

1541〜1686年の間、ブダペストはオスマン・トルコの占領下にあった。トルコが武力侵入した後、このマーチャーシ教会は真っ先にモスク(イスラム教寺院)として使用され始めたとか。尖塔をミナレットに見立てたのでしょうか。「トルコは全てを破壊しハマスを残した」という表現もあるようですが、少なくともマーチャーシ教会は建物としては以前の姿のままだったようです。1686年にトルコがブダペストから撤退すると、マーチャーシ教会は直ぐにカトリック教会に復帰しました。(オーストリアのオイゲン公がハンガリー領土からトルコを完全に駆逐したのは1697年とされる。)

不思議なのは、この教会内部の装飾です。欧州旅行でイギリスを始めとしイタリアなど大陸各国の大聖堂を拝見しましたが、マーチャーシ教会内部のような彩色文様はこれまで見たことがない。天井、壁面、大石柱など素肌の場所は無いと思われる程に、色々なパターンの模様が描かれている。それがアラビア風植物文様(アラベスク?)とも表現できそうなものなのです。マジャール人独自のものか、トルコ占領時代のなごりなのか、あるいはマジャール人が採用したフン族(タタール)末裔の文様か、あるいは全く別物か、不明です。いつか謎が解けるとよいのですが・・・。
(追記 2004.11.30) 昨夜、NHK-TV の「碧きドナウの旅」をみたところ、この文様に関するコメントがありました。それによると、当初のマーチャーシ教会内部はマジャール民族の彩色文様が施されていた。オスマントルコの占領時代はモスクとして使用され、内部の文様は消されて「白」一色に塗られていた。オスマントルコの撤退でキリスト教会に復帰すると、建物内部の白壁は現在の”マジャール文化独自のもの”に復元された、そうです。

我々はグループで現地ガイドさんの説明を聞きながら礼拝堂を拝見し、2階などは自由行動として個人で見ました。先述の王冠のレプリカは地下にあるようです。また、ハプスブルグ家の后エルジェーベトの白大理石の像が階上の礼拝堂を見下ろす部屋に安置されている。この種の像は教会では珍しいものとされます。我々は両方とも拝見しませんでしたが、無理してでも一見すれば良かったと後悔しています。 マーチャーシ教会
15:03 マーチャーシ教会を出る。

三位一体の塔・ペスト大流行の終焉を記念: マーチャーシ教会の正面広場には中世のペスト大流行が終焉したことを記念する三位一体(神・キリスト・聖霊)の塔があった。上の写真の右側の塔です。昨日もウィーン郊外の修道院で見ましたが、欧州ではウィーン(クラーベン)やリンツ(ハウプト広場)等々アチコチにあるそうです。中世の欧州では、それだけペストの猛威が大変なものだったのです。三位一体とはキリスト教独特の概念とか・・・。ここからは筆者の憶測です。キリスト教の神が、つまり具体的には教会組織が、ペスト大流行に悩む庶民を励まし助け、乏しい医学的知識の時代に黒死病の被害の最小化に全力をつくした。だから欧州の多くの場所にペスト大流行の終焉を記念する三位一体の記念碑が後年に建立されたのでしょう( 間違いならスミマセン。)
ついでの記述ですが、ペストの終焉記念との関係は不明ですが、やはり18世紀に建立された有名な聖トリニティ碑(聖三位一体、高さ35m)がチェコのオロモウツにあり、これは世界文化遺産に指定(2000年)されています。

ハンガリー刺繍の店:
刺繍の店、沢山吊り下げている
15:15 近くの土産屋(ハンガリー刺繍)に入った。上のマーチャーシ教会の写真が撮影できる場所ですから、教会正面広場の反対側、歩いても直ぐ近くです。中に入ると壁と天井から各種の刺繍製品が吊り下げられている。色彩は明るく綺麗なものが多い。
土産用の小型刺繍
大きく手の込んだものや刺繍した衣類はそれなりに高価ですが、手土産用の小型のものも数多くあり気軽に購入できる値段と思います。 ワイフは土産であげる小型花瓶敷きなどの刺繍を購入していましたが、それほど高くはなかった。また、ハンガリー人男性の主人も心得たもので、小型の袋を頼んだら(英語)刺繍の枚数だけ直ぐにくれました。

若い頃、ニューヨークでハンガリー出身Fさんご夫婦のお世話になったことがあった。このご夫婦は 1956年のハンガリー動乱でアメリカに脱出されたのです。アメリカ人は昔の Noble Family の子孫と噂していましたが、その辺は分かりません。母国ハンガリーは刺繍が盛んと自慢話をされ、奥様の手作りの刺繍を帰国直前に記念として頂いたことがある。今も額に入れ飾っていますが、今回購入した刺繍とは全く感じが違うのです。恐らく色々なタイプの刺繍があるのでしょう。

話題が飛躍しますが、このご夫婦が「我々はマジャールで他の欧州人とは違う。東洋人の血が混じっている」と話していた記憶があります。しかし、ブダペストの人達の体形と顔立ちを見てからは、信じ難いことなのです。ウラル山脈の中・南部地域から西進し、言語的に親族らしいフィンランド人は金髪や青・灰色の瞳が多いとされる。マジャール人が「東洋人の血」といったとき、恐らくは、ウラル山脈の地域から西に移動開始した後にどこかで東洋人との接触があったと言っているのでしょう。マジャール人の移住以前にハンガリー盆地で王国を築いたフン族の残留者との混血を意味しているのかも知れません。あるいは、かなり後のモンゴル襲来による僅かな混血も・・・。あるいは、中央アジア遊牧民を祖先とするオスマン・トルコ人の血のことかも・・・。それも代を数多く重ね、事実上かなり薄れた・・・。しかし、何時か、どこかで。「ハンガリー」は英語名ですが、スラブ語やドイツ語などのハンガリー国名は7〜8世紀にドン川の流域(黒海の遥か北側)で親しかったトルコ系 Onogur 族のオノグルから派生した、とも言われますし・・・。 実は調べていても、記述者によって異なる民族名や部族名などが複雑怪奇に思え、素人 Anthropologist にはなれそうもありません。

15:27 土産屋を出る。イシュトバーン騎馬像近くから坂道を下り、バスまで歩く。中腹の道の先でバスは待っていた。
15:50 バス出発。国会議事堂を左に見ながら再度くさり橋を渡りペスト地区に入った。パリのシャンゼリゼ通りにも例えられるアンドラーシ通り(世界遺産)に入った。広く立派な通りで、国立オペラ劇場の堂々たる姿も車窓から眺めました。その道の突き当たりに建国1000年記念碑が建てられた英雄広場がある。

英雄広場と建国1000年記念碑:
建国1000年記念碑
16:05 アンドラーシ通りは終わり、英雄広場となった。そこは右の現代美術館と左の西洋美術館の間の広い空間だった。広場奥の高い塔(35m)の上には大天使ガブリエルがある。ローマ法王の夢に現れ、イシュトバーンに王冠を授けるように告げた天使といわれる。宗教上の存在とはいえ、ハンガリーの存亡を決定した大恩人ともいえよう。塔の基部には、見るからに屈強そうな部族長らを従えた騎馬上のアールバートがいる。もちろんブロンズである。その塔の後方左右には弧状の柱列があり、柱の間にはアールバート王朝の諸王ら指導者の像が並んでいる、という。記念碑は1896年の建国1000年祭に建造された。ゆっくり近くで見たかったが、塔や弧状柱列の近くには若者や男のグループが座っていたり話していたりで近づくのが気分的に難しかった。右側の現代美術館の前にいるバスに戻った。 英雄広場
この広場の左右と後方は広い公園緑地で動物園、植物園、交通博物館、航空博物館、遊園地等々がある。池もあり、狭いながらブダペストの上野公園のようなもの。しかしこのエリアには各国の大使館も多く、下町ではありません。
16:35 出発。

車窓からアンドラーシ通りとペストの街並み:
建物の窓上のブロンズ飾り
英雄広場からゲレールトの丘に向ったのですが、まず来た道を戻りアンドラーシ通りを南西方向に走った。そして右折して国会議事堂近くからドナウ川沿いの道に出たのです。そしてエルジェーベト橋を渡るまで車窓観光のため少し回り道をしたようでした。全体として巨大で威圧的な建物というより、古いながら洒落た感じの建物が多かったような印象です。現地ガイドさんは主要な建物は説明してくれたのですが、どの建物が何だったか、今となっては記憶の彼方となりました。写真で雰囲気を感じて頂けると幸いです。 アンドラーシ通り

ゲレールトの丘、展望台:
ゲレールトの丘・棕櫚の葉を掲げる女神像
この小山(235m)の名称ゲレールトは初代イシュトバーン王が招いたイタリア人司教の名前です。キリスト教化の詳細なプロセスは一般の説明に無いので、如何にも初代イシュトバーン王がハンガリー全土をいとも簡単にキリスト教化したかのような印象を受けるのですが、1046年のことハンガリー王家の改宗政策に反対するマジャール民俗信仰派にゲレールト司教は捕らえられ、樽詰めにされてこの丘からドナウ川に投げ込まれてしまった(注:手押し車に縛られて落とされた、という説もある。何れにせよ、ドナウに投げ込まれ殉教した。) 丘のドナウ側の中腹に司教ゲレールトの銅像がペスト地区に向いて建立されている。宗教を国家権力で変更しようとすると、洋の東西を問わず反対者の強い抵抗があるものです。

バスは王宮側の緑豊かで高級住宅が散在する斜面をクネクネと登った。この斜面は昔はブドウ畑だったそうです。 17:45 「ゲレールトの丘」の高い場所にある駐車場に到着。そこから展望台まで徒歩で数分程度のゆるい上り坂だった。左側には土産の露店が並んでいる。その先を左に少し入ると円形の展望台があり、王城、ドナウ川、鎖橋、マルギット島、国会議事堂、等々みごとなブダペストのパノラマが広がっていた。眺めの良いのは当然でして、この丘はかつてはハプスブルグ家が王城などの動向を見張る場所だったとか。小さな砦も残っているのです。記念写真を撮り、少しゆっくりとブダとペストの街並みとドナウの流れを眺め、バスに戻りました。 ゲレールトの丘
17:55 バス出発。

お土産屋(日本人経営):
知られた特産品の貴腐ワイン
18:05頃 再びドナウ川を渡りペスト地区にある土産屋に寄った。場所は分かりません。大きな店というよりはハンガリーの土産品を数多く取り揃えた普通の土産屋です。日本人の店員なので、言葉の問題はありません。刺繍は先述の王宮の丘の店が専門店で種類が遥かに多かった。こちらは玩具の類からお菓子やワインまで色々なものが並んでいる。確か、ハンガリーの名品陶器ヘレンドも置いてありました。

名前だけは聞き及んでいたが、ハンガリーのデザート・ワイン(食後酒)として世界的に定評のあるトカイ貴腐ワインを購入しました。どの銘柄が良いのか全く分からず、数種類あったトカイ貴腐ワインの中で一番値の高いものにした。ラベル情報では、1995年もの、500mlのボトル(トカイはこのサイズが多い)、アルコール分12.0%、最も甘いタイプ、です。会計は少しゴチャゴチャしたので、実は値段がはっきりしません。レジで 20ユーロ(約2800円)紙幣で支払ったら、日本円とハンガリーコインを混ぜて約250円の釣りがありました。約@2550円の支払いでした。ボーとしていたとしても30ユーロ(20+10)は渡さなかったはず・・・。いずれにせよ、一本当りの容量はわかりませんが、昨年の春に訪問したドイツ・ラインガウのアウスレーゼや貴腐ワインに比べると値段的にはお買い得かもしれません。

トカイ貴腐ワイン; 甘味が強いので食前ではなく食後のデザート・ワインとして使用されます。ブドウの果実の表面に一種のカビが繁殖して半乾燥状態になった”貴腐果”を選別して原料に用いる。貴腐果は極めて糖度が高く、このブドウ汁を発酵させると強い甘みと芳香をもつ白ワインができるのです。濃黄色でアルコール分は12〜14%、熟成はふつうの白ワインより長くかかるそうです。貴腐ワインは世界で初めてハンガリー東部のトカイ(アスズ/アスー)で作られたとされます。今日では、トカイに加え、フランスのソーテルヌ地方、ドイツのラインとモーゼル地方が知られた産地のようです。
トカイ貴腐ワインには甘さによる区別があり、甘味度は最高6(プット/pottonyos)までの六段階になる。この数値はラベルに表示され、6プットが最も甘いものになります。

この店で面白いと思ったのは、髭を跳ね上げトルコ帽をかぶったトルコ人形があったことです。もう300年以上も昔のことなのに、未だオスマン・トルコ占領時代の名残が土産屋に置いてある。丁度、大内人形が山口県の土産屋にあるのと同じようなものかも知れません。

18:25頃 土産屋を出る。道路の反対側で待っていたバスに乗車、一旦はホテルに行きチェックイン、休息することになった。

ホテル( Stadion )到着、チェックイン: バスはペスト地区の長距離バスターミナルや巨大なスポーツセンター/スタジアムに近い場所のホテル STADION に着いた。379室あり、フィトネスセンターやインターネット・コーナーもあるらしい。大きく高層なので外観的には問題なさそうだが、ウィーンでの前例もあり期待しなかった。ロビーで部屋割りを待つことしばし、FさんからID番号の札がくばられた。これを持ってフロント・カウンターに行くとキーをもらえる。ヘヤードライアーは部屋の備え付けはなく、希望者のみに貸し出す(無料)方式だった。

18:40 8階の部屋(Rm828)入った。少し狭くてスーツケース2個を同時にフロアーに広げておくことは無理だった。が、これは何とかなる。それより全面改築の直後なので絨毯、壁、洗面所、調度品など全てが新しく清潔で快適だった。洗面所も狭いが、機能的には良好でした。窓からの眺めもよい。ペスト市街の風景が広がり、巨大ドームのスタジアムが直ぐ近くにみえる。ただ、ガラス窓を大きく開け放てるので「鬱病の人が衝動に駆られたら大変だ」と即座に思いましたね。それはともかく、スタンダード・クラスのホテルとしては上出来、上出来。後で、ツアコンFさんは、「古いホテルだったけど全面改装したことは知らなかった」とホッとした表情でした・・・。 MINI-BAR 料金表(単位:フォリント) ホテル
19:10 集合、夕食に出発。

民族ショーとハンガリアングヤーシュの夕べ:
レストラン”チャールダ”の民族ショー
19:40 今回のツアー最後の夕食です。ラーコーツィ通りからエルジェーベト橋を渡り、王宮の南西地域(と思う)にあるレストラン「チャールダ(CSARDA)」に案内された。ホテルの建物1階の右端にありますが、独立した入口を持つ大きなレストランでした。中央部には舞台があり、その近くのコマに案内される。通路・舞台側が開いたコの字型の壁があり、その中にテーブルがセットされていた。

飲み物はグラスの白ワインを注文した。まず、前菜としてハム、サラミ、ベーコン、生野菜の皿がでる。次に名物料理のハンガリアン・グヤーシュ(パプリカをたっぷり使用した牛肉と野菜のスープ)、そしてトンカツでした。デザートはケーキだったはず。ここは庶民的なレストランになるそうですが、それなりに楽しめる味でした。食べている間に次々の民族ショーで賑やかでした。

ブダペストのレストランではジプシーバンドが「ツィンバロム」というハンガリー特有の楽器を中心に、ヴァイオリン、ベース、チェロで構成する楽団の演奏がある、といわれます。観光客が多いレストランではブラームスの「ハンガリー舞曲」5番や1番、またはサラサーテのチゴイネルワイゼンなどポピュラーな曲を演奏する。しかしジプシーバンドはジプシー音楽の演奏が本来なのです。そもそもジプシーがハンガリーに流れてきたのは15世紀頃、18世紀のマリア・テレジア女帝の時代に「同化政策」がとられ、定住や就業が義務づけられた。それからジプシーたちが彼らに固有の音楽を演奏するようになったのだそうです。

このレストラン「チャールダ」では、最初に3人のジプシーバンド(ヴァイオリン、ビオラ、コントラバス)の演奏です。色々なメロディーを奏でましたが、我々の席の近くでは日本の曲を演奏してくれました。不要とは思っても、やはり小銭をポケットに入れてあげました。ブラームスのハンガリー舞曲などはもちろんのこと、他の西洋音楽にもジプシーの音楽からヒントやアイディアを得て作曲されたものもある、と言われます。写真や記述で知っていても、この人達が古からの伝統音楽を奏でるジプシーなのか、と初めて意識して眺めました。

次は男性と女性のダンサー各2人づつの民族舞踏ショーとなりました。賑やかな音楽を奏でるバンドは後方でした。何となく写真で見たことがあるような刺繍の綺麗な民族衣装を身に付けて踊っていました。途中で衣装を変えて出てきたり、退屈させないように次々に出し物を変化させる。お客の飛び入り参加も大歓迎で、時々引っ張りにきます。我々のツアーでは余興の上手な人達が数名いた。ハンガリー人ダンサーと一緒に踊ってみんなを喜ばせていた。

何といっても圧巻だったのは、騎馬民族マジャールならではの”鞭のショー”だった。大きい鞭の先に浅いカップ状のものが付いている。音楽に合わせて鞭裁きを見せながら、時々そのカッブで床をたたく。バーン!と大きな音がする。そして鞭使いが大声で「ホッ!ホッ!」とリズムを取る感じ。連続打でバーン!バーン!ホッ!ホッ!バーン!ホッ! 全く異質でも、和太鼓の小気味よい響きに共通するみごとな歯切れの良さがある。誘われたツアーの男性が何度か試みたが何れも不発、ペシャ〜といったところ・・・。大笑いでした。 夕食、民族レストラン

21:10 ツアー最後の賑やかな夕食を楽しみ、レストランを後にした。

ホテル到着: 21:40 ホテルに帰った。

ベルリン・テーゲル空港からこれまで4泊5日のバス旅行だった。その間、運転を担当してくれたドイツ人ドライバーAさんともこれでお別れです。今晩は同じホテルに泊まり、明日の朝に出発し会社所在地のドイツ・ドレスデンまで1人で運転して帰るのです。ツアコンFさんが確認したところ、「来た道をそのまま逆に走って帰る」のだそうです。近道がありそうなものですが、何かの都合でしょう・・・。みんな笑顔で手を振って別れましたが、「お世話様でした。気を付けて帰ってください」 これが、声無き声だったはずです。

◇◆◇
HOME旅行記集 東欧旅行記TOP現在の頁( 6日目 )
Page▲Top