旅行記| エジプト紀行 カイロを中心に、( 10日目 /11月27日)
メンフィスとサッカラ
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05:30 ツアコンFさんの Wakeup Call で起床。
06:00 ホテルのモーニングコール。
06:40 朝食。

胃腸の状態は正常ですし、万一の時には効果絶倫の薬を携帯しています。エジプト初の遠慮ない朝食となりました。と言っても、メインは量を増やしたドライフルーツ入りのコーンフレークで同じです。前半の滞在とは違って生野菜、果物も皿に取りました。

07:00 部屋に戻る。
07:25 ホテル前の通りで写真。乗車。

メンフィスに向かう
07:40 出発。カイロ市街を出て、バスはマリオテーヤ運河と平行するサッカラ街道を南に向った。ギザのピラミッドからダハシュールやメイドゥームのピラミッドまで多くのピラミッドがこの道からの枝道で行くようになっている。 メンフィスは運河を越えて東側に、ピラミッドは街道の西側にある。今日はこの道を幾度となく走りました。 ついでながら、「メンフィスとその墓地遺跡」と「ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯」は世界文化遺産(World Heritage)に指定されています。

ガイドのアリさんはエジプトのことを話した。いろいろな話題だったが多くは忘れた。ただ、エジプト人は甘いもの、脂っこいもの、塩と胡椒を多く食するので長生きできないという。平均寿命は男が58才、女は64才という。日本人の平均寿命より夫々20才程度短いものだった。それでも、やはり女性の方が長生きである。未だに過酷な労働と貧しい生活を強いられている農民はさらに短命と言う。男女の平均寿命は各々46〜47才、53〜54才と聞き、驚愕そのものでした。

比較的裕福な中堅とか大規模な農家も無い訳ではないと思ったが、車窓から眺める日干しレンガの農家のたたずまいと人々の様子はあまりにも貧しかった。寿命の短さも悲しいかな納得するしかありません。

砂漠の国の多くで見られるナツメヤシが沿道には多かった。大規模なナツメヤシ林と言えるものや、ポツポツと植えられたものや、並木のように思えるものなど様々だった。沿道の木の幹は下部2m位が白く塗られている。道路照明がないので夜間走行でも安全なように、害虫が地面から上部に登らないように、そして動物が樹皮を齧らないように、石灰石の白い液を塗ってあるそうです。多分、石灰石を材木で焼いて作った消石灰でしょう。

メンフィス
08:30 メンフィス到着。
カイロの南約25kmのミート・ラヒーナ村、今は村落が点在するだけのこの地に、古代エジプト初期王朝時代と古王国時代の王都があった。紀元前3000年ごろエジプトを統一した第1王朝の始祖メネスが上・下エジプト境界のこの地に王城を築き新都と定めました。中王国時代以降も下エジプト第1州の州都と下エジプト行政の中心地を兼ねて政治的・経済的重要性を保ち続け、繁栄し続けたとされます。

国名エジプトの由来: メンフィスの名称は近くの第六王朝のピラミッド「メン・ネフェネル」に由来するという。メンフィスの主神は工芸の神「プタハ」といい、その神殿「ヘト・カ・プタハ」はギリシャ語の「アイギュプトス (Aigyptos)/全国土の意」の語源となり、転じてエジプト (Egypt) の名称を生んだと言われます。つまり、メンフィスの神殿の名がかなりの遠回りの末にエジプトの国名に転化した、のです。

宗教的にもプタハはメンフィス神学により特異な地位を占め、工芸の神として広く崇拝されました。 アレクサンドリア建設後はプタハの聖牛アピス信仰の中心地となり宗教都市の性格を強めたそうです。ローマ皇帝テオドシウスの異教禁止令(380)による神殿閉鎖が繁栄に終止符を打ち、イスラム時代にカイロの建設用石材をここから調達したため現存する遺構はわずかしか残っていないようです。

見学: 駐車場の広場で下車し、まずツアコンが入場券をまとめ買い、現地ガイドがカメラ撮影券(5ポンド)を希望者に購入してくれました。入口のすぐ右手にコンクリート製の建物がある。その中にラムセス2世の像が横たわっています。巨大なもので体長は15mもあり、2階の回遊式観察路から良く見ることができます。このラムセス2世像もラムセス中央駅の立像のように立ったものだったのでしょう。しかし足の部分などがかなり傷んでいます。1〜2階から鑑賞して写真を撮ったら外に出るしかありません。ラメセス2世とも言われるこのファラオについて簡単に書いておきましょう。古代エジプトの実力者ファラオだったようです。

ラムセス2世(Ramses II):  古代エジプト第19王朝3代目の王。在位は長く前1290頃〜前1224年頃。 治世第21年にはアナトリア(小アジア)のヒッタイト王ハットゥシリ3世と平和条約(注:世界史上で初の平和条約)を結んで、権益の現状維持を図り、さらにはヒッタイト王女と結婚したとも言われます。 神殿とか葬祭殿を建造したほか、カルナックやルクソールの神殿を増改築するなどスケールに於いて歴代ファラオ中で首位のようです。自己顕示欲の強い人物で数多くのラムセス2世像が各地・各種の遺跡に残っています。今日のエジプトでも人気あるファラオの1人とも言われています。

アラバスター製スフィンクス: ラムセス2世の建物を出ると右方向が粘土の大きい広場になっている。1912年にヤシに覆われた丘の中から発見されたアラバスター製スフィンクスがその中央にある。エジプト第2の大きさとはいえ、高さ4m25、全長8mで、ギザのカフラー王のスフィンクスに比べ約7分の1の大きさしかありません。第18王朝アメンヘテプ2世の建造といわれ、プタハ神殿の南側の入口を守っていたとされているようです。
アラバスターとは日本名で「あられ石」になり、細かい鱗片状の結晶が集まった石なのでブラケットやシャンデリアのセード素材に使われこともあるようです。また博物館などのアラバスター製彫刻はたいていは少し透明な白い大理石のような感じです。それで綺麗な石のスフィンクスを想像していたのですが、地面と同じ明るい粘土色でした。洗剤でゴシゴシ洗うと白くなるのか、この粘土色が地色なのか、チト分りかねています。
ギザの大スフィンクスと違い、顔はそのまま残っています。やさしげな表情でした。

広場の一番奥には何か大きい立像がありました。近くに行かなかったのですが、ラムセス2世像の複製ではないか、と思われるものです。スフィンクスの左手には小さな土産屋がズラリと並んでいます。セールス活動も盛んでしたが、成果は左程でもなさそうでした。 メンフィス

09:30 ラムセス2世出発。

ダフシュールの赤のピラミッド
10:00 赤のピラミッド到着。
ダフシュールにはビラミッドが2つある。南に「屈折ピラミッド」、北に「赤のピラミッド」。共に、大ピラミッドを建てたクフ王の父親、スネフル王が建築したと言われます。我々は赤のピラミッドのみ訪れました。この訪問の価値を知るためにピラミッドの歴史を簡単に振り返ってみます。

ピラミッドの歴史: 最終的にギザの大ピラミッドの形となるまでに、ピラミッドには幾つかの基本的な変化があった。先史時代のエジプトでは死者を埋葬し土砂ので覆う習慣が既に生まれていた。前3000年頃から王朝時代に入り、日干し煉瓦を使用した腰掛型墳墓(マスタバ)が王室の形態として定着した。その上部構造は時と共に次第に大きくなった。
第三王朝(前2700〜前2600年)のジョッセル王のとき、サッカラに新型の墳墓が作られた。東西に121m、南北に109mのマスタバの上にマスタバを積み重ね、最終的に高さ60mで六段のマスタバが重なった形となった。これが有名なサッカラの階段ピラミッドである。後続の王達はこの様式を踏襲し、各地に階段ピラミッドを建築したのです。
第3王朝最後のフニ王はサッカラの南20kmの地メイドムに階段ピラミッドの建設を始めましたが、完成を見ずに亡くなりました。その子のフスネル王が第4王朝を開いたとされます。そして未完のメイドムのピラミッドをまず8段の階段ピラミッドとして完成させ、さらに段の部分を外装石材で埋め、史上初の純正ピラミッド(高さ92m、基辺144m、勾配51度53分)としたのです。フスネル王はさらにピラミッド建築を行い、まず2つの勾配を持つ屈折ピラミッド(高さ105m、基辺183.5m、下部勾配54度27分、上部勾配43度22分)、そしてゆるい勾配の赤のピラミッド(高さ104m、基辺220m、勾配43度22分)を完成させたのでした。共に他に例のない独創的ピラミッドと言われます。
そして、その息子のクフ王が神殿と王妃のピラミッドを伴うギザの大ピラミッドの形式に発展させたのでした。最後に「ピラミッド」なる呼称は、ギリシャの三角パンの名称が「ピラミス」であることに始まるとされます。

ガイドAさんの説明を聞いてから下車となりました。駐車場からピラミッドの斜面にある内部への入口まで道がついています。内部を見学する時間はタップリとありました。他の観光バスや観光客の姿はなく、我々だけ入口に向いました。内部の見学はせず、入口まで登るだけという約束でワイフも行きました。約30メートル登るのですが、砂漠が一望できて気分満点でした。大部分の人達は中に入りましたが、我々と数人が展望のみで、記念写真を撮影して下りました。

ピラミッドの途中で道は分れ、1つはバスの方向に、もう1つはピラミッドを斜めに下り隣の斜面との角近くに下ります。皆はバスの方向に帰りましたが、私はもう1つの道を1人で進みました。それを見たラクダの観光警察2騎が動き始め、ピラミッドの角で呼び止められました。「何処に行くのか?」と聞いたと思います。身振りで「トイレ!」と知らせると小い丘を手で示しました。その裏側で用を済ませましたが、砂の細かさと完璧な乾燥を実感しましたネ。ラクダの観光警察は待っていて、カメラを示し「写真を撮ってくれ。」 一緒に撮りました。ただし、ウーン、ムニャ、ムニャ、・・・。彼らと言わない約束をしたもので・・・、エーッ。$五

ピラミッド内部に入った人達も戻ってきました。皆さん、「入らなくて正解」と言っていました。狭く、腰を落としての歩行が大変だったようでした。その中をかなり下って又登るのです。その往復ですから・・・。実は、一晩越してから、膝、腰、大腿部が強烈に痛み出した人がかなり出たようです。カフラー王のピラミッド内部に入るのとは訳が違うようでした。 赤のピラミッド

10:40 出発。

昼食のレストランに向う途中、エジプトでも流行のコンピュータ学校の傍を通りました。数え切れない程の若者(男)が道路と正門内に集まっていました。2人が組み合っている姿がありました。暴力を振るってはいませんが、力ずくのもみ合いであることは分ります。他にもう1組ありました。他の連中は幾重にも取り囲んで真剣な顔で見ているだけです。ガイドのAさん曰く、「喧嘩です。多分、女性問題でしょう。」

名物ハト肉レストラン
11:20 道路沿いに飾りの水車と独特のハト小屋を見せているハト肉レストランに到着しました。単なるレストランではなく、奥はホテルにプール、中ほどに屋根だけのオープンレストラン、動物のいる芝生、パン焼き小屋、その他の施設がある。それなりの規模の店でした。

我々の飲み物は紅茶を注文、6ポンドでした。昼でもビールとかワインを楽しむ人も案外いるものです。ガイドブックなどによるとエジプトの外国人観光客にはハト肉料理が一番人気があるそうです。腹部にライスなど詰めた丸々したハト料理を写真で見ることが多いのですが、今回は開いたハトを焼いたものでした。量的に食べ応えがあるとは言えなくとも、味にクセがなく、マァ美味しいと言うか・・・、珍しさの賞味ができました。さすが、牛肉一切れも付いていましたネ。他は煮野菜、焼きトマト、チャーハン風ライス、パンでしたが、それなりの昼食で楽しめました。 ハト肉レストラン

食後、芝生に可愛らしい女の子が動物を引っ張ってきましたが、カメラを向けると「マネー?」という。モデル料を払う必要があるようです。さらに、パン焼き小屋でも同様で、パン作りを撮影すると小銭を置く必要があるようでした。風習の違いと言えばそれまでですが、違和感は感じます。ここまで来る団体観光客は少ないのか、タマタマそうだったのか、我々がいる間に他の来客はありませんデシタ。

12:10 レストラン出発。バスの中は「正露丸」の臭いが充満した。多くの人達がバスに戻ると直ぐこの丸薬を飲んだらしい。「こんなもの食っているんだ。下痢するよな〜。」と誰かが言った。私の事前調査と経験では日本の薬は効果なしだが、そこまで調べて来た人達は恐らくいないでしょう。団体旅行者の1/3位は下痢をするという事前情報はどうやら本当のようです。前もって経験済み、効果抜群の薬をトルコで入手していたので、私はお腹の変調も既になく、心配もしなくなっていました。

サッカラの階段ピラミッド(ジェセル王のピラミッド)
12:25 階段ピラミッド到着。赤のピラミッドで説明しましたが、エジプト古代のマスタバが純正ピラミッドの形に近づく最初のものがこの階段ピラミッド(東西約121m,南北約109m,高さ約60m)なのです。そして、この階段ピラミッドは砂漠にポツンとあるのではなく、かなりの遺跡を有するピラミッドコンプレックス(複合施設)として周壁に囲まれた広い敷地の中にあるのです。

バスを降りてから、周壁の左側にある入口から入り、太い石の柱が平行に並ぶ回廊を通り抜け、竪穴式の墓に行きます。この竪穴墓がここの見せ場の1つでした。深い穴の底に重い石棺を水平かつ正しい方向に安置する古代技術とは?紐で吊り下げて下ろしたのではありません。コロンブスの卵同様に答えは簡単でした。ただし、その労力たるや大変だったことでしょう。

この竪穴墓の場所は一段と高く、そして階段ピラミッドは古代には祭壇があった大広場の反対側にそびえているのです。ここが眺めの良い場所ですし、多少動くと記念写真撮影に最適なところが直ぐに見つかります。何枚か撮影して広場に下りました。古代遺跡の部材らしき石材などが置いてある広場を歩き、ピラミッドまで行きました。我々は広場を斜めに歩きましたが、土砂が嫌なら回廊からピラミッドまで板の道が設置されています。

近くで見る階段ピラミッドは日干しレンガの形は保たれていてもピラミッド自体はかなり風化が進んでいるようでした。でも、積み上げられた大型レンガの迫力もかなりのものです。右手は瓦礫化した遺跡のレンガがゴロゴロしているような処です。それでも欧米系の観光客は2〜3人のグループで裏側の遺跡までゆっくりと散策を楽しんでいる様子でした。ここだけではなく何処でも、欧米人観光客と日本人観光客の違いとして目にとまります。 階段ピラミッド

1人参加組みの熟年男性数人がロバをつれたエジプト人3人と日本語とアラビア語で何やら話しています。「ロバに乗らないか?」「幾ら?」「XXドルでピラミッド一周。どうだ?」「高い。半値なら?」てなところでしょう。お互いに分っていない。しかし、分っているようでもある。不思議なことに合意に達した。1人、Sさんがロバに乗った。ロバ引きは20〜30m程歩いて見せた。そこでSさんが降りかかったら、ロバ引きはSさんをおし止めて90度方向転換をした。そして瓦礫の山に入ろうとした。Sさんは慌てた。結局、ロバは止まり、Sさんは瓦礫の手前で急いで降りたのである。ロバ引きは笑っていた。
夕食時、Sさんは言った。「タバコ2本くれ、というので2本やってロバに乗った。」「ホント?たばこ2本だけ?」「うん。」 みんな沈黙した。しばらく後に誰かが言った。「あのエジプト人、もう日本人なんか乗せるものか、と思ってる・・・。」
やはり日本語とアラビア語の直接会話は成立しないのでは?

13:20 出発。

絨毯の店
13:30頃 絨毯屋到着。サッカラは絨毯の店が多く、ツアー旅行では必ず一軒に立ち寄ると言われています。エジプト人ガイド氏は、「絨毯で有名なのはトルコですが、エジプトのシルク絨毯もウール絨毯も品質では負けません。価格はエジプトの方が安いです。」

建物に入ると広い絨毯工房になっていた。若い女性が細かいシルク絨毯、中年女性は普通の絨毯織りを担当している。いずれにせよ、見学者向けの工房です。
広々とした展示場には実に多くの絨毯が展示されている。床にもアチコチで山積みになってるし、壁には天井から大型絨毯が吊り下げられ、その文様を見せ付けている。1つのコーナーはガラスで仕切られシルク絨毯のみ展示していた。天井から下げられたブルー系の大型シルク絨毯の色と文様が素晴らしいと思った。300万円という。交渉次第では200万円程度まで下がるかも知れません。日本なら500〜1000万円はする品でしょう。

実は、トルコのカッパドキアで絨毯屋に入ったのです。そこでは少なくとも5〜6人が購入し日本に発送の手続きをしていました。私もカッパドキア独特の文様の細長い小型絨毯を購入しました。この時はガイドに頼らず自分で半値まで値切りました。さて、その後の今日、このサッカラの店で絨毯を購入した人は1人もいません・・・。このグループの絨毯需要は満たされていたのです。
14:00 出発。

金銀細工の店 (再訪)
一旦はホテルに帰り夕食まで休息する予定だった。先日ギザの「金銀細工の店」に発注した加工品は出来上がったものをホテルで受け取るはずだった。しかし、その店に寄って受け取ることになった。私はヒエログりフ(エジプト古代象形文字)で自分の姓を彫ったタイピンを注文していた。それを受け取った。この品はエジプト以外で彫金しても意味がないので散財と思いつつ注文したのだった。小型、中型、大型のカルトゥーシュがあるが、ヒエログラフで私の姓を彫金してもらうには大型以外ではダメである。文字数が多いので止むを得ないことは分る。それでも出来上がったものは思ったよりヒエログリフが小さく失望しました。
しかも、タイ止めとしてより、札止めとして利用価値がありそうだった。ネクタイを挟む部分のマチが狭すぎて普通のタイには使えない。タイ止めの注文を受ける以上はもう少しタイピンの作りを研究して欲しいものです。
この金 (18K) のカルトゥーシュは 約10g で、使用された金の価格は日本で1万円程度と思われます。アラブ諸国での金価格は安いはずです。帰国後にカードの引き落とし金額をみたら、ウン万円でした。ヒエログリフの彫金など定形ですし、人件費の安い国なので工賃など知れたもののはず・・・。これが相場かも知れないけれど、値引き交渉後に想定していたものよりも妙に高いという印象は否めませんでした。
単なるエジプト旅行の記念なら、ラムセス2世などファラオの名を彫った小型のカルトゥーシュで十分かも知れません。これなら自分の目で確認したものを購入できるのです。

この店はツアー客の性に合っているらしく、再度の買い物をしている人も多かった。貴金属類の反対側コーナーは飾り盆などのエジプト土産が陳列してあった。土産品の棚にラクダの皮で作った小物類が置いてある。私の目にはいかにも売れ残りの感がするのだが、変ったデザインの財布を買いたい御婦人がいた。値切りが出来ないから通訳を頼まれた。「ヨーシ、やってみよッ。」 英語を話す店員は上司に何度も確認に行くはめになったが、英語を使っての交渉も面白かった。結局は粘り勝ちで半値近くになったのである。

私自身の購入品に関しては文句タラタラ。 しかし、普通の土産品などは他の店と比べて高いという印象はありませんでした。これは公平のため一応書添えておきます。

ホテル(休憩)
16:30頃 ホテル着。自室で休息。
19:00 ホテル出発。
「ナイル川 ベリーダンス ディナークルーズ: 
THE PHARAHOS(すべてのファラオ)なる凄い名の書かれたゲートと両脇の椰子の木の飾りがライトアップされていた。 古代エジプトの衣装をまとい奇妙な棒をもったエジプト人がいる。この門の前で観光客と並んで愛想良く写真を撮って貰う、つまりモデル役が仕事だった(チップ不要)。丁度夕食の時間なので続々詰め掛ける観光客との撮影に多忙を極めていた。暫く待たされたが、我々も記念写真を一枚デジカメにおさめました。

乗船用ブリッジの架けられた階にレストランはあった。入口の直ぐ右の窓際はデザート、離れた向かいの窓際にサラダ、中央に各種料理のテーブルが置いてある。料理の種類は豊富でテーブルもかなりの大きさだった。料理のテーブルの奥には10人くらい座れる大テーブルが2つある。一番奥の中央がショーの場所だった。そして両窓側に4〜5人用のテーブルがずらりと並んでいる。壁はエジプトらしい文様で飾られ、レストランのスタッフは古代エジプト風のコスチュームで雰囲気作りに貢献していた。こんな船上のレストランでした。

我々は中央の大テーブルで舞台の反対側に席をとった。窓際の席で奥から1〜2番目はショーを斜め後と横から観ることになり、良い席とは言えないでしょう。 すぐに夕食。飲み物はエジプト産の白ワインにした。ここはグラスワイン(18ポンド)なので量的に適当でした。料理はバイキング形式で各自好きなものを好きなだけ皿に盛る。この皿がエジプトらしい感じの模様だった。各種の料理を少しづつ皿に盛り、後でまた料理を少しとり、意外にも量をこなした夕食となりました。

20時50分頃からショータイム。まず女性歌手と5名位の楽器伴奏者が出演しエジプトの歌を聴かせた。その内に手拍子が始まり、熟年男性メンバーがエジプト人男性歌手とふざけて踊ったり、エジプト人女性歌手と日本人女性らが輪になって手拍子をとり、そして踊り、騒ぎ・・・。あまりの賑やかさに、左側前の窓際テーブルにいた欧米人観光客数名はデッキに逃げました。仰々しい表現をすれば、「黄禍論」の1例になりかねない。でも、我々のグループは皆さん乗りに乗って、大いに楽しんでいましたネ。

テーブルを離れデッキに行ってみました。船はナイル川を静かに航行中でした。ライトアップされたモスクのドームとミナレットとかカイロタワーなど大型の建築物がよく目立つ夜景でした。心地よいナイルの風に当たりながらカイロの夜の風景をボンヤリと眺めましたが、久々にロマンチックなムードに浸った素晴らしいひと時でした・・・。 しばらくしたら、呼び物のショーの開始となり自席に戻りました。

ベリーダンス(女性一人):  ベリーダンスはお臍を出した女性ダンサーの腹部と腰の独特な動かし方で有名なようです。しかし、臍だしルックなど珍しくないし、中年近くの脂肪のついたお腹では微妙な痙攣のような動きも僅かだったようです。それだけでも難しいのでしょうが・・・。マァ、初めて観た人間の批評など全く当てになりません。最初は女性ダンサー1人で踊り、スーフィーダンスの後は男性ダンサー2人が加わり3人でした。後のほうが3人の動きに少しユーモラスな面を感じて楽しめたような気がしますが、どうでしょう。
スーフィーダンス:  スーフィーの意味はイスラム教神秘主義の一派のようです。確定的な情報は無いのですが、トルコのコンヤという街に、イスラム神秘主義の一派、メヴラーナ教団がありました。これは旋舞を特色していました。現在はトルコ政府により禁止され観光用にのみ年末に公開が許されていると言われます。恐らくは往年のメヴラーナ教団の一部が形を変えてスーフィーダンスとしてエジプトに残存している、と勝手な想像をしました。
ここのショーとしてのスーフィーダンスは男性ダンサーが派手な色のスカートを身に付けて踊ります。止まることなく、クルクルと回りながら、スカートを道具にいろいろな芸を見せます。時には旋回しながらお客のテーブルを回り、そこでも笑顔で何やらやってみせるのです。期待していなかったスーフィーダンスの見事な旋舞に圧倒され息を止めて眺めることもしばしばでした。
ベリーダンス(女性一人と男性二人):  最初の女性ダンサーに男性ダンサー2名が加わり、3人のベリーダンスショーになりました。これでショーも全部終り、ディナーは散会となりました。 全体として賑やかに騒いで寛げる感じのディナーでした。日本人観光客に人気ある定番コースと言われますが、頷けます。 ナイル川デナークルーズ

急病人の発生:  私は気付かなかったのですが、食事が始まった直後の8時頃、ステージ右側テーブルの熟年女性が意識不明で倒れました。母娘の2人参加組の母親でした。直ぐレストランから担ぎ出され、病院に運ばれたそうです。この話が皆に流れた途端に、「保険に入っているだろうか?」という囁きがアチコチでしました。
翌日に明らかになったのですが、まずホテルの部屋に戻され、医師が呼ばれたそうです。直ぐに近くの病院に移動し入院となった。しかし、そこでは十分な処置が出来ないので、再度の移動で大病院に入院したそうです。 原因は脳血栓で、現在はICUに入っているとのことでした。なんとか意識だけは回復したようでしたが、たとえ一緒に帰りたいと言ってもこの状態では航空会社が搭乗拒否するそうです。ツアーからは離脱し、母娘共々数日後に帰国することになりました。幸い旅行保険に加入していたので、入院治療費はもちろんのこと、娘さんの延長滞在とか帰国の航空券などを含めて金銭上の負担は全くないとのことでした。

22:15 出発。バスでは「正露丸」の臭いが強烈でした。やはり腹の不調な人がいるようです。長旅の疲れも溜まる頃で色々あるでしょう。バスの中でツアコンから明日の予定を聞く。
22:45頃 ホテル到着。

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