バリ郊外ロワシーのホテル出発まで
04:55 起床。外は未だ暗闇だった。
昨夜、ワイフは背中の痛みがひどく、痛み止めをのんだ。幸い治まり元気だった。
05:35 パッキング終了。
05:50 朝食のため部屋を出た。
朝食(ビュッフェ・スタイル):
05:54 0階のレストランに入る。
朝食(ビュッフェ・スタイル)の食材は、コンチネンタル・スタイルと呼ぶべきか、種類が豊富とは云えないものだった。英国は朝食が主というが、フランスは逆に軽いとされる。で、これが普通かもしれない。
最初にオレンジジュース、メーンはハム2種類とゆで卵、パン類、フルーツカクテルにヨーグルトをトッピング、コーヒー2杯。残念ながらグリーン・サラダはなかった。でも朝食としては十分でしょう。
06:21 レストランを出る。部屋に戻る途中で屋内水泳プールに気が付いた。
06:45 スーツケース2個を廊下に出す。他の人達はもう出していた。
07:00 部屋を出て、フロントに鍵を返却するだけのチェックアウト。
ホテル前をデジカメ片手にブラブラする。カエデ類が見頃の紅葉だった。欧米人は日本人程に紅葉や黄葉に感情的な入れ込みはしないようだが、同じ風景でも紅葉の時期は明るく見えて楽しめるもの。今日はバス・ドライブでノルマンディーの風景を堪能するが、今年は異常気象のため極めて稀な素晴らしい発色ということでした。確かに夏は世界的な猛暑、秋はとても短く、急な気温の低下となっている。
しばらくは外の空気を吸い、ロビーに戻った。

バス移動(ロワシー → ルーアン) パリからルーアンの風景
5日間乗るプレミアム・バス
プレミアム・バスの前2列の座席表
今日から5日間はプレミアム・バス、これは定員29名、座席は縦に3列(2+1)、総革でリクライニング、前後左右の間隔も広く、楽なバスです。旅行保険の効かない最前列3席は除き、次から前2列の6席は添さんが毎日割当てる。座席表に名がなかったら、「御自由に。」 経験上は確かに前の席は揺れも少なく視界が広くて快適。でも、後部でも通常の観光バスよりかなり楽に思えます。
今日は外れ組、しかし中央より前の席に座れました。全員乗車でも18+1人で空席があり、ゆったりしています。
車内の飲食は原則としてダメ、ただし飴・ガム・蓋付きコーヒーはOKでした。

07:45 出発。
08:00 やっと朝らしい明るさになった。
08:45 これまでに2度も渋滞になり、ストップ&ゴーとなった。添さんは時々フランスの話をしていた。
  • 時差ぼけ(Jet Rag/Jet Fatigue)が完全に治るまで、時差の時間を日数に置き換えただけかかる。フランスなら時差−8時間で、体が十分に慣れるまで8日間が目安になる。
  • フランス人の朝食は軽い。カフェオレとバゲット(細長いフランスパン)程度で済ます。
  • クロワッサンは比較すると高価。そもそもはトルコの侵略を受けたオーストリアが原産で、トルコ国旗の三日月をパンにして食べたことに始まった。
  • 成田空港のツアー受付時に渡されたイヤホン・ガイドのテストがあった。
    • 電波は9チャンネルある。
    • 必要な時のみスイッチをON、切り忘れに注意。スイッチの長押しでOFF。
    • 予備バッテリーは添さんが持っている。
    • 1台2〜3万円。失くさないこと(→弁償)。
    • ガイドフォン使用中ははぐれる人が多いので気を付けること。
    • ガイドフォンの返却は帰路のド・ゴール空港でセキュリティ検査を通過したのち。電子機器を沢山持つと通過できない。
バスが順調な走りになると、大地がなだらかに起伏する広大な農村地帯となった。木々は黄葉が多く、今日は風景も楽しめる天候でした。

秋の収穫もほぼ終えたようで、所々に大きな根菜が長い土手状に集められていた。 収穫されたビート(甜菜)の山 この根菜はビート(甜菜/Beet)です。日本では砂糖大根とか赤カブともいうらしいが大根やカブとは別もの、北海道で栽培している。地中で1Kg前後まで成長し、12〜20%のショ塘を含む砂糖の原料です。世界の砂糖生産量の約1/3は甜菜から作られるという。特に欧州は砂糖の自給をめざし盛んに栽培するようです。
甜菜は地中海地方が原産で、大昔は家畜の飼料だった。18世紀の半ばにドイツで製糖法が見つかった。19世紀初頭の大陸封鎖によりナポレオンは栽培を奨励し、フランス北部にビート栽培が定着しました。この地方は酪農も盛んです。砂糖を抽出したカスは家畜の飼料として使われ、葉も食用になり、無駄のない作物のようです。
フランスの美味しいお菓子の甘味はこんな畑から、ですね。

10:10 ワイフは風邪をひき、持参の風邪薬をのんでいた。今日はマスクも着用している。
後日に添さんが説明したのですが、フランスでは自分が病気の時に他人に感染させないためにマスクをするとか。「風邪だ、近寄るな」と情報発信です。日本のマスク着用は自分が風邪や感冒に感染しないための予防が主目的とされ・・・、理由が逆さまです。

ルーアン旧市街 ルーアン旧市街
ルーアンのノートルダム大聖堂の側面 10:17 ルーアン市内を少し走り、旧市街にあるノートルダム大聖堂近くに到着でした。
道路を横切り、大聖堂の横の広場を通って正面にゆく。大聖堂のファサードは立派なものでした。
現地ガイドが待っていたはず・・・。しかし姿はなく、待てどもなかなか現れなかった。
10:36 やっと日本人の女性ガイドが現れた。ルーアン観光局にお勤めらしい。
2時間余のバス移動の後です。まずはトイレ行き。大聖堂横の広場の地下に公共トイレがあった。不要と云われたので、番人はいたがチップは置かずに出る。また大聖堂の正面に戻った。

ルーアン
Rouen
  フランス北部にあるセーヌ・マリティム県の県都、ウール県と共にオート・ノルマンディー地域圏を構成し、その首府でもある。人口は約11万4000(2007年)。パリから北西約120Kmのセーヌ河畔にあり、ローマ帝国時代からセーヌ河の水運で発展したが、その後ノルマンディー公国の首都にもなった。古来パリの外港として発展し、現在は石炭、石油、木材などの輸入と、パリやルーアンで生産される工業製品の輸出が行われる。伝統的な紡績工業に加えて製鉄、造船業などの重工業があり、石油化学工業の発展も著しい。
  旧市街には印象派の大画家クロード・モネ(Claude Monet、1840-1926)が30枚以上も描いたノートル・ダム大聖堂がある。1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた街であり、火刑の場だったビュー・マルシェ広場に面してモダンな作りのジャンヌ・ダルク教会とジャンヌ・ダルク博物館がある。日本でも『ボヴァリー夫人』などの作品で知られる自然主義作家フロベールの生誕地でもある。
ノートル・ダム大聖堂
Cathedrale Notre-Dame
フランス・ゴシック建築の代表作とされるが、4世紀のバジリック教会と11世紀のロマネスク様式の上に、1063年に着工し13世紀に大部分が作られた。完成は16世紀になるという。火災や戦争で絶え間なく修復された歴史をもち、袖廊の南北の扉口にある浮彫は14世紀ゴシック彫刻の傑作とされる。19世紀には印象派の巨匠モネが好み、大聖堂を30枚以上(33枚?)描いたことでも知られる。尖塔は151メートルの高さがあり、フランスで一番高い。
フランスではここだけ、現在も大司教が在住する大司教館が隣にある。
サン・トゥアン教会
Abbatiale St-Ouen
14世紀に建てられたノルマンディー最大宗派ベネディクト派の修道院付属教会ですが、大聖堂のように大きく見事な教会で、90枚以上もの素晴らしいステンドグラスがある。
サン・マクルー教会
EGLISE ST-MACLOU
ジャンヌ・ダルク教会
Eglise Sainte-Jeanne d'Arc
100年戦争も後半、イギリスは北フランスを支配下に納め、フランス国王シャルル7世は南フランスに押し込められた。少女ジャンヌ・ダルク(オルレアンの乙女)はシャルルを励まし兵士を勇気づけ、1429年にオルレアンを包囲したイギリス軍を撃破した。翌年になりブルゴーニュ軍に捕らえられ、宗教裁判で異端とされ、1431年に火刑(焚殺)に処せられた。1920年になりローマ法王庁はジャンヌ・ダルクを聖女に列した。それで今もって異端女かつ聖女とされる。
ジャンヌ・ダルクを祀っている教会は、火刑が行われた旧市場広場(Place du Vieux-Marche)に面して建てられている。外観はモダンで教会と思えないが、ルネッサンス期のステンドグラスがある。
裁判所
PALAIS DE JUSTICE
大時計台
Gros-Horloge
元々ゴシック様式の鐘楼とルネッサンス様式のアーチを持つ建物、 14世紀にルネサンス様式の大時計が付けられ、それは1928年まで休むことなく動き続けた。針は当初から1本。今も正確に時を刻んでいる。 時計台に登ると展望台としてルーアン旧市街が眺望できる。内部では13-14世紀の鐘や中世の時計の構造をしることができる。 この地域はカフェやブティックが集まる歩行者天国もあり、ノルマンディー独特の木骨組み多く、昔のルーアンの面影を良く残しているとされる。
ヴィユ・マルシェ(古市場)広場
PLACE DU VIEUX-MARCHE
1431年5月30日に教会から異端者とされたジャンヌ・ダルクが火刑に処されたところ。広場の中央にある近代的な建物は、ジャンヌの霊をなぐさめるための教会。広場前の通りには鑞人形で当時を再現するジャンヌ・ダルク博物館がある。
ジャンヌ・ダルクの塔
13世紀、フランス国王フィリップ・オーギュストが築いた7つの塔を持つ城郭だった。その塔の1つにジャンヌ・ダルクが幽閉され、1431年5月9日に拷問を受けたことで知られる。
ルーアン美術館
MUSEE DES BEAUX-ARTS
陶器美術館
MUSEE DE LA CERAMIQUE
ル・セック・デ・トゥルネル博物館
MUSEE LE SECQ DES TOURNELLES
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参考サイト:
フランス観光開発機構 → ルーアン
ROUEN ルーアン
Rouen Travel Guide (英語)
日立デジタル百科事典DVD版→ルーアン
ルーアン市内ガイド地図 (現地で入手)
クロード・モネのアトリエ:
「印象派」の名称の発端となったのがクロード・モネ(1840-1926)の名画 『日出』 という。そのモネが連作として描いたテーマの1つがルーアンのノートルダム大聖堂だった。たしかに大聖堂は堂々たるもの、見事なファサードと尖塔です。正面入口部分のレリーフ類は極めて評価が高いそうです。

10:45 大聖堂正面の向かいに古い建物があり、今は1階にルーアン観光案内所がある。昔は税務署だったが、モネの時代は「ラ・カプリース」という店だったともいう。ルーアンでは最古のルネッサンス建築とされます。
モネはジヴェルニー(Giverny)を本拠として活動していた。この頃の特色は3テーマの連作「積みわら」、「ポプラ並木」、「ルーアン大聖堂」を制作したことにある。
1892〜93年にはノートルダム大聖堂の真向かいの現・観光案内所の2階をアトリエとして使った。ルーアン大聖堂のファサードは朝から夜まで時々刻々と光と色が変わる。それをキャンバス上で表現するための努力をここで傾注した。1年余で33枚ともいう大聖堂正面のみ描いた連作油彩画を残しました。しかし、天才モネにとっても困難至極の仕事だったらしい。多くはルーアンで完成に至らず、ジヴェルニーに戻ってから記憶をたどりながら仕上げた、という。初めての発表は20枚のみ、1995年のことだった。

注: モネは1883〜1926年はジベルニーという町に住んだ。43歳からの半生を庭とアトリエのある邸宅で過ごし、庭仕事で過ごす事も多かったという。有名な大作シリーズ「睡蓮」はその庭の池がモデルだった。

話を観光に戻します。現地ガイドさんに先導され、モネの仕事場だった2階の部屋に入った。大きなガランとした部屋ですが、窓が沢山あり明るい。窓辺にはイーゼルにカンバスが一組置かれている。モネの大聖堂の模写です。

検索エンジンの画像検索でキーワード「モネ 大聖堂」を入力すると、モネが描いたルーアン大聖堂の油彩絵が数多く表示される。パリのオルセー美術館には並べて3枚も飾られているらしい。(2010.12.09現在)  



ノートルダム大聖堂
(Cathedrale Notre Dome): 
10:56 大聖堂の中に入る。もちろん、脱帽。外観に劣らず荘厳な雰囲気でした。特に数多くのステンドグラスが見事ですが、どういう訳か正面の内陣の最上部の窓と入口上部(パイプオルガン背後)のバラ窓は共に透明に近いものでした。採光でしょうか?側面の入口上部には見事にカラフルなステンドグラスの大バラ窓がありました。
内陣は「スゴイ!」としか言いようがないステンドグラスに取り囲まれている。その中には、ステンドグラスの写真と説明文を付けた看板を置いてあるもののすらあった。フランス語のみで分かりませんが、由緒ある名作なのでしょう。

大聖堂には歴史上の人物の墓が礼拝堂の周囲や地下にあるのが普通です。 ルーアンの大聖堂にはノルマンディー公国初代の王ロロン(Rollon)、英国王のノルマンディー公(duc de Normandie)やリチャード獅子心王(Richard the Lionheart)の墓がある。英国王の墓碑がどうしてフランスに? 北方系ノルマン人が住み着いたノルマンディーのこと、その長が英国王になったり、逆に英国がノルマンディーを領土としたり・・・。フランスの盾となったノルマン人と英国の勢力争いの名残でしょう。(注:ノルマン=ヴァイキング)

11:16 中央左側、書店の階段(The Bookstore's Staircase)という見事な石の階段を見ながら大聖堂の北側に出ました。そこも素晴らしいゴシック建築でした。精細に造られた外壁と窓、真ん中にはバラ窓も見えた。鉄の扉は茶色、その前には細く高く立つ人物の彫刻まであり、均整美を感じました。
周囲は旧市街、狭い石畳の道があり、木組みの古い家が多い。中には各階の外壁が末広がり、断面はギザギザの波型になる珍しい構造の木組み建築もある。フランス独自の木組み建築とききました。
大聖堂の敷地沿いに歩いて西の正面に向かった。途中は工事中だった。大聖堂正面の手前に商店街がある。
大時計(Gross-Horioge): 
中世の面影を残した歩行者天国の賑やかな商店街(Rue du Gross-Horioge)を歩いた。途中に道をふさぐ城門風の塔がある。元々は鐘楼だったらしい。下部はアーチの潜り抜け、前面と後面の中央にルネサンス様式とされる大時計、3階があって屋根です。中は小博物館になっているという。

これがルーアン名物の1つ、大時計塔です。金色に輝く大きな時計は、「正確に時を刻む」と言うが、実は針が1本で、短針のみ。正確な時刻を読みとるのは難しく、我々常人にはアバウトです。時計塔や大時計は欧州のあちらこちらにあるが、グラーツのも変わっている。そこも当初は短針のみだったが、後に長針が付けられた。ところが長針が時で短針が分を示す。意図的なのか分からないが、変わった大時計に出会います。
潜り抜けのアーチに羊のレリーフが幾つかあり、これも知られたものなのだそうです。

時計塔を通り抜け、商店街をさらに先に進む。すごく古びた梁に1630年と彫った建物もある。日本なら江戸時代初期のもの、こんな古びた処も見せているが、1階は改装され現代風の宝飾店でした。
市場: 
11:33 花屋さんなどが並ぶ市場前の小広場についた。この辺りは旧市場広場/ビュー・マルシェ広場(Pl. du Vieux Marche)というらしい。歴史的に重要な場所の1つです。

その縁にはテントの店が並ぶが、マーケットは屋根付き、欧州では時々ある鉄とガラスで作られた床面積の広い建物です。中には果物、野菜、海産物、ハム、ソーセージ、チーズ、等々専門店が数多く並んでいる。フランスの都会の肉屋は日本の精肉店と違い、牛肉・豚肉・鳥肉など種類別の専門店に分かれることが多いという。ここでも鶏肉専門店やソーセージ専門店に気付きました。
我々観光客は、申し訳ないが、買物はできない。珍しい食材などを見たり、日本との値段を比べたり、ルーアンの人々の暮らしの一端を知る事はできました。
慣れているのか、店の人達は気にもしていない様子です。

マーケットから出る。旧市場広場は、英国との100年戦争でフランスを勝利に導いたとされる聖ジャンヌ・ダルクが1431年に19才の若さで火刑台に散った場所である。1920年になり聖人位が与えられ、聖ジャンヌ・ダルクとなった。マーケットの隣には、低い大きな屋根とガラスの外壁をもつ教会があった。あたかも市場の屋根と同じ色で一体化しているようにも見える。

ジャンヌダルク教会
(Eglise St. Jeanne d'Arc): 
1979年に完成したジャンヌ・ダルク教会は現代建築です。中に入ると16世紀のステンド・グラスが多くあり綺麗だとききました。建物の外には白と紫の菊の花に囲まれた聖ジャンヌ・ダルクの像がある。近くでは先生に引率された小学生らしき子供達がピクニックのランチを食べていた。

11:40 教会の前は生憎と工事中でした。遠方から1476年開業という古いレストランの外観を眺めて、バス乗場に向かいました。狭い石畳の道でした。

11:48 すごく古めかしく奇怪とも云える外観の教会にきた。外壁の汚れや傷みもさることながら、奇妙な動物の彫刻が数多く外壁から飛び出している。首を長く伸ばして口を開けている様子は不気味でもありました。その意味は分かりません。フランスはカトリックが主流でプロテスタントは数%とされますが、この教会はプロテスタントになるそうです。教会名は?

教会の裏側でバスに乗車でした。
少し後のことですが、バス車内で添さんが 「ルーアン市内ガイド地図・2010年版(日本語)」 をグループに1冊づつ配った。便利なガイド地図です。

それに載っている話です。
ノルマンディー高等法院裁判所は 『 中世の終りを告げるゴシック市民建築の傑作。1306年ユダヤ人強制退去の後、ユダヤ人地区を壊して建設されました。(後略)

当時のフランス王フィリップ4世(1268-1314)は財政難に苦しみ、1296年にローマ法王庁への献金を禁止、1306年に国内の全ユダヤ人を逮捕し財産を没収した上で国外追放にした。ルーアンにもその事例が残っているのです。
話は逸れますが、フィリップ4世は次にテンプル騎士団の膨大な財産を狙った。通常の裁判では有罪に持ち込めない。意のままになるローマ教皇を説得し「異端裁判」で有罪とした。テンプル騎士団は崩壊した。当時の教皇はフランス人のクレメンス5世(Clemens V/在位:1305-1314年)、教皇庁をアヴィニョンに移転し「アヴィニョン捕囚」を開幕した人物です。アヴィニョンは後日に訪問します。
元に戻ります。国を持たなかったユダヤ人への迫害は、20世紀のナチスが記憶に新しいが、歴史の彼方とは云えフランスでもあったのですね。
その後は1492年ころのスペインでしょうか? 大昔はキリスト教国のアチコチであったように思えます・・・。

バス移動(ルーアン → オンフルール) ノルマンディー広域地図、Ref.11から借用
11:50 バスに乗車、すぐ出発。
車内での添さんの話・・・。
  • 先述のルーアン市内ガイド地図が配付になる。
  • ノルマンディーはワインは生産しない。代わりにシードル(Cidre/リンゴ酒/4%)。
  • チーズを土産にするならカマンベールが無難。ノルマンディー産は濃厚でクリーミィー。ただしセキュリティでは液体と見なされる時があり、スーツケースに入れて帰国のこと。
  • 名物菓子マカロンも液体と見なされるケースがあった。
  • 木に丸い固まりが沢山付いたものがあるがヤドリギの一種。
フランスのヤドリギ(車窓) ヤドリギ:  郊外や山野の走行中、落葉した木々に付いた大きなボール状のものがとても目立つ。当初は鳥の巣と思った。しかし緑がかっているので違う。これは常緑のヤドリギ(mistletoe/英:Viscum album)。ポプラやリンゴや樫など特定の落葉樹の幹や枝に寄生し樹液を吸って生きている。欧州ではフランス以外にも分布する。晩秋から早春の間は寄生する木に葉がないので目立ち、パリからモンサンミッシェルの道中で気付いて珍しく感ずる日本人も多いようです。
フランスでは”Gui(ギィ/ギー)”と呼ぶらしい。初冬に白くて丸い真珠のような実をつける。クリスマスの頃、玄関などに飾る習慣がある。これは英米でも見られるという。
インターネットで調べるとヨーロッパでは古代から何かと云い伝えがある植物のようです。フランス在住の方々が宿り木 Gui について写真付きで情報提供されています。例えば、

神秘の植物:ヤドリギ|裏ライフスタイルinフランス
フランスの新年
宿り木のリース-BEAU & BON
無断リンク、リンク切れはご容赦願います(2010年12月)。

ついでながら、日本にもヤドリギの亜種があるようです。

昼食(オンフルールのレストラン) 昼食(オンフルール)
12:50 オンフルールを少し走り、町はずれの昼食レストランに到着。外観は古びたもので2階建ながら大きさを感じさせないもの。看板は Hotel Restarant, LeBelvedere となっている。
2階にあるレストランは通常でしょう。純白のテーブルクロスの上に赤いクロスを45度ずらしてかけ、さらにランチマットがあり、その上にナフキンやナイフ・フォークのセットだった。

籠入りのパンはバゲットの斜め切りだった。飲物はガラス徳利みたいな容器ででるシードルを注文、2人で1本のシェアーです。最初の料理はグリーンの葉物とトマトにチーズと赤いソースだった。次にノルマンディー名物、蕎麦粉(Buckwheat Flour)のクレープで作った「ガレット」でした。何を包んでいたか記憶に無いが、ハム等の肉類や鶏卵やチーズを入れるのが普通らしく、似たものだったはずです。細かく区別すると、クレープは両面焼きでガレットは片面焼きらしいが・・・? デザートは物凄く甘いミレンゲでした。シトロン代 E3.00 を払って席を立った。全体的に味が良いランチだったと思います。

ついでながら、日本では蕎麦の食べかたは多いが、細長い麺で食するのが一番ポピュラーです。各国でもいろいろな料理の素材に使われるらしいが、むき実をお粥にしたり、そば粉をパンやクレープする例が多いといいます。例えば、フランス(ガレット/ブリニ)、ロシア(カーシャ/ブルヌイ)、イタリア(パスタ)、イギリスやポーランド(プデイング)、中国(煎餅/湯餅/他)、朝鮮半島(冷麺)、ブータンやネパール(そばがき/パン)、等々。全体的には小麦粉が大主役で蕎麦はわき役でしょう。

そば学入門その十四「世界のそば料理」
世界の蕎麦料理
Wikipedia 蕎麦
無断リンク、リンク切れはご容赦願います(2011年1月)。

ワイフは風邪の症状が治まらず、食後に風邪薬を飲んでいた。熱はないが・・・。
13:45 坂道を少し下りながらバスに向かった。小高い場所だったので途中でノルマンディー橋とオンフルールの町並みが見えました。昼食レストランの屋根の上にガラス張りの望楼があるが、そこからの眺望は楽しめるものでしょう。

オンフルール観光 ○○○
サント・カトリーヌ教会、フランスで最も古い木造教会
オンフルール
Honfleur
  パリを流れるセーヌ川の標高は僅か26m、セーヌの流れはパリから河口までの中間点で蛇行が大きく多くなる。河畔の町ルーアンから河口のキルブフまでは感潮河川であり、キルブフからは巨大な三角江(Estuary)となり、右岸(北)に大貿易港ル・アーブル、左岸(南)には古い港町オンフルールがある。パリから西に約200Kmです。
  オンフルールは人口は約8200人(1999年)の小都市でカルヴァドス県に、そしてバス・ノルマンディー地域圏に所属する。オンフルールは長大かつ優美なノルマンディー橋(1995年完成)で対岸のル・アーブルと結ばれている。
  小さな町ながら、15世紀に建造された木造のサント・カトリーヌ教会と尖塔など港を中心に歴史的建造物も多い。オンフルールは大航海時代に多くの船乗りを輩出したが、1608年に北米のセント・ローレンス川流域にケベック植民地(現ケベック)を築いたサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)もここから船出しました。
サント・カトリーヌ教会
Church of Sainte-Catherine
  町のシンボルとなった木造教会、経済的な理由で船大工たちが造船の知識や技術を駆使して木材で教会を建てましたが、今日ではフランス最大の木造教会といわれます。さらに別棟には15世紀末に建立の木造の鐘楼もあり、塔の下部は鐘つき人の住居だったとされる。現在は美術館として公開されている。
旧ドッグ
Vieux Bassin
  17世紀にルイ14世の財務長官コルベールが作らせた旧港は今日でも漁船やヨットで賑わいをみせる。旧港の西側はサント・カトリーヌ河岸(Quai Ste-Catherine)で東側はサン・テティエンヌ河岸(Quai St-Etienne)、色彩豊かな家並みにレストランやカフェテラスが軒を連ね、趣のある界隈になる。
サン・レオナール教会
EGLISE SAINT-LEONARD
15世紀末から16世紀にかけて建造された教会。
ノルマンディー橋
PONT DE NORMANDIE
1995年1月、オンフルールとル・アーヴルを結ぶノルマンディー橋が開通した。それまでオンフルールからル・アーヴルは車で45分だったが15分に短縮された。 橋の長さは2143m、支柱間の長さは856mもあり、ケーブルは184本、斜張橋としては世界最長にとして完成した。構想に16年、建設に6年、風速80m/秒の風圧にも耐えられるよう設計されている。デザイン的にも優れ、常にライトアップされている。
サティーの家
LES MAISONS DE SATIE
1866年にオンフルールで生まれた作曲家サティーの生家が1998年より「サティーの家」として一般公開されている。
ウジェーヌ・ブーダン博物館
MUSEE EUGENE BOUDIN
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参考サイト:
フランス観光開発機構 → オンフルール
Wikipedia → オンフルール
Things to Do in Honfleur(英語)
In Honfleur, the Essence of Normandy
旧ドック:
13:52 セーヌ川の外港近くの駐車場から車道を渡り、市役所前を通って旧ドックに行く。
”旧ドック”というと造船所を思い浮かべるが、現在はセーヌ川の外港から短い水路で繋がった長方形の内港、1668年に陸地を掘って造られたものという。当時は造船所があったとされる。現在はヨット・ハーバーで、数多くのヨットが係留されていた。その周りは石畳の道、そしてレストランやホテルが取り囲んでいる。趣があり絵になる風景です。
吊り上げ橋:
旧ドックと外港を結ぶ水路に架かった鉄橋を渡った。車道と歩道がある幅広い頑丈な橋です。その構造から、跳ね橋でも、横向きに回転するものでもない、と思える。しかし、旧ドックには高いマストのヨットが多く係留され、セーヌ川との往来が出来るのです。幾ら考えても、装置が見えないので橋を動かしヨットを通す方法が分からなかった。
注:英語サイトでは吊り上げ橋(Drawbridge)としている。定まった時刻にクレーンで持ち上げる?それとも、橋の付根に強力な回転装置があって橋の先端を持ちあげ水路を開くのでしょうか?
リューテナンス:
吊り上げ橋の先にはすごく古びた石造りの建物があった。リューテナンスという昔の砦の一部らしい。大航海時代にカナダのケベックにフランス植民地をつくったシャンプラン(Samuel de Champlain)はここから北米大陸に向けて出航した。それを示す記念碑(煉瓦の柱面に説明板)があった。
1604年にシャンプランによってカナダで最初の定住植民地ができ、1608年にはケベック市の石据がつくられたとされます。ついでながら、現在のケベックはパリに次ぐフランス語を用いる大都会になるそうです。
聖カトリーヌ教会と鐘楼:
建物に挟まれた細い中世の坂道を少し上る。車道があり、その向こうに古い木造の教会があった。ここから見える部分は主祭壇の外側、入口は反対側になる。教会の右側に沿って進むと、これもまた相当な古さに見える木造の鐘楼があった。ゴシック様式というが、独特の姿で印象に残る。塔の中程に2針の大時計がある。確かに動いているが、時刻は?でした。気にしないのでしょう。

教会内は奥行きのある礼拝堂です。両側面の高所に採光窓が多くあり、同じ木造でも日本の古寺のような暗さはない。屋根を支える太い木柱や信者用の椅子が並ぶのは教会そのものでした。入口の上部にパイプオルガン、一番奥は主祭壇、そこも大きな窓で明るくなっている。船大工が作った建物だけあり、天井は船底のように見える。実は100年戦争でここの教会が破壊されたが、資金も石材もなく、港の船大工達が協力し合って建設し、教会に寄付した建物といわれます。

主祭壇には十字架のキリスト像が明るく照らされている。それはよいが、祭壇の前にはオレンジ色とイエローの菊らしき花が2鉢づつ飾られ、右端には白バラがあった。
キリスト教会と菊の花:
余談ながら、人によっては”縁起でもない”話です。昨年12月にマカオのセント・ドミンゴ教会に行きました。小さな祭壇に一対の黄色い菊の花が置かれていた。キリスト教会は菊ではない別の洋花を飾る(例えば、バラ)、と思い込んでいたので驚きでした。
ところが、先に寄ったルーアン大聖堂の主祭壇にも菊花が供えられ、ジャンヌダルク像(教会の外側)は周りが白と紫の菊の花で飾られていた。ここ聖カトリーヌ教会でも主祭壇に菊花の鉢植えが4つも飾られている。白バラも1鉢あったが、菊が主に見えます。

簡単にオンライン調査をしてみたら、フランスを含め他の幾つものヨーロッパ諸国で白菊が墓参に用いられているようです。ヨーロッパ文化圏では教会や墓地での菊花の使用が少しづつ増えているような感じすらしました。日本と違い、切り花ではなく鉢植えです。逆に、白い菊は贈り物には使わない、とされるようです。

日仏共通、お墓には菊
パリ旅行〜10月28日モンマルトル墓地編〜
ドイツニッキ(写真)祭壇に祭られているのは菊の花
無断リンク、リンク切れはご容赦願います(2010年12月)。

生活に結びついた習慣は分からない事も多い。写真付きの現地報告は信頼しやすいが、同じ国でも地方や宗派により違ったりする。今回の旅行では南フランスの教会では菊花を見なかったように思います。いろいろ参考に、状況を推察してください。
ついでながら、菊は中国原産らしいが、中国から欧州に入った種類より、かなり後に日本から欧州に入った改良品種が好まれて栽培されるようになった、という説があります。真偽は分かりませんが・・・。何れにせよ、植物の品種改良はお手の物のヨーロッパ、時間の経過と共に当地で好まれる菊に変化しているのでは?
自由行動:
14:15 聖カトリーヌ教会を出ると、解散。「バスで集合、15時出発」です。
教会前から右手の狭い坂道を下った。両側にはいろいろな店が並んでいる。冷やかし半分でウィンドウ・ショップを楽しみました。元々買い気はない・・・。
旧ドックの奥に出た。こちら側からも良い眺めです。
左側の道に沿ってレストランやホテルの前を歩いてリューテナンスの前を歩き、跳ね橋を渡って駐車場に戻った。ノルマンディーの古き小さな町の散歩、特別に楽しいということはないけれど、良い雰囲気で満足感がありました。
これからモンサンミッシェルまで走る。駐車場近くの公共トイレに寄ったが、無料でも清潔でした。
14:50 乗車。

バス移動(オンフルール → モンサンミッシェル) 車窓の風景

15:00 出発。街中を少し走った。
15:07 見事な形のノルマンディー橋(2143m)を見ながら高速道路にのった。この斜張橋のお陰でセーヌ河口の対岸にあるル・アーヴルとオンフルフールが近くなったそうです。バスは逆方向に走るので渡りません。

序ながら、2012年現在、斜張橋の中央径長(柱の間隔)の順位は、中国の径蘇通長江公路大橋(2009年完成)の1088m、日本の多々羅大橋(1999年完成)の890m、フランスのノルマンデー大橋(1995年開通)の856m、の順のようです。(2012.06.29 追記)

クロード・モネは対岸の町ル・アーブルにて 『印象、日の出(1873年)』 を描きました。当初の評判は良くなかったらしいが、今日では印象派の発端とされる有名な絵です。パリのマルモッタン美術館で見れるそうです。

ウトウトしたり、車窓の田園風景を眺めて過ごすだけでした。なだらかに波打つ大地では収穫の最中の畑もあった。フランスは食糧自給国(111%、2007年)、農村の風景から何となく納得でした。パリからの農地は大規模です。
16:40 トイレ休息。 ワッフル 塩キャラメル、円形木箱入り
その店でワッフル(E4.00)と塩キャラメル(E3.00)を買ってみる。旅行中に食べるつもりだったが、結局は持ち帰り、家で楽しみました。他に、ワイフは夜に食べるリンゴを買った。形や色は日本のリンゴと少々違って、小型でしたね。
17:00 出発。
17:05 太陽は沈み始め、西の雲の隙間が茜色になりはじめた。
そして、遥か遠くにモンサンミッシェル修道院のシルエットが小さく見え始めた。

何故か分からないが、日本人の行きたい観光地のトップにモンサンミッシェル修道院が選ばれるようになってから久しい。そしてトップの座を守り続けているらしいのです。宗教的な理由ではなさそうで・・・?
パリとモンサンミッシェルの間には印象派画家で有名な町などがあり、歴史的にもノルマンディーは英仏が交わる特異な地域と云えます。風景は農業大国でもあるフランスらしいし、パリから適当な距離だけ離れた観光地ということかも知れませんですね。

近付くにつれ、羊が群がっていたり、牛牧場だったり・・・。見えつ隠れつ、モンサンミッシェル修道院がだんだんと大きくなってゆく。
バスは修道院の手前の村まで走った。

ホテル・ヴァート(Hotel Vert/モンサンミッシェル) ホテル・ヴァート/モンサンミッシェル
モンサンミッシェル村のホテル・ヴァート
17:35 モンサンミッシェル村の道でバスを降りた。ここは「レ・ポルト・デュ・モン・サン・ミッシェル村」なる長い名称の観光用ミニタウンで、モンサンミッシェル修道院の観光基地となっている。
土産店とレストランの間を少し奥に行くと小さなホテルがある。Hotel Vert と Motel Vert そしてコテージを経営しているが、フランスの大きなホテル・グループのメンバーらしい。
ロビーも狭いが多少の椅子とテーブルはあった。しばらく待たされる。
17:50 部屋割りが決まり、我々は110号室だった。部屋の鍵と一緒に夕食と明朝のメモが渡される。それによると、朝食レストランは「−1階」となっている。これで「1階の下」の意味らしくフランス流の0階でした。
モンサンミッシェル村の地図
地図はクリックで拡大できます
17:55 入室。部屋は狭く、ベッドもシングル2つ、バスルームも実に小さくまとめられている。清潔なのが救いでした。長年のツアー体験でも、恐らく、最も小さな部屋と思いますが、覚悟していたので別に失望はありません。
ホテルの人がワイフのスペアー毛布を届けてくれた。チップとして1ユーロを渡す。
スーツケース2個の置き場を決める。私のは入口のドアー前に置く事にする。洗面所の出入りは足元に注意となった。
何とか落ち着き、ゆっくり休みました。
18:35 デジカメのみ持ってロビーにゆく。大半の人達は既にいました。
18:45 人数を確認し、斜め向かいのレストランに向かった。

夕食(La Rotisserie/ホテル別棟) 食事写真↑
ホテル別棟のレストラン
18:50 ”La Rotisserie”という店、同じホテルの経営です。
比較的広いダイニングでした。固まって座る。
まずは飲物の注文、ビール1つ(E4.50)にした。2人の間に置いてシェアー、つまりビールを時々チビチビ・・・。
パンは楕円形のものをスライスしてある。
最初はグリーンサラダ。サラダ菜、キュウリ、トマト、ニンジン、キャベツなど種類があった。旅行中のサラダは本当に助かります。
メーンデッシュは白身魚のノルマンダィー風煮込み、白いソースがけでした。付合わせはライスだった。夕食として量は少なめでも味は良かったと思います。
デザートはアップルパイ、といっても通常のアップルパイとは違う。フランス料理で出ることもあるパイの上にスライスしたフルーツを乗せたケーキにちかいものでした。
19:50 この頃にレストランを出た。

散歩:モンサンミッシェル修道院のライトアップ モンサンミッシェル修道院のライトアップ
モンサンミッシェル修道院の夜景 これから個人行動でモンサンミッシェル修道院のライトアップを見に行きます。適当な所まで自動車道を歩くが、村から出ると街灯はなく、少し先にいくと歩道すらなくなる。車に用心です。
夜景鑑賞のベスト それで運転手からよく見えるように黄色の蛍光チョッキを着ることになっている。ホテルに一旦もどって、フロントでその蛍光チョッキを借りました(無料)。日本なら交通整理や道路工事の人達が身に付けるものに似ています。

08:55 村から修道院に行く自動車道を歩き始める。村内は明るく、観光客が歩いていて淋しい感じはなかった。しかし、村をはずれると街灯はなくなり、天空の星が良く見えるようになった。
左にはクエノン川(couesnon)の暗い河原と川面、右も暗闇、ずーと先にライトアップされた修道院が小さく見えます。たまに夜景観賞を終えた人達とすれ違いました。しばらく歩いたら、歩道がなくなった。車はめったに通らないがヘッドライトで分かるので危険はありません。でも、車が去ると、シーンという音がする(?)本当の暗闇です。星は見えても星明りは左程はない。ワイフは次第に不安をあらわにした。「もう帰ろう。モンサンミッシェルのライトアップは見たし・・・。」 ライトアップ鑑賞と云っても展望台はないのです。適当に道路から眺めて帰るだけ。でも未だ修道院の写真を撮っていなかった。

20:05 数十メートル先に何かの標識が立っている。こんな光量不足の中では、モンサンミッシェル修道院の夜景は手振れする確率が高い。ワイフにその標識の所まで付き合ってもらった。デジカメを標識の支柱にしっかり押しつけ、ズームを効かせて修道院の写真を撮った。何とか見れる程度に撮れました。

帰りは満足感と夜の空気の冷えを味わいながらでした。時にはこれから見に行く人たちとすれ違います。
土産屋:

買う気持ちがある訳ではないが、ホテル近くの土産店(スーパー風)に入ってみる。棚は多く、商品も豊富だった。絵葉書を数枚選びレジに行くと、驚く程の行列が数本できている。皆さん日本人観光客らしく、当地の土産を沢山買っている。待ち時間が長いので諦め、絵葉書をラックに戻して店から出ました。

ホテル自室:
20:20 フロントで蛍光チョッキを返し、階段を上がって部屋にもどった。
直ぐシャワーだった。バスルームは狭いが、お湯の出が良くてサッパリしました。

21:10 この部屋に湯沸しポットはない。持ってきた旅行用ポットを使って湯を沸かし、カップの天麩羅そばをつくる。汁は飲まずに処分した。それからどら焼き1個とリンゴ。夜食としてはフルコースでした(笑)。
夜風にあたった為か私も風邪気味になった。夜食後にベンザブロック(黄箱)を3錠のんでおく。何せ風邪が生来の天敵なのです。

一日中、良く見歩きました。早々に休みました。
明朝の予定:
ウェイクアップ・コール(07:15)
朝食(07:30-):−1階のレストラン
荷物出し/ドア外側(08:15)
ロビー集合(09:00):個人精算は済ませること。
出発(09:15)
(注意) イヤホンガイドと傘は忘れないこと。靴は階段が多いので履きやすいもの。
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