ホテル出立まで
05:30 起床。
昨夜は寝付きが悪かった。やっと深夜過ぎに何とか眠れました。
疲れはとれたように思うが、起床したら目が充血している。止むなく点眼薬の使用でした。
06:17 ウェイクアップ・コールあり。
06:35 スーツケースのパッキング完了。
07:05 部屋から0階のレストランに向かう。
ヴァイキング朝食でしたが、グリーンサラダは未だ出ていなかった。適当にいろいろ皿にとり、最後にアメリカン・コーヒーをタップリと飲んだ。朝のコーヒー飲み放題はとてもよい。
07:45 部屋に一旦もどった。
08:05 忘れ物のチェック後、ロビーに降りる。
08:10 乗車。前2列は他の人達に割当、我々は後ろから3番目の右2席にした。

バス移動(リヨン → アヴィニョン) バス移動(→ アヴィニョン)
08:13 出発。今日はまず大移動、アヴィニョンまで230Kmあり約2時間45分のドライブです。リヨンもアヴィニョンもローヌ河畔の街、西の中央山地と東のアルプスに挟まれた谷をローヌ川は南に流れる。それに沿った道を南下です。
ホテルを出てからの産業の街リオンは通勤らしき人達が多かった。沿道にはプラタナス(Platanus)とポプラ(Poplar/Aspen)が目立ちました。建物は地方の中堅都市らしく新旧が入り混じっている。
ソーヌ川とローヌ川がリオン南部で合流し、ローヌ川として地中海に流れ下る。その川沿いをしばし走ったが、工場の大きな設備が点在し、バージらしき船なども係留されていた。リヨン市の南部で別の行政区ながら、大きくはリヨン地域の工業地帯なのでしょう。大昔のリヨンは絹織物の町だった。その伝統で今日でもいろいろな業種の工場が集積しているとされます。車窓の風景として日本的な工場の密度感は全くありませんが・・・。

追記 2013.03.18:  フランスは電力需要の75〜80%を58基の原子力発電機に依存しているようです。当然、全国に原子力発電所が分散していますが、走行中のローヌ川沿岸でも水蒸気を発する原発施設とおぼしきものを見かけました。オンライン調査では、ローヌ川の流域には6カ所、ロワール川流域(含む支流)に6カ所、ガロンヌ川流域2カ所、セーヌ川流域1カ所、その他6カ所 のようです。

西側には時々冠雪している山並みが見えます。中央山地(マッシフ・サントラル/Massif central)の東側に思えた。高山はなくとも(2000m以下)、大陸内部なので冷えやすいのでしょう。ただカルスト山地なので山々の高所では石灰岩が露出して白く見えるのかも知れないが・・・。
09:30 地上にツンツンと立ち上った糸杉(Cypress)が見え始めた。地中海沿岸の温暖な地方に多い木で、ヴィンセント・ファン・ゴッホも糸杉を描いた名画を残している。
10:00 休息。
エスプレッソ(E1.40)を1つ買って楽しんだ。味は満足でも、デミタスカップでは物足りない。もう少し飲みたかった。
10:20 出発。
大地がうねる広大な農村地帯をはしる。主にブドウ畑のようです。晩秋のこと、葉は黄色と茶色、中には真っ赤に紅葉した果樹もあったた。
オーバーハング状の巨大な岩山の頂に城(要塞/Citadel)があった。三方は自然の切り立った岸壁で防御力が高いのでしょう。でも昔のフランスに”兵糧攻め”作戦があったら・・・。
11:10 この頃にアヴィニョン市街地に入る。 しばしローヌ川に沿った道を行く。

アヴィニョン歴史地区、世界遺産 アヴィニョン
ローヌ川のサン・ベネゼ橋
アヴィニョン/アヴィニオン
Avignon
アヴィニョンは、フランスの南東部に位置する都市で、ヴォクリューズ県の県庁所在地、人口は約90,800人(2005年)。「南仏プロヴァンスの宝石」なる別称もあるようです。
アヴィニョンの特殊な歴史
ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス属領の主要都市だった。その後はフランク族の支配となり、共和制の都市国家の時代もあったが短命に終わった。1309年にローマ法王クレメンス5世(フランス人)が教皇座をアヴィニョンに定め、その後69年間に渡りフランス人の教皇が7代も当地で続いた。これを「アヴィニョンの捕囚(虜囚)」という。
1377年にローマ教皇とアヴィニョン教皇の分裂が起き、グレゴリウス11世はローマに帰還した。しかしアヴィニョンの教皇とその信奉者は1417年までアヴィニョンを教皇庁としたらしい。しかし、グレゴリウス11世はロ−マの法王庁にあり、アヴィニョンの町自体は南フランスの静かな地方都市に戻ったとされます。
短い間ながら事実上の「キリスト教界の首都」となったアヴィニョンには、教皇庁宮殿、プティ・パレ美術館(旧大司教館)など当時の建築が数多く残り、その辺りの地区はアヴィニョン歴史地区として1995年に世界遺産に登録されている。
教皇宮殿(Papal Palace)は丘の上にあり、1.5万平米の広大な敷地は高さ30mの石の壁で囲まれ、10もの塔をもち、大礼拝堂、裁判所や税務署、枢機卿や騎士団の居住区などがありました。外見上は宮殿というより城塞に近いものです。
サン・ベネゼ橋(Pont St. Benezet/the Saint-Benezet brigde/Avignon Bridge)は1177年にローヌ川に架けられた22のアーチを持った石橋。洪水でアーチが4つ残るのみの遺跡となっている。童謡『アヴィニョンの橋の上で』は有名。
ドン岩壁公園(Rocher des Doms)は教皇宮殿の北側にある要塞状の岩場で現在は緑の公園、その上にイギリス式庭園があり、テラスからはアヴィニョン市街やローヌ川を眺望できる。
プティ・パレ美術館は大司教館だった。フラ・アンジェリコやボッティチェリの「聖母子」を収蔵している。
時計台広場には14世紀に作られた機械式からくり時計が時を告げ、市役所と劇場があり、カフェが軒を並べる。
ポン・デュ・ガール(ローマ水道橋/世界遺産)は郊外にあが、見事に原型を留めていることで知られる。
参考サイト:
ウィキペディア → アヴィニョン
HotelTravel → アヴィニョン
アヴィニョン市観光局(英語)
アビニョン歴史地区
YouTube(アヴィニオンの法王庁)
Avignon, the City of the Popes
アヴィニョン市街に入ると立派な城壁(Avignon city-walls)が現れた。法王庁がローマからアヴィニョンに移動された頃、周囲に強固な城壁を巡らせ外敵の侵入を防いだ。その当時の城壁が現存するのです。
日本語ガイドブックや観光サイトではアヴィニョンの城壁に関する説明は詳しくない。で、10以上の英語サイトを読み、以下に簡単にまとめておきました。

城壁(Avignon city-walls):  当地に侵攻したローマ軍が早くも1世紀に城壁を初めて作ったが、その後に幾度となく破壊と再構築が繰り返えされたらしい。現存のものは14世紀半ばに教皇イノセント4世(Pope Innocent IV)が構築したものとされ、ドン岸壁の部分(岩山でローヌ川側は急峻な崖)を除いてアヴィニョン歴史地区を完全に囲んでいる。全長は4330m、内部は151ha、高さ8m程度のようである。35の塔と50の小塔が設けられたとされる。昔は深さ4m程度の水濠があり、7つあった城門は頑強な扉と跳ね橋で守られていた。(注:数値は資料で異なる。今は通用門は増え、水濠はない。) 防衛用の城壁ながら、しばしば洪水を起こすローヌ川の氾濫から町を守る防水壁の役割も同時にはたしていた、とする説もある。

大昔の事ながら、カトリックの教皇(法王)がこのような城壁を構築する時代とは、如何なるものだったのでしょう? 教皇庁宮殿そのものも要塞みたいです。キリスト教の世界で宗教改革が盛んになる2世紀も前のこと、欧州で宗教と政治が明確に区分されたのは何時だったのでしょうか?
日本でも歴史上は僧兵がいて、仏教の大寺院を守りました。織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)以後は宗教と政治(武力)は分離する傾向となり、豊臣秀吉による高野山僧侶の武装解除(1585年)や刀狩り(1588年)で僧兵は消滅した、とするのが普通のようです。

難しい事柄はともかく、観光的には見事な中世の城壁です。 城壁上の徒歩一周に関する情報を英語検索で探したが、見つからなかった。一般向けの観光周遊路はないかも知れません。

バスは城壁とローヌ川に挟まれた道を南に行く。ドン岩壁の下部に掘られたトンネルを抜けると見事な風景となった。

サン・ベネゼ橋(Saint Benezet's Bridge):  11:18 川の途中で途切れたサン・ベネゼ橋が右に見える。Saint Benezet は神のお告げにより、1177年からローヌ川に大きな石橋を作り始めた。完成は1188年という。アーチは22もあり、長さ920mで幅4mだった。しかし、17世紀の洪水で大部分が決壊し、アヴィニョン側の4アーチと対岸の橋塔が残存するのみとなった。ペストが欧州を襲った時代でもあり、修復できず今日に至った。残った石橋の中央部に小さなチャペルがある。
この橋は、有名な歌により「アヴィニョンの橋」とも呼ばれる。
陸上部のアーチの下は自動車道、それを通り抜け、少し先でバスを降りた。

徒歩でサン・ベネゼ橋近くまで戻る。フランス人はプラタナスの木が本当に好きですね。太くて大きいプラタナスの立派な並木道でした。車道を横切ると、城壁に縦長の門があった。
11:25 その門を通り、城壁内の歴史地区に入る。

パレ広場:  11:31 狭い旧市街の道をクネクネと歩くとパレ広場にでました。正面の右にゴシック様式の巨大な教皇宮殿が堂々とそびえ、隣の丘の上に金色のマリア像が目立つノートルダム・デ・ドン大聖堂がある。アヴィニョン捕囚の時代(1309-77年)には教皇座がおかれた歴史的な重要遺産です。
パレ広場の飾り しかし、それよりも、パレ広場の中心に巨大な象のアートがある。実に奇抜で、鼻1本で逆立ち。張り子で中は空洞でしょうが、外観からは重量感があり見事にユーモラスと云えるのです。1度見たら忘れない。芸術と云うかもしれないが、俗な面白さで観光客の興味を引くし、考えたものです。
広場を横切り、大聖堂前の坂道を上がった。坂道から広場の先に四角い形のペティト宮殿(Petit Palais)が良く見える。この宮殿はアヴィニョン大司教の住居だったが、現在はプティ・パレ美術館になっている。
坂道を登り切ったが、大聖堂を参観するのではなく、その裏側になるドン岸壁公園に向かった。

ドン岸壁公園の展望台:  11:41 小高い展望台からローヌ川とサン・ベネゼ橋の見晴らしはよかった。サン・ベネゼ橋の先は木々が生い茂る細長い川中島、その先の水面は木々の隙間から僅かに見えるだけだった。それから、なだらかな傾斜地の緑に家屋が広がっている。対岸の新町(Villeneuve les Avignon)、そこはアヴィニョンではなく別の行政区とされる。教皇がいた時代は高位の聖職者達(枢機卿/cardinals)がアヴィニョンの都市汚染から逃れるため好んで住んだという話もある。中世の高級住宅街だったのでしょう。
新町(Villeneuve)の高い場所に大きく立派な聖アンドレ要塞(サンタンドレ要塞/Saint Andre Fort)の城壁(Ramparts)がはっきりと見える。この要塞は、フランス王フィリップ4世(端麗王/Philippe IV(le Bel))がアヴィニョンの教皇と神聖ローマ帝国(962-1806年)に対する忠誠の証しとして築城したとされます。ここから良く見える城壁はベネディクト修道院と小さな聖アンドレの町を防衛するために作られたものらしい。
目を左下に向ける。木々と屋根のうねりから高い石造りの塔が1本突き出ていた。13世紀末にサン・ベネゼ橋の袂で橋の通行を管理する目的で建てられ塔、高さは39mある。観光客も塔に登れるようです。建設時のフランス王の名を冠しフィリップ・レ・ベル塔(Philippe le Bel tower)という。
ドン岸壁公園からは他にも湾曲して穏やかに流れるローヌ川や石橋、旧市街などが眼下に見え、なかなか良い眺めでした。好天気には遠方にアルピーユ山脈(Les Alpilles)もみえるそうです。
ネット上で見つけた古資料の絵によると、ドン岸壁公園の場所に風車が何機も描かれている。ローヌ河畔の開けた場所の岩山なので風があったのでしょう。現在、風車はない。

11:57 気持良い公園を散歩しながらペレ広場まで坂道を下って戻った。広場の角に細く短い小路があった。それを抜けると、時計台広場になる。

時計台広場:  11:59 時計台広場にでる。
広場の正面に大きくはないが均整の取れたオペラ座があった。ファサード上部に THEATRE とある。遺跡ではなく本物の劇場で、現在も音楽会などが催される。
隣は正面上部に時計があり旗を3本掲げた建物”HOTEL DE VILLE”があった。うっかりするとホテルと間違うが、オテル・デ・ヴィラはフランス語で”市役所”です。欧州の市役所は建物の大小は異なっても時計塔を持つものが実に多い。ここも大きな塔(写真ページ)があるが、広場の正面からは見えない。正面最上部の軒下に申し訳程度の時計を付けている。
広場にはメリーゴーランド(Carousel)もあり、休日や催事があると大変に賑わう広場ということでした。
建物を観ながら通り過ぎ、時計台広場から南に一直線に伸びるレビュブリック通りに入る。フランスは自転車がさかん、気が効いた自転車置き場もありました。残念ながら広場近くの大通りは工事でした。

レビュブリック通り:  この辺りに集合ということで一旦は解散になりました。
レビュブリック通りを適当にブラブラして過ごしました。商店街というかカフェなども多く、要はアヴィニョンの目抜き通りです。プラタナスの並木が見事な部分もあり、南に向かって行くと城壁のレビュブリック門に至り、さらに行くと鉄道駅がある。そこまでは行かなかったが、大通りは観光客や地元の人達で随分と賑わっています。昼食時なのでサンドイッチ店などは人垣でした。

昼食レストランは時計台広場から南に下った今居る場所の近くです。集合場所は時計台広場の南側でしたが、我々はラビデール美術館(Mvsee Lapidare)向かいの商店前で添さんが他の人達を連れてくるのを待ちました。広場に戻っても、またここまで来るのです。

待ち時間中のトイレ情報です。近くの小デパート風の店に入り、トイレを探したが見つからない。店員さんに訊ねると、「店内にないので斜め向かいのレストランに行きなさい。」 欧州は何処の国でもレストランやカフェでコーヒーやアイスクリームなどを買って借用するのが良いようです。今回は、教えられたレストランに行き、チップは多めのE1.00コインをレジに置いて出ました。「Thank you !」と云われました。(注:買わずの利用をいやがる店もある。)
12:35 合流。

昼食(アヴィニョン、街のレストラン) ランチ
12:38 レストラン(ラ・タトィユ)に入る。街の小ホテルの1階です。
細長いパン(クッペ?)がテーブルの各席に1個づつ置いてあった。飲物はビール(小)、シェアーです。この店は日本人ツアーがよく利用するらしく、飲物メニューは手書き日本語で分かり易くしてあった。
食事は、サラダ代わりのオードブル、子牛のミートローフ、袋入りスイーツ、ケーキ。
量的に本当にヘルシーでした。
13:38 レストランを出て、バスまで歩く。
13:40 乗車。アヴィニョン観光もこれで終り。

ポン・デュ・ガールに向かう: 
13:45 出発。
少しの間はアヴィニョンの城壁を見ながら走ったが、その内にローヌ川を渡る。橋の上から遊覧船の船着き場も見えました。
14:15 ポン・デュ・ガールの駐車場に到着。

ローマの水道橋「ポン・デュ・ガール」、世界遺産 ローマの水道橋ポン・デュ・ガール
ローマの水道橋、ポン・デュ・ガール」
ポン・デュ・ガールとガルドン川
南フランスにはローマの遺構が数多く残っているが、原型を良く留めているので知られる1つがポン・デュ・ガール(Pont du Gard)である。1985年に世界遺産に登録された。ユゼス(Uzes)のユール泉(Fontaine d'Eure)からニーム(Nimes)の約50Kmに水道(aqueduct)が作られたが、その落差は僅か17m(/12m?)という。多くは地下水道らしいが、その一部がここでガルドン川(Gard River/ローヌ川支流/約127Km)を渡った。その水道橋は川面から高さ50mの3層構造、現在のアーチ数は下層で6、中層で11、上層で35である。長さは274 mとされる。9世紀のローマ帝国凋落まで使われたと推察されるが、その後は渡河のための有料橋だったらしい。
ヴィジターセンターは2000年完成。
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Pont du Gard
NHK世界遺産 | ポン・デュ・ガール
14:15 駐車場からヴィジターセンター(公園管理事務所兼サービスエリア)の建物を通り過ぎ、林間の道を行く。
14:21 遠くに水道橋が見えてきたが、何か奇妙な生物を連想するオブジェが置いてあった。いかにもフランスらしい、と云えるかもしれません。

14:26 橋のアーチの真下を通過した。大きな石橋で迫力がありますが、幅はそれ程に感じません。
ここで短い自由行動になった。水道橋の下段を渡った人達もいたが、我々は先に進んで川面に近い場所まで降りてみる。光線の具合で素直な温かみのある石橋の肌が見れたと思う。
木々の緑、石灰岩らしき白い岩の河畔、きれいな水に穏やかで鏡面に近い流れ、その中に約2000年も昔のまま佇む水道橋、素晴らしい雰囲気です。痛んだローマ遺跡は今までに沢山見ていますが、比較にならない。今日見ても幾何学的で素晴らしく美しい姿のままなのです。
欧米系のカップルからシャッター押しを頼まれて、撮ってあげました。左上の写真の場所でした。

一説によると、同じ層のアーチは全て同じ、つまり同じ形の切り石を重ねて作られているそうです。ということは、アーチの石材を必要数だけ前もって同じサイズで作り、ここで組み立てる工法、つまりプレハブ工法が用いられたそうです。それでも完成までに5年かかったらしい。

ついでながら、スペインのセゴビア(大きい)やトルコのイスタンブール(長い)にもローマの水道橋が残っているが、見た事はありません。でも、昔のままの大自然に囲まれた姿はこのポン・デュ・ガールのみでしょう?

14:40 ポン・デュ・ガールから戻り、ヴィジターセンターに立寄ってからバスに向かった。
14:48 バスに乗車。

アルルに向かう: 
14:51 出発。約31Km離れたアルルに向かう。
15:38 古い城壁が現れる。アルル市街に到着でした。
降車の場所は分かりませんが、旧市街リス大通りの観光案内所近くだったと思います。

アルル旧市街と天才ヴィンセント・ファン・ゴッホ縁の場所 アルル旧市街と画家ゴッホ
アルル、共和国広場
アルル
Arles
フランス国内で最大の面積を持つ市。面積は758,93平方キロ (75 893ha)、人口は約53,000人(2005年)。
アルルはギリシア人が初めて街をつくり、その後ケルト族のものとなり、紀元前123年にローマ帝国に属した。
ユネスコ世界遺産に登録されたアルルのローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群は、古代劇場、円形闘技場、ローマ時代のアルルで重要な地位のある人物の共同墓地跡などがあり、訪れる人が最も多い場所のひとつです。
フィンセント・ファン・ゴッホ(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)が「夜のカフェテラス」と題した作品で描いたことで有名なフォラン広場があります。
アルルの円形闘技場、
地下回廊、
糸杉のある道、
フォーン川クルーズ、
ローマ劇場は皇帝カエサルの支配下にあった紀元前1世紀頃 に建てられ、原型を良く残している。半円形で12000人の収容が可能です。 世界遺産。
参考サイト:
ウィキペディア → アルル
アルルのオベリスク
HotelTravel → アルル
共和国広場(Place de la Republique): 
15:45 石畳の道を歩き、アルル旧市街の共和国広場(レビュブリック広場)に到着。広場の中心にはオベリスクがあり、その基部は泉になっている。

オベリスク:  このオベリスク(高さ15m余)はフランス国内産とかエジプトのアスワン産の岩石とか諸説あり起源は未だ明確ではないらしい。銘文(ヒエログリフ)もないシンプルなものです。17世紀にここに立ち、19世紀に基部が付けられたという。
市庁舎:  その後方に旗を掲げた3階建の市庁舎(Hotel de Ville)があった。屋上には人物像が幾つも立ち並び、右屋上には時計塔もある。
サン・トロフィーム教会:  その右には由緒あるサントロフィーム教会(Eglise St-Trophime) 、左には Musee Lapidaire d'Art Paien があった。小さい広場ながら、落ち着いた趣です。

世界遺産「サン・トロフィーム教会」のファサードは均整がとれて見事です。圧迫感のある大きな建物ではありません。中世は巡礼教会だったらしい。正面入り口の上部にあるレリーフは1190年に完成と伝えられる。中央にキリスト、下に聖人の群像、左側はキリストの信仰に寄ってくる人々、右側はキリストの教えに背き離れ行く人達、良く知りませんが、ロマネスク様式の傑作とされ有名らしい。
教会に入るには、その正面入口ではなく、右側の小さい入口。教会内部の天井が高く感じられる。ゴシック様式の内陣は15世紀に作られたものという。
見なかったが、中庭の回廊も素晴らしいものという。

円形闘技場(Amphitheatre):  共和国広場から徒歩で数分の場所にローマの円形闘技場が残っている。周囲は普通の市街地で、土産屋なども点在しています。円形闘技場はローマのコロッセオが有名ですが、ここはフランス最大級のもの、長径136m、短径107m、2層の高さは大体21m程度。完全な姿を留めていると思うのですが、創建当時は3層で約2万人の収容だったという・・・。外観やアーチは見る場所により多少感じが違います。現在でも催事に使用されるようですが、修復の工事をしている所もあった。
雨となり、近くの土産店の軒先に逃げ込みました。何か買おうとは思っても食指が動かず、雨宿りだけに終わりスミマセンでしたネ。
16:30 小降りになったので、次の観光先に移動です。

『夜のカフェテラス』、クレラー・ミュラー美術館(オランダ)、2005年10月18日撮影 2010年11月のメニュー・値段表 フォーロム広場(Place du Forum):  16:32 共和国広場に比して遥かに庶民的、カフェなどが並んでいる。その中の黄色く塗られたカフェ Cafe Van Gogh が有名です。オランダが生んだ天才画家ヴィンセント・ファン・ゴッホの「夜のカフェテラス(The Cafe Terrace on the Place du Forum/1888年9月)」の題材となった場所だから、ということです。
訪問時には小雨で客はいません。が、その感じは分かりました。人出が多く楽しい雰囲気なら飲物の一杯も悪くないかも知れません。その際は右のメニューをご覧ください。
16:37 ゴッホの描いたカフェから離れ、共和国広場を再び通り抜け、ゴッホが精神を患って入院した病院の建物に向かった。

エスパス・ヴァン・ゴッホ、絵は『療養所の中庭』 エスパス・ヴァン・ゴッホ:  16:44 Espace Van Gogh と書かれた建物の入口にきました。何の変哲もない古びた建物ながら、ゴッホが入院した精神病院だった。
広い中庭のあるロの字型の2階建、中庭は右のゴッホの絵で知られていると思います。カフェがあり、ゴッホ関連の土産店もありますが、適当に過ごして終りました。ゴッホは精神病の苦しみの中でも絵を描き続けた。その執念たるや、人の技では無いでしょう。
17:02 ここからバスに向かった。
到着すると、ワイフはドライバーさんから水2本(@E1.00/500ml)を購入していた。夜に慌てたくなかったらしい。

アルルの跳ね橋
『アルルの跳ね橋』、クレラー・ミュラー美術館(オランダ)、2005年10月18日撮影
ゴッホ『アルルの跳ね橋(1888年)』:  17:10 ゴッホは南フランスに移住して直ぐアルルの跳ね橋(ラングロワ橋)を描いたとされる。その橋は今はなく、少し場所を変えて復元された。その観光用とも云える跳ね橋に来ました。描かれた絵の風景とは全く違い、小雨で暗かった。
ゴッホは数枚の『跳ね橋』を残したが、描かれた橋では人や馬車が渡っている。この復元された跳ね橋は常に上がった状態です。管理人がいないので、渡れる状態に放置して事故があったら・・・。
筆者はゴッホの絵は好きですが、ここの観光用の跳ね橋は「世界3大ガッカリ」候補になっても不思議はない、と思ったものです。暗い天気故でもあるが、淋しく感じました。

ゴッホは確かに数枚の跳ね橋を残していますが、右の上は今回撮影した現地の看板です。下は本物で筆者が撮影したもの、オランダのクレラー・ミュラー美術館に展示されている。良く見ると、看板のペンキ画は細部で本物と違っている。さて、ゴッホは何枚の跳ね橋を描いたのか、頭が混乱しましたです・・・(笑)。

バス移動とマルセイユ
プロヴァンスの歴史
History of Provence
  南フランスのプロヴァンス地方はガリア人の地だった。しかしギリシャの植民地も出来ていた。紀元前118年にローマ帝国の支配となり、アルプス以西では初の属州ガリア・トランサルピナとなった。当時のラテン語”provincia(属州)”がプロヴァンスという地名となった。1世紀のアウグストゥス時代にローマ文化の移植が盛んになり、アルルの円形劇場、半円形劇場、オランジュの劇場、ポンデュガールの水道橋などが作られ、最盛期となる。
  ローマ時代末期にはゲルマン諸族の侵入が激しく、6世紀からはフランク族などの支配となった。855年にシャルルがブルゴーニュ王国として統一した。その後イスラム勢力の浸透が著しかったが、973年には一掃され、それにより王家はプロヴァンス伯爵(Comte De Provence)となった。
1032年になり神聖ローマ帝国に服属した。その後に伯位は転々としたが、フランス国王の弟アンジュー伯シャルルはプロバンス伯の4女と結婚し、1246年にプロヴァンス伯となった。
  アビニョン教皇庁時代(1309‐77年)に続く分裂時代(1378‐1417年)、アヴィニョンとプロヴァンスはイタリアの文化的影響を強く受けていた。1434年に伯爵となったルネ善良侯は初期イタリア・ルネサンスの精神を移植し、南フランス文明の絶頂期となった。
  ルネの甥シャルル・デュ・メーヌが伯位を継承するも、1481年に伯爵領をフランス国王ルイ11世に遺贈、プロヴァンスはフランス王国に併合された。
フランスはブルボン王朝の時代となるが、プロヴァンスは従順ではなかった。ルイ14世(太陽王)はマルセイユを占領して服従を迫ったが、革命中の1790年プロブァンスはフランスに統合され、革命中の1790年プロバンスはフランスに統合され、教皇領コンタ・ブネサンもフランス領となった。
  1859-61年のイタリア独立戦争の際、ナポレオン3世はオーストリア帝国をイタリアから追放する密約を結び、見返りとしてニース地方をイタリアからフランスに割譲させた。世界で2番目に小さいモナコ公国(Principality of Monaco)は現在も独立した国となっている。
地域性/民族性: ゲルマン色が残る北部フランスと違い、地中海民族の特性が残るとされ、何かとパリ文化と張り合う傾向があるという。方言としてフランコ・プロヴァンス語(franco-provincal)がある。
コート・ダジュール海岸: フランスのトゥーロンとイタリアのジェノバの間、出入りが多くて幅の狭い海岸地帯をいう。19世紀からリゾート開発が進み、ニース、カンヌ、モナコを含む高級保養地がならび、バカンス観光の基地となっている。
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参考サイト:
・Ref.06、項目「プロバンス」、
・その他、各種の情報サイトを利用、
文章は変更してあります。
17:20 バス出発。
今夜はエクスアン・プロヴァンス泊りです。夕食はその街と思っていたが、途中のマルセイユでした。アルルとマルセイユは約93Km、1時間以上です。
18:40 この頃にマルセイユの市内らしくなったきた。人口は約85万人でフランスで最も古い街と云われる。地中海の港町、スエズ運河の開通後に特に重要性を増したそうです。

マルセイユの凱旋門 18:46 車窓からマルセイユの凱旋門(Arc de Triomphe/Triumphal arch)が見えた。パリのエトアールの凱旋門より小さいが、それでも大きくて立派なものでした。Porte d’Aix(Porte Royale)なる名が付いており、1825-1839年に建てられたという。ところが、英語サイトを幾つか読んでも複雑な経緯があるらしく、建てた目的すらはっきりしない。どうやら特定の戦いの勝利を記念するものではないようです・・・。
(注:欧州に凱旋門は沢山あるが、凱旋に無関係なものが多いという。)

ついでながら、1789年のフランス革命では多くのマルセイユ市民が革命側に加担しパリに行った。そこでマルセイユ市民は独自の行進歌を歌った。あとになり、その行進歌は『ラ・マルセイエーズ』と呼ばれ、現在のフランス国歌になった。

18:58 この頃に、旧港に到着。遥かな東側の丘(標高154m)にはライトアップされたノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院(Basilique Notre Dame de La Garde)が見える。
マルセイユに関する詳細は 〔 マルセイユ観光会議局 〕をご覧ください。

夕食(マルセイユ) 夕食(マルセイユ旧港のレストラン)
マルセイユの旧港(Vieux Port )はコの字型に陸地に食い込んだ良港だった。そもそも、この”ラシドンの入り江”は2600年前という昔にギリシャ人が発見したそうです。フランスの重要な地中海の港でしたが、今では3,500隻のヨットやモータボートが係留される海洋リゾートの基地港となっている。旧港の周辺では鮮魚市が立ち、シーフード・レストランも数多く、マルセイユ市内でも賑わう場所とされます。

夕食のレストランも旧港北側ポール河岸の中程にあった。バスで近くまで行き、直ぐレストランの2階にあがった。
飲物はビール(小)を頼んだ。小瓶でした。
テーブルには固そうなパンが皿に積んである。これはスープ用でした。まずスープ皿に一個とり、その上にオレンジ色のタレを付ける。その上にひも状の小さいチーズを乗せる。その後にウェイターさんがスープをかけて回った。魚味の少々珍しいスープでした。
それから夕食用のパンが出る。
メーンは魚料理(スズキ)、ポテト、鞘まめの煮付けでした。
デザートで終りです。

夕食から離れますが、当地の名物料理ブイヤベースについて前述のマルセイユ観光会議局の説明を引用すると、
『 もとは漁師料理だったブイヤベース。漁師が売りに出す魚を選り分ける際に、売り物にならないものを自分と家族用に取り分けておき、それを使って作ったスープがブイヤベースでした。シンプルで家庭的な料理だったのが、時代を経るうちに改良されてきました。現在のブイヤベースには最低でも6種の魚が入るようになり、たいへん洗練され、高価な料理となりました。』

マルセイユではブイヤベース憲章まで定めて細かく規定しているらしい。食べてみたかったが、ツアーでは・・・。

20:10 この頃レストランを出る。バスがピックアップに来るまで暫く旧港の風景を楽しみました。バスは間もなく来ました。
夕食はすみ、夜の帳につつまれ何も見えない。エクス・アン・プロヴァンスまで大体30Km、バスで40分程です。ホテル到着までウトウトでした。

ホテル・エスカーレ・オセアニア(エクス・アン・プロヴァンス) エクス・アン・プロヴァンス、ホテル・エスカーレ・オセアニア
ホテル・エスカーレ・オセアニア(エクス・アン・プロヴァンス) 20:53 ホテルに到着。
ロビーで待つ部屋割りやポーターによるスーツケースの運び込みなどは通常通りで問題はなかった、はずです。
21:05 部屋に入室。
真新しい部屋に思えました。ベッドはセミダブルが1つにシングルが1つのツイン、欧州に多いが、2つのベッドがくっ付いて置かれている。それぞれに白いカバーの毛布がかかり明るい部屋です。しかしスペース的にはスーツケースを広げたままでは狭く感じるものでした。でも、まあ、なんとか十分でしょう。
ここはトイレが個室でバスルームから独立している。シャワーは水と湯の調節が面倒な装置だった。
スペアー毛布は直ぐ届いた。ワイフがE1.00のチップを渡した。
添さんが回ってきた。室温の温度設定が難しかったので調節を頼んだ。簡単に設定してくれました。
今日は1日中よく見歩きました。シャワーでサッパリし、早々に休みました。
明朝の予定:
ウェイクアップ・コール(07:00)
朝食(08:00): 0階のレストランで揃って朝食
荷物出し/ドア外側(08:00)
ロビー集合(09:00):個人精算は済ませること。
出発(09:10)
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