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旅行記|北部インドの文化遺産巡り ( 6日目/2005年3月7日・月曜 )
ファテーブル・シークリー、ジャイプール観光
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ホテル出立まで:
05:30 起床。直ぐにインスタントコーヒーを作って飲んだ。一昨夜は寝台列車だったために充電できず昨日の観光中に不便を蒙ったが、予備電池を含めデジカメのバッテリーの充電が完了できた。一安心する。
06:15 モーニング・コール。
06:45 枕チップ2人分の20ルピー紙幣をテーブルに置き、スーツケースを廊下に出した。
07:00 バイキング形式の朝食。
07:30 一旦部屋に戻り休息。当然ながら部屋の掃除は未だだったが、置いた枕チップは無くなっている。マスターキーの所持者が集めて回ったらしい。
07:55 バスに乗車。チェックアウト(カードキーの返却)を忘れ、ホテルの人がバスまで取りに来ました。謝って返却した。
08:00 ホテル出発。今日はアグラ郊外の見捨てられた王都ファティープル・シークリー、その後は西に向かって長距離移動となる。ジャイプール到着後はジャンタル・マンタルやシティ・パレスの観光予定です。

ファティープル・シークリー (Fatehpur Sikri):
在位初期の第3代皇帝アクバルには世継ぎとなる息子がいなかった。アグラ市の西約40kmの岩丘シークリーの地に聖者(イスラム神秘主義者という説もある)がいた。1568年のこと、その聖者はアクバル帝に「当地スークリーなら嫡男が誕生する」といい、予言どおりに翌年に男子(後のジャハーンギル帝)が誕生したそうです。それでアクバル帝は1569〜74年にシークリーに新都の建設、当時ムガル帝国が遂行した戦争に勝ったことから「勝利の都(ファティープル)」という名が付けられた。新都は3Kmと1.5Kmの城壁に囲まれ、中央部の丘に宮廷やモスクが建てられました。各種の赤砂岩の建物は異なる建築家により建てられたので夫々が個性的といわれます。

本当の理由は分からないらしいが、高所の都のことで水にめぐまれず気温も過酷すぎたので、14年後に見捨てられてしまった。結果的に旧都ファティープル・シークリーは長く放置され、傷むことなく現在まで残ったのです。1986年、世界遺産に登録されました。

08:45 ファティープル・シークリー到着。空模様はかなり怪しくなってきました。
廷臣の館と工房の間を歩き、ディワニ・アーム(一般謁見の間)の入口から宮殿の敷地内に入った。宮殿だけ見学だったのですが、多くの建物があるので概略ながら地図を作成して掲載しました。 ファティープル・シークリーの宮殿地図は北行庵」の制作です。
緑色は芝、水色は池、濃いオレンジ色は建物、赤線は見学ルート、主要な建物(赤丸)は周辺に名称を記載してあります。方角は上が北になる。

まずディワニ・アームでは低い赤砂岩の回廊に囲まれた芝生の広場が珍しく思えた。奥の回廊の中央部分に一段と高い舞台状の建物がある。ここに皇帝が高官らを従えて姿を見せたのです。想像をたくましくすると、芝生の部分で謁見に訪れた人々を皇帝が見下ろし、兵士らが広場を囲む回廊にて警備にあたった。そんな状況が目に浮かぶディワニ・アームでした。

北側の回廊の入口からさらに奥に入った。すぐ目の前にディワニ・カース(貴賓謁見の間)がある。特に大きな建物ではないが、インド建築の特色 ドーム屋根のチャトリ(chattri)が屋上の四隅に設置されていた。「貴賓謁見の間」としては不思議な構造で1階の四方の壁に出入口があり、中央には高さ7mの見事な大円柱がたっている。その上部に玉座がつくられ、四隅から渡れるように梁(橋)がある。2階の回廊と部屋は皇帝と宮殿側スタッフに使用されたものであろうか。全て赤砂岩で作られ暗い感じがするが、窓にはめ込まれた透かし彫りなど巧みな彫刻技術も駆使されている。

ディワニ・カースの裏には宝物殿があるが、見学しなかった。この辺りを含む宮殿地域は建物の間は石畳の広場が多い。形状やサイズそして赤色の濃さ等々が異なり変化があるのだが、赤砂岩が隙間なく敷き詰められているのだ。欧州に良くある石畳とは赴きが全く違い、インド独特のものかも知れません。
その石畳の広場の先まで行くと皇帝の公務の場所から私的空間に代わり始める。右側にパンチ・ハマル(五層閣)がある。柱、梁、腕木、方杖、板庇だけの不思議な建物ものだが、皇帝はこの建物から眼下のパチシ・コートで繰り広げられる人間駒による古いチェス・ゲーム「パチシ」を楽しんだとされる。しかしゲーム完了まで長い日時を要するので人間駒になる奴隷達には嫌な仕事だったらしい。パンチ・ハマルは風通しが良く、女性たちが涼むのにも利用したようです。この風変わりな建物で使用されている全ての柱は1本づつ形状が異なるそうで、随分と凝った造りにしたものです。
その斜め向かいには四角い舞台を中央に配した四角い池がある。舞台には四方から橋が掛けられていた。どんな演劇や舞踏が演じられたことでしょう。

ファテープル・シークリーを見歩くと赤砂岩のガランとした建物ばかり、殺風景で淋しい感じがします。都として人々が暮らしていた時には家具や絨毯やその他の品々でもっと優雅だったことでしょう。「訪問客の想像を刺激するような展示物が、例え小規模としても、何処かにあったならば」と思いました。世界遺産の中では難しいのでしょうか。

白いドームのあるジョドパイ殿(皇帝一家の宮殿)の外観を拝見しながら裏道にでて、違う角度からパンチ・ハマルの風変わりな外観を楽しみ、トイレに寄った。見学中は曇だったのですが、雷雨となり大粒の雨が落ち始めました。小走りでバスに戻りました。 ファティープル・シークリー
09:40 出発。一路、西のジャイプールに向かう。

バス移動、途中で昼食:
ジャイプール
ラージャスターン州中部にある州都でインド有数の観光都市でもある。人口は約180万人。1818‐1949年までジャイプル藩王国の首都であった。同藩王国は12世紀のラージプート王国にさかのぼる歴史をもち、1600年以来北方8kmのアンベールを都としていたが、ジャイ・シン2世が1728年にここに新都を建設した。都市名は彼の名を付けて「ジャイの町」を意味している。旧市街はインドの歴史的都市としては珍しく碁盤目形に幅広い道路が走り、七つの城門をもつ石造の城壁がまわりを囲んでいる。城壁も主要道路に沿う建築物もピンク色の赤砂岩(注:ピンク色の塗料を使用)が目立つのでピンク・シティの名がある。旧市の中央部には18世紀の天文台や、チャンドラ・マハル(月光の宮殿)とよばれる白大理石の壮大な宮殿、ハワー・マハル(風の宮殿)が並ぶ。旧市の南と東には新市が広がり、州庁舎などの近代的な建造物や公園がある。インドの伝統工業の中心地で、宝石の研磨加工、金銀・象牙細工、大理石の貴石象嵌、じゅうたん、更紗などは名高い。近代工業では繊維、電機、薬品、ガラスなどが立地する。小麦、雑穀、綿花などの農産物のほか、石材、岩塩などを集散する。

日立デジタル平凡社「世界大百科事典DVD版」1998年。文章は少し変えました。
11:20 昼食レストランに到着。このレストランは塀に囲まれ、入口には老人ながらターバンを巻いたガードマンがいました。中庭のコーナーでは見事な植物が満開、多分ブーゲンビリアの一種でしょう。食べ物の種類は多くはないがバイキング形式、例により火を良く通した料理ばかり皿にとった。インドの主食にナンがあるが、ここのは脹らみが少ないのでチャパティかも知れません。北インドではナンが主流といいますが、私には未だ区別できないのです。飲物はコーラ、食後はミルクティーにした。インド流に甘くすると美味しいですね。 昼食のレストラン
12:10 レストラン出発。小雨になる。随分と走りました。途中で数多くの大きな煙突が点在し煙を出しているのを見かけましたが、どうやら煉瓦工場のようでした。目的のジャイプールに近付くにつれ天気は回復して晴れてきました。

宝石店:
14:50 ジャイプールの宝石店に到着。インドは宝石の産出と加工で世界的に知られているので、トイレ休息兼用の立寄りでした。1階と2階が店舗になった大きな店でしたが、男性は4〜5個あった椅子に直行、宝飾品はやはり女性が熱心に見ています。が、宝石そのものはともかく、デザインや作りに大柄なものが多いようで、日本の女性には今一つ魅力が少ないようでした。
15:20 出発。

ジャンタル・マンタル(Jantar Mantar):
15:25 バス下車、ジャンタル・マンタルの入口まで歩く。物売りと物乞いはいませんでしたが、足元は注意が必要です。
15:30 カメラ持込料50ルピーを支払いレシートを受け取った。中の小路に男がいて、レシートに指で裂け目を入れる。これがカメラ代の切符切りとなる。
日時計1
日付は?インド標準時との時差は37分00秒。
日時計2
中程の線は3時。日時計の当地時刻は、3時8分。
37分を加えインド標準時に直すと3時45分。正確。

現代社会は電子時計が一般的、それも電波時計で誤差のない正確なものが安価に入手出来る時代です。スイス・ブランドの機械式腕時計など趣味的に宝飾品の仲間になった感じです。ならぱ、もしオークションにかけたら、この天文台の石造りの日時計や観測儀などは骨董品として予測不可能な超高値を付けることでしょう。ここの世界最大級の日時計(サムラート・ヤントラ、高さ27.4m)は2秒の誤差で時刻を測れるとか・・・。凄いです。

写真(右)の日時計(ラグー・サムラート・ヤントラ)はずっと小型ですが、20秒の誤差で時刻を計れるらしい。大理石の曲面に刻まれた目盛りに影が写っている。中央・右側に横棒があり、その下のマークは数字の”3”で3時の位置になる。影は3時8分ですが、この天文台での時刻です。看板(上の写真)に示された時差37分を加えると3時45分となり、正確にインド標準時を示していることが分かります。
子供の頃に紙で作った日時計は誤差が大きくてダメだった。日時計など役立たずと思っていたが、遥々インドにきて「日時計も使える!」と認識を改めました・・・。オハズカシイ!

他にも黄動儀、子午線儀、星座儀など色々な石造りの天文儀が16種もある。活発かつ優秀なマハラジャ(藩王)で天文学や占星術にも熱心だったサワーイ・ジャイ・シン2世(Sawai Jai Singh II)が 1728〜34年に建造したらしい。ジャイ・シン2世がムガル帝国の皇帝に認められて建設したジャンタル・マンタルは他にもデリーやベラナスで現存するがここが最大規模といわれます。ジャンタル・マンタルは日本語では「天文台」と呼びますが、「奇妙な器具」という意味とか・・・。数字のゼロを発見し筆算を容易にしたインドですら、一般的に科学者は「奇妙な人間」と思われていたのでしょうか? ジャンタル・マンタル

追記(2007/1/7): 最近のインド紹介のテレビ番組では「ジャンタル・マンタル」の意味を「奇妙な器具」ではなく別の「○○な機械」としていました。正しいのは何れか分かりませんので、インド人ガイドさんの説明のまま変更しないでおきます。

16:15 天文台を出る。次ぎの見学はシティー・パレスだが、近くだった。一旦外に出て少し先の門からシティー・パレスに入るのだが、途中の道で写真を撮っていたら男2人のバックパッカーから「コンニチワー」と声をかけられた。この人達は街の雰囲気や衛生環境にも恐れず自分の足で見て回っている。若ければ同じスタイルの旅行をしたかも・・・。羨ましい。

シティ・パレス(City Palace):
ジャンタル・マンタルを造ったサワーイ・ジャイ・シン2世はラージプート族のマハラジャ(藩王)、宗教的にはヒンドゥー教徒です。元々はジャイプールの東北に位置するアンベール城に居を構え統治していました。しかし、デリーのムガル朝との関係も良く、山上の強固な城砦に住む理由が薄れたので 1728年 に平地のジャイプール( 「ジャイの町」を意味 )に都を造営し遷都したとされます。7つの門がある城壁に囲まれ、道路が碁盤の目に整備された計画都市でした。ピンク色の赤砂岩を用いた建物や城壁が実に多くて目立つ街なのです。それで別名ピンク・シティと呼ばれます。旅行後にテレビ番組で知ったのですが、ピンク色の砂岩と説明されますが、実際にはピンク色の粉末に石灰石を混ぜた塗料を塗ったもので砂岩の色そのものではないらしい。西方の砂漠には青色を塗ったブルーシティーという町もあるそうです。
シティ・パレスはその新都におけるジャイ・シン2世の宮殿でした。今でも子孫(1947年のインド独立後は平民、シティ・パレスの所有者)のパワニ・シン氏(父)とナレンドラ・シン氏(子息)が実際に住んでいるのです。ラジャスタン(王者の大地)の勇猛なる藩王一族は歴史上では全国を統治するに至らなかったが、優秀で強い代表的なマハラジャの一族だったようです。

16:18 シティ・パレスに正門から入る。
16:25 現地ガイドさんから概略の説明があり、その後にテキスタイル展示館( Mubarak Mahal )を見学、内部の写真は禁止でした。マハラジャの衣類や道具類など各種の展示品が豊富にあり、豪勢な生活を垣間見ることができます。入館時には見学者が多く、ゆっくりするような雰囲気ではなかった。

16:45 展示館を出て、パレス内の門を潜って隣のディワニ・カース( 貴賓謁見所/Diwan-i-Khas )に行く。宗教的にはヒンドゥー教、時には建物入口上部にはヒンドゥー教の神がレリーフで描かれていたりする。レストラン等の一般建築物と共通する面もあるようです。

入口に飾られている2つの銀の大壺は、1902年に英国のエドワード7世の戴冠式に出席するマハラジャ(Madho Singh II)が毎日沐浴するためにガンジス川の水を入れて運んだもの。世界一の銀製品としてギネスブックにも掲載されているらしい。左右対称に飾られた銀の大壺は赤いターバンにインド風制服の衛兵が2人づついました(いない時もある)。珍しいので衛兵と並んだワイフの記念写真を撮った。衛兵はマハラジャの御子孫に雇用され給料生活の身分ながら、記念写真にはチップを請求した。我々は10ルピー紙幣をあげました。その受け取り方が面白い。堂々と手を前に出すのではなく、上体は不動で腕は下にさがったまま、手首から下の手だけを前にだしてチップを受け取るのだ。小銭を受取る姿を見られると規律上または営業上まずいらしい・・・。後続の女性メンバーも我々がチップを払ったことに気付かず、並んで記念撮影。請求されて 「しまった!」 という顔をしていましたネ。
後で、ツアーの皆さんにその受取り方を真似して披露したら大笑いとなり、良い座興となりました。本心を書けば、日本人としてはたった10ルピー(25円)のこと、大したことではないのです。全くの憶測ですが、この壺の衛兵らは衛兵仲間からは「チップが入る」と羨望の目でみられているかも知れません。そして彼らとてこの役目を得るために手首から下を前に出す上役に渡しているかも知れないのです。立場こそ異なっても規律より身入りを尊び余禄を喜ぶのは、やはり経済的な貧しさに因るでしょう・・・。浮世の人間の性として水に流せば何も言う事はない・・・、しかし・・・。まあ、憶測のことです。

16:58 現在もマハラジャの御子孫が住む7階建てのチャンドラ・マハルにはマハラジャの旗(藩王旗)が掲げられていた。御在居の標しである。ディワニ・カースからチャンドラ・マハルの中庭に入った。日除けのスダレが1階部分に掛けられているのも珍しく、また建物に入る4つ出入口の装飾がみごとだった。現在は1部で修復工事中でした。写真だけ撮影して後にした。 シティ・パレス

17:05 昔のディワニ・アーム(一般謁見の間)は博物館になっている。そこもザッと拝見してからシティ・パレスを出ました。街の雑踏を歩き、バスの駐車場に行く。この街では観光客目当ての土産売りなどは居ないようでした。

テキスタイルの店:
17:40 バスはテキスタイルの店の前に停車した。直ぐに、入口横にある布地のプリント工房に案内された。幅広く長い布地に職人がスタンプを使って切れ目ない多色プリントする工程を見せるのだ。作業は単純とはいえ大変にも思える。人件費が安い国ならでは、の作業であろう。
店内に案内されたが、広く大きい店で商品も豊富だった。これでは十分な予備知識がないと品選びも短時間では困難である。我々はザッと見て回り、その後は目立たない場所の椅子で休んだ。メンバーには独特のプリントに興味を持ち購入する人達もチラホラ見受けられました。 テキスタイルの店
18:20 出発。

ラジプタナ・パレス・シェラトン (Rajiputana Palace Sheraton):
18:45 旧市街・城壁の外の西側にあるホテルに到着。ロビーから判断すると大きくて綺麗なホテルだった。 直ぐ部屋割りがあったが入室はできない。民族舞踏の鑑賞が予定されていたのです。

インド民族舞踏 ラジャスタン・ダンス:  地階ショッピングモールの階段付近に絨毯を敷いただけの舞台が用意されている。時間直前に男性3人女性2人の舞踏チームが姿を現した。観光客向けのショーなので期待はしていなかった。
19:00 インド民族舞踏「ラジャスタン・ダンス」が始まった。音楽は男2〜3人でインドの民族楽器で演奏、女性はダンサーだった。当初は退屈にも感じたが、壺を幾つも頭に重ねて乗せる踊りは面白かった。7つもの壺を乗せて踊り、胡坐をかき、高下駄に乗る。単純なものだがハラハラもする。30分のショーは意外にも早く過ぎました。我々のツアー以外にも色々な泊り客が楽しんでいましたね。チップはショーの終り近くに集めに回る。ワイフが10ルピーを出しました。 ラジャスタン・ダンス

19:30 民族舞踏が終了、一旦解散で自室に向かった。
19:40 1235号室に入る。特に印象的とはいえないが、十分に良い部屋だった。早いもので今夜がインド最後の夜となる。
20:00 1階のレストランにてバイキング形式の夕食。大きいテーブルが予約席だったので大勢で賑やかでした。飲物は現地ガイドさん推薦のオーストラリアとインドの合弁会社のビールです。1本 260 ルピーで今までより高い値段でした。しかしインド産ビール(ライト)よりはコクがあり日本のビールに近いかも知れない。我々は全部は飲めないので少し味わって隣に回してあげました。食べ物は他のレストランと特に変わってはいませんが、パンがあった。2種類とったが1つは硬く乾燥してましたネ。サラダ代わりの丸オレンジとバナナは味も良く楽しめました。


食後、地階のショッピング・モールをブラブラ歩き、幾つかのショップに入り物色したが買いたい土産品を見つけることができなかった。珍しく本屋もありましたが、英語版が主で食指が動きません。

21:00 部屋に戻る。
ホテルのミニバー料金表を記念にもらってきました。やはりアルコール類は1つもありません。

22:30 就寝。
ホテルの写真情報
(今夜分と明朝分)  ラジプタナ・パレス・シェラトン

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