ニューヨーク滞在8泊9日  [ 4日目/5月20日(日) ]
エンパイアーステートビル・ビレッジ・NY大学
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外は薄曇だった。ホテル1階のビュッフェ・スタイルのレストラン に入る。右側奥の席に案内された。今日は和食ですませる。朝食代は ルームチャージにしてレストランを出た。

NY近代美術館売店とロックフェラーセンター
10:00 53丁目を5番街に向かって歩き始めた。途中の建物にニューヨーク 近代美術館 (MoMA) のショップがあったので立ち寄ってみた。しゃれた 文具類が無いわけではないが、朝から買い物袋を下げて歩く気持ちにならなかった。 一旦5番街に出たが、ロックフェラーセンターに寄る。地階とかロウアー プラザ横のレストランあたりを歩くと昔の記憶がよみがえったきた。 1階の商店街には感じのよいカフェテリアがあって時折コーヒーを飲んだ ものだった。その店はなかった。ロウワープラザと両側のフランス・レストランは あったが、記憶とは造作が違っているように思えた。1/4世紀の空白は大きい。 その後外に出てプロメテウスの像などの写真を数枚撮り、石楠花の咲くチャネル ガーデンを通って再び5番街にもどった。

47丁目と48丁目の間のバス停までブラブラ歩く。薄曇ながら時には 日もさし、そよ風が気持ち良い午前の散歩だった。51丁目から何か分らないが パレードが出てきて五番街を上に向い始めた。バスに乗るつもりが来ない のでイエローキャブをつかまえる。

エンパイアーステートビル
11:15 エンパイアステートビルに着く。世界大恐慌の直前1929年に着工し僅か1年と45日で建てられたと説明されるが、とても70年の歴史があるようには見えない。今でも堂々たる物だ。2階のチケット販売所に行った。  が、ここは別のチケット売り場だった。地階に行き、展望台に登る人たちのチケット購入の行列に並んだ。エレベーターでまたまた行列。人気ある観光名所で止むを得ない。

12:12 やっと86階の展望台に出る。 ここは320mの高度だそうだ。 雲は高く展望はかなり良かったが、風は冷たく寒かった。地上とは様子が違う。 ジャンバーの前を閉めた。それから東、南、西、北と展望台を一周した。

東にはイーストリバーがあり、その向こうにはブロンクス、クイーンズ、ブルックリン諸区が広がっている。東方面も新しい大きいビルがかなり増えたようだが、イーストリバー近くはあまり変わった感じもしなく、見通しは良かった。 川の手前には国連とかニューヨーク大学の医学部、歯学部の建物が昔変わらずだった。 
事情があってこの地域でアパートを探したことがあった。  New York Times 紙の広告にあったアパートの持ち主を米国人の友人と訪ねた ときのことである。アイルランド系の大家は私がNYUの人間と知り、真顔で尋ねた。
「日本人のドクターがNYUの医学部に数え切れないほど来ているのだが・・・。  この辺りの住人は皆、何をしているか不審に思っている。来る理由を教えてくれ。」
  苦労して「箔付け」を説明した記憶があります。欧米人には全く意味のない理由を 教えた訳で、正規に医学部に受け入れられた方には気の毒でしたが・・・。  日本の医師免許証は通用せず、「一流大学出のドクターが高卒並の試験管洗いをしている姿は恥ずかしいかぎり」と医学部所属の日本人がこぼしていたのも事実です。時代は変わり、「箔付け」などで貴重な資金と時間を消耗する人はいなくなったことでしょう。

南側は下町のビレッジとかイーストサイドの古い低層ビル群、5番街南端のアーチ、ワシントンスクエアー、ニューヨーク大学の図書館など校舎群、その先には金融街の巨大ビル群、海上には自由の女神、エリス島、ベラザノナロー橋も遥か遠方にはっきり見ることが出来た。

西にはハドソン川が流れ、ニュージャージー州の街並みが広がっている。対岸にはスチーブンス工科大学のセンタービルがくっきりとみえたが、学生寮として使用されていたSSストーブンスという白い船の姿は無かった。 住んでいた大学院生アパートも見え、校舎の建物群も変わらず並んでいた。 時折テニスの真似事を楽しんだテニスコートはあるが、その隣にあったコーヒー工場の煙突はなくなっていた(風向きによっては悪臭に悩まされたものでした。) この学校は米国生活初めの1年と4ヵ月を過ごしたところです。
在学中に愛煙家のホワイト教授は心臓麻痺で亡くなり、レポートの件で言い争ったこともあるスピナー教授も在米中に他界されたと聞いた。 在学中とその後、何かと気を付けて下さった主任のアーサー・レッサー教授ご夫妻の消息は分からない。少なくとも80歳以上になられることでしょう。 大学生の御子が男女お1人づつおられましたが・・・。レッサー教授は経済学が 専門だった。在学中に個人的アドバイスとして、
「経済を考えるとき、統計を『1人当たり(Per Capita)』に換算しなさい。」
これは今も時々実行する実に有効な方法です。
リニアープログラミングの講義を受けた(現Dr.) Dan Maxim講師と後日ニューヨーク大学の同じ学科でお会いするようになったのも奇遇と言えなくもありません。ここで知り合い随分とお世話になったイタリア系のR氏御一家はどうされているでしょうか。不思議なことに母が他界した年に1度だけ突然お手紙を頂いた。長男が医学部に進学したとあったが・・・。次男と末娘も立派な大人になっていることと思います。あちこち遊び歩いたり行き来したペルー人のO氏夫妻ともここで知り合ったのでした。この大都会地域では恵まれたキャンパスと施設を持つ、小さいながらも伝統的校風の良い工科大学でした。

この学校の思い出をもう1つ付け加えます。何時かは忘れましたが The Day of Private Property (私有財産の日)というのがありました。 普段は終日開放されている全ての校門がその当日は閉じられます。 平素はキャンパス内をブラブラしている感じのガードマン達がカービン銃(本物) を斜めに構え、入り口に直立不動で立ち警備していました。 キャンパスに外から入るときに、顔見知りのガードは厳しい顔つきで
「スチーブンスの人間か?」
「そうだ。」
「身分証明書を出せ。」 「・・・。(この顔、知ってるだろ。冷たいナー)」 
院生証明書を見せた後に、やっと入れてくれました。
後日聞いた話では、これも教育の一環として行われているとか・・・。

さて、西側ではポートオーソリティ・バスターミナルは昔と変わらず、42丁目の緑がかった古いマグローヒル社の建物もそのまま、その西側に超高層住宅が数棟できていた。建築中のものもあり昔の「危険地帯」は改善中のようでした。欧州航路の白い客船が幾つも停泊しているハドソン河の桟橋も、遠くから見る限り同じ感じです。

北側にはセントラルパークの緑があり、さらに遠方にはハドソン川にかかるジョージワシントン橋までも見える。セントラルパークの手前は巨大ビルが林立する地帯である。滞在中のヒルトンホテル、ロックフェラーセンターなどのビル群、昔のパンアメリカン航空ビル、数え上げることも難しい。新しいビルが数多く建てられ光景は変化しましたが、懐かしい限りでした。  天候に恵まれたら夜景も見たいものと思いましたが、これは無理でした。

展望台から中の土産店に入る。ワイフは頼まれたエンパイアーステートビルのミニチュアを買った。何かと Made in China が多く、Made in Japan が多かった若かりし頃とは違っています。

12:50 このビルの1階を歩いてみたらすし屋があった。昼食とも思ったが やめて、ステートビル近くからバスに乗って5番街を南に向かった。

5番街23丁目界隈
途中、旅行記初めにふれた New School の校舎の前を通った。  「1919年に借りた校舎で始った New School for Social Researchは、 1930年にグリニッチビレッジ西23丁目の自前の校舎に移転し、1933年に The University in Exile を設立してナチに追われた167人の学識経験者を 引き受けて救った。当時の卒業生の中からはノーベル経済学者も輩出した。  現在は New School University とその名を変えている。」 (以上、この大学のウェブサイトから) 昔ながらの本部の建物以外にもこの一帯には校旗が掲げられた建物が 幾つもあった。ニューヨーク大学も昔からパープルの校旗を学校の建物に 掲げ目印とするが、New School も同じことをしているのだ。驚きだった。

この5番街西23丁目には投資関係者には有名な Forbes がある。  かつては目立つ豪華ヨットをハドソン河に浮かべていた。サークルラインの遊覧船では「あれがフォーブスのヨットだ。株投資は儲かるようで・・・」とか説明していたものでした。ニューヨーク大学時代にはこの雑誌を定期購読していました。株はやりませんでしたが、マア、勉強のつもりだったのでしょう。実は、ここもナチスに追われたドイツ系ユダヤ人が設立し発展したものと言われます(未確認情報。)

5番街8th Streetでバスを下車。5番街もここは閑静な高級住宅地で並木の緑が爽やかに感じられた。大学時代の同期生H君から紹介され、若かりし頃一時お世話になった銀行支店長宅はこの辺りだった。御一家が帰国されるとき、クロスのボールペンを一本下さった。 「これで勉強して下さい。」その後ずっと愛用し、表面は指との摩擦で少し磨り減りました。現在も机上のペン立てに入っています。 その高層アパートの外見は同じ、景観は何も変わっていません。 

ワシントン スクエアー
13:15 ワシントンスクエアーに着く。アーチはワシントン没後100周年を 記念して建てられたものと言われるが、大きさはパリの凱旋門とは比べよう がない。しかしニューヨークのシンボルの1つで、このアーチのないスクエアー は考えられない。日曜日なのに公園内の人影はまばらで寂しい限りだった。  どうしたのだろう? 中央の噴水などはそのままだったが、東側が土木工事中なのでゆっくりする 気持ちにはなれなかった。この広場は早々に切り上げ、ニューヨークー大学 の校舎に向かった。実は日本を発つ前に、ニューヨーク大学には行かないと ワイフには言ってあった。不思議に何か「怖い」気持ちがしたもので・・・。  しかし、結局は建物だけでも見歩くことになりました。
New York University
1969年から1973年までニューヨーク大学理工学部の大学院生兼助手だったが、理工学部と文理学部はブロンクス区のUniversity Heightsにあった。  スクエアー校舎は英語力改善のため通った他は、健康診断で医務室にきたり、カーラント数理科学研究所の図書館を利用させてもらったぐらいでした。

当時の話しですが、リチャード・ニクソン氏が大統領選挙に出馬した時に、ニューヨーク大学は共和党のニクソン氏を全面的に応援したと言われます。院生仲間だったユダヤ系のS氏が言うからに、
「ユダヤ人社会の長老がニクソンの応援を決めた。」 
「ニクソンは共和党だし、ユダヤ人は民主党のはずだが・・・?」 
「その通り。しかしな、長老がニクソン支持を決めた以上、我々はニクソンを 応援する。」
 「へー ?」 
「おい、ホクギョウ。 お前もだ。ニクソン、ニクソンと言っていろ!」 
選挙権の無い私はびっくりした。
ところが1973年にウォーターゲート事件が発生し、ニクソン氏は大統領の地位を失う結果となった。ニクソン氏の支持母体だったニューヨーク大学への資金流入は細り、財政基盤の弱い理工学部は他校との合併を余儀なくされた。University Heights の文理学部はスクエアーの文理学部に統合されたはずである。そして University Heights そのものが市に売却され、現在は公立大学のキャンパスとなっている。理工学部の合併後は Polytechnic Institute of New York に諸先生方と共に移り、Research Fellow の立場となった。 この合併校は現在 Polytechnic University となっている。ただし私の学歴と学位はニューヨーク大学になります。暫くして、ニュージャージー州の Fairleigh Dickinson University の理工学部助教授として転職した。 ここにもニューヨーク大学の諸先輩が数多くおられ、結局は NYU Community の中で移動していたことになります。
「釈迦の掌の孫悟空」みたいなもの。若き時代には本当にお世話になりました。

1975年に帰国し、数年間は諸先生から心配のお手紙などを頂戴していましたが、次第に遠くになりました。細々と年一度のカード交換が数名の方とある程度になり、指導教授だった Dr. Leon H. Herbach もかなり前に引退され、フロリダに移住し、ついに音信不通となりました。 世はネット社会となり、ちょっとした問合せで大学に私のメールアドレスを知らせてしまいました。そして大学のウェブサイトにある同窓会ページでメールアドレス等の登録をしたのです。それから学内ニュースや行事のメールが時には届くようになり、大学発行の同窓会新聞も郵送してくれるようになりました。 1980年代になってニューヨーク大学は除々に力を回復し、現在は教育機関としての発展・評価が著しいと言われます。陰ながら嬉しい限りです。 知り合い等は居ないし、実際的な意味では特に関係は無いが、私にとって思い出多き大切な大学でありつづけています。

【追記 2010.04.10】
たまたま理由もなく日本語Googleで「ニューヨーク大学」を検索して幾つかのページにザッと目を通した。無いはずの工科系学科目も講座があるような記述に出会った。不思議に思い New York University のサイトに接続して最近の状況を調べてみました。
前述のように、ブロンクス区にあった理工学部が事情でブルックリン区のブルックリン・ポリテック・インスティチュートと合併し、ニューヨーク・ポリテクニク大学となった。私も自動的に合併校に移籍となり、大学院生兼リサーチ・フェローの肩書で所属していました。
それから約35年も経た2008年7月1日、ニューヨーク・ポリテクニク大学はニューヨーク大学と Affiliation (合併) の関係になりました。実際には完全合併を目指しての具体的準備段階になったのです。名称も NYU Poly ( Polytechnic Institue of NYU ) となり、年月をかけてニューヨーク大学の一学部になることが決まっていた。Affiliation が正式決定されると、 NYU Poly の学部と大学院の入学基準が直ぐに上昇し始め、入学レベルの向上と学生数の増加につながったらしい。不況最中のアメリカの高等教育機関では NYU Poly は比較的良い立場にあるようです。
昔のNYU理工学部は合併により消滅しました。合併後のニューヨーク・ポリテクニクに務めましたが、経歴は自分の選択により NYU 大学院卒業です。その NYU に所属した学部がないのは正直にいって何かと辛いこともありました。短期間ながら経歴上の関係があったポリテクニク大学が NYU の一部となったことを知り、自分の出身学部が復活したように思えて、こんな痛快なニュースは久々でした。自分の人生に直接の影響はないが、めずらしくも感激し嬉し涙が出ました。
ついでながら、現在の日本にはニューヨーク大学同窓会は学部単位で幾つかある程度で、韓国、台湾、香港のようにニューヨーク大学が認知した同窓会組織はありません。北行がNYU同窓会ウェブで調べたところ、約1000人の正規卒業生(学士・修士・博士)が日本国籍のようです。活動期間を40年として、平均では年間25人の卒業です。学部当り1年に若干名の卒業となりますが、人気ある学部と何かと入学が難しい医学部などでは卒業数も違うと考えられます。

【追記 2010.04.10】
昨日のTVニューズによると、海外諸国からのアメリカ留学生数は毎年増加傾向にあるが、日本人の昨年のアメリカ留学生数は唯一例外的に−14%だったそうです。2003年頃から少しづつ減り始め、目立つ存在になったようでした。
3月中旬に来日したハーバード大・学長は東京における会合で「日本人留学生の減少に懸念を表明した」といわれます。日本の若人や各種機関にも様々な理由はあるでしょうが、一般論として、日本の社会全般が内向きというか、留学のメリットが薄れているのかも知れません。

【追記 2015.10.31】
NYUポリテック工学部を指定して Ms. & Mr. Tandon (インド系アメリカ人夫妻)が1億ドルを寄付されました。日本円ではほぼ120億円の巨費になります。これによりNYUの工学部は冠学部となり、2015年10月4日(5日?)付けで、
NYU Tandon School of Engineering(NYUタンドン工学部)
と改称されました。巨額の寄付金の使途はいろいろリストされていますが、主にFacultyの研究費等に向けられるようです。
ついでながら、長くNYUで保存された Heights の理工学部卒業者名簿は現在は Tandon School of Engineering の卒業生として旧ポリテクニク・インスティチュートの卒業生名簿と合併になりました。工学部同窓会の名称はアメリカで2番目と云われる長い伝統をもつポリテクニク・インスティチュートを使用しています。年齢を考えると意味はないが、卒業学部難民が母校の学部に戻ったような感じでしょう。

【追記 2016.01.17】
理工学部を失った時(1973年)の NYU に対する影響は予想を遥かに超える大変なものだった、らしい。その後、財政基盤や学術的な充実に邁進して少しづつ回復し、現在(2016年)では世界の大学ランキングの結果も改善されているようです。NYU はいわゆる伝統的な名門校とは少し違う性質の高等教育機関ですが、ニューヨーク市の特色を生かしながら発展し、レベルも学費も高いものになったようです。NYUでは「時代のニーズに合致していた結果」としているようです。
ついでながら、世界の大学ランキングは幾つかあり、多くの比較項目や個々の結果を順位に変換する非公開公式で算出される、という。各国トップクラスの大学はその国では極めて優秀な教育機関でも国際比較となると別の話になる・・・。難しい問題を含んだランキングと思います。日本では東京大学や京都大学が100位内の常連ですが、国立系なので寄付金の総額も少ないと思えるし、日本語の論文や著書は引用される機会も限られ、日本の風土では著書が他大学の教科書に指定されることも少なく、留学生の受け入れ体制も十分と評価されないかも知れません。両校とも日本人には非常に優れた大切な大学ですが、ランキングをみると世界に優秀な大学は数多くあると再認識します。欧米諸国の大学に限れば率直な順位で参考になるのかも知れません。異なる文化圏なら異論も出やすいと考えます。

【追記 2017.05.22】
2010年10月のことでした。NYUから同窓生に対する寄付金を依頼する郵便物が届きました。初めてのことです。企業経営者とかオーナーでもなく、組織に所属して出世した身分でもない。証券投資といっても常に休眠投資家であり生活上の心配はない程度で満足している普通の人間のことです。毎年は難しいという内容の手紙を入れて、ガイドラインの幾種かの金額から寄付○千米ドルを選びクレジットカード番号を知らせました。当時は上層部から丁寧な礼状が届いたりしたものでした。
その後も毎年秋に同じ寄付依頼の郵便物が届くようになった。毎年となると寄付金は減らさざるを得ません。半分にして応じていました。
時には Tandon School of Engineering からさえ別途の寄付依頼が来たことすらありました。無理は禁物なので応じなかった。
実はローマ字氏名でGoogle検索をしても、卒業後の研究活動等はないのでNYUとの関連を示す情報は何も出てきません。辛うじて NYU PhD Tree というページで名前と学位授与年が表示されていたのみでした。
毎年の継続的な寄付により”alumni member”から”NYU loyal”に同窓会内での区分が変わったらしいが、NYUと同窓会を個人的な目的に利用する意図は毛頭にありません。また、日本在住ですし、同窓会での所属カテゴリーに社会的な意味はないと考えられます。
最近になり、 NYU PhD Tree ページも消滅したようで、インターネット上ではNYUと自分の関連を示すページは全く無くなりました。微かな淋しさは感じますが、年齢から云って卒業学校や職業的活動、社会性の向上などよりも、自分の健康管理や相応の日常生活や時折の旅行などを楽しみたい程度です。趣味三昧は大げさですが、近いもの。自分の記録としての旅行記も時には作成しているが、書いたり改善したりが趣味の仕事みたいになった。若い時にニューヨークでの生活経験を得ることが出来たのはNYUに所属していたからですが、今の電子情報の世界とは違ったものでした。思い出話としてもどうでしょう。遠い存在になっています。でも航空会社のダイナミックパッケージ(現地は個人行動)で海外旅行を今も楽しめるのは、その経験があった故かも知れません。
日本の私立大学も寄付の依頼はありますが、現時点ではアメリカの大学のほうが寄付金集めに積極的な気がします。しかし外国からの留学生だった場合はいろいろな難しさを含んでいる・・・。

追記で脇道にそれました。また話をワシントン・スクエアーに戻します。

噴水に近いLoeb学生センターは取り壊され、特色あるアルミの壁装飾を見ることも、地下の学生食堂の利用も出来なかった。現在は建築工事が進行中だった。大学に巨額の寄付をした方々がおられ、実践劇場などを含む芸術教育の施設を作る計画は知っていた。ニューヨークタイムズ紙(NYT, March 27, 2001) によると、最近約24億円も芸術教育の奨学資金として拠出した人が居るという。  立派な芸術教育機関になることでしょう。が、学生センターの場所とは知らなかった。学生食堂で久々のランチが食べれず残念でした。(2004.05.15追記: この学生センターの場所には、ホールや教室もある新・学生センター(?) Kimmel Center ができたようです。)

昔、法学部に関してこんな話を聞きました。当地の名門コロンビア大学に願書を提出したが、惜しくも僅かな不足で入学許可には至らない学生に、「君の成績ならニューヨーク大学の法学部なら入学できるから、どうか?」  大昔のことでした。私が居た頃は、コロンビア大では既にこのアドバイスをしなくなっていたと聞いています。そして現在、全米の法学教育機関のトップの一角とも評されます。どんな手段と努力で難しいランキング改善が達成されたの でしょう?

院生兼助手だった頃に完成した赤い外壁の大図書館はそのままだった。既に築後30年くらいで外壁は汚れが目立ち始めていたが、この種の設備は歴史を感じさせた方が良いかも知れない。キャンパスとは言えない街の中の図書館では誠に珍しく、利用者が自由に書籍を選べる開架式図書館です。  開架式としては全米一の規模という。  

その東にはStern School of Businessが有り、ここはビジネススクールをワールドトレードセンター近くの金融街に持っている。昔は経営学のPeter F. Drucker教授や品質管理のDr. W. Edwards Deming がおられたので、日本でも知られたビジネススクールの1つである。数学的手法に重点を置き過ぎる、とビジネスウイークなどでも批判されたビジネススクールですが、今はどうなっていることでしょう。Henry Kaufman Management Center が併設されて、昔 College of Commerce のあった場所の新校舎に入居していました。  Dr. Henry Kaufman は長らく証券業界に身を置かれ、予想の的中率が高いという評判で有名だった。後にニューヨーク大学教授となり、ハーバード大学教授を兼任され、「Interest Rates, the Markets, and the New Financial World」(翻訳書は「カウフマンの警告」、剄草書房,1986)等で日本でも知られた人である。研究所に名前が冠される以上、並外れた貢献がおありなのでしょう。 経済・ビジネス分野で現在活躍中の卒業生は数多くおられますが、中でも特に著名な出身者に、Dr. Allan Greenspan がいます。FRBで記録的な長期政権を維持していますが、米国経済が停滞し始めるにつれて、その威光もかげり始めたとも言われています。しかし、何時の日にか、Greenspan XX 研究所なるものが出来るかも知れない、等と想像しましたね。 

ワシントンスクエアー東側の本部の古い校舎は昔のまま。皆さん同じ古い教室で勉強、と思ったら嬉しくなりましたね。相変わらずパープルの旗が各建物の入り口に掲げられています。

そのまま東に進むと応用数学で有名な Courant Institute of Mathematical Sciences の建物がある。研究所名に冠された R.Courant教授は 「Differential, And Integral Calculus」等の古典的テキストブックで日本の数学関係者にも知られた存在だった。ユダヤ系のCourant教授はナチに追われ、米国に逃げ込んだドイツの数学者だった。既に高名だった教授は、渡米後プリンストン大学など適切と思われる幾多の大学に所属先を求めたと言われる。 しかし、どこも採用しなかった。当時は未だ移民子弟の教育機関みたいだったニューヨーク大学で我慢せざるを得なかった、とも聞いた。  応用数学の研究所(文理学部所属)の発端となり、その後約70年を経過し、現在は高く評価される応用数学教育 (米国一とする評価機関すら出現) の中心的存在となっているのである。Courant 教授は他のエスタブリッシュされた有名大学よりも、当時見下されていたこの大学で大きな力を発揮されたと考えられます。昔は、暑い夏などに冷房のきいたここの図書室を時折利用させてもらいました。百年以上前のドイツ数学専門誌のバックナンバーが書架に並び、自由に手にとり見れたことに驚愕したものです。資料のコピーなど学内では実費負担だったはずですが、ここでは係りが無料でコピーし協力してくれた思い出などがあります。  

30年昔は新図書館の最上階に当時の学長 Dr.James Hester(国連大学初代学長)の執務室があったようですが、現学長 Dr. Jay Oliva の執務室はこの建物の最上階にあるそうです。発展・変化の目覚しいニューヨーク大学のこと、「かしら」の居所も変わるようで・・・。 NYUを含めハーバードなどアメリカの多くの大学で学長交代があるそうです。 報道などを散見しますと、「学長の主な仕事は寄付金集め」と割り切っている方がほとんどとか。

この大学はアングロサクソン系アメリカ人が築いた諸制度の枠の中で活躍するユダヤ系アメリカ人が実に目立つ学校です。当市が欧州からの移民の窓口だった事と、古い歴史を持つコロンビア大学が有産階級と伝統的アメリカ人の子弟教育が主だった点を考えると、必然的な結果かも知れません。知的な意味で活発なイタリア系、ユダヤ系、他の国々からの移民の子弟がアメリカ社会で活躍する足かりとなり、それが今日になり大学にも還元され始めているのでしょう。 実際には、色々な民族的・宗教的・経済的背景の人達が交じり合う大都会の大学です。校風はリベラルで、留学生の数は米国一とも言われます。 30年前の私の経験では、黒人を除く多くの民族と出会えたと思いますが、伝統的アメリカ人学生に会う機会は比較的少なかったような気もします。 これは所属学部が工学部だったためかも知れません。法律、経済、経営、文理、医学、歯学,芸術などの分野では違っていたことと思われます。

同じ路をさらに東に行くとニューヨーク大学の建物は終わり、その先には全く別のユダヤ系宗教教育施設がありました。新しい建物で Academic な街作りに貢献する感じのものでした。このまま真っ直ぐ西4丁目を進むと、昔はバゥアリーと言う凄い貧民窟があったものです。車で見物した事がありますが、ボロをまとったアル中の連中が歩道でゴロゴロしていたり、ハーレムとは異質の不気味さを漂わせていたものでした。  市当局と周辺の市民の努力により完全に生まれ変わり、現在は普通の安全な街となったそうです(よかった、よかった。)

ニューヨーク大学が終わる交差点にレストランがあったので入りました。日曜の午後のことで近くに住む大学関係者らしい雰囲気の人たちで一杯でした。広々とした感じではなく、ゴチャゴチャした店作りでしたが、客筋の雰囲気に合っていて良いムードを作り出していました。  ランチタイムなのにコーヒーとアップルパイにしました。コーヒーカップが日本のモーニングカップのサイズでたっぷりの飲めたのには助かりました。  American Flag, American Mother, Apple Pieと並び称されるアップルパイはシナモンで味付けした、まあ普通のもの、でした。

レストランを出て、来た路の反対側の歩道を戻った。 Stern School と Courant Institute の間は路面から高くなった広場があり、ベンチがあちこちに置かれしゃれた休息所になっていました。  今日は日曜で閑散でしたが、平日には教職員と学生にかなり利用されるのでしょう。West Broadway まで行かず、手前の図書館とStern Schoolの間 の小道を通り教職員居住区に行きました。ここは Washington Square Village といい、校舎から路を挟んで細長い高層アパートが東西に2棟ある。 そこに住んでおられた某先生のパーティーに招かれ中に入ったことがあり ましたが、アメリカのことで外観から想像するより広く快適なお住まいだった と記憶しています。しかし日本の高層アパートは30年もすると見るからに 古い感じとなるのですが、ここの建物は見た目には変わりない印象です。  何故でしょう?その南の隣接地はUniversity Plazaとなり、かなり高層な 教職員アパートが3棟ある。この居住区も全く昔のままでした。住んでいる 教職員の方々はもちろん総入れ替えとなっている事でしょう。  長身の3棟に囲まれた広場に巨大なピカソの彫刻(実物)があります。  黒線以外の彩色は施されていませんが、誰にも一目でピカソとわかる物です。  ここで写真を撮ってニューヨーク大学の施設に別れを告げました。

グリニッチビレッジ
ブラブラとワシントンスクエアの西側の路を北に歩き、左折して古いアパートの道をグリニッチビレッジの古い街並に向かいました。  昔スクエアーに用のある時は6番街の地下鉄駅からワシントンスクエアーまで歩いたこともありました。ポツポツとレストランや商店があった程度でしたが、今はかなりの変っています。狭い歩道にテーブルセットを並べ、欧州の都会にあるカフェテラスの真似をした料理屋があちこちにできていた。  高級レストランとは違い気軽に楽しめる雰囲気が漂っている。  鉄製の非常階段が歩道に張り出したレンガ造りの古いアパートが並び、 そして歩道の並木が狭い車道を緑のトンネルにしている。  昔は家賃が安くボヘミアン芸術家のたむろする地区と言われたものだったが、 有名になると共にこれらの古いアパートも家賃が上がった。  ボヘミアン芸術家には「高級住宅地」と化してしまい、夢多き若き芸術家などは別の地区に移ってしまったと言われる。しかし、少々風変わりな衣装の人たちの姿もチラホラ見ることもできて退屈はしない。自由を愛する芸術家気質の人たちが住民に多い伝統は恐らく生き続けているのであろう。  東京の下町の小路より遥かに広い立派な通りなのだが、ニューヨークの大通りと巨大ビルに見慣れた目にはゴチャゴチャとした狭い通りに感じられるのである。これが人々をホッとさせる雰囲気を作り出している。  ロンドンの赤い二階建て観光バスも客を乗せてここを走っていた。  このエリアも大層な出世をしたものである。しかし、パリ・モンマルトルと並び称されるグリニッチビレッジですが、モンマルトルのような観光地にはならないで欲しい、と願うしかありません。

14:30 6番街の地下鉄駅近くのビレッジスクエアーに出た。初めて6番街の西側に行ってみる。 イタリア系の住民が多いと言われる地域だが、ブラブラ歩きをするとニューヨークの古き下町の雰囲気を味わえる。  イタリア人街だった Little Italy が実質的に China Town Annex に変貌していると言われる今日では、欧州系移民の下町を楽しむにはここが適切な地域の1つかも知れない。 古いレンガのアパートの谷間には平らな歩道があり、電柱・電線が無く代わりに並木の太い幹と車道上まで伸びた枝がある。  新緑を終えたばかりの並木路は心地よい。古アパートの1階部分は時々商店やレストランやカフェになっている。骸骨を看板に使用したパブがあったり、革製品を売る店やペットショップや果物屋、いろいろな店屋があってそれなりに面白い。 もう一度散歩したくなった地区でした。

イタリアン・デリー
6番街に戻り、東側にある Balducci's というイタリア系食料品店に入ってみた。 やはり欧州物の珍しい食材などがかなり置いてある。  ノーコルステロールと表示されたオリーブオイルを買ってみた。 これはあまり無い感じのつる首のガラス容器を使用している。 イタリア名のコーヒー豆も買ったが、帰国後の賞味では、そこそこ平凡だった。Balducci's の支払いを済ませ、近くでバスを待つ。
メイシーズ(デパート)
Macy's手前のバス停で下車し、34丁目Broadway側からMacy'sに入る。 大デパートで迷う位に中は広いが、外観と同じくエスカレータなどの設備は 時代物だった。これが、ある種の魅力かも知れないが、新しいほうがいい。 適当に見歩き、8階のカフェテリアで一休みした。  スペイン陶器のリアドロに大資産家の豪邸にしか飾れないようなシンデレラの置物があった。シンデレラが馬車から降りかかり、従者がうやうやしく手を差し出し、 高所ではトランペットを吹く楽師がいる。大きいながら細部まで精細に作られて見事なものだった。これ以外のリアドロは日本でも見られるようなものばかりだった。洋食器売り場でナイフ・フォーク・スプーンのセットを見たが、本場だけに種類の多さには感心する。しかし日本人には大きすぎるサイズのものが多かった。特にスープ用スプーンは丸く大きいものが多いのはどうしてだろうか。  
蚤の市
Macy'sを出る。6番街寄り出口から出ると早かったが、勘違いして Broadway を数丁南に下がってから6番街に向かった。30丁目近辺で青空蚤の市があった。土日の日中にのみ開かれるもので夕方となった今では終えた店が半分以上だった。が、家庭用装飾品類の店が未だ開いていたので入って品を見てみる。蜀台や装飾品など磨けば使えそうなものが結構売られていた。 実は蚤の市を見たいと思い、インターネットで主要な開催場所と日時は調べてあった。New York初日の天候が思わしくなく予定が狂い、土日のみの蚤の市は Cut となっていた。路を間違えたお陰で少しだけ雰囲気を味わえたのは幸いだった。
ホテルで休息
もう6時近くだった。6番街を北上する#6のバスに乗りホテルの近くで下車。 一旦部屋に戻り休む。やはり足がかなり疲れていた。
Tボーンステーキ
19:30 夕食のため部屋を出た。6番街と7番街を結ぶ52丁目にはアメリカン・ レストランが幾つかある。それぞれ一応の規模のようである。昨日通りがかった 時に満員だった一番近いレストランにした。客入りが良ければ味も大丈夫という 発想からである。注文は予定していたTボーンステーキである。  運ばれてきた焼きたてのTボーンステーキは大きかった。自分で皿に取る大衆的 ステーキハウスの薄いものしか食べたことがなく、本物というか、こんなに厚い Tボーンスターキは始めてだった。ただ、骨の部分が多くて肉の量は見たほどで はなく丁度よかった。私の口に合い、実に旨く、満足した。 ワイフは鶏料理を注文したがあまりにも塩辛く口に出来なかった。  試しに一口味わったら、確かに塩味が強烈である。ウェイターにその旨苦情を 伝えると直ぐ皿をさげ、直ぐウェイターの責任者らしき人がテーブルに来て 「我々の落ち度です」と丁寧に詫びた。  ワイフは大ざっぱでまずいサラダとパンのみの夕食となってしまった。  1日動いたのに満足な夕食が出来ず、本当に気の毒なことだった。 料金表を見るとワイフの料理は当然ながら請求されていない。 日本人,特に女性、には無理な味付けだったようだ。 テーブルで清算し、レストランを出た。出口のレジ嬢は俯いたまま無言だった。  せっかく入ったアメリカンレストランだったのに、本当に残念だった。

7番街の Delli に行き、海苔巻などを購入した。 ワイフは食べなおす必要があった。「中食」が無難である。

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