ニューヨーク滞在8泊9日  [ 8日目/5月24日(木) ]
ブロンクス動物園・マジソン街・セントラルパーク
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今日は自由行動最後の日である。天候は何とか回復してくれて、曇後晴れの天気予報だった。商店街での買い物は済ませたので、ブロンクス動物園に行くことにする。ホテルを出たのは丁度10時だった。

ブロンクス動物園に向う
ホテル向かいの化粧品店に入り、緊急的に必要となった小物を買った。ロックフェラーセンターのある50番街まで6番街を歩き、地下鉄IND線の駅に入った。 この駅も昔のままのような気がしたが、清潔な感じではあった。 急行Dに乗った。30分位で Fordham Road 駅に到着した。ここは地下2階にプラットフォームがあり、構内出入りの改札口は地下1階にある。  ここが鉄とコンクリートの薄暗くだだっ広い場所で、又、肌の黒い人達ばかりなので不気味な感じが漂っていた。しかし、不慣れな為であり、ゴミも散らかていないし、妙な匂いもない。昔とは随分と違っていた。

少し歩いてFordham Roadに出て、#22のバスで東に向かう。 運転手に Bronx Zoo に行くので Southern Blvd. で停車するよう頼んだつもりだったが、言い方が悪かったのか止まらなかった。次の停留所で降り、反対側のバス停まで歩いた。大きい交差点で地下鉄の高架橋がある。緑が多いのだが、この鉄製高架橋のため何とも殺風景であった。動物園の地図を見るとこの近くにも入り口は あるのだが、ここを歩く気持ちにはなれなかった。 #22のバスが来たので乗ったが、ZooとBronx Botanical Garden の間の道には 停留所がなく、かなり戻った。 

バス停から5分歩き、動物園の入り口 Souther Blvd. Gate にやっと着いた。 Fordham Roadを下り、正門から入ったほうが近かった。  この動物園には米国の観光会社がマジソン街経由で直通バスを運行しているが、予約が必要のようだ。これを利用したほうが楽で良いようだ。 入り口からチケット売り場まで結構ながい。左手に広大な駐車場があったがびっしりと車が詰まっているし、その奥にはアメリカ特有の黄色いスクールバスがズラリと並んでいた。平日だが園内は課外学習で賑わっていると思われる。

ブロンクス動物園
窓口でチケットを買い、切符切りが半券を返しながら「マップを受け取って下さい」と言う。次に居た子供みたいな黒人女性は聞いていたが知らぬ顔。「マップをくれ」と言ってもすねた態度でいやいやに渡した感じだった。  平日なら「水曜は無料」なので、その日のほうがBetterですね。 昔一度来たことがある動物園でも様子はすっかり忘れている。 カフェテリアなどがある所のベンチに座り、地図を広げた。 動物園の職員が来た。なにやら見学コースについて説明してくれたが、地図は印刷物を逆さまにして見るように言われた。確かにそのほうが分かりやすい。  それでもどの道順が良いのか決めかねる。気ままに歩き回ることとした。

フラミンゴが沢山いる池沿いの路を歩きアフリカ地区に行く。  キリンとかゾウなどは見れたがゴリラ館の前は白人客で長蛇の列。何故こんなにゴリラに人気があるのか?「コンゴ」という10年くらい前のベストセラー小説はゴリラと人間が主人公だったと記憶しているが、そもそもゴリラに興味があるからベストセラーになったのかも知れない。我々は列につかずに進んだ。

歩いているうちに直ぐ気が付くのだが、動物園なのか植物園なのか分からぬ程に緑が豊かである。この動物園は檻に動物を入れず、放し飼いの自然に近い方法で動物を飼っている。所々に観察場所があり草木に邪魔されずに観察できるようになっていた。気ままな動物は自分の領域の好きな場所にいる。  人間がそれを見れる場所に行くわけだ。サファリパークの原型モデルと言われる が、よくも大都会でこのような動物園をつくったもの、と改めて感心した。  土地がある為だけではなく、ニューヨークの先取の気質が作らせたものであろう。 園内には家族連れもかなり見られたが、先生方に引率された小学生の多いこと、誠に賑やかで・・・。こんな動物園での課外学習が行えるのは日本の学校にとっては羨ましい限りであろう。

若かりし頃は子供らによく「チャイニーズ」と言われたものだった。 今回は数回「ジャパニーズ」という声がきこえた。子供達に正しく認知してもらえ 嬉しい限りである。これもひとえに「もののけ姫」とか「ポケモン」人気のためで あろうが・・・。

やっと久々に空は晴れてきた。適当に見歩いて、昼食にする。  ダンシング・クレーン (丹頂の舞) と言うカフェテリアに入った。鳥のから揚げ1、フレンチフライ1、コーヒー2を購入、真ん中の席に座った。鳥のから揚げの下には十分な量のフレンチフライが入っていて、不要なものまで買ってしまったが、致し方ない。辺りを見るとキャフェテリアの客は夫婦とか子供連れの白人ばかりであった。いわゆる有色人種は我々だけだった。こういう動物園で時間を過ごす経済的、時間的、知的、精神的ゆとりは白人系米国人に偏っている結果かも知れない。しかし最近の報道 (NYT Online, April 30, 2001) では、米国の上位100都市ではヒスパニックを除く白人の人口が50%以下の都市数が約半数になったという。10年前の調査では30%の都市数だったそうで、大都会の人種構成は急変中と言える。サンプリング理論ではないが、少しは黒人の家族などを見かけても良いような気がしたのも正直なところである。  しかし、白人・黒人の子供達が混じりあった小学生の団体をみると、この子供達が大人になった時には変わるだろう、と思われた。  教育の力はのろいが大きいものである。

【追記】 黒人のバラク・オバマ氏が2009年に第44代アメリカ合衆国大統領に就任された。アメリカの変化は早かったが、逆に2017年にはドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ大統領になり、一部では反動的とも評されるようです。難しい問題です。[2017.04.01 記]

帰路:Fordham Road
14:00 動物園の正門を出て、Fordham Road を西にバス停まで歩く。 #12のバスに乗ったら、降りるつもりの地下鉄IRT線 Fordham Road 駅の5ブロック手前で終点となってしまった。 

ここから徒歩30分位の University Heights に1969年から1973年まで4年間住んでいた。当時から比較的大きい商店街で、週末など日常生活の必要品を時折買いに来た場所である。当時はアレキサンダーというデパートもあったし、普通のアメリカの商店街だった。つまり、働いている人たちも、買い物などで歩いている人々も多くは白人系だった。週末の人出も賑やかなものであった。 

懐かしいと言えば言えなくもないが・・・。実は大変化が起きていた。 路行く人たち、立ち話をする人々、ほぼ全員が黒人系アメリカ人であった。 アフロ・アメリカンには誠に申し訳ないが、日本の社会環境に馴染んだ人間として、本能的ともいえる薄気味悪さを感じた。日常はテレビの画面でのみ知りえる環境なのだ。バスから外に出た瞬間は致し方ないのである。 ただ、怖さとか恐怖心の類はなかったので、#22のバスを待たずに地下鉄駅に向かって歩き始めた。すぐ見慣れて、落ち着いてきた。通りの人達は肌の色が違うだけで身なりも普通の質素なアメリカ人と同じだし、買い物らしき人、通りがかりらしきグループ、大声で話す人、携帯でしゃべる人、工事の人、何も特別なことはない。昔よりゴミは多いような気がしたが、記憶は当てにならない。ただ、昔のハーレムよりは比較にならないほど上等なことは間違いなかった。走っているバスは珍しい二両連結の新しいもので、ステンレスの車体が街の雰囲気を明るくしていた。 

交通量が多くうるさい広い車道の反対側から喧嘩をしている女性の大声がガンガン聞こえてきた。「こりゃ大変だ、取っ組み合いになるか?」と反対の歩道を見ると、大きい黒人女性が商店の壁を背に携帯電話に向かって大声を出している。こんなバカ大声で携帯に話さなくとも用は足りるはずだ。 この人、自分が携帯電話を持っていることを通行人に自慢しているのか、よく通る大声を誰か買ってくれないかと売り込み街頭宣伝中なのであろう。 日本の大声コンクールの賞は全部取られてしまうこと請け合いです。

5ブロックなど直ぐ歩き終え、Jorome Avenue の鉄製高架の地下鉄駅になりました。その直ぐ近くに宝飾店があり、店の人らしき白人の中年男性が陽に当たりながら通りを眺めていました。純正白人を見かけたのは久々の気がしましたね。

帰路:地下鉄IR線
地下鉄IRT線 Fordham Road 駅は全く昔のままでした。 普段は1駅マンハッタン寄りの183丁目駅で乗り降りしていましたが、時折この駅も利用していました。さすが少し懐かしい気持ちが湧いてきました。住んでいた場所にも行きたかったのですが、かつてのアメリカ人の友人が日本に来たとき、「行くべきではない」と言い残したので止めておきました。ここから先の南西地域は集合住宅ばかりで商店街ではない・・・。階段を上りプラットフォームから北側の風景を見たら、遠くに巨大な高層アパートが1棟できていたが他は見覚えがあるような気がしました。 恐らく景観もたいして変わっていないのでしょう。

IRT線の車両も新しくなり快適でしたが、乗客の80%以上が黒人で白人と東洋人がチラホラといった感じです。黒人と一口に言っても千差万別、ネクタイ組み、スーツにハンドバックの女性、カジュアル姿、質素な若者、全体として不潔な感じはなく何の不快感も不安も感じません。  この地下鉄はJorome Avenueの高架橋を走り、ヤンキースタジアムを過ぎたところで地下に潜ります。それまで車窓から風景を愉しみました。 

住んでいた場所の建物群の眺めは30年前と同じでした。  「183丁目駅近くの郵便局を良く利用したナ、大学への上り坂の途中にドーナッツ屋があったし、その向かいの洗濯屋は時々取れたボタンを付けてくれたっけ、夕食を時々したレストランはまだあるだろうか・・・。」  学業・研究以外のことばかり、いろいろ思い出されました。

ここでの生活がアメリカ滞在の中心的なものだったと言えます。地下鉄の窓から見える一番高台の建物の陰に University Avenue があり、その向こう側にイーストリバーを見下ろす University Heights がありました。公共的なものとして、Hall of Fame という回廊があり、アメリカの歴史を築いた著名な人物の胸像が数多く並べられていました。これは恐らく今も残されている、と思います。小さいながら伝統的なドームを持つ図書館、Tech.I とTech.II の工学部校舎、その他の実験棟、学生会館、体育館、プール、グランド、学生寮、その他の施設が緑の中にあり、それなりに大都会のキャンパスとしては恵まれていました。 

題名は記憶していませんが、このキャンパスを舞台にした若者むけの映画が1960年代(?)に製作され、多く観客を引き付けたと言われます。 実はここに入学した大学生はある程度の学業水準であるにかかわらず世間からは見下され馬鹿にされたそうです。多くの学生がひねくれ、自信を無くし、暗い気分につつまれた。ユダヤ系の父母は見かねてしまった。ハリウッドにはユダヤ系人物も多かった。映画制作者に働きかけ、このキャンパスを舞台に映画を作らせた、と言われていました。この映画を期に、ここの学生を軽視する風潮は消え去り、明るく変わったそうです。Jewish Mother という言葉があるが、その意味するところは分かりません。しかし子を思う親心は凄いものです。  「社会が悪い」と声高に叫び、世間に「変わってくれ」と訴える。これも1つの 方法でしょうが、ユダヤ系の人々の実質的結果を重んずるやり方は効果的でした。 しかし、これも今は昔。これらの施設はどうなっていることでしょう。  ニューヨーク市立の大学として利用されていることと思います。残念ながら、 母校として訪れることは出来ません。

キャンパス明け渡しの前日のこと、硫黄島の兵士ではありませんが、最後に校舎を出てやろうと思いました。キャンパス前のアパートで夕食を済ませ、またTech.IIの6階の自室に戻りました。引き出しの資料を片付け、数年間使用した机を丁寧に拭いたりもした。もう建物には誰も居なく、静かなものでした。  ぱらぱらと書いたものを読み返したりしながら過ごしていたら、足音がする。  「ホクギョウ!まだ居たか。」入り口から覗いたのは、指導教授の Dr. Leon. H. Herbach でした。夜も10時を過ぎていました。理工学部合併の理事側代表として 忙しかった教授は残務整理で向かいの Office に戻ってきたようでした。 これは譲るしかない。先に帰ることにしました。  「明日、ポリテックで会おう」 が Dr.Herbach の別れの言葉でしたが、心中は複雑だったことでしょう。 

何かと色々お世話になった Norman Barish 主任教授にはこの合併劇の後に一度だけスクエアー校舎でお会いしました。その後どうされていますやら・・・。 ここに移って暫くしたら、何故か逃げ出したくなった。誰にも言わずウォール街近くのビジネススクールに1人で行き、比較的近い学科の掲示板を読んでいました。 アメリカ人が慌てた様子で駆けつけてきて、 「君、ハイツの学生だろう?」 「イャーァ」 「バリッシュは良い人だ。そこに居ろ。直ぐ帰れ。」 これだけ言って足早に立ち去りました。たとえ同じ大学の中とはいえ、何故私の事が分かったのだろうか。不思議です。事実、Barish教授には何かと目をかけて頂きました。ついでながら、Dr.Herbach と Prof.Barish の奥様方はニューヨーク 大学で相並んで授業を聴いた友人関係だったそうです。 

1年以上も研究室の1員に加えてくれ、かなりの我ままも黙認してくださった Dr. M. Klerer は合併後は電子工学科に移籍されお会い出来なくなりました。弟子の Dr.Grossman も他校に移籍してしまい・・・。 他にも Dr. Chu, Dr.Kao, Dr.Kaplan, Dr.Nanda, Dr.Graf, Dr.Greenberg その他の 諸先生方とスタッフの皆さん、またここで出会い、学び、議論し、雑談した助手・ 院生のO君、A君、P君、S君、F君、・・・、こうやって書いていると懐かしく 思い出されます。遠方の学会に一緒に行ったこともあった。 Bさんというアイルランド系の女性院生もいました。この人は珍しくも校内で会う と挨拶したり話しかけてきた人でした。滞米中に私に話し掛ける米人女性などはいなかった。ご主人は証券会社のメリルリンチ勤務と言っていましたし、何かしら妙な因縁も感じたものでした。IBM や AT and T の Bell 研などからの院生にも世話になったり・・・。 閉鎖後は散り散りとなり、しばしポリテックで一緒の方々もいました。  F君の言葉、「俺たちはこの地にいる。日本に帰っても忘れるな !」 今となっては、諸先生は老い、院生仲間達も初老に近い頃です。  ただ、ただ、健勝であることのみ願われます。

追記(2016.01.17) NYU Tandon School of Engineering
1973年のこと、NYUの理工学部はブルックリン・ポリテクニク・インスティチュートとの合併でニューヨーク・ポリテクニク・インスティチュートとなり、ブロンクス区からブルックリン区に移動しました。その後に名称がポリテクニク大学に変わり、所属したNYUの理工学部は事実上は消滅したのと同じでした。しかし、2008年に合併準備が具体化し、2014年になりニューヨーク大学とポリテクニク大学は正式に合併、NYUポリテクニク工学部として政府からも正式に承認されました。そして2015年秋に Tandon夫妻が工学部に1億ドルの寄付をされました。即刻、冠学部となり、NYU Tandon School of Engineering と改称されました。長い年月を経て、自分の出身学部が NYU に戻ったのです。つれて NYU 預かりとなっていた卒業者名簿も現 NYU Tandon School of Engineering に戻されました。工学部同窓会の名称はアメリカで2番目と云われる長い伝統をもつポリテクニク・インスティチュートを使用しています。
個人的には出身学部の消滅と復活を経験したことになる。卒業学部難民が難民ではなくなった、とも云える状況です。理工学部を失った時の NYU に対する影響は予想を遥かに超える大変なものだった、らしい。その後、財政基盤や学術的な充実に邁進して少しづつ回復し、現在(2016年)では世界の大学ランキングでも改善されている。NYU はいわゆる伝統的な名門校とは少し違う性質の高等教育機関ですが、ニューヨーク市の特色を生かしながら発展し、レベルも学費も高いものになったようです。
ついでながら、世界の大学ランキングは幾つかあり、多くの比較項目や個々の結果を順位に変換する公式の結果とされる。各国トップクラスの大学はその国では極めて優秀な教育機関でも国際比較となると別の話になる・・・。難しい問題を含んだランキングと思います。日本では東京大学や京都大学が100位内の常連ですが、国立系なので寄付金の総額も少ないと思えるし、日本語の論文や著書は引用される機会も限られ、留学生の受け入れも十分と評価されないかも知れません。両校とも日本人には非常に優れた大切な大学ですが、ランキングをみると世界に優秀な大学は数多くあると再認識します。欧米諸国の大学に限れば率直な順位で参考になるのかも知れません。異なる文化圏なら異論も出やすいと考えます。

ここで当時の日本で一般には知られていなかった制度に触れます。 大学、大学院の教官は通例は週に4授業の受け持ちで契約します。研究に打ち込みたい人は外部団体に研究費の申請をし、認められたら人事と予算の権限を持つ主任教授に相談し、研究費と必要時間に応じて担当授業を減らしてもらいます。当時、日本の一部の大学関係者が「米国のように」と主張した、 研究日制度など無いのです。また、研究は出来ないが収入を増やしたい人はやはり主任に相談して、担当授業数を増やす手もありました。夏期講習はこれに利用されていたようです。担当科目に巾があり、5-10科目位のレパートリーが必要な場合があって、日本の専門XXのOO先生とはかなり違います。 ( 注;あくまで自分が所属した工学部での例に基づいた記述です。)

大学院の講義は多くの学校で開放されていて、企業からの院生も多く出席しています。幾つかの企業の人達の話では、普通は上司の決済を得て大学院に通うそうです。その場合、履修した科目の成績がA又はBならば会社が授業料を払い、C,D,Fならば本人負担となる(奥さんに叱られる。)  単純に割り切った勉学奨励制度です。無事修士号なり博士号を取得すると、本人は良い職場を求めてその会社を辞めることが多く、会社は損をした形になる。しかし、企業は「奨学制度」と割り切っている。社会全体としては損得なしとも言えるのです。

このようなやり方で、米国中に開かれた大学院が存在するのです。 あたかも日本の津々浦々までパチンコ店や赤提灯があるように・・・。 日本では学校差を強く意識し身分差に近い場合すらあるようですが、米国では 極論すれば「本人が学ぶ場所」に過ぎません。ハーバード大の出身者がニューヨーク大学で修士号を取ったり、MITの卒業生がスチーブンス工科大で勉強を続けたり、本人の事情次第で色々です。以上を踏まえて、歴然とした学校差はやはり存在しています。基本は、修士号や博士号を取ると条件の良い職場を得ることが出来る制度と自由度でしょう。 

さて、地下鉄は思い出の地域を直ぐ走りぬけ、ヤンキースタジアムの横を通りました。球場は試合中でチラッと見える観客席は大観衆で埋まっていました。スタジアムは改築されたのか以前より新しい感じでした。 ここで外の風景とは別れ、地下に潜り、86丁目駅で下車しました。

IRT86丁目ステーション
地下2階のプラットフォームから階段を上り地上に出ました。  間違いなく86丁目に出たのですが、方向感覚が全く狂い、どちらがマジソン街なのか見当がつかないのです。ショルダーからコンパスを出して向かう方向が分かりました。昔ジャーマンタウンと呼ばれていた通りで、ドイツ菓子を売る店などがかなりありました。度々来た慣れたところですが、26年の歳月は大きいものと痛感しました。この街に出て、ワイフも私も実は内心ホッとしました。
マジソン街のケーキ店
素晴らしい天気に変わっていたので、86丁目からマジソン街を南にブラブラ歩きすることにしました。南に下がると間もなく、確かマジソン街83丁目あたりの東側だったと思いますが、ケーキ屋があったので入りました。
階段を数段のぼり、入口の奥でケーキーとパンを売っています。  ケーキのケースを見ると、美味しそうなのがズラリと並んでいる。  早速、丸顔でイギリス系に時折見る顔付きの女性が応対を始めた。  「持ち帰りですか?」
「いや、あそこの席に座りたいのだが。」
「どうぞ。」
「このイチゴのケーキを注文したいが、名前はなんですか?」
「イチゴ、それでわかります。」 
笑顔の愛想の良い人だ。 左側の大テーブル奥の真ん中に座った。向かい右側は赤ん坊を抱いた母親が二人、左には2・3人の客、角にはアラブ系らしき男性二人だった。  注文を済ませたら、お洒落な若い女性が一人で斜め向かいに座った。  黒人のウェイターに水を頼んだら、愛想良く応じてくれる。ワイフは喉が渇いて いたらしく一気に飲んだ。注文した Strawberry Tart, Ice Coffee, Ice Tea を 持ってきた。ケーキは特に大きいものではないが、1個だけの注文でもナイフと フォークは二組持ってきた。気が利いている。ワイフがタルトを6個に切った。  実に美味しいイチゴタルトで、ニューヨークで初めて本当の Afternoon Tea を 愉しむことが出来た。
左向かいのお洒落な女性はサラダ風のランチだった。ワイフは食べたそうだった。 奥から出る客、ケーキとかパンを買いに来る客、皆さん数階級上の人種と思われる雰囲気です。中には女優さんではと思われる衣装の人もいます。  さすが、高級住宅街のケーキ屋と内心感心しました。 3時半近くにウェイターに代金とチップを払い、席から立った。  Thank you の言い方が実に丁重だった。また、入口近くの棚を整理していた、 初めの女性店員は素晴らしい笑顔で Thank you を言ってくれた。店を出ても、明るい気分がしばし持続した。
マジソン街のブラブラ歩き
素晴らしい青空のマジソン街をエルメスのある62丁目までウィンドウ・ショッピングをしながら散歩した。ラルフローレンの本店など有名店があったり、古い建物が有ったりで、結構楽しめるのだ。5番街よりも肩のこらない散歩が出来ることは確かだ。ワイフはエルメスを再度見たがり一人で入った。その間横道でタバコタイムとした。スマートなスーツ姿の男性が近くでタバコ吸っていたが、この人はエルメスの裏ドアーから入って姿を消した。愛煙家はどこでも排斥の受難を受けなければならない。 マジソン街の写真をデジカメで何枚か撮影したが、撮れていなかった。うっかり 設定ボタンを動かしてしまい気付かなかったようだ。 62丁目を歩いて5番街に出る。今日は随分と歩いたので、ホテルに帰った方が 良いと思ったが、ワイフはセントラルパークを歩きたいと言う。この上天気なら 公園も気持ち良い事は確かなので承知した。
セントラルパーク
60丁目の入り口からセントラルパークに入り5番街に平行する路を北に歩いた。左側には動物園、右側には公園関係の建物のある路である。  この道の初めは両サイドにベンチがあり、久々の好天気のもとでゆっくりと休む人たちが多かった。似顔絵書きも数人出て仕事をしている。客は何故か水兵服ばかりだった。 

ワイフの写真を撮ろうとしたら、若いアメリカ人夫婦から「お二人の写真を取って上げましょう」と声をかけられた。「代わりにこのカメラで我々の写真を撮ってください」と交換条件が持ち出された。アメリカ人のこの種の条件付き親切は海外旅行で幾度か経験していた。軽い互助のこと、もちろん承知した。 私はこの方法でシャッター押しを頼んだことはありませんが・・・。

横道にそれるが、重い互助のお話です。30年も昔、ある大学の先生が日本流サバティカルで海外滞在ということになった。ニューヨーク大学に所属していた私の 元に手紙が届き、同大学に数ヶ月滞在できるよう交渉の依頼をするものであった。大学にとり大変な時期であったが、この先生の事情も分かるので学科主任 Barish 教授に相談した。断られた。しばらく後に再度お願いした。ダメと同じ答え。この間の事情は日本の先生にもお知らせしたはずである。 そして三度目の正直を期待して又お願いした。 主任教授は怒り、怒鳴りつけられた。しかし最後に嫌々承知して下さり学科滞在が実現することとなった・・・。日中の研究室と宿泊用の部屋が用意されたのである。

後日、アメリカ人の助手・院生数名から個別に注意を受けた。
「交渉依頼が来たらかならず交換条件を出さなければいけない。この場合は帰国後の就職だ。」
帰国後のカルチャーショックは実に大きく、一生忘れられないものがある。  しかし、あるアメリカ人が言ってくれたこと、
「Don't forget, but you must forgive.」
大勢対1人、若く経験不足の粗雑な人間としては、全てが自分の力不足とするのが「円満な」解決方法なのでしょう(純日本流)。確かに90%は自分の責任と表現できる程に体力・知力・気力・目標を失っていた時期でした。で、この場合はそれで良いとしても、疑問は残る。日本では欧米は契約社会と説明される。では、一体日本は何の社会なのか。 これは、欧米での競争と協力、日本での競争と協力、この在り方に関わっている根源的な問題とも言えます。

さて、暫く歩き、左折して氷河時代の名残と言われる巨岩の傍を通った。木々と芝の中にゴツゴツした巨岩が幾つも頭をもたげている。家族連れが剥き出しの岩に上がり遊んでいた。マンハッタン島はこの岩で出来ていると言われ、高層ビルを安全に建てることが出来る基礎となっているのだ。

そして、そのかなり先には夏にニューヨークフィルの無料野外コンサートが行われるシープメドウが広がっている。昔、市立ハンター大学所属の友人Tom(一時期はニューヨーク大学助手)と彼のガールフレンド(現在の奥さん)、彼らの回りの学生らとでコンサートを聴きにきたものだった。スナックとワイン持参のピクニック気分で、日本の花見と似たものだ。  未だ印象に残っているのは、チャイコフスキーの「1812年」という序曲である。  ナポレオンのロシア侵攻を扱ったこの曲は最後部に大砲の音が入る。 ここが本物の打ち上げ花火の連発だった。皆、物凄く興奮した。野外コンサート ならではの演出で見事だった。 日本の夏行事に強いて例えるなら、盆踊りというより花火大会であろう。  気軽な姿で出かけ、人によっては飲んだり食べたり、1・2時間を愉しんで帰る。花火大会が有った事はだれも皆知っていて、観に行った人は風が強くて形が崩れたとか、スターマインが昨年より見事だったとか、尺球が多かったとか、夫々の感想を辺りに話す。ニューヨークの野外コンサートもこれと同じ、庶民に親しまれ、当セントラルパークだけではなく、バン・コートランドパークとかブルックリン公園とか市内の公園で順次行われていたものです。残念ながらシープメドウまで歩く元気はなく、東側のモール(大並木道)にあるベンチで一休みとなった。新緑も終わりかけた豊かな自然に囲まれて、公園の光と空気は心地よかった。

モールの終わり近く右手には野外音楽堂がある。その前のコンクリートの広場ではローラースケートを愉しむ人達がいた。くるくると回り、片足ですべり、思い思いに練習している。水入りペットボトルを頭頂に立てたまま上手に踊る熟達者もいる。若い人がこの達人に時々指導してもらっているのも微笑ましい。離れた一本の立ち木の傍で聴く者も居ないのにギターをかなで歌う女性もいた。これがセントラルパークを散歩する魅力の1つである。 いろいろな人が思い思いのことを人前でしているのだ。今日はそれ程多くはないが、夏の週末などそれらの人達と見物人でお祭り騒ぎだった記憶がある。

少し行くとベセスタ噴水である。噴水の傍や池の近くにはノンビリ過ごす人達が結構いたが、階段は下りず道路近くから見下ろしただけで済ませた。  ここから西に向かい、72丁目に行くつもりである。散歩する人、ジョッキンクする人、芝で本を読む人、色々な人達を見ながら出口近くまできた。

ここにストロベリーフィールズと呼ばれる場所があり、ジョン・レノンのアパートから見下ろせた公園の一角なのだそうだ。射殺事件の後にオノ・ヨーコが買い取り石碑がはめ込まれたそうである。その石碑には IMAGINE と彼の曲名が刻まれ赤いバラが一輪、小さく細い枝切れが4本供え置かれていた。  出身地のリバプールではその空港名をリバプール空港からリバプール・ジョンレノン空港としてその名を冠することに決めたとか・・・。悲劇の主人公は永遠に・・・。しばしここで過ごしたが、見に来る人達がポツポツと絶えなかった。良く言われるが、ビートルズ人気とは一体何なのか。不思議である。

ホテルへ
直ぐ傍が公園出口で72丁目と Central Park West の交差点である。  ジョン・レノンが住んでいたと言われるダコタハウス(古い高級アパート)はこの 交差点の北側角にある。ジョン・レノンのお陰で世界的に知られ、挙句には観光 ガイドブックにまで登場するようになったのだから、このアパートの所有者は 「ビートルズ様」と言っているであろう。この72丁目の通りは西側のコロンバス街 まで高級アパートが立ち並んでいた。ウェストサイドの高級住宅街は公園沿いの南北に長い地帯でコロンバス街を越えると普通の街といえる。  広い高級住宅地(高級アパート区域)は公園東側である。

コロンバス街と72丁目の角にバス停があった。そこで#7のバスに乗り、7番街54丁目あたりで下車した。みやげ物も置いた庶民的な葉巻屋があった。  そこで野球をするスヌーピーの小さい置物を買った。帰国後オーディオアンプの 上に置いたら意外にキュートに目立って見えるので個性的なのでしょう。 6番街のスーパーまで歩き、中食の寿司などの食料を購入した。この店も今回が 最後となる。スーパーの支払いをすると、レジ嬢は相変わらず無愛想だった。

ニューヨーク最後の夜
夜はパッキングだが、全てスーツケースに入り、小1時間で終える。 思い返すと直ぐ過ぎた滞在だった。不幸にして天候は不順な日が多かったが、 好天気でなければならない場所は日を選んで訪れたので観光成果は十分だった。 天候が思わしくなくても大都会は行くところが沢山ある。初期の目的は達成して、 心置きなく日本に帰れることとなりました。
最後に、地下鉄・バスのメトロカードは実に便利で重宝しました。丸7日間フル利用し、採算的にも随分と得をした計算です。そう思わせてニューヨークも随分と得をした・・・。でしょ?
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