【北行庵】
ロシア紀行、文化遺産を巡る9日間
ロシアの豆歴史
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スラブ民族
今日スラブ人と呼ばれる民族グループは、スラブ系の言語を用い、民族的な起源が同一で、文化の類似性を有するヨーロッパ民族の1つ。ヨーロッパ諸民族の中で最大とされ、スラブ民族の総人口は1970年の調査で約2億6000万を数える。
その内訳は、ロシア人1億3000万、ウクライナ人4150万、白ロシア(ベラルーシ)人920万、ポーランド人3700万、チェコ人1000万、スロバキア人470万、ソルブ人10万、ブルガリア人790万、セルビア人900万、クロアチア人480万、スロベニア人210万、モンテネグロ(ツルナ・ゴーラ)人60万、マケドニア人120万である。ほかに本国外に居住するスラブ人移民は約1500万人と推定される。

スラブ人はその居住する地理的位置と言語の類似性(近親性)に基づいて3分類される。
(1)東スラブ族(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、
(2)西スラブ族(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソルブ人)、
(3)南スラブ族(ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人)

ここで現代から歴史に戻る。古代スラブ人の居住地、つまりスラブ人の原郷はヴィスワ川中流域からドニエプル川中流域にまたがる森林と沼沢の地域と考えられている。今日のポーランド、ベラルーシ、北西ウクライナに該当する地域である。当時のスラブ人は農業と牧畜で生活していたが、漁猟も行い養蜂の技術も心得ていたとされる。ただ強力な軍事組織はなく、危険が迫ると家を捨てて砦のある野営地に避難したらしい。
スラブ人と隣接した周辺地域の民族には、北部にゲルマン人、バルト人、東部にスキタイ人、サルマート人、南部にトラキア人、イリュリア人、西部にケルト人がいた。

2〜4世紀にはゲルマンの侵入により東西スラブに分断されたが、その後の数世紀にわたりスラブ人は居住地を南方へ広げ、黒海北西部沿岸やドナウ川下流域を経由してバルカン半島のビザンティン帝国領にまで侵入した。スラブ人のバルカン半島への侵入は7世紀末まで続いたらしい。他方、6世紀に入るとスラブ人はバルト系種族などの領土だったドニエプル川の上流域と北部の領域を占領し、さらにエルベ川下流域とバルト海沿岸にまで進出する勢いだった。先祖伝来の地を堅持しつつヨーロッパにおける有数の種族グループに膨張したのです。

領土拡張の結果、中世に至るとスラブ人の種族的・言語的統一は崩壊しはじめ、現在のような東、西、南の3つのスラブ族が形成されるに至った。地縁的な共同体の急速な発達があり、サモ王国(初のスラブ人国家)、チェコ人の大モラビア帝国、スロベニア人の公国カランタニア、キエフ・ロシアなどスラブ人最古の民族国家も生まれたのだった。そしてこの頃に、西スラブ民族としてポーランド人、チェコ人、やや遅れてスロバキア人、南スラブ民族ではスロベニア人、セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人、東スラブ民族ではロシア人が明確な民族として形成されたようです。

9〜12世紀にスラブ民族のあいだで広まったキリスト教はスラブ諸民族の国家形成に役立つと同時に、文字を持たなかったスラブ人に文字と学芸をも授けるものだった。
しかし、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)のキリスト教を受入れたか、ローマのキリスト教に帰依したか、それによりスラブの世界は東方正教圏とローマ・カトリック圏に2分されることになった。 東方正教圏(ブルガリア、セルビア、ロシア、等)はギリシア語の影響の元に作られた古代教会スラブ語を中世期の共通文章語として使用し、その文字としてギリシア語の大文字をペースに考案されたキリル文字が使用された。今日でもロシア語、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア語では日常の文字としてキリル文字が使用されている。 中世のカトリック圏(ポーランド、チェコ、スロベニア、クロアチア、等)はラテン語で文章を書き表しました。これらのスラブ諸国はルネサンス期の恩恵にも浴したのでした。[出典:Ref.04、項目「スラブ人」の一部、文章変更]


リューリク朝の成立まで
文字の無かったキリスト教化以前のロシアの歴史については多くを12世紀に書かれたロシア最古の年代史『過ぎし年月の物語』に依存するようである。
それによると、今にいう東スラブ人の部族ポリャーニン族がドニエプル川中流域に定住してキエフを中心とする小規模な国をつくっていた。さらに北方のノブゴロドではイリメニ・スラブ族が勢力を誇っていた。他にも幾つもの諸族がまとまりの中心となる都市をつくっていたが、当時の部族や都市は共通の言語、習慣、信仰、交易活動を通じて互いにゆるやかなつながりを保っていた。初期の段階の農業、牧畜、狩猟などに加えて次第に交易や手工業の発達があり、初期の都市は原初的な都市国家と云える小規模な領域国家に変貌していった。そして部族同士の抗争や統合の渦のなかから有力な諸部族が現れ、指導力や統率力を競い合い、9世紀になると北のノブゴロドと南のキエフとが政治と経済の両面で突出した存在となった。それらはバルト海と黒海やカスピ海をつなぐ遠距離商業路「ワリャーギの道」の要地でもあった。(注:ワリャーギの道はヴァイキングの東の交易路?)

異論・反論がある伝説の類らしいが、ノブゴロドとキエフの争いに代表される内紛が続き、困り果てた諸侯は「海のかなた」のワリャーギ(ノルマン)に使者を遣わし、ノブゴロドを統治する人物を要請した。この招請に応じてやって来たのがリューリクを長兄とする3人の兄弟であった。
862年 長兄リューリクはノブゴロド地方に国を建て、他の2兄弟はそれぞれ別地に住居をかまえ統治した。それら3地方を合わせて「ルーシの国」と呼ばれるようになった。
879年 リューリク朝の元祖リューリクが死去。
882年 リューリクの遺児イーゴリを奉じた従士団の長オレーグ(在位882‐912)の軍勢が南下進攻を開始、都市国家キエフを下し支配者となった。これにより北のノブゴロドと南のキエフは名目上は単一のリューリク朝君主の共通の支配下に入った。全ロシア的なキエフ・ロシア(キエフ・ルーシ)の誕生だった。[出典:Ref.04、項目「キエフ・ロシア」の一部、文章変更]

リューリク朝
882年 古代ロシア国家(キエフ・ロシア)として16世紀末まで続くリューリク朝が成立。
956年 キエフ公イーゴリ夫人オリガがコンスタンチノープルでロシア人では初の洗礼を受ける。
988年 キエフ・ロシアのウラジーミル大公はビザンティン帝国(東ローマ帝国)皇帝の妹アンナを妃とし、その条件としてキリスト教徒となった。一説では、クリミア半島ケルソンの府主教座教会にて洗礼を受け、そこでアンナと結婚したとされる。その後ケルソンの司教がキエフを訪れ老若男女を問わずドブニエル川で洗礼を施したとされる。東方正教がロシアの国教となり、コンスタンティノープル総主教はキエフに府主教座を置いた。
1054年 西のローマ・カトリック教会とコンスタンティノープルの東方正教会が完全に分離した。
1108年 キエフのウラジミール・モノマフ公が現在のウラジミールの場所に木造の要塞を築いた。
1147年 年代記に初めてモスクワの地名が現れた。
1156年 ユーリー・ドルゴルーキー公がモスクワに木造の城砦を建設、現クレムリンの発祥。
1158年 ウラジミールの「ウスペンスキー(聖母昇天)大聖堂」の建設が始まる。
1169年 リューリク朝はウラジミールに遷都。世界遺産となった「白い建物群」が建設された。
1185年 日本では初の武家政権である鎌倉幕府が発足。
1206年 ジンギス汗がモンゴルを統一。
1236年 ジンギス汗の孫パトウ汗がロシア侵入を開始。「タタールのくびき」の始まり。
『1236‐41年にロシア諸侯を下し、後年にロシア人が「タタールのくびき」と呼ぶ約250年間に及ぶモンゴルの間接支配が始まった。 後年パトウ汗はキプチャク汗国を起こし、首都サライへのロシア諸侯の伺候や地方司政官による行政、徴税、軍事の執行も行われた。しかし次第にロシア諸侯の間に反対が強まり、地方司政官制度を廃止し多くの権限をロシア諸侯に任せる間接統治となった。キプチャク汗国とロシア諸公国の間では複雑な対立や同盟があり、異民族の支配・被支配のなかで単純に表現は出来ない悲惨な出来事もあったようである。しかしキプチャク汗国は異教のキリスト教には寛大だったとされる。教会や修道院には免税特権、財産権、ハーン国伺候義務の免除、サライに主教管区をつくり教会を建立することさえも容認したらしい。』 [出典:Ref.04、項目「タタールのくびき」の一部、文章変更]
『欧州遠征のモンゴル軍には多くのタタール人がいた。当時のヨーロッパに大きな恐怖を与えたため、ヨーロッパ人はタタールとギリシア語のタルタロス (tartaros/地獄の意) とをかけて、モンゴルをタルタル Tartar と呼ぶようになった。現代ではモンゴル系は同化し民族的にはトルコ系、宗教的にはイスラム教とされるようです。[出典:Ref.04、項目「タタール」の一部、文章変更]

1238年 モンゴル軍がリューリク朝ルーシの首都ウラジミールを破壊する。
1240年 モンゴル軍がキエフを陥落せしめ、さらにポーランドやハンガリーに進軍する。
1240年 ノブゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがネヴァ川でスゥエーデン軍を破る。
1242年 アレクサンドル・ネフスキーが「氷上の戦い」でドイツ騎士団を破る。
1243年 パトウ汗がボルガ川下流のサライでキプチャク汗国を興す。
1274年 モンゴル(元)軍の日本来襲。2度目は1281年になる。
1276年 アレクサンドル・ネフスキーの子息ダニールがモスクワ公国を興す。
1299年 東方正教会のロシア主府教座がキエフからモスクワ北東のウラジミールに移る。
1312年 キプチャク汗国(首長ウズベク汗)はイスラム教を国教と定める。
1325年 ダニールの子息イワン1世(イワン・カリタ公)モスクワ公となる。カリタ=財布。
1326年 イワン1世、モスクワにウスペンスキー寺院を建立、主府教座をモスクワに移す。
1328年 イワン1世はウラジミール大公となり、以後モスクワを政治と宗教の中心とする。
1340年 聖セルギーがセルギエフ・ポサードにトロイツェ・セルギエフ大修道院を作る。
1380年 モスクワ公ドミートリ(ドミートリ・ドンスコイ)がドン川近くのクリコボでタタールを破る。
1439年 イタリアのフェレンツェにて東西教会の統合を話合う公式会議が行われた。
1448年 ローマ教会とヴィザンチン教会の合併に反対し、ロシア正教会は実質的に独立する。
1450年 キプチャク汗国が分裂、カザン、アストラハン、クリミアの3汗国となる。
1453年 ビザンティン帝国(東ローマ帝国)はオスマン・トルコ(イスラム教国)に破れ消滅。
1462年 モスクワ大公イワン3世(イワン大帝)即位。
イワン大帝はビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスの姪ソフィアと結婚し、有力な諸国と国交を樹立しロシアの国威を高めた。在任中に割拠した諸侯を吸収合併しモスクワを中心とするロシア中央集権国家の形成をも実現した。それに伴う法や行政の改革を行った。イワン大帝はキプチャク汗国の承認なしに皇位につき、貢物もしなかった。最終的にはモンゴルへの忠誠を明確に断ったとされる。[出典:Ref.05、項目「ロシア」の一部、文章変更]
1474年 モスクワのウスペンスキー寺院が地震(?)で倒壊、現在の寺院は再建されたもの。
1478年 モスクワ公国がノヴゴロド公国を攻撃し吸収した。
1480年 モンゴル軍はモスクワ郊外のウグラ河畔でロシア軍と対峙し侵入を阻まれた。
ロシアの歴史によると、これにより「タタールのくびき」は消滅した。
1492年 コロンブス、新大陸を発見。スペインはイベリア半島からイスラム勢力を駆逐。
1497年 イワン3世は最初の全国的な法典(裁判法規集『スジェブニク』)を編纂。
この法典は農民の移動制限を含み農奴制の発端となった。全国的に農民の移転を「ユーリーの日(ロシア暦11月26日)」前後2週間に定め移転料を徴収したとされる。
1505年 イワン3世の統治が終わる。
1533年 幼少のイワン4世(1530年生)が即位。
1547年 イワン4世(雷帝)が公式にツァーリ(Tsar/皇帝)として戴冠する。
1552年 カザン汗国を併合。
1556年 アストラ汗国を併合。
1560年 雷帝がモンゴルへの戦勝記念としてポクロフスキー聖堂(赤の広場のワシリー聖堂)を建立。
1565年 皇帝の直轄地を創設、貴族から土地を取上げ近衛隊員に与えた。恐怖政治の始まり。
1584年 イワン4世が死去。子息フョードル1世が皇帝となる。
1585年 イワン雷帝が着工したトロイツェ・セルギエフ大修道院のウスペンスキー寺院が完成。
1589年 ロシア正教、モスクワ総主教座を創設。
1598年 フョードル1世の死によりリューリュク朝が断絶
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1598年 全国会議によりボリス・ゴドゥノフ皇帝に選出される。
1603年 徳川幕府成立。
1605年 ボリス・ゴドゥノフ皇帝が急死。その後は混乱の時期で、偽ドミトリー、ワシリー4世、偽ドミトリー2世、ワシリー4世復活と皇帝も目まぐるしく変わった。
1610年 ポーランド軍、モスクワを占領。
1611年 スウェーデン軍、ノヴゴロドを占領。
1612年 ミーニンとポジャルスキーの義勇軍、モスクワをポーランドから開放。
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ロマノフ朝
1613年 ミハエル・ロマノフがツァーリ(皇帝)に選出される。
1649年 領主の逃亡農民への追求権は無期限となり、ロシア農奴制の立法化が完成した。 1689年 ピョートル1世(大帝)、ロシアの実権を掌握する。
1695年 ピョートル1世が西欧諸国を歴訪、以後ロシアの西欧化と富国強兵を実行する。
1700年 スウェーデンとの大北方戦争(-1721)勃発。
1703年 ピョートル1世ペテロパヴロフスク要塞の建設開始。サンクト・ペテルブルクの発祥。
1713年 モスクワからサンクト・ペテルブルクに遷都
1714年 ピョートル大帝の夏の宮殿の造営がペテルゴールで開始、完成は1723年になる。
1725年 ピョートル1世、逝去。カゼが元で遺書も残さず後継者の指名もなく53才で急死。
1725年〜1762年の37年間は4人の女帝と3人の皇帝が入れ替わった皇位争奪期だった。
1754年 冬宮(現エルミタージュ美術館)の建設が開始、8年をかけ1762年に完成。
1762年 エカテリーナ2世(1729年ドイツ生)が皇帝となる。
1762年 貴族は義務的な国家勤務から解放され、領主の農奴支配の権限も拡大された。
『ロシアの農民は御料地農民、国有地農民、領主農民の3分類される。一般的に農奴と呼ばれたのは領主農民であり、それには領主の奴隷的存在であった僕婢も含まれた。1857‐60年の人口調査によると、当時のヨーロッパ・ロシアの領主農民数は男女合わせて約2197万人、そのうち僕婢は約146万人であった。ロシアの農奴は人格的にも経済的にも何の権利ももたない。農奴は国家に対して人頭税の支払と兵役が義務づけられたが、国家からは何の保護もなかった。そして、その生活の全ては領主に隷属していた。農奴は領主によって自由に売却、贈与、抵当、移住に付され、裁判においても領主から無制限な懲罰(シベリア流刑を含む)をうけ、結婚なども強制をうけることがあった。』 [出典:Ref.04、項目「農奴」の一部、文章変更]
1764年 エカテリーナ2世が美術品の収集を開始。
1772年 プロイセンとオーストリアの三国で共謀し、第1次ポーランド分割。
1776年 アメリカ合衆国が独立。
1789年 フランス革命。
1783年 クリミア・タタールのクリム汗国を併合。ウクライナに農奴制を導入。
1793年 第2次ポーランド分割。
1795年 第3次ポーランド分割。
1796年 エカテリーナ2世、脳溢血のため67才で死去。
1799年 詩人・作家アレキサンドラ・プーシキン(Aleksandr S. Pushkin, -1837)生まれる。
1801年 アレクサンドル1世が皇帝となる。
1805年 ナポレオンのフランスに対抗する対仏大同盟に加入。
1812年 ナポレオン軍はポロジノ会戦でロシア軍を破りモスクワに入城。2ヵ月後に退却。
1814年 アレクサンドル1世、パリに入城。
1825年 アレクサンドル1世は旅先で急死。
皇位不在の中、「農奴廃止と憲法制定」を主張する秘密結社(デカブリスト運動)が活発化する。
1825年 ニコライ1世が皇帝となる。戴冠式の最中に「デカブリストの乱」が発生。
1855年 トルコとのクリミア戦争が勃発。1858年にロシアの敗戦で終わった。
1855年 ニコライ1世が死去。この時代は秘密警察と憲兵隊による抑圧の時代とされる。
1855年 アレクサンドル2世が皇位継承。
1861年 農奴解放令により農奴制が廃止となる。
1861年 アメリカ合衆国で奴隷制廃止をめぐり南北戦争が勃発、決着は1865年。
1867年 アラスカをアメリカ合衆国に売却 (米国にとり歴史上で世界一良い買物)。
1868年 明治維新。
1875年 日本とロシアの間で樺太と千島(18島)の交換条約に調印。
1877年 ロシア・トルコ戦争(-78)が勃発。
1881年 サンクト・ペテルブルクにてアレクサンドル2世が暗殺される。
1881年 アレクサンドル3世が即位。在任中の政策は反動的でロシア主義だったとされる。
1883年 純ロシア風の「血の上の教会」の建設開始。完成は25年後の2008年。
1891年 シベリア鉄道の建設開始。
1891年 ニコライ2世が訪日、警備の巡査に切りつけられる「大津事件」が発生。
1894年 アレクサンドル3世が死去。
1894年 ロマノフ朝の最後の皇帝、ニコライ2世が即位。
1904年 日露戦争(-05)が勃発。米国ルーズベルト大統領の斡旋によりポーツマス条約。
1914年 第一次世界大戦・勃発。
1917年 ロシア革命
1918年 シベリアに輸送された元皇帝のご夫妻、5人の子供、4人の同行者が処刑される。
2006年 現在のロマノフ家当主はアレクサンドル3世の弟ウラジーミルの玄孫ゲオロギー。

ソヴィエト社会主義連邦
1917年 2月革命。
政治・経済・軍事は別として、科学技術全般や芸術・スポーツで優れた業績を上げた。
1991年 12月、ソビエト連邦が崩壊。

ロシア連邦
ロシア連邦は、ソビエト連邦の一部だった「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」の後身である。「ロシア連邦」への改称は1991年12月に決定され、92年4月の憲法改正で確認された。その際、「ロシア」も「ロシア連邦」と同等の国名とされた。連邦を構成する「連邦主体」とされるのは、49州、6地方、2特別市(モスクワ、サンクト・ペテルブルグ)、21共和国、1自治州、10自治管区の合計89である。国土はヨーロッパとアジアにまたがり、面積はかつてのソ連の約4分の3になったが、世界第1位(日本の面積の46倍)。人口はかつてのソ連の約半分で、世界第6位である。 [出典:Ref.04、項目「ロシア連邦」の一部、文章変更]

おわりに:
筆者は歴史家ではありません。自分が知らなかったり忘れていたことを年表を中心に勉強しなおしただけの「ロシア豆歴史」です。元となった年表は [Ref.07, pp.216-220] と [Ref.06, 項目「ロシア」年表] です。それに [Ref.02, pp.320-325] も参考にしました。項目の削除と追加、説明文の変更、長い説明の追加、等々で元の年表とは違ったものになっています。項目には観光で知られている施設も追加してあります。

注記:モンゴル(含むタタール人(モンゴル系)/タルタル人/韃靼人)のロシア侵攻と支配は1236年のパトウ汗の侵入からイワン大帝による「タタールのくびき」の消滅(1480年)までとされる。しかしエカテリーナ2世が1783年クリミア・タタールのクリム汗国を併合するまでモンゴル勢力はロシアの南の隣接地域に存在し続けたようです。当初は「パトウ汗によるモンゴルの欧州遠征」だったので、最後までモンゴル系の人間がロシア南東部の広大な地域に居たかのような印象を受けます。しかし、実際には当初のモンゴル軍にはタタール系が多く含まれ、次第にイスラム教徒となり、トルコ系などの遊牧民との融合も進み、いわゆるモンゴル系の部族は最終的には消滅(同化)していたらしい。現代では、たとえモンゴルの末裔と表現されても、DNAレベルではともかく、イスラム教徒の血の混じり合った民族が多いようです。
似た例がインドにある。ジンギス汗の血筋の人間がアフガニスタンあたりからインド亜大陸北部に移動しムガール王朝を樹立した。ヒンズー教徒の諸部族を支配しつづけ、イギリスの植民地となるまで存続したのです。この「ムガール朝」は「モンゴル朝」の意味のようです。当初はいざ知らず、歴史と共に変化して実体は「モンゴル系」ではなく「トルコ・ペルシャ系のイスラム教徒」による王朝だったのです。
日本語で「蒙古の末裔」とか「モンゴル/モンゴル系」と表現すると誤解しやすいので追記しておきました。横綱「朝青龍」は多分「蒙古の末裔」でしょうが・・・。それと違うのです。

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