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ロシア紀行、文化遺産を巡る9日間/2日目( 2006年8月28日 )
モスクワ観光、赤の広場とクレムリン
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2日目 ホテル出発まで
赤の広場
・聖ワシリー寺院、レーニン廟
・「無名戦士の墓」 衛兵交代式
・ヴァスクレセンスキー門
雀が丘・展望台
ノヴォデヴィッチ修道院
ロシア土産の店
昼食(街のレストラン)
モスクワのクレムリン
・武器庫(歴史博物館)
・大聖堂広場
・ウスペンスキー大聖堂
・大砲の皇帝
救世主大聖堂
夕食(街のレストラン)
モスクワ泊(2泊目)

ホテル出発まで
03:30 ワイフが目覚め、その後に私が目覚めた。時差のためらしい。成田・モスクワ便の機内では十分な睡眠時間が取れなかった。それでストレートに−5時間の時差に反応しているようでした。その後はウトウトでした。
05:30 起床。朝のインスタント・コーヒーは省略、ミネラル・ウォーターで歯磨きでした。
06:00 モーニング・コールあり。
06:30 部屋を出てキーと部屋番号カードを交換、エレベータで1階の両替所に行く。閉まっており、営業は10時〜となっていた。仕方なく、2階の朝食レストランに行くと、云われた通り7時からオープンで早すぎる。一旦は自室に戻らざるをえなかった。
07:00 部屋を出て2階のレストランに行く。既にツアーの人達もチラホラ来ていた。
朝食はビュッフェ・スタイルです。オレンジ・ジュースとヨーグルトをもらい、皿にゆで卵、ベーコン、サラミ・ソーセージを少しづつ、生野菜も多少はとった。実はロシアも生水の合わない国、生野菜やカット・フルーツは洗浄の水道水が残っていることがあり内心は少し心配でした。しかし”我々の場合”大丈夫でした。食後のコーヒーは美味しく2杯楽しみました。

両替レート表/2006.8.27 07:40 レストランから階段を下りて両替所に行ってみる。今度は開いていました。
各自 US$100.00 をルーブル(P)に替えた。レートは 26.40P/US$1.00 だったので、入手した金額は2人で 530P だった。食事時の飲物代はルーブル払いなのでこの程度は必要でしょう。両替所では言葉を交わす必要はなかった、と思います。
07:45 自室に戻る。全ての所持品をスーツケースに納め、ロックして鍵穴をガムテープで塞いだ。チップはUS$1.00、ワイフが置いた。

08:05 1階のロビーに行く。バスの到着が遅れたので暫し待つ。今回のツアーはバスの座席を添乗員さんが割り振った。大きな用紙にバスの座席番号と氏名が記された一覧表から自分の席を知る。我々は前席から4番目の左側だった。この方法はロシア滞在中は凡そ実行された。(注:観光バス最前列の席は旅行保険の対象外で通常は空席です。)

出発、「赤の広場」にむかう
08:30 バスに乗車。
08:43 出発。車窓からモスクワ市外の光景を眺めて過ごす。
09:03 途中で現地ガイドさんをピックアップ。
現地ガイドさんは車中で色々説明していたが、ロシアでスリ被害にあったら警察には行かないそうです。被害を届けると「もっと取られる」とか・・・。どういう意味でしょう? このツアーは観光的に人気が高く大勢が集まる場所も訪問するので気を付けるしかありません。
面積の広い国の首都のこと、モスクワの道幅は広く、新旧交えてビルも林立しているといえるでしょう。 朝のことで渋滞に近いこともあった。 大都会なので欧州製や日本製などを交えた様々な車が走っているが、車検はないそうです。それで時には古いものやガタガタの車も見かけますが、全体的には汚れた車などは少ないように思えました。
トロリーバスの架線が多く、時には日本の街と同じく電線がうるさく目立つことがある。
大きな建物もかなり多いのですが、やはり時代物らしくエアコンは建物自体に設備されていない。個別に設置するので外機が外壁に沢山取り付けられた大ビルディングも見られる。地震がないから落ちる心配は無いでしょう。しかし奇妙な光景に思えました。
原油など天然資源の価格が高騰しているので、資源大国ロシアの経済はここ数年は大幅に拡大中、特に欧州ロシアの中心モスクワは資本と利潤の集中傾向で随分と潤っているとされます。実際に、新築中のビルもけっこう目につきます。
車窓からキョロキョロしている内にクレムリンに近づきました。

赤の広場(Red Square) 赤の広場
聖ワシリー寺院(St. Basil's Cathedral/Cathedral of Vasily the Blessed) 
09:25 横断地下道で車道を渡ったが、国際的な観光地のことで清潔に保たれている。
地下道を出ると僅かに傾斜する石畳が広がっていた。クレムリン外壁と聖ワシリー寺院の間の上りの石畳を歩き、赤の広場に入る。そこで現地ガイドさんの説明があった。メンバー中29名は真面目に聞いていたが、聞かずに離れて写真ばかり撮る人もいる。この私ですが、残念ながら聖ワシリー寺院は完全な逆光で大した写真は撮れなかった。反対にクレムリン、レーニン廟、グム百貨店、考古学博物館等々、「赤の広場」を囲む建物群は順光に近くものでした。ついでながら、外見と配色が独特の聖ワシリー寺院の「葱坊主(ドーム)」は9個あるが、航空写真を除き全部を一方向から見ることはできません。部分的に写ったドームを含め6〜7個の「葱坊主」が1枚に写っていたら上出来、近くなら写真に撮れる「葱坊主」の数は限られます。
この聖ワシリー寺院には驚く話が残っている。1480年にイワン3世がモンゴルの支配「タタールのくびき」からロシアを開放したが、1560年に息子のイワン4世(雷帝)がそれを記念して聖ワシリー寺院を建立したとされる。おとぎの国にあるような非対称で色彩豊かな寺院はポストニクとパルマという建築家2人の設計らしい。完成後の聖ワシリー寺院を見たイワン雷帝はあまりの美しさに驚愕した。しかし「でかした!」と褒美を奮発するどころか、設計者ポストニクとパルマが2度とこのような美しい建物を建てられないように2人の目の玉をくり抜いたそうです。もし本当の話ならば、イワン雷帝を英語では Ivan The Terrible と呼ぶのですが、正に適切な表現と思います。聖ワシリー寺院はポクロフスキー大聖堂(Pokrovsky Cathedral)と呼ばれる中心の尖塔を8つの葱坊主が囲む構造ですが、今見る姿は17世紀頃になり完成したようです。内部の参観はしなかったが、中心の大聖堂と周囲の8聖堂の全てが廊下で結ばれ、夫々が違う聖人を祭っている別個の寺院になるそうです。
現在は宗教設備ではなく、赤の広場の反対側にある国立考古学博物館の分館となっている。内部の見学は可能、しかし入場料とカメラ料が必要です。

ミーニンとパジャルスキーの銅像(Minin & Pozharsky Monument) 
この聖ワシリー寺院の前に男2人の銅像がある。リューリュク朝の断絶後とロマノフ朝の発足前の間のことでした。皇帝は選任されていたものの力不足で空白時代に近かったようです。そこを狙ってポーランドやスウェーデンがロシア領土に侵攻し、モスクワはポーランドの手に落ちていた。ミーニン(商人)とパジャルスキー(スズダリ公)の2人は義勇兵を募り、みごとポーランド軍を駆逐(1612年)したのです。ロシアの英雄として現在も聖ワシリー寺院の正面に2人の銅像が置かれています。

レーニン廟(Lenin's Mausoleum.) 
09:45 赤の広場の石畳を三々五々と歩き、クレムリン外壁にほぼ接するレーニン廟の前にきた。マルクス・レーニン主義で知られるレーニン(Vladimir Iliich Lenin, 1870-1924)の御墓である。学生時代からマルクス主義に傾注したレーニンは1917年のロシア革命を成功させ、その後は旧ソ連邦の首班として自国を導いた。レーニンに始まるソ連邦が1991年に崩壊し、74年間も続いた社会主義国家は消滅した。現在は民主主義・資本主義的な国家として再建途上にあるのですが、第1次世界大戦当時とそれ以後の国際的な政治・経済体制に大きな影響を与えた人物であることに間違いはなく、現在も霊廟は保存されているのです。霊廟の後方左側には旧共産党の書記長の御墓(土葬)が並ぶとか・・・。
参観用の入口は離れた歴史博物館(Museum of History)にあるようです。

「無名戦士の墓」 衛兵交代式 (The Ceremony of Changing the Guard) 
丁度10時からマネージ広場に近い公園にある無名戦士の墓で衛兵交代式が行われる。そこに急いだ。 クレムリン外壁と国立歴史博物館の間の緩い坂道を下り、一旦はマネージ広場に出た。赤の広場のクレムリン外壁は丸い塔で終わり鋭角状にトロイツカヤ塔に向かっていた。外壁の中は兵器庫で外はアレキサンドルフスキー公園になる。緑地の公園入口には鉄格子の塀と双頭の鷲を飾った立派な門があった。その鉄格子の中に無名戦士の墓がある。そこでは既に数名の衛兵による交代式が行われており、観光客の山だった。我々のグループは少し遅れたので鉄格子の外から見学となった。
制服姿の衛兵が胸を張り足を伸ばして高く上げるスタイルの歩行はめずらしかった。火のともる「無名戦士の墓」両側の衛兵2名が微動もせず直立不動の姿勢で墓を守るのだが、1時間が限度と言われます。2名の衛兵が共に交代すると、次に上官が現れ、夫々の衣服の乱れをチェックして正しく直す(実際は形式的にネクタイに触る程度だった。) その上官が立ち去ると交代式は終わりだった。

衛兵交代式について: 欧州の立憲君主国ではイギリスのバッキンガム宮殿に代表されるように王宮前での衛兵交代式が観光名物になっている。他方、大統領制の国アメリカではワシントンのポトマック河対岸にアーリントン国立墓地があり、無名戦士の墓の衛兵交代式はやはり観光的な呼物です。大統領制となったロシアでも、先に見たように、無名戦士の墓がクレムリンの公園にあり、ここの衛兵交代式も観光の名物になっているのです。衛兵の直立不動は、筆者の知る限り、どこでも1時間が限度で交代となります。

気分的にそう思うのかも知れないが、若い衛兵達や上官の顔立ちはいかにも「純スラブ系ロシア人」という印象があります。同じ欧州の民族でもゲルマン系やラテン系の人たちと少し感じが違うように思えるのです。この種のことは感性により生ずる認知の問題で、客観的な証明は出来ませんが・・・。日本でも1/2や1/4の混血の人たちを説明なしで判別できることが多いと思いますが、それと同じ感性によるもので、書いたり話たりするのは問題が多い。それが証拠に、テニスのマリア・シャラポアは何系?と聞かれても困るのです。

マネージ広場・ヴァスクレセンスキー門・カザン聖母教会・グム百貨店 
10:08 アレキサンドルフスキー公園の門から外にでる。その後はマネージ広場(大規模な工事中)の一角を固まって歩き、見落とせない幾つかの観光ポイントの説明をうけました。
10:12 ソ連邦時代には英雄だった赤軍指揮官のジェーコフ将軍の銅像をみる。
10:15 ヴァスクレセンスキー門の前の石畳にロシアの全道路の基点となるプレートがあった。観光地では時折あることですが、「願い事がかなう」と云う俗説によりコインを投げる人がいる。小額の白いコインが散らばっていました。(本当の基点はレーニン廟の下という説明もあるが・・・、???[Ref.02, p.77])
10:16 ヴァスクレセンスキー門から赤の広場に入った。この門には2つの通行口があるが右は鉄格子で通行止め、左の通行口を潜った。門には宗教的な意味があるようで壁にはイコンらしき絵が幾つも飾られている。さらに2つの通行口の間には水色の屋根と緑の柱の小さなイベルスカヤ礼拝堂(Iverskaya Chapel)があった。由緒あるものらしく次々に人が出入りしていた。
双塔のヴァスクレセンスキー門はスターリン時代に軍事パレードの邪魔になるので撤去されたが、1993年に再建されたらしい。

10:18 カザン大聖堂(The Kazan Cathedral)の前で解散、10時40分に聖ワシリー寺院前に集合するまで自由行動となった。
カザン大聖堂(カザン聖母聖堂)は1612年にミーニンとパジャルスキーの義勇軍がポーランド軍に勝利したことを記念して建立されたものですが、やはりスターリン時代に破壊され、1993年に再建されたようです。明るいピンクと白の外壁で形も珍しいものでしょう。多くのロシア系/欧米系観光客は内部の参観をしていたが、我々は記念写真をとって赤の広場に面するグム百貨店(The GUM)に行きました。中には入らず、聖ワシリー寺院に向かったのですが、今思うと、数分でもグム百貨店を覗くとよかったと思います。国営デパートだった社会主義時代とは異なり、欧米の巨大デパートと同じような雰囲気と云われることが多いようです。
10:27 時間が余ったので近くにある遺跡をみる。ロブノエ・メスト(The Lobnoye Mesto)というが、石造りの円形の囲いの中心に円形の台がある。1534年に作られたもので、その台上で全国に向けた皇帝の発令が読み上げられたそうです。時には重罪人の処刑も行われたとか・・・。
その後も時間があったので聖ワシリー寺院を一周してみました。あまりに近いので寺院の一種独特の魅力は薄らぎます。でもボンヤリと過ごすより良かったでしょう。
近くの建物は工事中でしたが、外を覆う天幕には建物の外観が描かれていて、景観を損なわないような配慮がされています。実務と観光の両面でロシアを代表する地区なので特別かも知れませんが、いかにも工事中といった印象が和らぎます。

10:40 集合。一団となって赤の広場からバスの駐車場に戻りました。
10:55 バス出発。

雀が丘・展望台 雀が丘・展望台
11:15 展望台に到着。広い道路のモスクワ川側が展望台、特にタワーなどの観光施設のないモスクワでは名所の1つである。地理的にはモスクワ大学本部、雀が丘展望台、公園緑地、蛇行するモスクワ川、ルージニキ・スタジアムと一直線に並ぶ。そして左側の遠方にノヴォデヴィッチ修道院の金色のドームが目立っていた。はるか遠方の背景は所々で高層ビルの目立つモスクワの市街地です。
土産露店も沢山ある展望台だが、何といっても近くにそびえるスターリン・クラシック様式のモスクワ大学本部の建物が目立つ。レベルとしてロシアで最も優れた大学の1つとされるが、その1953年完成の建物は高さが236mもあり世界で一番高い大学設備かもしれないと云われる。現地ガイドさんに尋ねたところ、ここは本部や寮で多くの学部はあちこちに分散しているらしい。クレムリン近くのマネージ広場に面して旧モスクワ大学の建物があり、元々はそこが本部だったようです。
ついでながら、モスクワに多いスターリン・クラシック様式という高い塔を中心に4つの塔で構成された建物は、ロシア正教の伝統的な寺院様式を現代建築に置き換えたものと思うのですが・・・、どうでしょう? ロシア正教の寺院は大きいドームを4つの小ドームが囲む様式が基本形とされるのです。例えば、モスクワの救世主キリスト聖堂のように。

ノヴォデヴィッチ修道院(世界文化遺産) ノヴォデヴィッチ修道院
11:35 ノヴォデヴィッチ修道院の近くで下車。公園の中を歩き、修道院がよく見える湖(街中の公園の大きな池)に行く。
この修道院はヴァシーリー3世が建てた女子修道院が発端、中心的な黄金色のドームをもつスモレンスキー聖堂は1524年の建設なので歴史ある修道院の1つになる。ソ連邦時代は博物館になったが、ロシア連邦になってからは再び女子修道院として復活している。2004年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
我々が湖畔に立った湖はチャイコフスキーが散歩しながらバレー「白鳥の湖」の構想を練ったと云われている・・・。晩秋になると南に渡る白鳥の群れが翼を休めるのでしょう。今は夏の終わり、我々が見たのは鴨ばかり。湖と修道院を背景に写真を撮って終わり、きれいな公園の道を散歩しながらバスに戻りました。

ついでながら、ノヴォデヴィッチ墓地がこの修道院に隣接されている。日本でも知られる高名なロシア人が多く眠る墓地らしい。政治家ではレーニン廟に埋葬されなかった故フルシチョフ書記長の御墓もここにあるとか・・・。映画にもなったキューバ危機(1962年)でアメリカのJ.F.ケネデー大統領とロシアのN.S.フルシチョフ首相(書記長)の核戦争を賭けてのすごい駆け引きが思い出されます。
11:55 バス出発。

これから土産店に寄り、その後昼食の予定だった。途中でロシア国防省の建物の前を通ったが「街中の巨大な建物」程度の印象だった。そして、国防省の近くにはモスクワで一番古い歓楽街と説明された小路があったが、東洋のその種の通りと違い看板が沢山ある訳ではない。云われないと分からない普通の賑やかな商店街に思えた。ただし散歩するとスリがすごく多いとか。どうやらロシアはスリ大国らしいが、スリがスリからスラれることはないのかナ? バレエ等の優れた技法と違い、輸出は遠慮願いたいものです。

土産店 ●
キャビア・中サイズ/2006.8.28
モスクワ地図/2006.8.28
12:15 この頃、中心部から少し外れた場所の土産店に到着。バスを下車し、直ぐ商店らしからぬ入口から2階に上がった。左はオフィスらしく、右が土産店だった。中は意外にも広かった。
ウォッカに代表されるアルコール類、繊細な塗り絵の小箱シュカトゥールカ、グッとお安い白樺細工、珍しいホフロマ塗り、ダジェリ陶器、マトリョーシカ、琥珀のアクセサリー、等々豊富だった。

現地ガイドさんはこの店のキャビア(Caviar)は本物で間違いないものとして薦めていた。キャビアにはチョウザメの種類によりピンからキリまであるとされる。通常はカスピ海産のチョウザメから作るものが高級品、その中でもベルーガ種のものが良いとされブルーの蓋の瓶詰め(大・中・小)が最高級品として珍重される。キャビアはロシアの法律により年間の輸出総量は90トン(天然物は2005年から法的に輸出禁止)。1人の持出し限度(重量)は瓶詰めで、大は2個、中は5個、小は9個までとなる。この店では大と中はあるが小は扱っていない。常温で2週間は問題ないとのことなので中サイズを購入することにした。このツアーでのキャビアの購入は数名のみでした。多分、高いから・・・。日本なら、世界3大珍味の1つということで、本物は随分とするらしい・・・。
蛇足ながら、白い御飯に美味しいタラコやスジコやイクラがいい・・・(庶民派の本心)。
次に小型のコケシ風ロシア人形のキーホルダーをさがす。1個US$1.00なので籠に沢山入れてある。その人形に「ナナカマド」の実が描いてあるのが縁起物とか、添乗員さんはスズダリで買ったものをバックに付けている。探してみたが、「イチゴ」等が多くて気に入ったものが見つからない。後日の楽しみに取っておくことにした。
簡単なガイド付きモスクワの絵地図(露語・英語)を1枚買っておく。この種のものは日本のガイドブックと違うことも書いてあり、面白いのです。
購入品(1)キャビア(中)3個(@US$90.00)、購入品(2)モスクワ露語・英語地図(US$4.00)
12:50 バスに乗車。

枯渇資源のチョウザメ(Green Sturgeon): ベルーガ(BELUGA)、オシエトラ(ASETRA)、等々
(1) [2006/11/1 読売新聞オンライン] ロシアのイズベスチヤによると、チョウザメの密漁を止めさせる法律改正が近く議会に提出される。昨年(2005年)カスピ海ロシア沿岸でのチョウザメ漁は禁止されたが、密漁の摘発で押収されたチョウザメとキャビアは「転売され国庫収入」となる。これが抜け穴となり、チョウザメ密猟を行うグループと取り締まり当局が結託してキャビア取引の闇ルートができた。最高級キャビア「ベルーガ」の店頭価格は高騰し 7000Euro/1Kg(約105万円) にもなっている。(要点のみ、文章変更)
(2) [農林水産省ホーム/ロシア/キャビアの輸出を一時停止/2006.01.15] ワシントン条約事務局(CITES)は(他資料によると1月3日)、ベルーガ(黒海・カスピ海産のチョウザメ)は絶滅の危機に瀕しているという指摘を受け、キャビアを含む野生チョウザメ関連製品の国際貿易禁止措置を導入した。 (要点のみ)
[2007/01/03 北海道新聞 ] ジュネーブのワシントン条約事務局は輸出総量の合意が得られず昨年1月にキャビアの輸出を禁止した。今年の輸出に関しイラン、ロシア、アゼルバイジャン、カザフスタン、ブルガリアの5ヵ国が輸出総量90トンに合意した。最高級品種のベルーガ(オオチョウザメ)は除外された。
(3) [栃木統計・情報センター] 日本国内でも岩手県の企業がチョウザメの卵を養殖用として販売、各地で魚肉用として養殖が試みられている。カスピ海やアムール川周辺の天然チョウザメと異なり、成長・成熟が早くて飼育管理が容易な養殖向きの人工交配種「ベステル」という品種である。平成16年より良質なキャビアを得られる「アムール」という品種の飼育も試みられている。(要点のみ)
(4) [2006/11/14 北海道新聞 ]チョウザメのキャビア製造に取り組んでいる北海道・白老町の養殖業者が安定生産の方法を確立、13日から札幌のレストランに出荷を始めた。(注:輸入物は塩分が濃いが国内産キャビアは塩分が薄い。養殖チョウザメは「ベステル種」のようである。)(要点のみ)

実は知らぬことばかり、でも面白かったし、後日の調査も楽しめました。

昼食(街のレストラン) 昼食
デジカメの紛失事件が発生: 食後はポツポツと交代のトイレ行きで席から離れた。その間に皿やカップなどの片付けや飲物の清算がありました。ウッカリか安心してかカメラをテーブルに置いたままトイレに行った人がいた。戻ったらカメラが消失していたのです。しかも実際に気付くのが遅れました。片付けられたテーブルを後にして、レストランを一旦出てからでした。すぐレストランに確認に戻っても座った場所にもちろん無いし、レストランの誰も知らなかった。結果としてデジカメの紛失原因は分かりません。その御夫婦はロシア旅行の写真が全く撮れず残念な思いだったことでしょう。
話が伝わった当初はニコンF100を持ち歩いていた人が被害にあったと思いましたが、そうではなくて小型のコンパクト・デジカメでした。偶然にワイフと同じデジカメを持った人が他に2人いたようですが、その1人(御夫婦)のものがなくなったのです。のっけから驚いた事件でした。
今回のツアーで発生した紛失事件はこの1件のみ、スリの被害は観光最終日に1件あったのみでした。これを運が悪いとするか良かったとするか、筆者は基準を持ち合わせていません。残念ながらロシアではスリ・盗難に備える自己防衛が必要、被害届けは実務的に意味がないようです。法律の限界を感じさせる話(警察はワイロの巣)もあるようで・・・。

14:40 レストラン出。
バスは街中を走り、再びクレムリンに向かった。今度は城壁内や博物館の見学です。


モスクワのクレムリン(The Moscow Kremlin) クレムリン
14:50 クレムリン城壁から飛び出た白いクタフィア門に到着。緩やかな傾斜のある石畳の広場を歩きながら通常は観光客の入口とされるクタフィア門に近づいた。しかしツアーはそこから入城せず、傍の階段を下りて右側の緑地の道を進み、ポロヴィツカヤ塔の入口からクレムリン内に入った。
15:00 クレムリン入場。入場料は旅行会社の支払いですが、カメラ料は現地ガイドさんが1人50Pを集めて購入し配布してくれました。クレムリンには大統領府や官邸、大クレムリン大会宮殿など政治上の重要な施設もあるので、バック類は小型のもの以外は持込み禁止です。小型ウェストポーチや小型ショルダーバックなど1個は良いがリュックはダメでした。ゲートで簡単な携帯品とボデーチェックがある。テロ蔓延の今日、英国のウィンザー城や米国の自由の女神など欧米諸国の重要な施設ではよく行われています。

武器庫(The Armoury) 
武器庫(歴史博物館)
The Armoury Chamber
現在は武器庫と呼ばれるが、国家が1547年に設立した「クレムリン工房」が始まり。皇帝が使用する寝具から宝石類までの諸道具類、財宝、武器類の製造を担当していた。ピョートル大帝の時代に皇帝専用の「工房」はサンクト・ペテルブルクに移設され、クレムリン工房は古代の甲冑、武器、用具、等々の保存庫となった。
1851年に現在の武器庫の建物が完成し国立博物館としてオープンしたが、直ぐにモスクワ初の公的な歴史博物館となった。
展示品は、武具類、宗教用具類、諸外国からロシア皇帝への贈物、皇帝の王冠類、皇帝の衣装、戴冠式用の正装品、食器セット、古代の皇帝用の馬車、等々。
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Ref.08(英語)「The Armoury Chamber」
要点のみの紹介です。
直ぐに武器庫(皇帝に関する博物館)に入りました。この博物館は入場料が別途必要で、しかも日に数回の入場に限られるとか・・・。写真とビデオの撮影は禁止でした。さらに展示品に触ることは厳禁です。入場者の通路と展示品の間が綱で仕切られた場所では、展示品に目を近づけて見ると警報音が鳴る。綱を超えて顔や手を近付けないほうがよいのです。

まずは階段を登り、金属製の装飾具などを見学。聖書を収めるものらしいが宝石で飾られた箱状のものはみごとでした。
甲冑類も人間用と馬用のものがありましたが、全体としてはかなりの重量になるそうです。「馬がかわいそう」との感想があちこちで漏れました。それ故に西欧諸国を手本に甲冑の軽量化がすすみ、鎖帷子(くさりかたびら)が使用されるようになった。ロシアの武具が変化した様子も分かります。

エカテリーナ2世の戴冠式用の正装など女性には溜息ものでした。また、この女帝の馬車もすごかった。古代のごつい馬車が年代と共にシンデレラの馬車の形に変遷する様子が分かる程に多くの種類の馬車が展示されています。
ロシア皇帝は自分用の玉座(椅子)はそれぞれが作らせたようで幾つもが展示されています。話は飛びますが、ロンドンのウェストミンスター寺院に戴冠式用の木製椅子がありますが、物凄く古く素朴で頑丈なだけのもの・・・。はっきり云うと、戴冠式用と知らなければガラクタに思える。それに比べるとロシア皇帝の玉座はどこから見ても優美なものでした。(比較に不適切な例を持ち出したかも・・・。)

宝飾品として知られる「ロマノフ家の卵」も本物が5〜6個(?)が展示されている。現地ガイドさんが夫々の謂れを説明したが、記憶にない。メモる余裕はなく、結局は「きれいだった・・・。」
16:25 武器庫の見学を終えて外にでる。大クレムリン宮殿沿いの歩道を歩き聖堂広場に向かった。

聖堂広場(Cathedral Square) 
16:28 聖堂広場に到着。建物の名称を覚えるのは大変ですが、地図を頼りに思い出すと、純ロシア風聖堂とされるフラゴヴェシェンスキー大聖堂(左/Blagoveshenskiy (Annunciation) Cathedral)と遷都までの皇帝一族の廟所アルハンゲリスキー大聖堂(右/Archangel Cathedral)の間から聖堂広場に入ったのです。正面にはロシア正教の大本山で皇帝の戴冠式が行われたウスペンスキー大聖堂(The Assumption Cathedral/聖母被昇天・大聖堂)があり、その右側後方にロシアの伝統様式で建てられた十二使徒教会がみえる。広場中央に進むと右手にイワン大帝の鐘楼(Ivan The Great Bell Tower)がそびえていたが、その左側の建物は工事中で天幕に覆われていた。反対側にはグラノヴータヤ宮殿とウスペンスキー寺院の間から金色に輝く小型の葱坊主を沢山のせた建物があった。テレムノイ宮殿というらしいが、大クレムリン宮殿とクレムリン大会宮殿の間の引っ込んだ場所になる。そちら側からウスペンスキー大聖堂の中に入りました。

注: 本当に多くの聖堂・教会が固まってあるのですが、現在は宗教施設というよりも博物館のようです。ここクレムリンは入場料が必要な観光地、聖堂の多くは一般人の宗教的な目的では使用が難しい。それで信者の祈る姿も皆無なのです。
しかし、十字架こそ首に下げていませんでしたが、どこから見ても聖職者と思しき人達の姿も見られたのです。どこまで博物館でどこまで聖堂なのか、それはロシア人にしか分からないことかも知れません。厳しい社会主義の時代もそうして生き抜いたのでしょう・・・。

ウスペンスキー大聖堂の内部参観 
聖堂の内部は写真撮影が禁止でした。この聖堂は5個の葱坊主があり、中央の大ドーム(The Central Dome)、4個の小ドーム(The Angle Cupola)共々金色です。内部から天井を見上げると、彩色された5個の円筒空間が上に伸びている。宗教的な理解は難しいのですが、それなりに綺麗で縦長の細い窓から外光を取り込む機能もあり、壁を埋め尽くす無数のイコンと共にロシア正教会の雰囲気を盛り立てているようです。イコン(アイコン/icon)は東方正教会に特有の宗教画ですが、壁面や巨大な柱には床から天井まで5段ものイコンがびっしりと描かれている。なんとも不思議な世界でした。
ロシア正教の聖堂にはカトリックやプロテスタントの教会のような信者用の椅子はありません。お参りの信者は立ったままで礼拝するのです。ただし、この参観したウスペンスキー聖堂には皇帝や皇后の玉座などが確か3つ(?)ある。これは特別でしょう。他に幾つかのベンチがありましたが、疲れた観光客向けに置いてあるものだそうです。

以下、後日に修道院や大聖堂の参観で知ったことです。
スズダリではスパソ・エフフィミエフ修道院の境内で組鐘の演奏に耳を傾け、教会堂では男性3人のコーラスを拝聴しました(特別に2曲だけ歌って下さったものです)。教会の構造によるエコーで10人以上のコーラスの迫力に匹敵すると思えて驚愕しました。ロシア正教の聖堂は聖歌が良く響くように作られているのでしょう。また意味は全く不明ながらも、神秘的で深みある聖歌(賛美歌)には背筋がゾッとするような感覚をも味わいました。
セルギエフ・ポサードではトロイツェ・セルギエフ大修道院を訪問、ウスペンスキー大聖堂の中を拝見した。礼拝の信者と観光客で大変な人でした。個人的な礼拝は聖堂の片隅にある祭壇に一礼して胸で十字を切り、祭壇に進んで十字を切ってイコンにキスし祈りを捧げ、十字を切って直ぐ後にある蜀台で蝋燭に火をともし十字を切る。そして祭壇から下がる時に軽く一礼をして十字を切って帰る。十字の切り方は上・下・右・左(頭・胸・右肩・左肩)の順に手を素早く動かしています。多少の記憶違いはあるでしょうが、大体はこのようなものだった、と思います。この一連の無言の動きがスムースに進んで次々と信者が礼拝するのです。そして、たった数人のコーラスが聖堂の構造上よくエコーし大コーラスのように響いている。信心など全くない筆者もジーンと感動を味わった礼拝と歌声だったのです。
サンクト・ペテルブルクの聖ニコライ大聖堂の礼拝堂を参観。立ったままの人々が埋め尽くし、大コーラスが神秘的に響くなか聖職者が文章を読み上げる声(祈りの声?)が行き渡る。何も理解はできなくとも、このような荘厳な雰囲気に満たされた礼拝堂では自然に耳を傾けてしまう。分からずとも敬謙にならざるを得ないのです。

さて、今思うと、サンクト・ペテルブルク遷都前には皇帝と御一族や高位の官職者たちがここクレムリン内の大聖堂で同じように礼拝していたことでしょう。皇帝や皇后には椅子があったようですが、礼拝そのものの雰囲気は似たようなものだったと思います。特に、ロシアを動かす人々が国家の命運をかけた祈りを捧げるとき、その迫力たるや想像を絶するものだったかも知れません。前述の修道院や大聖堂で実際の礼拝を見学・拝見したので、記述の時点ではある程度の想像ができるのです。

筆者は俗人、だからこそ、とても貴重な異文化体験だったと思っています。形が心を決め、心が形を決める。これが真とすれば、「根源は同じでも南欧や西・北欧のキリスト教とロシア正教は何か違う・・・、だからロシア人も何か違う」と思った次第です。もちろん善悪や正誤を云っているのではありません。

大砲の皇帝(The Great Cannon) 
16:56 工事中のイワン大帝の鐘楼と十二使徒教会の間を抜ける所に青銅製の巨大な大砲(The Great Cannon/Tsar Cannon/Huge Cannon)が置いてある。この巨砲は重さ約40トン、長さは約5m以上、外径は約120cm、銃筒の厚み約15cm、口径890mmとされる。イワン雷帝の子息が1586年に製作したらしい。積んである丸い鉄弾は1個の重さが1トンもあるが、単なる飾りです。大砲は散弾を発射するためのものだったらしい。
現在はウスペンスキー大聖堂の方角から大統領官邸に向けられているそうで・・・。多分、観光客向けのロシアン・ジョークでしょう。何時この向きになったのか知りたいものです。
イワン大帝の鐘楼近くに鐘の皇帝(The Tsar Bell)があるが、そこには行かなかった。

その後は大統領府や元老院の建物を遠望し(近付けない)、兵器庫とクレムリン大会宮殿の間の緩い坂道を下った。古い大砲の並ぶ兵器庫から兵士が隊列を組んで大勢出てきたが、足並みはあまり揃っていない。単なる移動程度のものらしかった。

17:12 トロイツカヤ塔を潜り、坂道を下ってクタフィア門からクレムリン外にでた。しばらく待っているとバスが迎えにきました。

救世主大聖堂(The Cathedral Of Christ The Saviour) 救世主大聖堂
17:30 救世主大聖堂に到着、予定外のカメラ停車で下車となりました。
この金色のドームを5つ持つ白い大聖堂はロシア・ビザンチン様式として知られている。1812年の対ナポレオン戦争で国家を救えたことを神に感謝するためアレクサンドル1世が建設を命じたものだそうです。建設は1837年から1883年の46年間もかかりました。しかしロシア革命の後の宗教弾圧により、1931年にスターリンの命令で破壊されました。2000年8月に高さ103mの大聖堂は同じ場所に再建されたのです。
道路からモスクワ川に向かって大聖堂の写真を撮ると多少は電線が邪魔になりますし、大聖堂の側面らしく十字架がただの棒に見えてしまう。しかし均整のとれた白大理石の建物は見事です。
地元の人達の出入りがあるので、礼拝する人が多い大聖堂なのでしょう。
17:50 バスに乗車。

夕食(街のレストラン) 夕食
17:58 レストラン近くで下車。オプショナル・ツアーのバレー観賞またはボリショイ・サーカス観賞に行く人達はバスに残ったのです。
大通りから少し入ったウシュベイク(Ushveike)というレストランだったが、その入口でしばらく待たされた。実は、先に来た東洋人ツアー(中国語系らしい)を我々のツアーと取り違え、用意してあった食材の料理を出してしまった。それで食材がない、というらしい。予約済みなのに何ということか? ツアー名も確認もしなかったのだろうか?

明らかにレストランのミスなので、とにかく中に入ることになった。奥のテーブルに案内されたが先客の片付けすら済んでいなかった。空腹な上に疲れていたのでお構いなく椅子に座る。今思うと、散らかり放題のテーブルの証拠写真を撮っておけばよかったですね。
テーブルが片付くと水のボトルが配布となった。これは貰っておいて、飲物はビール小瓶1本(150P)とグラス2個を頼んだ。普段は飲まないので良く分かりませんが、日本のビールと同じような味と思います。食事は簡単で量も少ないと思ったが、サラダ、ビーフ・ストロガノフとフレンチ・フライ、ケーキ、インスタント・コーヒーでした。辛うじて空腹が収まった程度。

ビーフ・ストロガノフは日本でも食べたことがある。牛肉の細切りだけが共通で、ロシアのビーフ・ストロガノフはホワイト・シチューとでも云えるような野菜とサワークリームらしき素材で煮込んだ感じです。味は食べやすかったと思います。
何時だったかツアーが始まったころ、「日本のロシア料理は忘れてください」と添乗員さんが予め注意していました。例えば、日本のピロシキは日本化した中国風ピロシキで本家のものは違うというのです。筆者も日本で「ロシア風・春巻き」という表現を聞いたことがある。やはり「ビーフ・ストロガノフ」も記憶にある日本のものと違っていた・・・。

19:30 レストランを出る。現地ガイドさんはバレー観賞組みとボリショイ・サーカス観賞組みの夕食(ビーフ・ストロガノフ弁当)を両手に下げていました。後日談ですが、弁当の内容を聞いたところ、量が少なく物足りなかったそうです。

モスクワ観光は素晴らしかったと思いますが、今日の昼食レストランと夕食レストランの双方で何がしのトラブルが発生しモスクワの印象が減点となりました。

ホテルに戻る
19:35 バス出発。
19:50 現地ガイドさん下車。
車中で添乗員さんから明日の予定が発表になった。
20:28 ホテルに到着。現在の気温は21度、外は未だ薄明るかった。
オプショナルのサーカスやバレーに行った人達はかなり遅くに帰ってくるはずです。元気ですね。我々としては明日分の余力を残す1日の観光として十分でした。

モスクワ泊(アルファ・イズマイロヴォ・ホテル/2泊目) 前頁
20:31 自室2513番に戻った。
直ぐデジカメのバッテリーの充電を始めた。空きコンセントが幾つかあるので楽でした。
シャワーを使うとやはり床に少し水漏れします。シャワーそのものは豊富な湯量で気持ちよく、疲れがとれます。
21:40 就寝。
22:40 1度目覚める。何となくカゼ気味なので風邪薬を服用し点鼻薬を使用した。

注: ホテルに関する写真ページは1日目(前頁)の最後部に置いてあります。


明朝の予定:
モーニング・コール(6:30)/朝食(7:30-)/スーツケースを廊下に(7:30)/出発(8:30)
* ホテルの外には絶対に出ないこと。
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